2018年12月21日(金)使徒聖トマスのミサ
小野田神父説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2018年12月21日、使徒聖トマスの祝日、そして待降節の四季の金曜日を行なっています。
今日はこの御ミサの後に、ミサの後の感謝の祈りの後に一緒に、終課をいつものように歌いましょう。そして終課の前には、聖ピオ十世会の習慣に従って、クリスマスの前の12月17日から23日までO Antiphonaという、マニフィカトのアンティフォナを歌いましょう。
明日は、10時30分からここでミサがあります。
「我が主よ、我が天主よ。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は使徒聖トマスの祝日です。クリスマスの前ですから、聖トマス使徒の生涯の黙想というよりは、私たちの為にお生まれになるイエズス様の神秘を黙想するようになりがちです。
⑴今日は、使徒聖トマスの生涯の出来事と、
⑵私たちの主の御降誕と、
2つを黙想して、どのようにクリスマスの準備をすれば良いか黙想致しましょう。
⑶そして良い、聖トマスの御取り次ぎによって、良いクリスマスの準備を致しましょう。
⑴第1に、聖トマスは、ディディモ(双子)というあだ名を付けられていました。十二の弟子の内の一人です。主の受難の時には主と一緒に行って、「私たちも死のう」と勇敢な言葉を言った男でした。
しかし、イエズス様が本当に御受難の時に逮捕されて、十字架に付けられると、この使徒も信仰を失ってしまいました。
イエズス様が復活した時には、弟子たちと共にいませんでした。復活の主日、聖金曜日からイエズス様が十字架に付けられた時から第3日目の主日に、イエズス様が復活されて、ドアが閉められていたにも関わらず、弟子たちの間に現れた時に、トマスはいませんでした。
その後で、家に帰ってきた使徒聖トマスに、弟子たちが喜んで、「俺たちは見たぞ、主を見た!復活した主を見た!よみがった!」と言うと、信じませんでした。それは今日、今読んだ福音にあった通りです。「主の手に、釘の跡に自分の手を入れて、脇に、槍で刺された脇に自分の手を入れて、そうしない限り信じないよ。俺は信じない。」信じるのを拒否しました。
復活の主日の8日後、翌週の主日に、もう一度イエズス様が現れます。その時にイエズス様は、ドアが閉まっていたにも関わらず壁を突き抜けて、自分は幽霊でも幻覚でもないという事を見せる為に、聖トマスをすぐに呼んで、「さぁ、」あたかも一週間前の話をよく聞いていた、という事を見せつけるかのように、「お前の手を出してごらん。私のこの釘の跡に入れてごらん。この脇に手を入れてごらん。信じない者ではなくて、信じる者になるようになりなさい。」
その言葉を聞いて、すぐに一体何の話をしているのかという事を理解しました。脇に手を入れながら、復活したイエズス様に触りながら、聖トマスは、「我が主であり、我が天主である!」と告白します。
この時に、「我が主よ、我が天主よ」と呼びかけたのではないのです。「あなたはそうだ。これは、これこそそうだ!」と確定、断言したのです、ギリシャ語の文法によると。
するとイエズス様は、「あなたは見たから信じたけれども、見ないで信じる者は幸いである。」
実際に聖トマスは、その後に各地に宣教に行きました。復活されたイエズス、真の天主、真の主を宣教し、そしてインドまで行きます。今でも聖トマスの宣教されたキリスト教のカトリックの地域があります。聖フランシスコ・ザヴェリオが到達した時に、既に使徒聖トマスの時代からのキリスト教信者の共同体がありました。
遂には、シリアのエデッサという所に行って、殉教しました。
⑵第2に、では使徒聖トマスとクリスマスとは、一体どういう関係があるのでしょうか?
ちょうど、この私たちの為に生まれる、馬小屋で生まれる赤子、全く貧しい、一見単なる貧しい夫婦の、何の変哲もないただの旅人の、馬小屋で生まれた子供であるかのように見えます。しかしこの赤ちゃんが生まれたその背景には、全ての旧約の預言の成就があります。
太古から特別に選ばれた人々を通して、預言者を通して、「なぜこの世に苦しみがあるのか」「なぜ私たちに死があるのか」「私たちがこの死んだ後にどうなるのか」「私たちは何の為に生まれてきたのか」「私たちは生まれて、ただこのまま死ぬ為だけに来たのか」「あるいは特別の計画があって、この世に生まれてきたのか」「一体誰がそのような計画を立てたのか」という事を啓示して下さった天主がいます。
そしてその天主は、「実は、罪の為に私たちは苦しんでいて、死があり、そして私たちがこのままでは、ただ単に苦しみ、そして永遠の苦しみの為にだけ生まれてきたかのような身分だけれども、しかし憐れみによって、元々の計画を、永遠の命と、永遠の幸せの為に私たちが創られて、私たちがここに存在する為に本当はあるのだ、という計画をもう一度復興させる為に、救い主を送る」という天主の秘密、その救いの知らせがありました。
「その救い主は一体、誰から、どのように生まれて、どのようにこの世にやって来て、いつ、どこで、どうやって生まれて、またどのような人生を送って、どのように亡くなるのか、一体その家系はどうで」という事を詳しく預言されていました。
「童貞女から生まれ、ダヴィドの家系で、ベトレヘムで生まれて、その時はいつ、その時には星が出る。」あるいは「サバから王たちが贈り物を持って来るだろう。」あるいはその他、「この救い主となるべき方はこうなる方だ」という預言がありました。
それを全て、イエズス様が成就しました。お生まれになる事で、そして御生涯において、そして御自分の人生の中における様々な奇跡を行なう事によって、天主でしかできないような奇跡を行なう事によって、自然の法則をはるかに超える事を御言葉の通り実現させる事によって、最終的には死者からの復活によって、イエズス様が天主であるという、その天主というものを私たちは見る事ができません。しかし天主にしかできないその結果を見て、預言の成就を見て、私たちはどうしても結論付けざるを得ません。これは偶然なんだろうか?たまたまそうなんだろうか?それとも本当にそうなのだろうか?
0.00000001それ以下の確率で、たまたまだったのかもしれません。しかし、99.9999999%のほぼ100%に近い確率で、「これこそ本当の天地の創造主、人となった天主、永遠の光、永遠の天主の御言葉、永遠の知恵、救い主、平和の君である」と言わざるを得ません。
イエズス・キリストがお生まれになる時に、天使たちの大群は喜びの歌を歌います。星は、東の国から3人の博士たちを導いてきます。ユダヤ人たちは知っていました。この3人の王がエルサレムにやって来た時、聞くのです、「一体、ユダヤの王はどこに生まれるのですか?」ヘロデは知らなかったのですけれども、学者たちに聞くと、「ベトレヘムだ。ユダのベトレヘム。そう書いてある。」「さぁ、ベトレヘムだ。」
この生まれる、貧しい馬小屋に生まれて、一見何にも、輝かしい王宮も、ベッドも、暖房も、召使いたちも、金銀宝石もない、貧しいこの馬小屋のまぐさ桶で寝て、私たちの為に生まれるこの赤子こそ、人類が待ちに待っていた真の救世主だという事が分かります。
「見ずに信じる者は幸せ。」
天主の聖子が、その天主の聖子の三位一体の第2のペルソナにおいて、人間の本性を自分のものとして取りました。天主である、完璧な天主である事を保ちつつ、完璧な人間としてお生まれになりました。真の天主、真の人であるイエズス・キリストです。
真の天主であるという事は、このイエズス様が全宇宙を創った方であって、永遠の昔から永遠の未来にいらっしゃる方であって、そして人間となったからといって天主である事を辞めたわけではないのです。天主でありつつ、天主であるという事は変わらずに、そのまま人間であるという事をあり始めました。それを始めました。
イエズス様は真の人です。つまり私たちと同じように、肉体と、霊魂と、知性と、意志と、全てお持ちになって、欠けたところがありません。
イエズス様には真の肉体があります。ですからそれを聖トマスにも見せます、復活したイエズス様はそれを見せます。そしてお生まれになった時も、真の肉体を持って生まれました。ですから本当にイエズス様は苦しまれました。お腹が減ったり、寒かったり、辛かったり、涙を流した事もあります。苦しまれて血を流される事もあります。清い喜びで微笑まれた事もあります。
イエズス様には霊魂があります。「私の霊魂は、死ぬるばかり憂う」と仰った事もあります。
イエズス様には知性もあります。意志もあります。完璧な人間です。そして私たちの為にお生まれになります。
「見ずに信じる者は幸い。」
⑶今日はでは聖トマスの祝日に、イエズス様はこの聖堂で皆さんの前に復活された御体を見せてくれます、御聖体の形で。そして、「さぁ、私のこの傷にこの脇に手を入れてみよ」という風にあたかも仰るかのように、「御聖体を受けよ、見ずに信じる者は幸い」と私たちに仰っています。
このクリスマスを準備している、イエズス様の御降誕を準備している私たちが、ますます信仰を固められますように、そして使徒聖トマスの御取り次ぎによって、「確かに、この生まれる、私たちの為にこの生まれる赤子こそ、主である」と、聖トマスと同じように、「これこそ我が主であり、我が天主である!」と言う事ができますように、お祈り致しましょう。
マリア様にお祈り致しましょう。私たちの弱い信仰を助けて下さいますように。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
小野田神父説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2018年12月21日、使徒聖トマスの祝日、そして待降節の四季の金曜日を行なっています。
今日はこの御ミサの後に、ミサの後の感謝の祈りの後に一緒に、終課をいつものように歌いましょう。そして終課の前には、聖ピオ十世会の習慣に従って、クリスマスの前の12月17日から23日までO Antiphonaという、マニフィカトのアンティフォナを歌いましょう。
明日は、10時30分からここでミサがあります。
「我が主よ、我が天主よ。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は使徒聖トマスの祝日です。クリスマスの前ですから、聖トマス使徒の生涯の黙想というよりは、私たちの為にお生まれになるイエズス様の神秘を黙想するようになりがちです。
⑴今日は、使徒聖トマスの生涯の出来事と、
⑵私たちの主の御降誕と、
2つを黙想して、どのようにクリスマスの準備をすれば良いか黙想致しましょう。
⑶そして良い、聖トマスの御取り次ぎによって、良いクリスマスの準備を致しましょう。
⑴第1に、聖トマスは、ディディモ(双子)というあだ名を付けられていました。十二の弟子の内の一人です。主の受難の時には主と一緒に行って、「私たちも死のう」と勇敢な言葉を言った男でした。
しかし、イエズス様が本当に御受難の時に逮捕されて、十字架に付けられると、この使徒も信仰を失ってしまいました。
イエズス様が復活した時には、弟子たちと共にいませんでした。復活の主日、聖金曜日からイエズス様が十字架に付けられた時から第3日目の主日に、イエズス様が復活されて、ドアが閉められていたにも関わらず、弟子たちの間に現れた時に、トマスはいませんでした。
その後で、家に帰ってきた使徒聖トマスに、弟子たちが喜んで、「俺たちは見たぞ、主を見た!復活した主を見た!よみがった!」と言うと、信じませんでした。それは今日、今読んだ福音にあった通りです。「主の手に、釘の跡に自分の手を入れて、脇に、槍で刺された脇に自分の手を入れて、そうしない限り信じないよ。俺は信じない。」信じるのを拒否しました。
復活の主日の8日後、翌週の主日に、もう一度イエズス様が現れます。その時にイエズス様は、ドアが閉まっていたにも関わらず壁を突き抜けて、自分は幽霊でも幻覚でもないという事を見せる為に、聖トマスをすぐに呼んで、「さぁ、」あたかも一週間前の話をよく聞いていた、という事を見せつけるかのように、「お前の手を出してごらん。私のこの釘の跡に入れてごらん。この脇に手を入れてごらん。信じない者ではなくて、信じる者になるようになりなさい。」
その言葉を聞いて、すぐに一体何の話をしているのかという事を理解しました。脇に手を入れながら、復活したイエズス様に触りながら、聖トマスは、「我が主であり、我が天主である!」と告白します。
この時に、「我が主よ、我が天主よ」と呼びかけたのではないのです。「あなたはそうだ。これは、これこそそうだ!」と確定、断言したのです、ギリシャ語の文法によると。
するとイエズス様は、「あなたは見たから信じたけれども、見ないで信じる者は幸いである。」
実際に聖トマスは、その後に各地に宣教に行きました。復活されたイエズス、真の天主、真の主を宣教し、そしてインドまで行きます。今でも聖トマスの宣教されたキリスト教のカトリックの地域があります。聖フランシスコ・ザヴェリオが到達した時に、既に使徒聖トマスの時代からのキリスト教信者の共同体がありました。
遂には、シリアのエデッサという所に行って、殉教しました。
⑵第2に、では使徒聖トマスとクリスマスとは、一体どういう関係があるのでしょうか?
ちょうど、この私たちの為に生まれる、馬小屋で生まれる赤子、全く貧しい、一見単なる貧しい夫婦の、何の変哲もないただの旅人の、馬小屋で生まれた子供であるかのように見えます。しかしこの赤ちゃんが生まれたその背景には、全ての旧約の預言の成就があります。
太古から特別に選ばれた人々を通して、預言者を通して、「なぜこの世に苦しみがあるのか」「なぜ私たちに死があるのか」「私たちがこの死んだ後にどうなるのか」「私たちは何の為に生まれてきたのか」「私たちは生まれて、ただこのまま死ぬ為だけに来たのか」「あるいは特別の計画があって、この世に生まれてきたのか」「一体誰がそのような計画を立てたのか」という事を啓示して下さった天主がいます。
そしてその天主は、「実は、罪の為に私たちは苦しんでいて、死があり、そして私たちがこのままでは、ただ単に苦しみ、そして永遠の苦しみの為にだけ生まれてきたかのような身分だけれども、しかし憐れみによって、元々の計画を、永遠の命と、永遠の幸せの為に私たちが創られて、私たちがここに存在する為に本当はあるのだ、という計画をもう一度復興させる為に、救い主を送る」という天主の秘密、その救いの知らせがありました。
「その救い主は一体、誰から、どのように生まれて、どのようにこの世にやって来て、いつ、どこで、どうやって生まれて、またどのような人生を送って、どのように亡くなるのか、一体その家系はどうで」という事を詳しく預言されていました。
「童貞女から生まれ、ダヴィドの家系で、ベトレヘムで生まれて、その時はいつ、その時には星が出る。」あるいは「サバから王たちが贈り物を持って来るだろう。」あるいはその他、「この救い主となるべき方はこうなる方だ」という預言がありました。
それを全て、イエズス様が成就しました。お生まれになる事で、そして御生涯において、そして御自分の人生の中における様々な奇跡を行なう事によって、天主でしかできないような奇跡を行なう事によって、自然の法則をはるかに超える事を御言葉の通り実現させる事によって、最終的には死者からの復活によって、イエズス様が天主であるという、その天主というものを私たちは見る事ができません。しかし天主にしかできないその結果を見て、預言の成就を見て、私たちはどうしても結論付けざるを得ません。これは偶然なんだろうか?たまたまそうなんだろうか?それとも本当にそうなのだろうか?
0.00000001それ以下の確率で、たまたまだったのかもしれません。しかし、99.9999999%のほぼ100%に近い確率で、「これこそ本当の天地の創造主、人となった天主、永遠の光、永遠の天主の御言葉、永遠の知恵、救い主、平和の君である」と言わざるを得ません。
イエズス・キリストがお生まれになる時に、天使たちの大群は喜びの歌を歌います。星は、東の国から3人の博士たちを導いてきます。ユダヤ人たちは知っていました。この3人の王がエルサレムにやって来た時、聞くのです、「一体、ユダヤの王はどこに生まれるのですか?」ヘロデは知らなかったのですけれども、学者たちに聞くと、「ベトレヘムだ。ユダのベトレヘム。そう書いてある。」「さぁ、ベトレヘムだ。」
この生まれる、貧しい馬小屋に生まれて、一見何にも、輝かしい王宮も、ベッドも、暖房も、召使いたちも、金銀宝石もない、貧しいこの馬小屋のまぐさ桶で寝て、私たちの為に生まれるこの赤子こそ、人類が待ちに待っていた真の救世主だという事が分かります。
「見ずに信じる者は幸せ。」
天主の聖子が、その天主の聖子の三位一体の第2のペルソナにおいて、人間の本性を自分のものとして取りました。天主である、完璧な天主である事を保ちつつ、完璧な人間としてお生まれになりました。真の天主、真の人であるイエズス・キリストです。
真の天主であるという事は、このイエズス様が全宇宙を創った方であって、永遠の昔から永遠の未来にいらっしゃる方であって、そして人間となったからといって天主である事を辞めたわけではないのです。天主でありつつ、天主であるという事は変わらずに、そのまま人間であるという事をあり始めました。それを始めました。
イエズス様は真の人です。つまり私たちと同じように、肉体と、霊魂と、知性と、意志と、全てお持ちになって、欠けたところがありません。
イエズス様には真の肉体があります。ですからそれを聖トマスにも見せます、復活したイエズス様はそれを見せます。そしてお生まれになった時も、真の肉体を持って生まれました。ですから本当にイエズス様は苦しまれました。お腹が減ったり、寒かったり、辛かったり、涙を流した事もあります。苦しまれて血を流される事もあります。清い喜びで微笑まれた事もあります。
イエズス様には霊魂があります。「私の霊魂は、死ぬるばかり憂う」と仰った事もあります。
イエズス様には知性もあります。意志もあります。完璧な人間です。そして私たちの為にお生まれになります。
「見ずに信じる者は幸い。」
⑶今日はでは聖トマスの祝日に、イエズス様はこの聖堂で皆さんの前に復活された御体を見せてくれます、御聖体の形で。そして、「さぁ、私のこの傷にこの脇に手を入れてみよ」という風にあたかも仰るかのように、「御聖体を受けよ、見ずに信じる者は幸い」と私たちに仰っています。
このクリスマスを準備している、イエズス様の御降誕を準備している私たちが、ますます信仰を固められますように、そして使徒聖トマスの御取り次ぎによって、「確かに、この生まれる、私たちの為にこの生まれる赤子こそ、主である」と、聖トマスと同じように、「これこそ我が主であり、我が天主である!」と言う事ができますように、お祈り致しましょう。
マリア様にお祈り致しましょう。私たちの弱い信仰を助けて下さいますように。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。