2016年8月13日 聖母黙想会 シュテーリン神父様講話【11】
同時通訳:小野田圭志神父
天主に戻る為の道は、3つの部分に分けられています。その「出発」の部分と、そしてそこを辿る「道」と、そして「到達点」です。
出発点は、私たち自身に対する本当の認識です。
道というのは、マリア様です。
マリア様を通して、イエズス様に到達します。
このマリア様のまことの信心で何度も何度も出てくるのは、「究極の目的は、実は、永遠の知恵であるイエズス様自身である」という事です。
マリア様はいつも、その御子イエズス様へと私たちを辿り着かせてくれます。なぜかというと、マリア様の全生涯と全ての愛は、イエズス様に向かっているからです。マリア様は決して自分だけの為に生きた事はありません。いつもイエズス様の為に生きてきました。マリア様は自分の為の事を思った事がありません。マリア様の御出現を見ると、イエズス様の栄光をのみ求めていた事が分かります。どこにおいてもマリア様は、御子へと私たちを導く愛する母として現れています。
マリア様はファチマで、最後の救いの手段として、ご自分の汚れなき御心をお与え下さいました。マリア様の汚れなき御心とは何でしょうか?
ご自分で説明します、「これは、罪人の避難所、拠り所であって、天主へと導く道である」と。
では、マリア様の汚れなき御心に対する信心の本質とは何でしょうか?御聖体拝領、それから告解です。イエズス様の御生涯の深い神秘を黙想する事、償いの精神。ですから、ファチマの中心はイエズス様です。
ルルドでも、それからグアダルーペでも、マリア様は「小さな御聖堂を建てて欲しい」と望みますけれども、その御聖堂の中心はもちろん、イエズス様の祭壇です。
もしもこの黙想会の時で、「イエズス様に戻る唯一の確実な道がある。それがマリア様だ」と理解できたとしたら、それでこの黙想会の目的は達成されました。「いつも、いつもどのような時代でも、聖人たちはマリア様を通して、自分を聖化してきた。特に終末の時代ではそうだ。」
プロテスタントや近代主義者の人々は、「あぁ、イエズス様に行く為にはマリアは必要ではない」と言うかもしれません。もちろん彼らが言うには、「イエズス様に一致しなければならない。なぜかというと、よく知らないものを愛する事ができないから。でもイエズス様は御自分がどなたかを自分で示して下さったので、イエズス様を知るには十分であって、イエズス様を愛するには十分だ。また聖書を見れば、マリア様についてほとんど書かれていないし。」
私はそれに答えて、「もちろん、イエズス様はその啓示のまさにその中心です。もちろんイエズス様は、私たちを真理へと導く道です。この全ての真理はイエズス様から頂きました。それは本当です、もちろん。でも『知識』と言うには区別があります。」
プロテスタントの人が聖書を読んで、この箇所を誰が、どのような預言者が、どの何章何節、というのを暗記しているかもしれません。しかしイエズス様の仰った、「永遠の命とは、すなわち御身と、御身の遣わし給うたイエズス・キリストを知る事にあります」と言ったこの『知識』とは、単に聖書をその読んだだけの「知識」とは区別されます。
そういうプロテスタントの牧師さんはプロテスタントの人はこう言うかもしれません、「もちろんそうだ。しかしそれは霊が私たちに理解させてくれて、霊が私たちに与えられるので、聖書さえあれば理解できる。」それと同じような事を言っているのは、プロテスタントの人と、カリスマ運動の人です。
もちろん、天主様の深い神秘には、霊が必要です、聖霊が必要です。でもこの聖霊というのはどこで一番よく働くのでしょうか?では聖霊は一体、どこに一番よくその自分を現しになるのでしょうか?
聖霊は、その最初の瞬間から最後まで、自分の道具として一番よく使うものがあります。それは、「インマクラータ」であって、「マリア様」です。ですからこれを見ても、「マリア様を通して初めて、深い理解に、真理の理解に達する」と言います。
またもう1つ別の観点から言えば、この地上でマリア様ほどイエズス様を知っている方が他にどこにいるでしょうか?イエズス様は、マリア様が御自分の長上である事を、目上である事をお望みになりました。イエズス様はマリア様の元に服従する事を御望みでした。お母さんに服従する、従う子供は、お母さんに自分の事を全て言います。もしも誰かに特にそれを何か隠す事があったら、完全に服従したとは言えません。
マリア様はその最初の瞬間から聖寵に満たされたものですから、マリア様はその聖寵の満たされによって、イエズス様の神秘とその聖心の深みまで入る事ができました。このマリア様が持っておられたイエズス様に関する知識は、天使たちの知識を遥かに超えたもので、この知識を、お持ちになっていた知識を皆さんに伝えようと思っています。これが、マリア様が私たちの母になる時になさろうとする事です。
母親の役割というのは、子供の教育・養育という事を昨日の晩見ました。マリア様がイエズス様に関するご自分の持っている知識を私たちに教えたい、というのがマリア様の母の心です。ですからマリア様を通して、イエズス様に関してマリア様が持っている全ての知識を学ぶ事ができます。
もしも私たちの宗教に何らかの点で分からないところが、難しいところがあるとしたら、そしたらマリア様の所に謙遜に行って、「お母さん、永遠の知識を教えて下さい」とお願いするしかありません。そうすると、全ての知識を超越する、それを超える知識を私たちに与えて下さるでしょう。
では私たちがそれによって戻る3つのステップに戻ります。
まず、私たち自身に関する知識。そうすると一体、そのいわゆる「人間の尊厳云々…」というものが何か分かります。
そして第2は、私たちがそれへと向かう道に関するもの。
第3番目の知識は、イエズス様に関する知識です。
最初のこの2つの考察については、「まことの信心」の本の中で主に話しています。
第3の知識、イエズス様に関する知識については、グリニョン・ド・モンフォールは別の本を書いて、『永遠の知恵であるイエズス・キリストへの愛』という本を書きました。私が今度、この聖母黙想会を次回、皆さんの為に開く時には、この本の隣にですね、「永遠の知恵に対する愛」のグリニョン・ド・モンフォールの第2巻、ここに別の本が一緒に日本語である事を夢見ています。
では、イエズス様の知識を深める為に、少しの考察をしてみましょう。グリニョン・ド・モンフォールは、「イエズス様を知る為には、イエズス様に近付いて、イエズス様の方に向かって、イエズス様の事を考えなければならない、黙想しなければならない」と言います。去年イグナチオの霊操をしましたけれども、イエズス様の事を深く知るには、イエズス様の御生涯を黙想しなければなりません。イエズス様が何をなさり、何を仰り、何をなさったか、という事を黙想します。特にイエズス様がどうやって苦しまれたか、という事を黙想します。ですからこれについては特別に言う事はありません。
でも、グリニョン・ド・モンフォールは特別なイエズス様へのアプローチの仕方、近付き方を私たちに教えています。イエズス様の質というのですか、それぞれのイエズス様の仰った言葉、イエズス様のなさった行動、態度、あるいはその苦しみで、特別に目を見張るような質、特質があります。それは何でしょうか?
グリニョン・ド・モンフォールは、その「優しさ」“dulce”とか、その「美しさ」という言葉を使います。この“dulce”元々は「甘い」という意味ですけれども、これは「甘美な」という意味ですけれども、どうやったら訳したら良いでしょうか。これは色んな良い性質が合わさったものです。英語では“gentleness”「優しさ」という風に、あるいは「甘美さ」、でも「甘美」と言うと、ちょっと甘いセンチメンタルな感じがするので、「優しさ」と言ったらどうでしょうか。
とても魅力的で、何か人を惹きつけるものがある、という事が「優しさ」で「甘美さ」です。信仰の真理を黙想する時に、この事に注目する事が非常に大切です。多くの人は誤解して、「カトリックの信仰というのは、教義のシステムだけだ」と考えています。「どういう規則のリストがあって、知恵のあるアドバイスがあって、美しい模範があって、何かの物」であってですね、「質ではない」と思っています。カトリックの宗教というのは、何かそういう「物」とか「事」ではなくて、「私たちの主イエズス・キリストという人柄」なのです。その「御人」なのです。
多くのカトリックの聖伝の人たちは、美しい美的な行為だと思っています。何かフォークロアのちょっと美しいダンスの一部であるかのように誤解しています。あるいは美しい儀式。ですからこの天皇陛下の色々な儀式の儀式典長をやるような、そんな感じがしています。もしもその式典がちょっとこの、本当はやるべきなのにちょっと早くやってしまったとか、何か間違ってしまったとしたら、それで全てが台無しになってしまうと思ってしまいます。
もちろん、ミサ典礼は荘厳な儀式ですけれども、それ以上のものです。つまりその儀式を典礼を生かしているのは、「イエズス様」という、生きている、その天主である人が、人間が、その中に、それを生かしているのです。
ですから、イエズス様に近付く為には、イエズス様の言葉をこう何と仰ったかという事を細かく暗記して、というよりは、あるいはイエズス様の教えについて詳しく言葉を立て述べる、というよりは、もっとイエズス様と私のこの緊密な関係にあるのです。つまり、目と目を合わせて、イエズス様の目と私の目がぴったりと合って、そしてその見つめ合っている。ここにイエズス様を深く知る秘訣があります。
イエズス様の前で御聖櫃の前に跪いて、その事を考えて下さい。イエズス様が皆さんの前にいらっしゃって、イエズス様が愛を込めて皆さんを見つめておられる、その愛の眼差しを見て下さい。「イエズス」という本当の存在、現実のイエズス様の前に立ちはだかって下さい。私が皆さんの前にこういるように、イエズス様も本当にいらしています。
イエズス様を見て、一番こう目を見張るような、何かびっくりするような事は何でしょうか?聖書によると、「イエズス様は他の人とは違って区別がされた。」どんな区別があったのでしょうか?
それは、イエズス様の「優しさ」であって、「柔和さ」であって、イエズス様の魅力です。イエズス様を見ると、人々はもう心が奪われてしまって、「あぁ、」それがもうイエズス様に惹きつけられてしまって、それがイエズス様です。
イエズス様は、福音の中にはよくあるのですけれども、「イエズス様の話を聞きたい」とイエズス様の後を付いて行くと、もうその事で夢中になってしまって、食べる事や眠る事や疲れをコロッと忘れてしまった、という事があります。
パンの増加の奇跡があります。何が起こったのでしょうか?いつもの説教があります。荒地にこう行って説教します。こう歩きながら、あるいはこう場所を変えながら、こう説教をします。そうして荒れ野に行くのです。聖書によると、女性や子供を数えずに、男性だけで5000名付いて来ます。夜も昼も。荒れ野には家もなければコンビニもありません。イエズス様は何と仰るでしょうか、弟子、使徒たちに。「彼らに何か食べ物を与えなさい。もう彼らは3日、何も食べずに私の話を聞いている。」
皆さん、何も食べずに72時間、3日間、荒れ野を歩く事ができますか?イエズス様のその御言葉、イエズス様のその優しい態度、イエズス様のその御説教、イエズス様のこの仕草などに惹かれて、イエズス様の後を付いて、3日間何も食べずに行きました。マグネットのようでした。
では、イエズス様のこの柔和さというものがどういう時によく見えるようになったでしょうか?それは、イエズス様が公生活を始める時に、洗者聖ヨハネがこういう風に宣言します。洗者聖ヨハネは、「私は、来たるべき御方を準備する道であって、その声であって、そのこの世の救い主を待ち望む、準備する者である」と言います。その待ちに待ったその救い主、世の待望していた救い主が現れます。ついに洗者聖ヨハネは皆の前に、「この遂に、救い主はこの方だ」と指し示す事ができて、本当に喜びに満たされて、「さぁ、遂にその時がやって来た!」とあります。
洗者聖ヨハネは皆の前に大きな声で、「見よ、この方を!この方が、栄光の王である!この方が、救い主である!さぁ、この方こそが、皆が待望した、本当のメシアだ!皆、控え控えー!」と言う事ができたはずです。ところが、洗者聖ヨハネの口を通してこう言わせました、「見よ、天主の子羊を。」
子羊をご存知ですか?小さな動物で、こう可愛い動物です。でもとても可愛いので、とても魅力的な動物です。私は夏のキャンプを女の子たちの為にやりました。この女の子たちを山の上に連れて行ったり、博物館に連れて行ったり、本当に興味があるようなものすごい物を見せました。ところでこの女の子は、喜びの声をあげて、「あ!羊ちゃんだ!」「羊ちゃんだ!」と叫び出しました。すると「あー!羊がいるー!」と言って羊の方に走って行って、とても喜んでいました。こう羊が草の上に寝そべったり、こう食べたり、ずっとそれを可愛がって、可愛がって、20分、30分、40分、時間が経ちます。「さぁ、早く次の、歴史的な記念碑である教会があるし、あそこの博物館もあるし、もっと別の歴史的社会的価値のあるものも見せますよ。」「でもそんなのはもういいんです、神父様。羊と一緒にいたい」と言っています。
せっかくこの子たちの為にバスをチャーターして、この予約をして、色んな教会も見せて、色々見せようと思っていたのが、女の子たちは羊の前にずっと座って、「その方が良い」と言うのです。ですからその時に思いました、来年はどこにも行かずに、この私たちの修道院の中でキャンプをして、羊を何匹か連れてきて、それでその一週間のキャンプはその羊を触って終わりにしようと思いました。(-_-;)
この「子羊」としてこの世に、イエズス様が最初に提示されました。イエズス様、その「イエズス」というのはその意味は、優しい意味があります。聖ベルナルドは、イエズス様の聖なる聖名が、どれほど優しい甘美なものか、という事を説明したチャンピオンです。聖グリニョン・ド・モンフォールは、「イエズス様の行動、言葉、全てが優しい」と言っています。
イエズス様がまだ子供の時、赤ちゃんの時には、羊飼いたちが自分の寝ている元に来るように呼びました。この羊飼いたちは、この小さな赤ちゃんを見て、あまりにも美しかったので、もう動く事ができないほどでした、見とれてしまって。東の三人の博士たちも遠くからやって来ました。そこで馬小屋に寝かされていた幼子イエズス様を見るのですけれども、その時にはベッドさえもありませんでした。この子供を見て、博士たちは跪いて礼拝します。
イエズス様は御言葉においてもとても優しい方です。このように優しく語った人は、全人類でかつていませんでした。「一体この知恵はどこから来るのだろう?」と人々は言い合っていました。
イエズス様はその御行動においても優しかったのです。人々は何日でもイエズス様の後を付いて行きました。子供たちが特にそうです。子供たちはイエズス様を見ると、イエズス様の所に抱きついて行きました。ちょうど女の子たちが子羊がいたら、「羊ちゃん!」と言ってその周りを囲んだように、子供たちもイエズス様の前に、「イエズス様!」と言って、こうイエズス様の肩に、ここにも、ここにも、ここにも、子供たちでいっぱいでした。すると使徒たちは本当にびっくりして、「あ!」この子供たちを遠ざけます、「シッシッシ!」するとイエズス様は、そのような使徒たちを怒って、「子供たちを私から離してはいけない。天の国はこのような者の為だ」と言いました。この世の捨てられたような人々、かわいそうな惨めな人々、そういう弱い人々の所にイエズス様はいて、とても優しく取り扱いました。
このイエズス様の優しさが最も光り輝いたのは、罪人に対してそうでした。イエズス様がマリア・マグダレナを回心させた時、どのように優しかったか、という事を去年黙想しました。イエズス様は例えで放蕩息子の話をしました。
イエズス様の事を黙想する時には、その「イエズス様の優しさ」という事をいつも頭に入れて下さい。イエズス様のこの優しさ、それ自体、それを考えて下さい。
イエズス様はこの地上にいる時だけ優しくて、地上にいなくなって天国に行ったら優しくなくなった、という事はありません。天国に行っても優しくあり続けます。王の王、栄光の王であるイエズス様は、だからといって私たちから遠く離れているというわけではありません。最も、イエズス様の日々、今でも続くその優しさは、「御聖体」です。この甘美なホスチア、イエズス様がこんな小さなパンになっておられる、子羊よりももっと小さなパンです。こんなにこの弱々しい、か弱いパンです。風が吹いたら本当にパッと飛んでしまうようなホスチアです。水をかければ溶けてしまうホスチアです。こんなにもう壊れやすい、こんなに小さなホスチアに、イエズス様はなってしまいました。
そのようなイエズス様の優しさを、御聖体拝領の時に考えて下さい。「見て、このイエズス様が、私たちの主が、どれほど甘美であるか、来て味わってみよ。」
聖グリニョンド・モンフォールの最期もそうでした、「イエズス様が優しさでいっぱいだ」と言います。1716年、御説教をしながら聖グリニョンド・モンフォールは亡くなります。4月28日に亡くなります。御説教をしながら倒れてしまいます。教会の中でこうちょっと横たわるように運ばれました。教会は人でいっぱいでした。「グリニョンド・モンフォールはもうこれで亡くなってしまう、死んでしまう」と思われました。と、突然、グリニョンド・モンフォールは立ち上がって、でもこの臨終のこの悶えの苦しみだと知ってしまいました。そしてその臨終の悶えの中で立ち上がって、説教台に戻ります。もう一度、信徒の人々に語りかけます。そして「イエズス様がどれほど甘美であるか」という事を語って、震えながら、イエズス様がどれほど甘美であるかという事を話しました。その聖グリニョンド・モンフォールの熱情と、その確信と、その愛に打たれて、多くの人が回心しました。そしてこれを話し終えると、説教台から倒れてしまって、そして亡くなりました。
では、アドバイスをするのを許して下さい。イエズス様の玄義を、神秘を、どうやって黙想したら良いでしょうか?
もちろん聖イグナチオの黙想会、霊操をするのはとても良いのですけれども、それがいつも毎日やる事はできません。皆さん、ですからその代わりに福音書を、聖書を全部というよりは福音書を開いて、そのイエズス様の御生涯の最初から最後まで、どのところでも良いのでご覧になって下さい。
ルフェーブル大司教様が勧めたやり方は、「イエズス様の御生涯を、典礼暦年と合わせて黙想する」という事です。毎週主日には別の福音書があります。教会の典礼に従って、一年を通して、イエズス様の御誕生からその生涯を、全生涯を黙想するという、教会がやっているリズムに従って黙想する、というやり方です。これはイエズス様の神秘の中に深く入る完璧なやり方です。
そして聖グリニョン・ド・モンフォールは、「マリア様を通して、イエズス様の神秘の中に入るのが良い」と言います。このマリア様を通してイエズス様の玄義に行くには、「ロザリオ」が一番良いのです。ロザリオには15の玄義があります。もちろんイエズス様の全ての玄義が含まれているわけではないのですけれども、最も大切な15玄義であって、天国に行くにはこれで十分です。イエズス様の神秘を深く知り、そのイエズス様の御生涯を深く知るに十分な玄義です。15の玄義には信仰の最も重要な玄義が含まれています。私たちの救霊を確実にする為に必要な全ての玄義が入っています。
ですから私たちは、光の玄義については嫌っています。なぜかというと、ロザリオがそれによって破壊されてしまうからです。マリア様は聖ドミニコに現れて、「15玄義」のロザリオを与えて下さいました。マリア様が与えたのは15玄義であって、20玄義でも50玄義でもありませんでした。「喜び」「苦しみ」そして「栄え」です。
『喜びの玄義』これは何を黙想するかというと、イエズス様のいらっしゃる、私たちの元にいらっしゃる事です。私たちの人生の中心、センターは、人間ではなく、この地上ではなくて、イエズス・キリストである、という事です。
喜びの玄義は、私たちの眼差しを、イエズス様にしっかりと結び付けます。喜びの玄義は、私たちの生きている現代の幻想に対する強力な武器になります。なぜかというと、現代人の中心は人間です。そしてこの地上での小さな天国です。あるいはビジネス、いつも自分の周りだけの、自分の喜びや、自分の楽しみや、お金を考えています。服や、休暇や、バケーションや、車や、あるいは自分の美しい髪の毛や、ファッションや、流行や、でも喜びの玄義は、「いや、違う」と言います。
喜びの玄義は、「この世の中心は、イエズス・キリストにある」と教えます。天からやって来た真の天主、そしてどこにいても、イエズス様が来れば聖化される。例えば、お母さんの胎内にいながらも聖化された、洗者聖ヨハネ。
イエズス様は、単なる教義の文字や、その法律や、ルールではなくて、可愛らしい、愛に満ちた、幼い子供として、生きている人間、真の人となった天主、イエズス様の御生涯は、全てその優しさと、柔和と、甘美さに満ちておられた。
聖アウグスティヌスによると、「キリスト教の核心とはこれである。つまり、天主が人となった。それは人が天主となる事ができるように。」
「この世は、最も深い暗闇の中にいる。幸せもなく、本当の喜びもなく、本当の光もなく。しかし突然、光が現れた。眩しい光が、闇に輝いた。そして真理によって、この闇を満たした。意志は強められ、冷たい私たちの心は愛に温められ、その光は私たちの本当の人生の意味を明らかにしてくれる。この光は私たちを魅惑させる。そして私たち自身も光となるようにさせる。ですから、この世の中心というのは、マリア様を通して来られた真の世の光、イエズス・キリストである。」
もしも、喜びの玄義が私たちの眼差しをイエズス様の方に固定させるとすると、『苦しみの玄義』は、私たちがこの世をどのように歩まねばならないか、その道を教えてくれます。この世に生きる、私たちの守るべき掟は、「自分の十字架をとってイエズスに従え」です。
この私たちがこの世で何をするにも、しなければならない事は、「愛する」という事です。皆さんが何をするにも、台所で料理をするにも、家をお掃除するにも、トイレをきれいにするにも、最も大切なのは、「それを愛を込めてする」という事です。「愛する」という事は「自分を忘れる」という事です、「自分の事を忘れる」という事です。ですから「愛する」という事は、「常に誰かの為に苦しむ」という事です。また「私自身も捧げて、この世の救いの為に苦しむ」という事です。
この地上は、私たちの霊魂を地獄に落とそうとしている、一生懸命になっている悪魔の働く場所でもありますから、私たちはその悪魔と戦わなければなりません。「戦う」という事は、「苦しむ」という事でもあります。「悪に対して戦う」、つまり「苦しみ」が待っています。
原罪の傷の残り、あるいは自分の中にある自己愛を綺麗にしなければなりません。これもやはり「戦い」です。
人生の長きに渡る十字架を担いで行くという事で、落胆したり、失望してはいけません。イエズス様は見本を示したのですから、苦しみの玄義は私たちに、苦しみについて失望したり、がっかりして落胆してしまわない動機を与えてくれます。イエズス様は私たちを愛するが為に苦しみを受けたので、私たちは苦しみの玄義によって、愛する事を学びます。この愛する事を学ぶ事によって、愛の掟、最も大切な掟について学びます。
『栄えの玄義』は、私たちの究極の目的を教えてくれます。この栄えの玄義は、この現代の世界の嘘について、この地上こそが究極の目的であって、この地上の楽しみだけしかない、という嘘についての武器を与えてくれます。栄えの玄義は私たちに、「永遠の命こそが究極の目的である」という事を教えて、「私たちの完璧な満足はそこにある」という事を教えます。
これが、私たちの宗教と他の宗教の違いです。他の宗教は、「死」という問題と直面しています。なぜならば、他の宗教には解決策がないからです。他の宗教は、「死にたくない」と思いますが、しかし私たちは、「永遠に天主を愛したい、というそれへの始まりだ」と思っています。
この「復活」というのは幻想ではありません。イエズス様の真の復活がそれを証明しています。そしてこのイエズス様の凱旋に、私たちは将来与るのです。
これを見ると、この「喜び」、「苦しみ」、「栄え」は、「出発点」であるのと、その「道」と、そしてその「到着点」、3つに対応している事が理解できます。
出発点というのは、イエズス様が私たちの元に来られたという事です。
私たちの目はもっとイエズス様の方に注目します。イエズス様は、その優しさと、柔和さ、甘美さによって、私たちをますます引き寄せます。私たちの道は、イエズス様の十字架の道に参与する事です。日々イエズス様の後を、十字架を担って付いて行く事です。
私たちの究極点は、永遠の命であり、これは栄えの玄義です。
この3つの絵で出来ているこの美術品のようなロザリオは、私たちが間違った道に歩む事がないように守ってくれます。そしてこの3つの段階は全て、マリア様を通して、マリア様によって、黙想します。聖グリニョン・ド・モンフォールは言います、「右手には十字架像、左手にはロザリオ」ロザリオというのは、イエズス様に近寄る全ての方法ですけれども、マリア様を通して近寄る方法です。
今、残念ながら日本語訳でこう皆さんに読んでもらう事ができないので、今回はこの30分の間、読む代わりに、ロザリオの喜びの玄義の5つの玄義を黙想する事を提案します。この10回めでたしを唱えるという事よりは、その玄義を黙想する事にして下さい。声を出すのではなくて、もちろんめでたしをこのメロディーのようにバックグラウンドのように心の中で唱える事はできますけれども、この玄義に注目なさって下さい。あるいは新約聖書の聖ルカの福音の最初の2章を黙想する事ができます。
同時通訳:小野田圭志神父
天主に戻る為の道は、3つの部分に分けられています。その「出発」の部分と、そしてそこを辿る「道」と、そして「到達点」です。
出発点は、私たち自身に対する本当の認識です。
道というのは、マリア様です。
マリア様を通して、イエズス様に到達します。
このマリア様のまことの信心で何度も何度も出てくるのは、「究極の目的は、実は、永遠の知恵であるイエズス様自身である」という事です。
マリア様はいつも、その御子イエズス様へと私たちを辿り着かせてくれます。なぜかというと、マリア様の全生涯と全ての愛は、イエズス様に向かっているからです。マリア様は決して自分だけの為に生きた事はありません。いつもイエズス様の為に生きてきました。マリア様は自分の為の事を思った事がありません。マリア様の御出現を見ると、イエズス様の栄光をのみ求めていた事が分かります。どこにおいてもマリア様は、御子へと私たちを導く愛する母として現れています。
マリア様はファチマで、最後の救いの手段として、ご自分の汚れなき御心をお与え下さいました。マリア様の汚れなき御心とは何でしょうか?
ご自分で説明します、「これは、罪人の避難所、拠り所であって、天主へと導く道である」と。
では、マリア様の汚れなき御心に対する信心の本質とは何でしょうか?御聖体拝領、それから告解です。イエズス様の御生涯の深い神秘を黙想する事、償いの精神。ですから、ファチマの中心はイエズス様です。
ルルドでも、それからグアダルーペでも、マリア様は「小さな御聖堂を建てて欲しい」と望みますけれども、その御聖堂の中心はもちろん、イエズス様の祭壇です。
もしもこの黙想会の時で、「イエズス様に戻る唯一の確実な道がある。それがマリア様だ」と理解できたとしたら、それでこの黙想会の目的は達成されました。「いつも、いつもどのような時代でも、聖人たちはマリア様を通して、自分を聖化してきた。特に終末の時代ではそうだ。」
プロテスタントや近代主義者の人々は、「あぁ、イエズス様に行く為にはマリアは必要ではない」と言うかもしれません。もちろん彼らが言うには、「イエズス様に一致しなければならない。なぜかというと、よく知らないものを愛する事ができないから。でもイエズス様は御自分がどなたかを自分で示して下さったので、イエズス様を知るには十分であって、イエズス様を愛するには十分だ。また聖書を見れば、マリア様についてほとんど書かれていないし。」
私はそれに答えて、「もちろん、イエズス様はその啓示のまさにその中心です。もちろんイエズス様は、私たちを真理へと導く道です。この全ての真理はイエズス様から頂きました。それは本当です、もちろん。でも『知識』と言うには区別があります。」
プロテスタントの人が聖書を読んで、この箇所を誰が、どのような預言者が、どの何章何節、というのを暗記しているかもしれません。しかしイエズス様の仰った、「永遠の命とは、すなわち御身と、御身の遣わし給うたイエズス・キリストを知る事にあります」と言ったこの『知識』とは、単に聖書をその読んだだけの「知識」とは区別されます。
そういうプロテスタントの牧師さんはプロテスタントの人はこう言うかもしれません、「もちろんそうだ。しかしそれは霊が私たちに理解させてくれて、霊が私たちに与えられるので、聖書さえあれば理解できる。」それと同じような事を言っているのは、プロテスタントの人と、カリスマ運動の人です。
もちろん、天主様の深い神秘には、霊が必要です、聖霊が必要です。でもこの聖霊というのはどこで一番よく働くのでしょうか?では聖霊は一体、どこに一番よくその自分を現しになるのでしょうか?
聖霊は、その最初の瞬間から最後まで、自分の道具として一番よく使うものがあります。それは、「インマクラータ」であって、「マリア様」です。ですからこれを見ても、「マリア様を通して初めて、深い理解に、真理の理解に達する」と言います。
またもう1つ別の観点から言えば、この地上でマリア様ほどイエズス様を知っている方が他にどこにいるでしょうか?イエズス様は、マリア様が御自分の長上である事を、目上である事をお望みになりました。イエズス様はマリア様の元に服従する事を御望みでした。お母さんに服従する、従う子供は、お母さんに自分の事を全て言います。もしも誰かに特にそれを何か隠す事があったら、完全に服従したとは言えません。
マリア様はその最初の瞬間から聖寵に満たされたものですから、マリア様はその聖寵の満たされによって、イエズス様の神秘とその聖心の深みまで入る事ができました。このマリア様が持っておられたイエズス様に関する知識は、天使たちの知識を遥かに超えたもので、この知識を、お持ちになっていた知識を皆さんに伝えようと思っています。これが、マリア様が私たちの母になる時になさろうとする事です。
母親の役割というのは、子供の教育・養育という事を昨日の晩見ました。マリア様がイエズス様に関するご自分の持っている知識を私たちに教えたい、というのがマリア様の母の心です。ですからマリア様を通して、イエズス様に関してマリア様が持っている全ての知識を学ぶ事ができます。
もしも私たちの宗教に何らかの点で分からないところが、難しいところがあるとしたら、そしたらマリア様の所に謙遜に行って、「お母さん、永遠の知識を教えて下さい」とお願いするしかありません。そうすると、全ての知識を超越する、それを超える知識を私たちに与えて下さるでしょう。
では私たちがそれによって戻る3つのステップに戻ります。
まず、私たち自身に関する知識。そうすると一体、そのいわゆる「人間の尊厳云々…」というものが何か分かります。
そして第2は、私たちがそれへと向かう道に関するもの。
第3番目の知識は、イエズス様に関する知識です。
最初のこの2つの考察については、「まことの信心」の本の中で主に話しています。
第3の知識、イエズス様に関する知識については、グリニョン・ド・モンフォールは別の本を書いて、『永遠の知恵であるイエズス・キリストへの愛』という本を書きました。私が今度、この聖母黙想会を次回、皆さんの為に開く時には、この本の隣にですね、「永遠の知恵に対する愛」のグリニョン・ド・モンフォールの第2巻、ここに別の本が一緒に日本語である事を夢見ています。
では、イエズス様の知識を深める為に、少しの考察をしてみましょう。グリニョン・ド・モンフォールは、「イエズス様を知る為には、イエズス様に近付いて、イエズス様の方に向かって、イエズス様の事を考えなければならない、黙想しなければならない」と言います。去年イグナチオの霊操をしましたけれども、イエズス様の事を深く知るには、イエズス様の御生涯を黙想しなければなりません。イエズス様が何をなさり、何を仰り、何をなさったか、という事を黙想します。特にイエズス様がどうやって苦しまれたか、という事を黙想します。ですからこれについては特別に言う事はありません。
でも、グリニョン・ド・モンフォールは特別なイエズス様へのアプローチの仕方、近付き方を私たちに教えています。イエズス様の質というのですか、それぞれのイエズス様の仰った言葉、イエズス様のなさった行動、態度、あるいはその苦しみで、特別に目を見張るような質、特質があります。それは何でしょうか?
グリニョン・ド・モンフォールは、その「優しさ」“dulce”とか、その「美しさ」という言葉を使います。この“dulce”元々は「甘い」という意味ですけれども、これは「甘美な」という意味ですけれども、どうやったら訳したら良いでしょうか。これは色んな良い性質が合わさったものです。英語では“gentleness”「優しさ」という風に、あるいは「甘美さ」、でも「甘美」と言うと、ちょっと甘いセンチメンタルな感じがするので、「優しさ」と言ったらどうでしょうか。
とても魅力的で、何か人を惹きつけるものがある、という事が「優しさ」で「甘美さ」です。信仰の真理を黙想する時に、この事に注目する事が非常に大切です。多くの人は誤解して、「カトリックの信仰というのは、教義のシステムだけだ」と考えています。「どういう規則のリストがあって、知恵のあるアドバイスがあって、美しい模範があって、何かの物」であってですね、「質ではない」と思っています。カトリックの宗教というのは、何かそういう「物」とか「事」ではなくて、「私たちの主イエズス・キリストという人柄」なのです。その「御人」なのです。
多くのカトリックの聖伝の人たちは、美しい美的な行為だと思っています。何かフォークロアのちょっと美しいダンスの一部であるかのように誤解しています。あるいは美しい儀式。ですからこの天皇陛下の色々な儀式の儀式典長をやるような、そんな感じがしています。もしもその式典がちょっとこの、本当はやるべきなのにちょっと早くやってしまったとか、何か間違ってしまったとしたら、それで全てが台無しになってしまうと思ってしまいます。
もちろん、ミサ典礼は荘厳な儀式ですけれども、それ以上のものです。つまりその儀式を典礼を生かしているのは、「イエズス様」という、生きている、その天主である人が、人間が、その中に、それを生かしているのです。
ですから、イエズス様に近付く為には、イエズス様の言葉をこう何と仰ったかという事を細かく暗記して、というよりは、あるいはイエズス様の教えについて詳しく言葉を立て述べる、というよりは、もっとイエズス様と私のこの緊密な関係にあるのです。つまり、目と目を合わせて、イエズス様の目と私の目がぴったりと合って、そしてその見つめ合っている。ここにイエズス様を深く知る秘訣があります。
イエズス様の前で御聖櫃の前に跪いて、その事を考えて下さい。イエズス様が皆さんの前にいらっしゃって、イエズス様が愛を込めて皆さんを見つめておられる、その愛の眼差しを見て下さい。「イエズス」という本当の存在、現実のイエズス様の前に立ちはだかって下さい。私が皆さんの前にこういるように、イエズス様も本当にいらしています。
イエズス様を見て、一番こう目を見張るような、何かびっくりするような事は何でしょうか?聖書によると、「イエズス様は他の人とは違って区別がされた。」どんな区別があったのでしょうか?
それは、イエズス様の「優しさ」であって、「柔和さ」であって、イエズス様の魅力です。イエズス様を見ると、人々はもう心が奪われてしまって、「あぁ、」それがもうイエズス様に惹きつけられてしまって、それがイエズス様です。
イエズス様は、福音の中にはよくあるのですけれども、「イエズス様の話を聞きたい」とイエズス様の後を付いて行くと、もうその事で夢中になってしまって、食べる事や眠る事や疲れをコロッと忘れてしまった、という事があります。
パンの増加の奇跡があります。何が起こったのでしょうか?いつもの説教があります。荒地にこう行って説教します。こう歩きながら、あるいはこう場所を変えながら、こう説教をします。そうして荒れ野に行くのです。聖書によると、女性や子供を数えずに、男性だけで5000名付いて来ます。夜も昼も。荒れ野には家もなければコンビニもありません。イエズス様は何と仰るでしょうか、弟子、使徒たちに。「彼らに何か食べ物を与えなさい。もう彼らは3日、何も食べずに私の話を聞いている。」
皆さん、何も食べずに72時間、3日間、荒れ野を歩く事ができますか?イエズス様のその御言葉、イエズス様のその優しい態度、イエズス様のその御説教、イエズス様のこの仕草などに惹かれて、イエズス様の後を付いて、3日間何も食べずに行きました。マグネットのようでした。
では、イエズス様のこの柔和さというものがどういう時によく見えるようになったでしょうか?それは、イエズス様が公生活を始める時に、洗者聖ヨハネがこういう風に宣言します。洗者聖ヨハネは、「私は、来たるべき御方を準備する道であって、その声であって、そのこの世の救い主を待ち望む、準備する者である」と言います。その待ちに待ったその救い主、世の待望していた救い主が現れます。ついに洗者聖ヨハネは皆の前に、「この遂に、救い主はこの方だ」と指し示す事ができて、本当に喜びに満たされて、「さぁ、遂にその時がやって来た!」とあります。
洗者聖ヨハネは皆の前に大きな声で、「見よ、この方を!この方が、栄光の王である!この方が、救い主である!さぁ、この方こそが、皆が待望した、本当のメシアだ!皆、控え控えー!」と言う事ができたはずです。ところが、洗者聖ヨハネの口を通してこう言わせました、「見よ、天主の子羊を。」
子羊をご存知ですか?小さな動物で、こう可愛い動物です。でもとても可愛いので、とても魅力的な動物です。私は夏のキャンプを女の子たちの為にやりました。この女の子たちを山の上に連れて行ったり、博物館に連れて行ったり、本当に興味があるようなものすごい物を見せました。ところでこの女の子は、喜びの声をあげて、「あ!羊ちゃんだ!」「羊ちゃんだ!」と叫び出しました。すると「あー!羊がいるー!」と言って羊の方に走って行って、とても喜んでいました。こう羊が草の上に寝そべったり、こう食べたり、ずっとそれを可愛がって、可愛がって、20分、30分、40分、時間が経ちます。「さぁ、早く次の、歴史的な記念碑である教会があるし、あそこの博物館もあるし、もっと別の歴史的社会的価値のあるものも見せますよ。」「でもそんなのはもういいんです、神父様。羊と一緒にいたい」と言っています。
せっかくこの子たちの為にバスをチャーターして、この予約をして、色んな教会も見せて、色々見せようと思っていたのが、女の子たちは羊の前にずっと座って、「その方が良い」と言うのです。ですからその時に思いました、来年はどこにも行かずに、この私たちの修道院の中でキャンプをして、羊を何匹か連れてきて、それでその一週間のキャンプはその羊を触って終わりにしようと思いました。(-_-;)
この「子羊」としてこの世に、イエズス様が最初に提示されました。イエズス様、その「イエズス」というのはその意味は、優しい意味があります。聖ベルナルドは、イエズス様の聖なる聖名が、どれほど優しい甘美なものか、という事を説明したチャンピオンです。聖グリニョン・ド・モンフォールは、「イエズス様の行動、言葉、全てが優しい」と言っています。
イエズス様がまだ子供の時、赤ちゃんの時には、羊飼いたちが自分の寝ている元に来るように呼びました。この羊飼いたちは、この小さな赤ちゃんを見て、あまりにも美しかったので、もう動く事ができないほどでした、見とれてしまって。東の三人の博士たちも遠くからやって来ました。そこで馬小屋に寝かされていた幼子イエズス様を見るのですけれども、その時にはベッドさえもありませんでした。この子供を見て、博士たちは跪いて礼拝します。
イエズス様は御言葉においてもとても優しい方です。このように優しく語った人は、全人類でかつていませんでした。「一体この知恵はどこから来るのだろう?」と人々は言い合っていました。
イエズス様はその御行動においても優しかったのです。人々は何日でもイエズス様の後を付いて行きました。子供たちが特にそうです。子供たちはイエズス様を見ると、イエズス様の所に抱きついて行きました。ちょうど女の子たちが子羊がいたら、「羊ちゃん!」と言ってその周りを囲んだように、子供たちもイエズス様の前に、「イエズス様!」と言って、こうイエズス様の肩に、ここにも、ここにも、ここにも、子供たちでいっぱいでした。すると使徒たちは本当にびっくりして、「あ!」この子供たちを遠ざけます、「シッシッシ!」するとイエズス様は、そのような使徒たちを怒って、「子供たちを私から離してはいけない。天の国はこのような者の為だ」と言いました。この世の捨てられたような人々、かわいそうな惨めな人々、そういう弱い人々の所にイエズス様はいて、とても優しく取り扱いました。
このイエズス様の優しさが最も光り輝いたのは、罪人に対してそうでした。イエズス様がマリア・マグダレナを回心させた時、どのように優しかったか、という事を去年黙想しました。イエズス様は例えで放蕩息子の話をしました。
イエズス様の事を黙想する時には、その「イエズス様の優しさ」という事をいつも頭に入れて下さい。イエズス様のこの優しさ、それ自体、それを考えて下さい。
イエズス様はこの地上にいる時だけ優しくて、地上にいなくなって天国に行ったら優しくなくなった、という事はありません。天国に行っても優しくあり続けます。王の王、栄光の王であるイエズス様は、だからといって私たちから遠く離れているというわけではありません。最も、イエズス様の日々、今でも続くその優しさは、「御聖体」です。この甘美なホスチア、イエズス様がこんな小さなパンになっておられる、子羊よりももっと小さなパンです。こんなにこの弱々しい、か弱いパンです。風が吹いたら本当にパッと飛んでしまうようなホスチアです。水をかければ溶けてしまうホスチアです。こんなにもう壊れやすい、こんなに小さなホスチアに、イエズス様はなってしまいました。
そのようなイエズス様の優しさを、御聖体拝領の時に考えて下さい。「見て、このイエズス様が、私たちの主が、どれほど甘美であるか、来て味わってみよ。」
聖グリニョンド・モンフォールの最期もそうでした、「イエズス様が優しさでいっぱいだ」と言います。1716年、御説教をしながら聖グリニョンド・モンフォールは亡くなります。4月28日に亡くなります。御説教をしながら倒れてしまいます。教会の中でこうちょっと横たわるように運ばれました。教会は人でいっぱいでした。「グリニョンド・モンフォールはもうこれで亡くなってしまう、死んでしまう」と思われました。と、突然、グリニョンド・モンフォールは立ち上がって、でもこの臨終のこの悶えの苦しみだと知ってしまいました。そしてその臨終の悶えの中で立ち上がって、説教台に戻ります。もう一度、信徒の人々に語りかけます。そして「イエズス様がどれほど甘美であるか」という事を語って、震えながら、イエズス様がどれほど甘美であるかという事を話しました。その聖グリニョンド・モンフォールの熱情と、その確信と、その愛に打たれて、多くの人が回心しました。そしてこれを話し終えると、説教台から倒れてしまって、そして亡くなりました。
では、アドバイスをするのを許して下さい。イエズス様の玄義を、神秘を、どうやって黙想したら良いでしょうか?
もちろん聖イグナチオの黙想会、霊操をするのはとても良いのですけれども、それがいつも毎日やる事はできません。皆さん、ですからその代わりに福音書を、聖書を全部というよりは福音書を開いて、そのイエズス様の御生涯の最初から最後まで、どのところでも良いのでご覧になって下さい。
ルフェーブル大司教様が勧めたやり方は、「イエズス様の御生涯を、典礼暦年と合わせて黙想する」という事です。毎週主日には別の福音書があります。教会の典礼に従って、一年を通して、イエズス様の御誕生からその生涯を、全生涯を黙想するという、教会がやっているリズムに従って黙想する、というやり方です。これはイエズス様の神秘の中に深く入る完璧なやり方です。
そして聖グリニョン・ド・モンフォールは、「マリア様を通して、イエズス様の神秘の中に入るのが良い」と言います。このマリア様を通してイエズス様の玄義に行くには、「ロザリオ」が一番良いのです。ロザリオには15の玄義があります。もちろんイエズス様の全ての玄義が含まれているわけではないのですけれども、最も大切な15玄義であって、天国に行くにはこれで十分です。イエズス様の神秘を深く知り、そのイエズス様の御生涯を深く知るに十分な玄義です。15の玄義には信仰の最も重要な玄義が含まれています。私たちの救霊を確実にする為に必要な全ての玄義が入っています。
ですから私たちは、光の玄義については嫌っています。なぜかというと、ロザリオがそれによって破壊されてしまうからです。マリア様は聖ドミニコに現れて、「15玄義」のロザリオを与えて下さいました。マリア様が与えたのは15玄義であって、20玄義でも50玄義でもありませんでした。「喜び」「苦しみ」そして「栄え」です。
『喜びの玄義』これは何を黙想するかというと、イエズス様のいらっしゃる、私たちの元にいらっしゃる事です。私たちの人生の中心、センターは、人間ではなく、この地上ではなくて、イエズス・キリストである、という事です。
喜びの玄義は、私たちの眼差しを、イエズス様にしっかりと結び付けます。喜びの玄義は、私たちの生きている現代の幻想に対する強力な武器になります。なぜかというと、現代人の中心は人間です。そしてこの地上での小さな天国です。あるいはビジネス、いつも自分の周りだけの、自分の喜びや、自分の楽しみや、お金を考えています。服や、休暇や、バケーションや、車や、あるいは自分の美しい髪の毛や、ファッションや、流行や、でも喜びの玄義は、「いや、違う」と言います。
喜びの玄義は、「この世の中心は、イエズス・キリストにある」と教えます。天からやって来た真の天主、そしてどこにいても、イエズス様が来れば聖化される。例えば、お母さんの胎内にいながらも聖化された、洗者聖ヨハネ。
イエズス様は、単なる教義の文字や、その法律や、ルールではなくて、可愛らしい、愛に満ちた、幼い子供として、生きている人間、真の人となった天主、イエズス様の御生涯は、全てその優しさと、柔和と、甘美さに満ちておられた。
聖アウグスティヌスによると、「キリスト教の核心とはこれである。つまり、天主が人となった。それは人が天主となる事ができるように。」
「この世は、最も深い暗闇の中にいる。幸せもなく、本当の喜びもなく、本当の光もなく。しかし突然、光が現れた。眩しい光が、闇に輝いた。そして真理によって、この闇を満たした。意志は強められ、冷たい私たちの心は愛に温められ、その光は私たちの本当の人生の意味を明らかにしてくれる。この光は私たちを魅惑させる。そして私たち自身も光となるようにさせる。ですから、この世の中心というのは、マリア様を通して来られた真の世の光、イエズス・キリストである。」
もしも、喜びの玄義が私たちの眼差しをイエズス様の方に固定させるとすると、『苦しみの玄義』は、私たちがこの世をどのように歩まねばならないか、その道を教えてくれます。この世に生きる、私たちの守るべき掟は、「自分の十字架をとってイエズスに従え」です。
この私たちがこの世で何をするにも、しなければならない事は、「愛する」という事です。皆さんが何をするにも、台所で料理をするにも、家をお掃除するにも、トイレをきれいにするにも、最も大切なのは、「それを愛を込めてする」という事です。「愛する」という事は「自分を忘れる」という事です、「自分の事を忘れる」という事です。ですから「愛する」という事は、「常に誰かの為に苦しむ」という事です。また「私自身も捧げて、この世の救いの為に苦しむ」という事です。
この地上は、私たちの霊魂を地獄に落とそうとしている、一生懸命になっている悪魔の働く場所でもありますから、私たちはその悪魔と戦わなければなりません。「戦う」という事は、「苦しむ」という事でもあります。「悪に対して戦う」、つまり「苦しみ」が待っています。
原罪の傷の残り、あるいは自分の中にある自己愛を綺麗にしなければなりません。これもやはり「戦い」です。
人生の長きに渡る十字架を担いで行くという事で、落胆したり、失望してはいけません。イエズス様は見本を示したのですから、苦しみの玄義は私たちに、苦しみについて失望したり、がっかりして落胆してしまわない動機を与えてくれます。イエズス様は私たちを愛するが為に苦しみを受けたので、私たちは苦しみの玄義によって、愛する事を学びます。この愛する事を学ぶ事によって、愛の掟、最も大切な掟について学びます。
『栄えの玄義』は、私たちの究極の目的を教えてくれます。この栄えの玄義は、この現代の世界の嘘について、この地上こそが究極の目的であって、この地上の楽しみだけしかない、という嘘についての武器を与えてくれます。栄えの玄義は私たちに、「永遠の命こそが究極の目的である」という事を教えて、「私たちの完璧な満足はそこにある」という事を教えます。
これが、私たちの宗教と他の宗教の違いです。他の宗教は、「死」という問題と直面しています。なぜならば、他の宗教には解決策がないからです。他の宗教は、「死にたくない」と思いますが、しかし私たちは、「永遠に天主を愛したい、というそれへの始まりだ」と思っています。
この「復活」というのは幻想ではありません。イエズス様の真の復活がそれを証明しています。そしてこのイエズス様の凱旋に、私たちは将来与るのです。
これを見ると、この「喜び」、「苦しみ」、「栄え」は、「出発点」であるのと、その「道」と、そしてその「到着点」、3つに対応している事が理解できます。
出発点というのは、イエズス様が私たちの元に来られたという事です。
私たちの目はもっとイエズス様の方に注目します。イエズス様は、その優しさと、柔和さ、甘美さによって、私たちをますます引き寄せます。私たちの道は、イエズス様の十字架の道に参与する事です。日々イエズス様の後を、十字架を担って付いて行く事です。
私たちの究極点は、永遠の命であり、これは栄えの玄義です。
この3つの絵で出来ているこの美術品のようなロザリオは、私たちが間違った道に歩む事がないように守ってくれます。そしてこの3つの段階は全て、マリア様を通して、マリア様によって、黙想します。聖グリニョン・ド・モンフォールは言います、「右手には十字架像、左手にはロザリオ」ロザリオというのは、イエズス様に近寄る全ての方法ですけれども、マリア様を通して近寄る方法です。
今、残念ながら日本語訳でこう皆さんに読んでもらう事ができないので、今回はこの30分の間、読む代わりに、ロザリオの喜びの玄義の5つの玄義を黙想する事を提案します。この10回めでたしを唱えるという事よりは、その玄義を黙想する事にして下さい。声を出すのではなくて、もちろんめでたしをこのメロディーのようにバックグラウンドのように心の中で唱える事はできますけれども、この玄義に注目なさって下さい。あるいは新約聖書の聖ルカの福音の最初の2章を黙想する事ができます。