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2018年12月22日 (土) 待降節の四季の斎日説教「クリスマスはなぜ喜びに満ちているのか?」

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2018年12月22日(土)待降節の四季の斎日 土曜日のミサ
小野田神父 説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2018年12月22日、四季の斎日の土曜日のミサをしています。

今日この御ミサが終わりましたら、聖体降福式を致しましょう。今年最後のここでの聖体降福式です。特に平和の為に、この世界から憎しみや、天主に対する挑み、逆らう、抗う心が無くなり、天主に栄光と、善意の人々に平和がありますように、特にお祈り致しましょう。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

では、クリスマスのこの前に、来たるべきイエズス様の黙想を致しましょう。

この黙想の目的は、皆さんに心から、「クリスマスが喜ばしいものである」という事を知って頂く為です。

もしもこの今日この黙想をなさって、「あぁ、クリスマスというのは本当に嬉しい、喜びに満ちている。」「本当にクリスマスが待ち遠しい。」「クリスマスは何と喜びに満ちた祝日なのだろうか。ものすごいプレゼントだ。ものすごい人類の受けた喜びの日だ」という事をぜひ知って頂きたい、そして「クリスマスの日では天使たちと一緒に歌を歌って、そして一緒に、牧場の牧童たちと一緒に馬小屋に馳せ寄って、近寄って、幼きイエズス様を、喜びに満ちて、感謝に満ちて、微笑みの内に礼拝したい」という気持ちをぜひ起こして頂ければ、この今日の黙想はとても大成功です。

では、この昨日は、ここに生まれる御方が一体どのような方か、「真の天主であり、真の人である」という事を黙想しました。今日はその続きを致しましょう。

⑴「真の天主であり、真の人である」という事は、一体どうしてこんな事が可能なのか?
「真の天主」というのは、無限に聖なる方で、無限の御方であって、永遠の御方であって、「人間」というのはちっぽけな、時に於けるものであって、創られたものであって、太陽と地球が離れているよりももっと離れている、銀河の一番果て(というものがあれば)と、この地球というよりももっと違いがある、無限の違いがある方が、どうして一つに一致する事ができるのか?一体どうなのか、一体それはどうやって起こったのか?

⑵そしてその起こった結果、天主様と私たちには一体何が起こったのか?何でそういう事が起こり得たのか?という事を黙想して、このクリスマスというのが、天主様が、真の天主が真の人となって生まれて来たという事が、ものすごい、私たちの創造の、この世が創られた歴史の中で、この私たちの存在それ自体を揺るがすような、ものすごい大きな出来事であって、ものすごい、私たちはそれをただ、永遠の喜びとを以てもまだ足りないほどの大きな出来事であった、という事を黙想しましょう。


⑴真の天主、真の人、イエズス・キリスト。このイエズス様は、カトリックの教えによれば、天主が天主であるという事をそのまま残したまま、そして完璧な人間として、イエズス様の天主の三位一体の第2のペルソナ、永遠の天主の御言葉、永遠の知恵のペルソナにおいて、その最も奥深くの、それだけで存在しているものにおいて、ギリシャ語では“ヒポスターティス”という、そこにおいて、天主の御言葉の最も中核において、人間の本性を自分のものとして取りました。

天主聖子は、全く真の人間として本性を取られたので、これは自分のペルソナにおいて、ヒポスターティスにおいて、存在の中核において、自存するその根源において、根本において、人間の本性を取られたので、この根元において、天主と人間の本性が一致する事ができました。

確かに、天主の本性は無限の善であって、私たちが把握する事のできないものです。それにもかかわらず、その天主のペルソナが、御言葉、永遠の御言葉が、私たちの本性を自分のものとされたので、一つになる事ができました。

この一つになるという事は、ちょうどこの十字架像が木と、この金属と、あるいは宝石とこう合わさって一つになっているようなやり方での一つではありません。それよりももっと、これはたまたま芸術によって合わさってこうなっていますけれども、イエズス様のヒポスターティスにおける、ペルソナにおける一致というのは、それよりももっと深い一つとなって、もう離す事ができないほどのものです。

だからといって、これによって天主が天主でなくなった、あるいは人間が人間でなくなったという事はなかったのです。もちろんこの一致というのは、イエズス様の御言葉の最も深いところであったものだったからです。


⑵では第2に、これはこうする事によって、天主と私たちにはどのような事が起こったのでしょうか?

時々私たちは誤解してしまうのですけれども、天主の、「天主とは何か」と言った時に、私たちはそれについて答える事ができる、と錯覚してしまいます。「天主とは、この世を創った方だ、創造主である」と、例えば。でも正確に言うと、そうではないのです。「創造主である」という事は、天主様の定義ではないのです。天主に対して、「何か」と答える事が、私たちにはできないのです。

なぜかというと、例えば「時計とは何か」というと、「時計とは、時を私たちに教えるものだ」と私たちは定義を与える事ができます。ですから、時を教えるものは皆時計です。お腹も時々、時を教える限りにおいて時計にもなり得ます。

でも天主の場合には、例えば「創造するかしないか」というのは全く自由でした。「私たちを創るか創らないか」というのは自由でした。必ずしも私たちを創造して、無から創り上げなければならない、という義務も必然性もありませんでした。愛によって私たちを創りましたけれども、それは御恵みでした。ですから天主は、「もしも創造しなかったら天主ではない」という事は言えません。ですからそういう意味で、天主様の定義に、「創造主である」という事は言えないのです。

同じように天主は、「人となる」という義務も必然性もありませんでした。しかし私たちを救うが為に、私たちの失われた天主との関係を回復させる為に、いえ、それよりも更にもっと大きなものとする為に(これについてはすぐに申し上げます)、天主は私たちの為に人となりました。

もちろん、「天主聖子が人となった」という事は、天主の定義の中には入っていません。なぜかというと、「そうでなければ天主ではない」とは言えないからです。天主様は無限の御方で、私たちが把握し尽くす事ができないものです。もちろん私たちは天主様が、「正義である」「愛である」「憐れみである」と言う事はできますが、私たちのこの地上での理解をはるかに無限に超えた意味でのものです。

その天主は、この世を創造する事によって、御自分は全く変わる事がありませんでした。この世を創ったから、あるいは創らなかったからといって、天主がより良くなった、より悪くなった、より少なくなった、より大きくなった、という事は全くありません。同じ無限の天主です。

それと同じように、天主聖子が人となった時に、天主聖子がより大きくなった、より小さくなった、より完全になった、より不完全になった、という事は全くありませんでした。全く同じ、永遠の天主の御言葉でした。

しかし天主の聖子が人となった時に、私たちにとっては、創造の時に起こった、無から有に、無かったものが有った、在り始めた、という大変化があったように、私たちにとっても大きな変化が起こりました。なぜかというと、天主の聖子が私たちの人間と一致したからです。この一致によって、私たちの人間の本性はとてつもない変化を起こしました。

それはどういう事かというと、「私たちがもしもイエズス・キリストの聖心に同意するならば、私たちがそれを信じてそれに同意するならば、天主聖子のようになる事ができる。アダムとエヴァが創られたその時の状態よりも、更に高貴なものとなる事ができる」という大変化でした。

アダムとエヴァがもしも罪を犯さずにそのままいて、そしてもしも天主聖子が人とならなかったのならばできなかったほどの大変化が、私たちにもあり得る事になりました。その可能性が与えられたのです。

もちろんオートマティックではありません。創造の時には私たちが同意せずにも、無から有になりました。しかしこの贖いの、イエズス・キリストとの一致というのは、天主との一致というのは、私たちが今度は同意しなければなりません。イエズス・キリストの御旨の通りにしなければなりません。イエズス・キリストを信じて、私たちもそれに参与しなければなりません。

しかしその可能性が開かれました。これは私たちに与えられた大きな喜びです。なぜかというと、さもなくば私たちには、この世での苦しみ、そしてこの世が終わった後、来世での苦しみしか残されていなかったからです。

これについて、現代ではいくつかのたくさんの誤った考えがあります、誤解があります。

1つは、「イエズス様がただの人間であって、天主であると認められた」という、そうではありません。イエズス・キリスト様はその最初の瞬間から、生まれたその御胎内に宿られた最初の瞬間から、真の天主、真の人です。

あるいはまた他の誤謬は、「イエズス様は天主であって、本当の人ではない。」これも誤謬です。真の人間として生まれたので、成長もしましたし、消化もしましたし、苦しみましたし、死も受けました。

また別の誤謬は、「天主は、人間になるのがこれは必然だった。この世に起こる事は皆三位一体の、(これはある日本の学者が言っている事ですけれども)三位一体の構造をしているのであって、そしてこの救いの歴史というのは、この三位一体の構造をどうしても取らなければならなかったので、必然としてそうなった。」そうではありません。もしも三位一体の構造が必ずこの世に起こる、そしてこの世に起こる事というのは必ず三位一体が原因であるとしたならば、この世には罪もあり得ない事になってしまいます。

このような考えの元々は、テイヤール・ド・シャルダンという人が考えた進化論でした。このテイヤール・ド・シャルダンという人はフランス人で、イエズス会士で、「この世は進化している。」そしてその進化の究極の点の事を、彼は「オメガ点」と名前を付けたのですけれども、「そのオメガ点が、全てがキリストになる事だ。」そして「この物質も、最後には進化して、皆キリストのようになる」と主張をします。「自動的にそうなる」と。

そうではありません。イエズス様は私たちを救う為に、人間を救う為に、この「人」となりました。

もちろん天主は憐れみによって、この世界を究極的に再創造、「新しい天と地を創る」と言われています。しかしそれは進化ではなくて、天主の御憐れみであり、御恵みであって、天主の自由な御計画でした。自動的ではありません。必ずその私たちがそうならなければならないとか、必ず物体がそのようになる、というのではありません。ですからそれは進化でもないのです、進化という自動的なものではありません。たまたまそうでもありません。憐れみによる愛の業です。

またある別の誤りは、これは第二バチカン公会議の非常に曖昧な言い方から来るものです、「天主が御託身をする事によって、ある意味において全ての人と一致した」と、この「ある意味」という曖昧な言い方をして、「私たちにそのような可能性を与えた」という事をはっきり書きませんでした。

「可能性を与えた」という事であれば、「可能性において一致した」という事であれば、私たちはまだ現実にそれまでに、全ての人がそれに現実に到達していないという事が分かります。しかし「ある意味において一致した」と言うと、「あぁ、もう既に本当に一致しているのだ」と錯覚してしまう人がいます。そして、ですからそのような人たちは、「だから私たちは何をしても救われるのだ。何を信じても救われるのだ」と誤解してしまいました。

しかし、「私たちの知性では計り知れない、無限の天主が、私たちを愛するが為に、私たちの幸せを望むが為に、私たちを御自分の命に招き入れる為に、全く自由に私たちに、私たちの人間の本性をお取りになって、お生まれになる」というこの愛の極みを、どうぞ黙想なさって下さい。

この天主の聖子が生まれた時に、旧約の預言は全て成就しました。人類が太古から待ち望んでいた救世主、平和の君がお生まれになりました。私たちは今典礼によって、キリストの花嫁である教会は、それを今年も祝おうとしています。私たちの中には感謝と、喜びと、そして愛に満ち溢れなければなりません。このイエズス様のこの神秘の中に深く入るようになさって下さい。

最後に、マリア様にお祈り致しましょう。

「マリア様、どうぞ私たちの限られた知性ですけれども、イエズス様の御言葉の御託身の神秘を深く信じます。私たちが色々な誤謬に惑わされる事なく、天主のこの大きな贈り物を深く理解する事ができますように。あまりにも大きな御恵みだったので、人間はそれを誤解してしまいました。しかしそのそれを、その偉大さを深く理解する事ができますように、それに相応しい喜びも私たちが持つ事ができますように、助けて下さい。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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