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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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2018年12月23日(金) 待降節第4主日説教 「クリスマスが全く天主様にふさわしい―とはどういうことか?」

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2018年12月23日(主日)待降節第4主日のミサ
小野田神父説教

聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2018年12月23日、待降節第4主日です。

今日はこのミサの後には、いつもの通りに公教要理の予定ですが、その代わりに特に侍者の、子供たちにとっては、ポールさんの御一緒に侍者の集いがあります。ですから侍者をしようとする人たちが、どうやって侍者をしたら良いのか、特に「新しく侍者になる」という子供たちの為にも集まって下さい。それから15時から今日は晩課があります。明日は国民の祝日なので振替休日なので、10時30分からミサがあります。

クリスマスにはここで、夕方の18時からミサがあります。どうぞ時間のお間違えのないようになさって下さい。

それから聖ピオ十世会の、特にアジア管区では、特にできれば来年、日本に、司祭が常駐することができるように、という事を願っています。その為には色々な条件が必要です。司祭を少なくとも2名、日本に常駐する為に送らなければなりません。しかしそうする事によって大きな利益があります。まず日本で、特に考えているのは東京です。東京で、少なくとも毎日ミサが捧げられる。また、司祭が行ったり来たりする時間が省けるので、その為の時間や奉仕を、皆さんの為に捧げる事ができる。非常に、体力的にも効果的な奉仕ができる、と思っています。

その為には良い、非常に交通の便の良い場所に、皆さんが集う事ができるような場所が、司祭が住む事ができるような場所がなければなりません。そのようなうまい場所がありますように、皆さんにお祈りをお願いしたいと思っています。聖ヨゼフ様が、イエズス様のお生まれになる場所を見つけて下さったように、司祭がミサをする場所を、毎日ミサをする場所を見つけて下さいますように、皆さんの熱烈なお祈りをお願い致します。



“Rorate coeli desuper, et nubes pluant justum.”
「天よ、露を滴らせ、雲よ、義人を降らせよ。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、遂にあと2日で、私たちの主イエズス・キリストの御降誕を祝います。

クリスマスは私たちにとって大きな喜びの日です。とても甘い、そして甘美な、優しい喜びの日です。なぜかというと、この日には私たちは大きなプレゼントを、天主様から頂いたからです。私たちの存在の根底を覆すかのような、ものすごいプレゼントです。

しかし、もしも私たちがその価値が一体何か分からないと、そのプレゼントの一体価値がどれほどものすごいものか、それが分からなければ、喜びもそれに合った喜びになりません。私たちがそれを知れば知るほど、「えぇ!?何と、そんなに!」と、私たちの喜びはますます大きくなるに違いありません。

天使たちがなぜこんなにも喜んでいたのか、なぜ人類がこの日には歌を歌って、クリスマスのギフトをプレゼントを交換して、そしてなぜこんなにも喜び合うのか、という事を、そしてたとえ戦争があっても、「クリスマスには戦争を止めよう」となるのか、その、その意味を皆さんと一緒に黙想したいと思っています。

そしてこの黙想の結果、クリスマスの日には、待ちに待ったクリスマスには、皆さんの喜びが、心が喜びで満たされて、この喜びで溢れるようになれば、私の拙い御説教は成功になります。

なぜ、このクリスマス、イエズス様の御降誕がそれほど喜びに満ちているかというと、これは、生まれた方が、真の天主であるからです。真の人、真の天主です。天主が人となった。この天主が、この世を創造された、無限の宇宙を創られた天主が、私たちに与えられた。その偉大さが故に、私たちの喜びも大きいのです。

では今日私たちは、では「天主様が一体、人になるなんて、ちょっと想像を超えている。信じられない。一体そんな事が天主様にふさわしいのだろうか?偉大な方が、そんなに偉大な方がそんなに小さくなって良いのだろうか?無限の天主、無限の宇宙さえも包み込む事ができない永遠の善、命が、こんなにちっぽけになって人間となるなどと、そのあまりにも極端ではないか?北極と南極が一緒になる事がないように、きっとそんな事はふさわしくないんじゃないか?しかし一体、これは何でそんな事が言えるのか?」
これを黙想する事によって私たちは、そのそれをも超えた、天主の御力と、善と、愛を、垣間見る事に致しましょう。


聖トマス・アクィナスは言います、「天主が人となるという事は、非常にふさわしかった。なぜかというと、天主というのは良い方であるから。嫉妬をせずに、自分の持つ良いものを全て与える方だから。そして与えても、与えても、自分の持つものは決して無くならない方だから。そしてこの天主の御自身の働きというのは、この『良さ』にある。『善性』にある。天主が人となる事によって、『御自分を全て与え尽くす』というその良さが現れた。これは天主様に全くふさわしい。」

あるいは、「天主は永遠の知恵である。そして人類が天主の敵となってしまって、永遠の滅びを自ら選んでしまって、もうどうしようもない、しかも人類の力によっては罪を償う事さえもできない、これを解決するにはもう手段がないかのように見える、その難しい状況を、解決する方法を見出した編み出したその知恵、それが天主が人となった事だ。ここにおいて、天主の御知恵の極みが分かる。だからふさわしい。」

あるいは、「天主の正義。天主は正義なる方である。善を善とし、悪を悪とする。しかし悪に対して悪で返す事なく、悪魔の暴虐なものに対して悪をもって打ち返すのではなく、人間を死から救う為に暴力を使うのではなく、正義を以て、善を以て、それを成し遂げた。ここにおいて、天主の完全な正義が現れる。」

あるいは、「無限の開きがあるような天主と人間を、御言葉のペルソナにおいて一つにさせる、一つにした。ここに天主の全能の御力が現れる。だからふさわしい」と言っています。

聖トマス・アクィナスは更に言います、「天主様が人となるのは確かにふさわしかった。しかしそれは義務ではなかった。どうしてもそれをやらなければならない本能でもなかった。そうではなくて、天主は愛によって、無限にある可能性の中から1番、私たちの為にふさわしい方法を選んで、そうされた。」

例えば、私たちが今、ここの東京から長崎まで巡礼に行こう、という時に、色んな手段があります。歩いて行くとか、あるいは自動車で行く、あるいは飛行機で行く、あるいは船で行く、あるいはヘリコプターで行く等。でも飛行機で行かなくてももちろん、あるいは乗り物に乗らなくてももちろん、長崎に行く事はできますけれども、それをしないと非常に難しくなります。必ずしも乗り物が必要だとは限りません。しかし、人間が生きる為には空気が必要です。空気を必要でないと思われるならば、皆さんちょっと実験してみて下さい。

それと同じように、天主様は人間とならなければならない、という必要性はありませんでした。天主様にとって、人間にならなくても別に天主は天主です。しかし人間を私たちを罪から救う為に、それを自由に、色んな可能性の中から選んで、それを選択されたのでした。ここに天主の知恵と自由の選択がありました。

これはちょうど、人間が無から創造された、あるいは被造物が無から創造された時と同じような事です。天主が被造物を無から創った時に、無いものが有るものになりました。私たちの存在にとっては一大革命が起こりました。それと同じように、天主が人間となった時には、天主にとっては全く変わったところがありませんでした。天主が被造物を創っても創らなくても、天主は天主であったように、人となってもならなくても、天主は天主のままでしたが、しかし私たちの方が、「天主の御言葉と一致する」という大変革を起こす事ができました。

三位一体は、聖子イエズス・キリストの、天主の御言葉のペルソナにおいて、天主の本性と人間の本性を一つに一致させました。お生まれになる幼子イエズス・キリストは、真の天主であり、真の人間です。

天主が人となった、偉大な天主が人となった、という天主の偉大さは、その大きさにあるのではありません。なぜなら天主には体積など無いからです。天主の偉大さは、その御力にあります。無限の天主が、私たちの人間の本性と一つになった、というその全能において、天主の本性が、天主の全能性が現れました。

これによって私たちは、確かに多くの利益を得ました。聖トマス・アクィナスはいくつかそれを挙げています。実は挙げ尽くす事ができないほどだけれども、挙げていくつかを列挙しています。

1つは、「人間が、これによって天主の真理をよく信じる事ができるようになった。」旧約の預言が全て成就し、そして天主の真理が目に見える形になったので、更に確信を持って天主の真理を、天主の愛を信じる事ができるようになります。目に見えない天主をますます信じるようになる事ができます。

2つ目は、私たちは永遠の命の為に生まれてきました、創造されましたが、その為に天主がこれほどまで、人となるまで私たちの為になさった、という事を見て、私たちの希望は、救われるという希望は大きくなります。

3つ目は、天主の愛がここに現れます。天主聖父は、御一人子をこの世に送るまで私たちを愛されました。これを見ると、少なくとも「天主を愛し返そう」と思わざるを得なくなります。これほど天主から愛されていて、私たちはそのまま何もせずにいて良いのでしょうか。私たちの愛徳はますます大きくなります。

4つ目は、模範です。私たちの聖なる、私たちは天国に行く為に聖なる一生を送らなければなりませんが、第4番目に、イエズス様は良い模範を示して下さって、私たちがより簡単に人生を、どのような人生を送らなければならないかを示して下さいました。天主が人となる事によって、私たちも天主の命を生きる事ができるようになりました。

5つ目は悪魔に対してです。「今まで悪魔は」と、更に聖トマス・アクィナスは言います、「今まで悪魔は、人間よりも偉ぶっていた。なぜならば、人間は肉体を持っているし、そして死ぬ存在であるから。」しかし天主が人となる事によって、肉体を取る事によって、そして御死去される事によって、その悪魔が偉ぶっていた、その傲慢の鼻をへし折ってしまいました。

そればかりではありません。6つ目もあります。私たちの高貴さ、崇高さ、尊厳のためです。人間は天主の似姿において造られますけれども、天主の聖子が人となる事によって、私たちと一つになりました。ですからこれによって、どれほど人間というものが高貴であるか、罪を犯して、罪によって私たちのその高貴さを汚してはいけない存在であるか、という事を分からせてくれます。聖レオ教皇様はクリスマスの日に、このその御説教をします、「おぉ、キリスト教徒よ!天主が私たちの人間の本性を取ったという、この人間の本性の崇高さを見よ!だから私たちはもう罪を犯してはいけない。罪によって私たちの体を汚してはいけない。」

7つ目は、私たちの謙遜のためです。天主が人となる事によって、私たちまで近寄って下さる事によって、私たちの傲慢は無くなってしまいます。私たちも天主へと近寄らなければなりません。

しかしこの世は残念ながら、この光を受け入れようとしませんでした。聖ヨハネが書いています、「光はこの世に輝いたが、闇はこれを理解しなかった、受け入れなかった。光はこの世に来たけれども、人々は光よりも闇を好んだ。」天主の愛がここまで輝いたにもかかわらず、私たちに与えられたにもかかわらず、幼子イエズス様はしかし、必ずしも多くの全ての人によって受け入れられたとは限りませんでした。

私たちはしかしその、この方がどなたであるかという事を知っています。このクリスマスにイエズス様を、人となった真の天主を受け入れる事ができるように、お祈り致しましょう。

「マリア様、助けて下さい。マリア様、私たちがこのイエズス様のその愛を知る事ができますように、信仰を深める事ができますように、希望を強める事ができますように、イエズス様への愛に燃え立つ事ができますように、助けて下さい。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


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