2018年12月24日(月)主の御降誕の前日のミサ(東京)
小野田神父 説教
聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。
今日は、イエズス様の御降誕の前日のミサを行なっております。
明日はクリスマス、主の御降誕の大祝日で、夕方の18時からここでミサがあります。その前に17時頃から子供の洗礼式もあります。どうぞお祈り下さい。
来年はここで1月6日、主の御公現の主日にミサがあります。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日カトリック教会が、典礼を通して私たちの耳に、「主は来られる。今日お前たちは知るだろう。主が来るという事を知るだろう。そして明日の朝、主の栄光を見るだろう」と何度も言い聞かせます。
そこでその教会の典礼に従って、教会が私たちに典礼を通して示しているイメージを2つ黙想する事を提案します。
⑴1つは、詩篇の23です。この詩編を一緒に、「主が来られる」という事を知る事が重なって、似たような事が3回出てくる、そのそれを黙想致しましょう。
⑵第2に、聖福音とそして聖パウロの言葉に従って、マリア様の事に思いを馳せましょう。
⑶そして最後に私たちは、遷善の決心を、クリスマスを迎える最後の準備を致しましょう。
⑴教会は3回に渡って、つまり入祭誦とそして昇階誦、それから御聖体拝領の時に、「お前たちは今日知るだろう。主が来られるという事を知るだろう。主の栄光を見るだろう。その主の栄光が啓示されるだろう」という事を言っています。「さぁ、主は近い」と言っています。「今日だ。明日はそのそれを見る。」
それと同時に、詩篇の23節が歌われます。それの詩篇の23節の核心は何かというと、それは何度も詩篇の中で現れる言葉なのですけれども、「門よ、扉を開け。永遠の王が入る。さぁ、框を上げよ、永遠の王が入る」と繰り返して歌います。それは3回、あたかも言われるとあります。まず最初は入祭誦の時に、それから奉献の時に、そして御聖体拝領の時に言われるかのようです。
入祭誦の時には、司祭が聖堂に入堂しようとする時ですから、ちょうどイエズス様が私たちの家の前に立って、ドアをノックしているかのようです。「さぁ、永遠の王が入る。」
あたかも、婚宴の準備を整えた花嫁を迎えに、花婿が花嫁の家の前に来て、プレゼントを持って、そして「さぁ、ノックをしようか。」家の前に立っている。私たちは花婿を迎える、イエズス様を迎える、いつ来るか、いつ来るかと、カレンダーをめくりながら、その迎えに来るのを待っている、その喜びの声を聞く、綺麗に準備した花嫁であるかのようです。霊魂であるかのようです。
入祭誦では、イエズス様は教会の門のすぐ傍に立っておられます。「さぁ、」主が来られようとします。
次に、教会は同じく奉献の時に、つまり祭壇のすぐ前で、これからイエズス様が聖変化をするというその直前に、「すぐ、主はすぐ来る」という事を私たちに言います。あたかも祭壇が、今回は主の御降誕の前日は、大きな神秘のドアとなって、主が現れて来られるその直前である事を示すかのようです。
第3は、御聖体拝領の時です、「主の栄光が現れるだろう。」
これもちょうど、私たちが霊魂を開いて、主が来るのを受け入れようとする花嫁であるかのようです。「さぁ、心の、霊魂の扉を開け。永遠の王が入る。心の閉ざしていた框を取り上げろ。上げろ、永遠の王が入る。イエズス・キリストが来られる。私たちの元に生まれ給う、その栄光を見るだろう」と。
こうやって教会は私たちに、「さぁ、花嫁よ。さぁ、霊魂たちよ、主はもう扉のすぐ傍に立っている。さぁ、迎え入れよ、綺麗に準備せよ」と励ましています。
⑵第2は、福音で示されるマリア様とヨゼフ様です。
歴史的な事実によれば、今日ヨゼフ様とマリア様はベトレヘム、ダヴィドの街に、御自分の故郷に、ヨゼフ様の故郷に到着されたはずです。もしかしたらお昼を過ぎていたかもしれません。そして身籠もった妻のマリア様の泊まる所を探していたはずです。
ヨゼフ様は知っていました。夢で天使が確信したからです、「恐れるな、ヨゼフ。この子は聖霊によるものだ。マリアを迎え入れよ。そしてこの子の名は、『イエズス』と呼ばれる。なぜならば、全ての民を罪から救う者であるから。救い主は、私たちの罪を赦す為に来られる。人類は天主の敵であったけれども、罪人であるが、これを赦す為に来られる。天の門を開く為に来られる。」
聖パウロも同じ事を言っています、「旧約の時代に語られた、その預言された約束された者は、実は乙女、人間の本性によっては童貞マリアから生まれ、そしてそれは聖徳によるものである。つまり天主の聖なる者である。」
ですからその事を確信したヨゼフ様は、マリア様と共に、イエズス様がお生まれになる、救い主がお生まれになる場所を探しておられます。
私たちも今日は、マリア様とヨゼフ様の思いに、私たちの思いも一緒に致しましょう。この二人には、来られる、「救い主がすぐ来られる」という事を確信していました。「もうドアの外に立っておられる。人類を愛するが為に来られる、今来ておられる花婿である。花嫁をこれほど愛しておられる、多くの贈り物を持ってやって来られている。」これを確信していました、「すぐそこだ。」
マリア様が、特にヨゼフ様と一緒に、そのベトレヘムに到着して、イエズス様に御子に対して持っておられた信仰、真の天主、真の人であるイエズス・キリストに対する信仰、唯一の救い主、旧約の預言が全て成就されるこの救い主、それ以外には救いがない、という事を知っておられたその信仰。
また、天主が私たちを天国に必ず連れて行って下さる、その約束を決して違える事がない、という希望。
また、私たちのような惨めな者を、全能の天主が、最高の善が、無限の善が、私たちを愛して下さっておられる、私たちに善を施そうとする事のみを考えておられる、という事を思っていました。
マリア様もヨゼフ様も、その心には、謙遜と、そして大きな平和がありました。御忍耐もありました。
寒い冬にご旅行をされたマリア様とヨゼフ様、どれほどお疲れだった事でしょうか。ヨゼフ様が家を、あるいは旅籠屋を訪ねて回って行っても、それを拒否されるその辛さ。あるいはマリア様とヨゼフ様が洞窟で、馬と牛の間で、暖房もなく、全く捨てられた者として、最も捨てられた者として、最も貧しく、道端でどうして良いか分からずに、途方に暮れられておられる。そして遂には、まぐさ桶に救い主が生まれる、という事を甘受される事。
その御謙遜と御忍耐を、私たちも黙想致しましょう。
⑶では今日、私たちはどのような遷善の決心を取れば良いでしょうか?
私の提案するのは、今日の御聖体拝領の時に、是非イエズス様に心を大きく開いて、「イエズス様、私の心に来て下さい。私の心を、主が生まれる宿屋として使って下さい。この心に、私の心に来て下さい」とお祈り致しましょう。そして今日は御聖体拝領をすると、ちょうど皆さんは、私も、マリア様のようになります。イエズス様を運ぶ者となります。
私たちはよく考えてみると、天の国というベトレヘムまで、パンの町まで旅をするマリア様とヨゼフのようではないでしょうか。私たちはキリストの弟子として、キリスト者として、第2のキリストとして、天国に生まれなければならない者ですが、イエズス様はベトレへムで生まれましたけれども、私たちは天国に生まれなければなりません。
その為に、私たちはマリア様のように、イエズス様をいつも心に入れて、ベトレヘムまで天国まで、旅をしなければなりません。
私たちの天国への旅路は、ヨゼフ様やマリア様のように辛いものです。思い通りにいかなかったり、あるいは人々から捨てられたり、あるいは貧しさを忍耐しなければならなかったり、あるいは面白くない事も、不公平も、不正な事も、体験しなければならないかもしれません。ヨゼフ様がマリア様が体験したように。あるいは寒い、寒さや疲労や、疲れもあります。
しかし、マリア様とヨゼフ様にとっての、その力の源は、喜びは、「イエズス様が同伴者であった」という事です。
これは私つい最近知ったのです。ビルコック神父様から教えてもらったのですが、「同伴者」というのは英語で“companion”と言います。この語源は『共にパンを食べる者』だ、cum panis から来たのだそうでう。フランス語では「友達」の事を“copain”と言ます。「一緒にパンを食べる者だ」と。
それで私たちは、「イエズス様」というパンを頂いて、イエズス様という同伴者を持つ者ですから、御聖体拝領を、イエズス様を受ける者ですから、何という素晴らしい同伴者を、天国への同伴者を頂いた事でしょうか。
これを見ると、イエズス様がすぐ、私たちのすぐ近くにおられる、私たちの心の中にもうおられる、もうすぐ隣におられる、という事は分かります。教会が私たちに何度も繰り返すように、そしてマリア様がその事をよく知っているように、イエズス様は、救い主は、全能の天主は、愛は、平和の君は、救い主は、私たちのすぐ隣に、同伴者として待っておられます。
どれほどの愛を私たちは受けている事でしょうか。たとえ辛い事や、たとえ悲しい事が、あるいは何か自分の思い通りにもういかない、屈辱、あるいは失敗、あるいは病気、困難、事故のような事があったとしても、それはその後ろに、愛に満ちたイエズス様がおられる、という事を皆さんぜひ確信なさって下さい。マリア様もヨゼフ様も、それを確信していました。
では、マリア様にヨゼフ様にお祈り致しましょう、「私たちの心をいつも、イエズス様と共にいさせて下さい。マリア様がいつも、この地上での出来事の背後に、主の御摂理を見ていたように、私たちもそれが見る事ができるように助けて下さい。そしてマリア様がいつもイエズス様の事を思っていたように、私たちも思う事ができますように。全ての事において主の愛を、主の愛に満たされている事を、理解する事ができますように。」
そしてそうする事によって明日は、明日のこの18時のミサの時には、私たちの心には、喜びと、愛と、平和に満ちた、素晴らしい御降誕を祝う事ができる、と確信しています。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
小野田神父 説教
聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。
今日は、イエズス様の御降誕の前日のミサを行なっております。
明日はクリスマス、主の御降誕の大祝日で、夕方の18時からここでミサがあります。その前に17時頃から子供の洗礼式もあります。どうぞお祈り下さい。
来年はここで1月6日、主の御公現の主日にミサがあります。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日カトリック教会が、典礼を通して私たちの耳に、「主は来られる。今日お前たちは知るだろう。主が来るという事を知るだろう。そして明日の朝、主の栄光を見るだろう」と何度も言い聞かせます。
そこでその教会の典礼に従って、教会が私たちに典礼を通して示しているイメージを2つ黙想する事を提案します。
⑴1つは、詩篇の23です。この詩編を一緒に、「主が来られる」という事を知る事が重なって、似たような事が3回出てくる、そのそれを黙想致しましょう。
⑵第2に、聖福音とそして聖パウロの言葉に従って、マリア様の事に思いを馳せましょう。
⑶そして最後に私たちは、遷善の決心を、クリスマスを迎える最後の準備を致しましょう。
⑴教会は3回に渡って、つまり入祭誦とそして昇階誦、それから御聖体拝領の時に、「お前たちは今日知るだろう。主が来られるという事を知るだろう。主の栄光を見るだろう。その主の栄光が啓示されるだろう」という事を言っています。「さぁ、主は近い」と言っています。「今日だ。明日はそのそれを見る。」
それと同時に、詩篇の23節が歌われます。それの詩篇の23節の核心は何かというと、それは何度も詩篇の中で現れる言葉なのですけれども、「門よ、扉を開け。永遠の王が入る。さぁ、框を上げよ、永遠の王が入る」と繰り返して歌います。それは3回、あたかも言われるとあります。まず最初は入祭誦の時に、それから奉献の時に、そして御聖体拝領の時に言われるかのようです。
入祭誦の時には、司祭が聖堂に入堂しようとする時ですから、ちょうどイエズス様が私たちの家の前に立って、ドアをノックしているかのようです。「さぁ、永遠の王が入る。」
あたかも、婚宴の準備を整えた花嫁を迎えに、花婿が花嫁の家の前に来て、プレゼントを持って、そして「さぁ、ノックをしようか。」家の前に立っている。私たちは花婿を迎える、イエズス様を迎える、いつ来るか、いつ来るかと、カレンダーをめくりながら、その迎えに来るのを待っている、その喜びの声を聞く、綺麗に準備した花嫁であるかのようです。霊魂であるかのようです。
入祭誦では、イエズス様は教会の門のすぐ傍に立っておられます。「さぁ、」主が来られようとします。
次に、教会は同じく奉献の時に、つまり祭壇のすぐ前で、これからイエズス様が聖変化をするというその直前に、「すぐ、主はすぐ来る」という事を私たちに言います。あたかも祭壇が、今回は主の御降誕の前日は、大きな神秘のドアとなって、主が現れて来られるその直前である事を示すかのようです。
第3は、御聖体拝領の時です、「主の栄光が現れるだろう。」
これもちょうど、私たちが霊魂を開いて、主が来るのを受け入れようとする花嫁であるかのようです。「さぁ、心の、霊魂の扉を開け。永遠の王が入る。心の閉ざしていた框を取り上げろ。上げろ、永遠の王が入る。イエズス・キリストが来られる。私たちの元に生まれ給う、その栄光を見るだろう」と。
こうやって教会は私たちに、「さぁ、花嫁よ。さぁ、霊魂たちよ、主はもう扉のすぐ傍に立っている。さぁ、迎え入れよ、綺麗に準備せよ」と励ましています。
⑵第2は、福音で示されるマリア様とヨゼフ様です。
歴史的な事実によれば、今日ヨゼフ様とマリア様はベトレヘム、ダヴィドの街に、御自分の故郷に、ヨゼフ様の故郷に到着されたはずです。もしかしたらお昼を過ぎていたかもしれません。そして身籠もった妻のマリア様の泊まる所を探していたはずです。
ヨゼフ様は知っていました。夢で天使が確信したからです、「恐れるな、ヨゼフ。この子は聖霊によるものだ。マリアを迎え入れよ。そしてこの子の名は、『イエズス』と呼ばれる。なぜならば、全ての民を罪から救う者であるから。救い主は、私たちの罪を赦す為に来られる。人類は天主の敵であったけれども、罪人であるが、これを赦す為に来られる。天の門を開く為に来られる。」
聖パウロも同じ事を言っています、「旧約の時代に語られた、その預言された約束された者は、実は乙女、人間の本性によっては童貞マリアから生まれ、そしてそれは聖徳によるものである。つまり天主の聖なる者である。」
ですからその事を確信したヨゼフ様は、マリア様と共に、イエズス様がお生まれになる、救い主がお生まれになる場所を探しておられます。
私たちも今日は、マリア様とヨゼフ様の思いに、私たちの思いも一緒に致しましょう。この二人には、来られる、「救い主がすぐ来られる」という事を確信していました。「もうドアの外に立っておられる。人類を愛するが為に来られる、今来ておられる花婿である。花嫁をこれほど愛しておられる、多くの贈り物を持ってやって来られている。」これを確信していました、「すぐそこだ。」
マリア様が、特にヨゼフ様と一緒に、そのベトレヘムに到着して、イエズス様に御子に対して持っておられた信仰、真の天主、真の人であるイエズス・キリストに対する信仰、唯一の救い主、旧約の預言が全て成就されるこの救い主、それ以外には救いがない、という事を知っておられたその信仰。
また、天主が私たちを天国に必ず連れて行って下さる、その約束を決して違える事がない、という希望。
また、私たちのような惨めな者を、全能の天主が、最高の善が、無限の善が、私たちを愛して下さっておられる、私たちに善を施そうとする事のみを考えておられる、という事を思っていました。
マリア様もヨゼフ様も、その心には、謙遜と、そして大きな平和がありました。御忍耐もありました。
寒い冬にご旅行をされたマリア様とヨゼフ様、どれほどお疲れだった事でしょうか。ヨゼフ様が家を、あるいは旅籠屋を訪ねて回って行っても、それを拒否されるその辛さ。あるいはマリア様とヨゼフ様が洞窟で、馬と牛の間で、暖房もなく、全く捨てられた者として、最も捨てられた者として、最も貧しく、道端でどうして良いか分からずに、途方に暮れられておられる。そして遂には、まぐさ桶に救い主が生まれる、という事を甘受される事。
その御謙遜と御忍耐を、私たちも黙想致しましょう。
⑶では今日、私たちはどのような遷善の決心を取れば良いでしょうか?
私の提案するのは、今日の御聖体拝領の時に、是非イエズス様に心を大きく開いて、「イエズス様、私の心に来て下さい。私の心を、主が生まれる宿屋として使って下さい。この心に、私の心に来て下さい」とお祈り致しましょう。そして今日は御聖体拝領をすると、ちょうど皆さんは、私も、マリア様のようになります。イエズス様を運ぶ者となります。
私たちはよく考えてみると、天の国というベトレヘムまで、パンの町まで旅をするマリア様とヨゼフのようではないでしょうか。私たちはキリストの弟子として、キリスト者として、第2のキリストとして、天国に生まれなければならない者ですが、イエズス様はベトレへムで生まれましたけれども、私たちは天国に生まれなければなりません。
その為に、私たちはマリア様のように、イエズス様をいつも心に入れて、ベトレヘムまで天国まで、旅をしなければなりません。
私たちの天国への旅路は、ヨゼフ様やマリア様のように辛いものです。思い通りにいかなかったり、あるいは人々から捨てられたり、あるいは貧しさを忍耐しなければならなかったり、あるいは面白くない事も、不公平も、不正な事も、体験しなければならないかもしれません。ヨゼフ様がマリア様が体験したように。あるいは寒い、寒さや疲労や、疲れもあります。
しかし、マリア様とヨゼフ様にとっての、その力の源は、喜びは、「イエズス様が同伴者であった」という事です。
これは私つい最近知ったのです。ビルコック神父様から教えてもらったのですが、「同伴者」というのは英語で“companion”と言います。この語源は『共にパンを食べる者』だ、cum panis から来たのだそうでう。フランス語では「友達」の事を“copain”と言ます。「一緒にパンを食べる者だ」と。
それで私たちは、「イエズス様」というパンを頂いて、イエズス様という同伴者を持つ者ですから、御聖体拝領を、イエズス様を受ける者ですから、何という素晴らしい同伴者を、天国への同伴者を頂いた事でしょうか。
これを見ると、イエズス様がすぐ、私たちのすぐ近くにおられる、私たちの心の中にもうおられる、もうすぐ隣におられる、という事は分かります。教会が私たちに何度も繰り返すように、そしてマリア様がその事をよく知っているように、イエズス様は、救い主は、全能の天主は、愛は、平和の君は、救い主は、私たちのすぐ隣に、同伴者として待っておられます。
どれほどの愛を私たちは受けている事でしょうか。たとえ辛い事や、たとえ悲しい事が、あるいは何か自分の思い通りにもういかない、屈辱、あるいは失敗、あるいは病気、困難、事故のような事があったとしても、それはその後ろに、愛に満ちたイエズス様がおられる、という事を皆さんぜひ確信なさって下さい。マリア様もヨゼフ様も、それを確信していました。
では、マリア様にヨゼフ様にお祈り致しましょう、「私たちの心をいつも、イエズス様と共にいさせて下さい。マリア様がいつも、この地上での出来事の背後に、主の御摂理を見ていたように、私たちもそれが見る事ができるように助けて下さい。そしてマリア様がいつもイエズス様の事を思っていたように、私たちも思う事ができますように。全ての事において主の愛を、主の愛に満たされている事を、理解する事ができますように。」
そしてそうする事によって明日は、明日のこの18時のミサの時には、私たちの心には、喜びと、愛と、平和に満ちた、素晴らしい御降誕を祝う事ができる、と確信しています。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。