2018年12月9日(主日)待降節第2主日のミサ
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2018年12月9日、待降節第2主日です。
明日は朝6時半から朝ミサがあります。
次のミサは12月21日の金曜日夕方から、クリスマスまでです。
来年からももちろん、第2主日の夕方のミサが続けてあります。どうぞご安心下さい。
それから皆さんにお祈りのお願いです。
今、アジア管区長様とまた総長様にお願いして、できれば来年、新しい年号が変わるその年に、東京で聖ピオ十世会の修道院が実現するようにとお願いしています。聖伝元年になるとよいと願っています。
しかしその為には、天主様の特別の御恵みと、皆さんのお祈りが必要です。そこでそれが実現するようにお祈り下さい。もしもそうなれば、毎週主日に大阪でもミサがあるようになります。日本が多くの恵みを受けるために、毎日のようにミサが捧げられるように、是非これが実現する事ができますように、お祈りをお願いします。
“Populus Sion, ecce Dominus veniet ad salvandas gentes.”
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
「シオンの民よ、見よ、主は私たち諸国を救う為にやって来られる。」
入祭誦で、司祭が祭壇の前に来る時に、聖歌隊はシオンの民にこう呼びかけました、「主が救う為にやって来る。」
そして集祷文では、「私たちの心を浄めて、主が来る準備を良くする事ができるようになさしめ給え」と言っています。
今日指定巡礼教会は、エルサレムの聖十字架教会です。これはローマにおけるエルサレムでした。そこで教会は私たちの事を今日、御聖堂に集っている私たちを霊的に、エルサレムに連れて行こうとします。なぜかというと私たちは、新しいシオンの民だからです。なぜかというと私たちは、新しい天のエルサレムに行くべき、選ばれた民であるからです。花嫁はその花婿が来る為に着飾らなければなりません。光で包まれなければなりません。「エルサレムよ、光に輝け、立て」と。
ですから私たちは、どのようにしたらイエズス様を迎える、私たちの霊魂の花婿であるイエズス様をクリスマスに迎える準備ができるのか、どうしたらイエズス様を、イエズス・キリストを、浄められた心で迎え入れる事ができるのかを黙想致しましょう。その手引きに教会が使っているのは、福音のイエズス様の言葉です。
⑴そこで今日は、昔は、洗者聖ヨハネから二人がイエズス様のもとに送られました。今日は教会が、洗者聖ヨハネに代わって皆さんを選んで、イエズス様の元にやって質問させます、「あなたこそ来たるべきメシアですか?それとも他の方を待たなければなりませんか?あなたのしるしは何ですか?本当のメシアのしるしは何ですか?」
⑵第2に、イエズス様がその本当のメシアのしるしを教えて下さったその次に、避けなければならない事も教えて下さいました。「私に躓かない人は幸いである。」イエズス様に躓いた人がいました。それは昔のシオンの民でした、昔のエルサレムのユダヤ人でした。イエズス様を十字架に付けてしまいました。今日十字架の、エルサレムの十字架の聖堂に集わせるのも、まさに理由があっての事です。なぜならば、最初のエルサレムはイエズス様に躓いたからです。一体なぜ?
⑶最後に、私たちは遷善の決心を立てる事に致しましょう。どうやったら良いクリスマスを迎える事ができるのか。
⑴イエズス様は言います、非常に慎ましい、謙遜な仕方で、俺こそが、とは言わずに、「さぁ、見てみよ、一体何が起こっているのか。この自分の目で確かめてみなさい。自ずからその結論がはっきりするはずだ。」そこにあったのは事実でした。実際なされている事でした。
「あぁ、あなたは、法律によると、他の大司祭が何を言っているか、他の」というよりは、イエズス様によってなされている現実を見せる事でした。それによると、目の見えないものは見え、足が不自由な人はまっすぐに歩き、そして耳の聞こえない人はちゃんと聞き、癩病の人は綺麗になって、死んだ人が生き返っている。貧しい人には福音が伝えられている。「さぁ。」
イエズス様が仰ったのはこれでした。「私に躓かない人は幸い。」
これは一体何を意味しているのでしょうか?もちろん、イエズス様が生きていた時代に本当に、この肉体的な治癒が起こりました。死者はよみがえったし、目の不自由な人は目が見えるようになったし、もちろんです。しかし、現代でもその事を起こそうとしています。現代でもそれが起きています。
どのように起きているかというと、今まで目があっても目の見えなかった、真理を知る事ができなかった人が真理を知るようになっています。この世の嘘に騙されていた人が、「この世での事で全てだ。この世の楽しみが全てだ。飲んで、食って、笑って、面白おかしく、勝手気ままに、自由に生きて、それで全てだ」と思っていた人が、「いや、それは嘘だ。それはほんのちょっとにしか過ぎない。実はその後に、死と永遠が待っている。永遠の本当の喜びか、あるいは永遠の死が、どちらかを選ばなければならない。天主は存在する。私たちにとって本当の悪というのは、嫌な事や病気や、あるいは死ぬ事ではない。私たちにとって本当の悪とは、罪だ。永遠の地獄に落ちる事である。辛い事も、嫌な事も、病気も、実は永遠の幸せにへと導く道具に、道になる事ができる」と、目が開いた人がいます。
今まで地上の事だけを考えていて、地上で何か面白おかしい事が、あるいは肉体の快楽、あるいは不潔が、あるかないかと探していただけの人が、地上の事だけに、他の片足が永遠の事が霊的な事が機能していなかった人が、「あぁ、実は私たちには霊魂があるんだ。霊的な命があるのだ。永遠が存在するのだ。天主が存在するのだ」と、肉体と霊魂で2つで、歩くようになる事ができています。
罪が赦されて、罪を犯して腐っていたにもかかわらず、痛みも何も感じる事ができずに麻痺していた霊魂が良心が、ますます浄められて、浄化されて、ほんのちょっとの罪でも、「あぁ、これは天主に背く事だ」と、それを避けるようになった、罪がきれいに赦されて、そして新たな天主の命を生きるようになった。それが起こっています。
今まで、良心の声と天主の声を聞く事ができなかった、あるいは真理を、本当の事を聞いても分からなかった人が、はっきり、イエズス様の教えが何か、十字架とは何か、祈りとは何か、私たちの本当の人生の目的とは何か、何の為に生きているのか、という事が聞いて分かるようになった、耳が開けた、声が分かるようになった、声が聞き分けられる、これとこれは何が本物で何が嘘か、分かるようになった。
貧しかった私たちに、本当の幸せの訪れが、喜ばしい訪れが与えられています。天主の御恵みが、聖寵が与えられています。イエズス様の最も大切な、最も核心は、イエズス様の私たちに与えたいと思っているものは、まさにこの霊的なものでした。永遠に関する事でした。
イエズス様はそして言います。本当の喜び、本当の幸せ、クリスマスの本当の意味はこれなのだけれども、しかしそれを誤解すると、その時、それを誤解してしまうと、私たちせっかくのクリスマスが、あるいはベトレヘムであったように、あるいはエルサレムであったように、イエズス様を受け入れる事ができなくなってしまう、「私につまずかない人は幸い。」
⑵では第2の点は、イエズス様にどのような事で躓いてしまうのでしょうか?
昔のユダヤ人たちは、イエズス様の事をあまりにも物質的に、あまりにも感覚的に、あるいはこの地上の事だけに、あるいは政治的な、そんなメシアを期待するようになってしまいました。
旧約聖書の深い意味はそうではなかったにもかかわらず、イエズス・キリストというメシアを誤解してしまいました。「メシアは、ユダヤの民族を霊的に高める事によって、天主の高みまで高める事によって、罪の赦しを得るが為に、天主のような心を持つ事によって高められる、天主によって高められる」というよりは、むしろ、政治的な傲慢心と支配心を満足させるのがメシアであるかのように、錯覚してしまいました、「ローマ帝国から独立する。異教のローマをギャフンと言わせる。征服者に対抗する、反乱する。テロを起こす。」
いや、イエズス様は、テロリストでも政治的なリーダーとしてでもなく、謙遜な幼子として、屈辱を受ける者として、王として、私たちの代わりに罪の償いの為に苦しむ、十字架に磔られる王として、愛の王として、赦しの王として、私たちもイエズス様に真似するように、と模範を示す為に、霊的なメシアとしてお生まれになりました。
しかし逆説は、ユダヤ人たちが選んだ道は、却って奴隷化させるものであって、そして却ってイエズス様の霊的な道は、天主の聖寵の道は、罪の赦しの道は、却ってキリスト教徒を高める道となりました。
クリスマスに、「フランク族」という当時野蛮だった、ヨーロッパのガリアという所に住んでいた、昔ローマに征服された部族がいました。その王が部族の長が洗礼を受けました。洗礼を受ける事によって、その部下も一緒に洗礼を受けました。するとこのフランク族は、御恵みによって、世界の歴史をリードするような国になっていきました。これはたったほんの1つの例です。
昨日は無原罪の御孕りでしたが、幼きイエズス様は私たちに、「最も大切なものは何であるか」「天主である」と、「天主の御旨である」という事、そして「最も恐るべきものは何か」という事は、「罪である」事、そして「私たちにとって、罪の償いを進んでするという事が、罪の償いに協力するという事が、どれほど貴重であるか。イエズス様の贖いの業に参加する、一緒に働くという事がどれほど素晴らしい事であるか」という事を教えています。
昔のエルサレムはこれを理解できませんでした。地上の事、肉体の事に、目に見える事に囚われてしまっていたからです。その為に、あるいは今では、「ユダヤ民族が救世主である」あるいは「来たるべき救い主である」かのように考え、自分たちを考えています。
あるいは、イエズス・キリストを排除しようとする人は、「自分が、自分たちが、人間こそが、神々である。俺が決める」と、ますますそのような考えに染まる世は、ますます戦争と、混乱と、そしてどこに行くか方向を失っているかのようです。
⑶私たちはでは、今日どのような決心を取ったら良いでしょうか?
良いクリスマスを準備する為に、私たちがますますイエズス様の教え、霊的なものを、高く、「これこそが最も大切なものだ」という事をますます理解するように努めましょう。その為には一体どうしたら良いでしょうか?2つ提案があります。
1つは、「お祈り」です。なぜかというと、この世の人々は、お祈りという事をあまり大切に思いません。ともすると私たちも、その誘惑を受ける危険があります。なぜかというと、お祈りをしてもお金は儲からないし、と思えるし、お祈りをしても効果がないように思えるし、役に立たないようにも思えるし、時間の無駄のようにも思えるし、もっとそれよりも面白い事があるようにも思えるし、何か一人で(本当は一人ではないのですけれども)時間を無駄にしているように錯覚してしまいます。
しかし、クリスマスが本当に霊的な、私たちに霊的に価値があるものとする為に、お祈りに時間を使う事に致しましょう。
第2に、私たちはこの地上の目に見える事に、あるいは自分の能力と仕事に、とても信頼を置いているので、天主様にあまり信頼を置いていないかのように行動します。それなので、私たちは「犠牲」を、イエズス様へのプレゼントとして何かお捧げ致しましょう。
例えば私たちが、「あぁ、本当は今日この仕事をしなければならないのだけれども、他にもっと、産経新聞は何と新しい記事があるだろうか」あるいは「誰かとお電話をしたら気晴らしになるんじゃないか」あるいは「お酒を飲んで腹を立った事を忘れよう」あるいは、どこか「本当は行ってはいけないような所に行ってしまおう」あるいは「私の義務は後回しにしよう。テレビを見よう」という代わりに、私たちがイエズス様の為に犠牲として、私たちのこの仕事を、あるいは私たちの受ける屈辱を、私たちの受ける十字架を、お捧げ致しましょう。そしてそれをクリスマスの時に、イエズス様にお捧げ致しましょう。
口で言うのは簡単ですけれども、これが実行できる為に、マリア様に御助けを乞い求めましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2018年12月9日、待降節第2主日です。
明日は朝6時半から朝ミサがあります。
次のミサは12月21日の金曜日夕方から、クリスマスまでです。
来年からももちろん、第2主日の夕方のミサが続けてあります。どうぞご安心下さい。
それから皆さんにお祈りのお願いです。
今、アジア管区長様とまた総長様にお願いして、できれば来年、新しい年号が変わるその年に、東京で聖ピオ十世会の修道院が実現するようにとお願いしています。聖伝元年になるとよいと願っています。
しかしその為には、天主様の特別の御恵みと、皆さんのお祈りが必要です。そこでそれが実現するようにお祈り下さい。もしもそうなれば、毎週主日に大阪でもミサがあるようになります。日本が多くの恵みを受けるために、毎日のようにミサが捧げられるように、是非これが実現する事ができますように、お祈りをお願いします。
“Populus Sion, ecce Dominus veniet ad salvandas gentes.”
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
「シオンの民よ、見よ、主は私たち諸国を救う為にやって来られる。」
入祭誦で、司祭が祭壇の前に来る時に、聖歌隊はシオンの民にこう呼びかけました、「主が救う為にやって来る。」
そして集祷文では、「私たちの心を浄めて、主が来る準備を良くする事ができるようになさしめ給え」と言っています。
今日指定巡礼教会は、エルサレムの聖十字架教会です。これはローマにおけるエルサレムでした。そこで教会は私たちの事を今日、御聖堂に集っている私たちを霊的に、エルサレムに連れて行こうとします。なぜかというと私たちは、新しいシオンの民だからです。なぜかというと私たちは、新しい天のエルサレムに行くべき、選ばれた民であるからです。花嫁はその花婿が来る為に着飾らなければなりません。光で包まれなければなりません。「エルサレムよ、光に輝け、立て」と。
ですから私たちは、どのようにしたらイエズス様を迎える、私たちの霊魂の花婿であるイエズス様をクリスマスに迎える準備ができるのか、どうしたらイエズス様を、イエズス・キリストを、浄められた心で迎え入れる事ができるのかを黙想致しましょう。その手引きに教会が使っているのは、福音のイエズス様の言葉です。
⑴そこで今日は、昔は、洗者聖ヨハネから二人がイエズス様のもとに送られました。今日は教会が、洗者聖ヨハネに代わって皆さんを選んで、イエズス様の元にやって質問させます、「あなたこそ来たるべきメシアですか?それとも他の方を待たなければなりませんか?あなたのしるしは何ですか?本当のメシアのしるしは何ですか?」
⑵第2に、イエズス様がその本当のメシアのしるしを教えて下さったその次に、避けなければならない事も教えて下さいました。「私に躓かない人は幸いである。」イエズス様に躓いた人がいました。それは昔のシオンの民でした、昔のエルサレムのユダヤ人でした。イエズス様を十字架に付けてしまいました。今日十字架の、エルサレムの十字架の聖堂に集わせるのも、まさに理由があっての事です。なぜならば、最初のエルサレムはイエズス様に躓いたからです。一体なぜ?
⑶最後に、私たちは遷善の決心を立てる事に致しましょう。どうやったら良いクリスマスを迎える事ができるのか。
⑴イエズス様は言います、非常に慎ましい、謙遜な仕方で、俺こそが、とは言わずに、「さぁ、見てみよ、一体何が起こっているのか。この自分の目で確かめてみなさい。自ずからその結論がはっきりするはずだ。」そこにあったのは事実でした。実際なされている事でした。
「あぁ、あなたは、法律によると、他の大司祭が何を言っているか、他の」というよりは、イエズス様によってなされている現実を見せる事でした。それによると、目の見えないものは見え、足が不自由な人はまっすぐに歩き、そして耳の聞こえない人はちゃんと聞き、癩病の人は綺麗になって、死んだ人が生き返っている。貧しい人には福音が伝えられている。「さぁ。」
イエズス様が仰ったのはこれでした。「私に躓かない人は幸い。」
これは一体何を意味しているのでしょうか?もちろん、イエズス様が生きていた時代に本当に、この肉体的な治癒が起こりました。死者はよみがえったし、目の不自由な人は目が見えるようになったし、もちろんです。しかし、現代でもその事を起こそうとしています。現代でもそれが起きています。
どのように起きているかというと、今まで目があっても目の見えなかった、真理を知る事ができなかった人が真理を知るようになっています。この世の嘘に騙されていた人が、「この世での事で全てだ。この世の楽しみが全てだ。飲んで、食って、笑って、面白おかしく、勝手気ままに、自由に生きて、それで全てだ」と思っていた人が、「いや、それは嘘だ。それはほんのちょっとにしか過ぎない。実はその後に、死と永遠が待っている。永遠の本当の喜びか、あるいは永遠の死が、どちらかを選ばなければならない。天主は存在する。私たちにとって本当の悪というのは、嫌な事や病気や、あるいは死ぬ事ではない。私たちにとって本当の悪とは、罪だ。永遠の地獄に落ちる事である。辛い事も、嫌な事も、病気も、実は永遠の幸せにへと導く道具に、道になる事ができる」と、目が開いた人がいます。
今まで地上の事だけを考えていて、地上で何か面白おかしい事が、あるいは肉体の快楽、あるいは不潔が、あるかないかと探していただけの人が、地上の事だけに、他の片足が永遠の事が霊的な事が機能していなかった人が、「あぁ、実は私たちには霊魂があるんだ。霊的な命があるのだ。永遠が存在するのだ。天主が存在するのだ」と、肉体と霊魂で2つで、歩くようになる事ができています。
罪が赦されて、罪を犯して腐っていたにもかかわらず、痛みも何も感じる事ができずに麻痺していた霊魂が良心が、ますます浄められて、浄化されて、ほんのちょっとの罪でも、「あぁ、これは天主に背く事だ」と、それを避けるようになった、罪がきれいに赦されて、そして新たな天主の命を生きるようになった。それが起こっています。
今まで、良心の声と天主の声を聞く事ができなかった、あるいは真理を、本当の事を聞いても分からなかった人が、はっきり、イエズス様の教えが何か、十字架とは何か、祈りとは何か、私たちの本当の人生の目的とは何か、何の為に生きているのか、という事が聞いて分かるようになった、耳が開けた、声が分かるようになった、声が聞き分けられる、これとこれは何が本物で何が嘘か、分かるようになった。
貧しかった私たちに、本当の幸せの訪れが、喜ばしい訪れが与えられています。天主の御恵みが、聖寵が与えられています。イエズス様の最も大切な、最も核心は、イエズス様の私たちに与えたいと思っているものは、まさにこの霊的なものでした。永遠に関する事でした。
イエズス様はそして言います。本当の喜び、本当の幸せ、クリスマスの本当の意味はこれなのだけれども、しかしそれを誤解すると、その時、それを誤解してしまうと、私たちせっかくのクリスマスが、あるいはベトレヘムであったように、あるいはエルサレムであったように、イエズス様を受け入れる事ができなくなってしまう、「私につまずかない人は幸い。」
⑵では第2の点は、イエズス様にどのような事で躓いてしまうのでしょうか?
昔のユダヤ人たちは、イエズス様の事をあまりにも物質的に、あまりにも感覚的に、あるいはこの地上の事だけに、あるいは政治的な、そんなメシアを期待するようになってしまいました。
旧約聖書の深い意味はそうではなかったにもかかわらず、イエズス・キリストというメシアを誤解してしまいました。「メシアは、ユダヤの民族を霊的に高める事によって、天主の高みまで高める事によって、罪の赦しを得るが為に、天主のような心を持つ事によって高められる、天主によって高められる」というよりは、むしろ、政治的な傲慢心と支配心を満足させるのがメシアであるかのように、錯覚してしまいました、「ローマ帝国から独立する。異教のローマをギャフンと言わせる。征服者に対抗する、反乱する。テロを起こす。」
いや、イエズス様は、テロリストでも政治的なリーダーとしてでもなく、謙遜な幼子として、屈辱を受ける者として、王として、私たちの代わりに罪の償いの為に苦しむ、十字架に磔られる王として、愛の王として、赦しの王として、私たちもイエズス様に真似するように、と模範を示す為に、霊的なメシアとしてお生まれになりました。
しかし逆説は、ユダヤ人たちが選んだ道は、却って奴隷化させるものであって、そして却ってイエズス様の霊的な道は、天主の聖寵の道は、罪の赦しの道は、却ってキリスト教徒を高める道となりました。
クリスマスに、「フランク族」という当時野蛮だった、ヨーロッパのガリアという所に住んでいた、昔ローマに征服された部族がいました。その王が部族の長が洗礼を受けました。洗礼を受ける事によって、その部下も一緒に洗礼を受けました。するとこのフランク族は、御恵みによって、世界の歴史をリードするような国になっていきました。これはたったほんの1つの例です。
昨日は無原罪の御孕りでしたが、幼きイエズス様は私たちに、「最も大切なものは何であるか」「天主である」と、「天主の御旨である」という事、そして「最も恐るべきものは何か」という事は、「罪である」事、そして「私たちにとって、罪の償いを進んでするという事が、罪の償いに協力するという事が、どれほど貴重であるか。イエズス様の贖いの業に参加する、一緒に働くという事がどれほど素晴らしい事であるか」という事を教えています。
昔のエルサレムはこれを理解できませんでした。地上の事、肉体の事に、目に見える事に囚われてしまっていたからです。その為に、あるいは今では、「ユダヤ民族が救世主である」あるいは「来たるべき救い主である」かのように考え、自分たちを考えています。
あるいは、イエズス・キリストを排除しようとする人は、「自分が、自分たちが、人間こそが、神々である。俺が決める」と、ますますそのような考えに染まる世は、ますます戦争と、混乱と、そしてどこに行くか方向を失っているかのようです。
⑶私たちはでは、今日どのような決心を取ったら良いでしょうか?
良いクリスマスを準備する為に、私たちがますますイエズス様の教え、霊的なものを、高く、「これこそが最も大切なものだ」という事をますます理解するように努めましょう。その為には一体どうしたら良いでしょうか?2つ提案があります。
1つは、「お祈り」です。なぜかというと、この世の人々は、お祈りという事をあまり大切に思いません。ともすると私たちも、その誘惑を受ける危険があります。なぜかというと、お祈りをしてもお金は儲からないし、と思えるし、お祈りをしても効果がないように思えるし、役に立たないようにも思えるし、時間の無駄のようにも思えるし、もっとそれよりも面白い事があるようにも思えるし、何か一人で(本当は一人ではないのですけれども)時間を無駄にしているように錯覚してしまいます。
しかし、クリスマスが本当に霊的な、私たちに霊的に価値があるものとする為に、お祈りに時間を使う事に致しましょう。
第2に、私たちはこの地上の目に見える事に、あるいは自分の能力と仕事に、とても信頼を置いているので、天主様にあまり信頼を置いていないかのように行動します。それなので、私たちは「犠牲」を、イエズス様へのプレゼントとして何かお捧げ致しましょう。
例えば私たちが、「あぁ、本当は今日この仕事をしなければならないのだけれども、他にもっと、産経新聞は何と新しい記事があるだろうか」あるいは「誰かとお電話をしたら気晴らしになるんじゃないか」あるいは「お酒を飲んで腹を立った事を忘れよう」あるいは、どこか「本当は行ってはいけないような所に行ってしまおう」あるいは「私の義務は後回しにしよう。テレビを見よう」という代わりに、私たちがイエズス様の為に犠牲として、私たちのこの仕事を、あるいは私たちの受ける屈辱を、私たちの受ける十字架を、お捧げ致しましょう。そしてそれをクリスマスの時に、イエズス様にお捧げ致しましょう。
口で言うのは簡単ですけれども、これが実行できる為に、マリア様に御助けを乞い求めましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。