2016年8月13日 聖母黙想会 シュテーリン神父様講話【13】
同時通訳:小野田圭志神父
イエズス様に対する深い知識と、イエズス様との一致が、私たちの霊的生活の究極の目的です。
この地上での生活には、素晴らしいロジックが、論理があります。まず私たち自身の新しい認識から始まります。そして私たちは簡単に、安全に行く道を辿るように招かれています。それがマリア様です。マリア様を通して、究極のゴールであるイエズス様へと辿り着きます。
私たちの霊的な道行きの最後はイエズス様との一致ですけれども、これは聖徳を獲得するという事です。「私が生きるのではなく、キリストが私によって生きている。」 聖パウロはまた他の所で、「私にとりて生きるとは、キリストなり」と。また別のところでは、「願わくは、キリストが信仰によってあなたの心に生きていますように、ありますように。」
そして知性においては、イエズス様の知識が、表面的ではなく、完璧なイエズス様への知識が。意志については、イエズス様の御旨を果たそうという意志が。そして心にはイエズス様を愛するという愛が、他のものよりもイエズス様を選ぶという愛がなければなりません。
イエズス様は御自身を、私たちの目の前に提示します。一致する前には、自分自身が誰であるかを見せなければなりません。これが喜びの玄義の本質です。
イエズス様が天から地に来られて、自分を私たちの間に置いて、身を置いて、私たちと共に住んで、御自分を示したという事です。イエズス様のその美しさ、その優しさ、その柔和さ、その態度に、私たちは最も魅惑されました。
イエズス様がいらっしゃるという事だけではなく、イエズス様がなさった事は、もっと素晴らしい事でした。イエズス様のなさった事を見ると、私たちの心に愛の火が点きます。これは苦しみの玄義です。苦しみの玄義を黙想する事は、愛の学校です。私を愛する為にこんなに小さくなって、そんなにも苦しんだイエズス様を、全能の天主を、私たちはどうして愛さずにいる事ができるでしょうか。
ですから愛のしるし、勝利のしるし、そしてキリスト教のしるしはこれです。つまり「十字架」です。聖グリニョン・ド・モンフォールは、「終末の使徒たちは、右の手には十字架像を握っている」と書いています。旧約聖書の言葉を引用して、聖グリニョン・ド・モンフォールは、「十字架の受難は、十字架というのは、王の秘密だ」と言います。
『永遠の知恵への愛』の本を引用します、「天主は天から地に降りてきた。それは、悪魔を追い払い、悪魔を鎖で縛る為だ。そして地獄の門を閉じる為である。そして、天国の門を人間の為に開く為である。そして天主聖父に、永遠の光栄を帰する為。」
どうやってこれをするでしょうか、天から地に来られた全能の天主が。全能の天主ですから、一言仰るだけで、この事は達成されるはずです。これを望みさえすれば、その事が完成されるはずです。でもイエズス様は、御稜威の力強い王としてこの地上には来られませんでした。
グリニョン・ド・モンフォールは本当にこれで驚きつつ、それを進めます、「天主の聖子は、私たちと同じものになろうと望んだ。私たちの友となろうと望んだ。私たちが天国に行く為に、天から降りて来られた。私たちは主が、栄光の内に来られるという事を期待する事もできた。大群の天使たちと一緒に付き添って来られるという事も期待できた。その天軍の大群と共に、復活されたようなこの光栄ある力を持って来られる事も考えられた。そしてこの力ある天主が、自分の力を使って、自分の敵、悪魔たちを一払いにして勝ち誇る事もできた。」
「でも、イエズス様はそうはなさらなかった。イエズス様が天から地に来られた時には、ほんの小さな者となって、小さな村の馬小屋の中でお生まれになって、小さな子供として、名前もないような子供として生まれてきた。全能の天主が、貧しい子供となった。謙遜なやり方で、福音を宣べ伝えた。」
この小さな、弱々しい、この謙遜なやり方で、どうやって地獄を閉じるのですか?指をちょっとだけ動かすだけで、地獄は閉じる事はできるはずです。でもイエズス様は、「ユダヤ人にとっては躓き」「ギリシャ人にとっては愚かさ」を使うのです。イエズス様は、軽蔑すべき、卑しい木を使うのです。極悪の非道の犯罪人を罰する為に使われる木を選ぶのです。
十字架による死刑というのは、最も最低の死刑のやり方でした。その十字架の木に、イエズス様は眼差しを注ぐのでした。それに喜びを覚えました。天のあらゆる栄光よりも、この十字架の木を大切に思うようになりました。この卑しい木こそ、征服の武器となる。この卑しい木こそ、自分の帝国の喜びとなる。そしてイエズス様の心の配偶者の喜びとなる。
イエズス様は、「私の時はまだやって来ない」「私の時はまだだ」とよく仰っていますけれども、それは十字架の時でした。公生活をする時に、よくこの「時」、「私の時」について話ました。御変容の時に、栄光の姿で預言者に一体何の話をしたでしょうか?それは受難の話でした。
「私の時はやって来た。」イエズス様は御自分を十字架に結び付けます。十字架に抱かれて、あたかも友人に抱かれるかのように抱かれて、亡くなります。
イエズス様が御復活されて、天国に栄光ある凱旋をする時に、十字架は捨て去られるでしょうか?いえ、十字架はイエズス様と共に一緒に行きます。掟があります、法があります。それは、「十字架には必ずイエズス様が付いている」という事です。これで、最悪のものが、最善のものになりました。最も軽蔑すべきものが、最も貴重なものになりました。最も邪悪なシンボルだったものが、愛のシンボルになりました。そして「この十字架こそ、全人類によって礼拝されなければならない」と命じます。
最後の審判の時に、聖人の聖遺物は残らないでしょう。なぜかというと、その聖遺物は全て復活の時に、その持ち主である聖人に戻されるからです。これが肉体の復活です。でも例外が1つあります。それは聖十字架の聖遺物です。イエズス様は、ケルビムとセラフィムの最も最高の天使たちに向かって、「全世界に散らばっている木の破片を、聖なる十字架の本当の破片を集めるように」命ずる事でしょう。
世の終わりには、人の子のしるしが、光をもって空に天に現れるでしょう。それはイエズス様がまさにその上で亡くなった、正確な正にその十字架が現れる事でしょう。この十字架は、天使たちによって凱旋されるでしょう。この十字架によって、全ての人が裁かれるでしょう。十字架の友にとっては、この十字架というのは何という大きな喜びでしょうか。十字架の敵、十字架を受けようとしなかった者たちにとっては、どれほどその失望は深い事でしょうか。
そして最後の審判に至るその間の、その最後の審判を待っている間の時代には、十字架のしるしは、信じる者の武器となるからです。
「十字架のしるしを以てのみ、子供は洗礼を授けられる。1日は十字架のしるしを以て始まり、十字架のしるしを以て終わるべきである。十字架のしるし無しに秘跡は与えられない。もしもこの十字架を皆に見せる事を恥ずかしがるような者は、弟子であるとは言われない。」
「このプログラムは、誰かがこのイエズス様に従うプログラムは、これである、『もしも誰か私の後を従うならば、自分を捨て、自分の十字架を日々取って従え。』」
313年、コンスタンティノ皇帝に天に現れたしるしは、「このしるしによってお前は勝て。」
十字架というのは深い神秘です。この十字架の秘密は、イエズス様の親友の為だけに明かされます。イエズス様と十字架とは全く一致しているので、この現代世界においては、十字架は嫌われ、躓きの元となっています。ユダヤ人やイスラムや、あるいは異教の人々にとって憎まれ、そして馬鹿にされているのみならず、カトリック信者によっても、しかも熱心な人々によっても、十字架は軽蔑されています。
今から、究極の質問があります。
「あなたは、本当にイエズス様と一致したいですか?」
「イエズス様が十字架と共に来られる時に、皆さんはイエズス様の十字架の友ですか?あるいは十字架の敵ですか?」
「神父様、これを見て下さい、十字架が掛かっています。神父様、家には十字架が、美しい十字架が掛かっています。教会に来た時はいつも十字架に接吻をします、千回!あぁ、イエズス様の御受難についての本を読む事が大好きです。」
でも、それでもまだ十字架の友となるには足りません。十字架というのは、接吻をしたり、あるいは飾ったりするのでは足りません。十字架は担がなければなりません。十字架というのは貴重なものだ、という事を理解しなければなりません。
では、この「十字架」という名前の後ろには何があるのでしょうか?
十字架というのは、私たちの日々の戦いです。十字架というのは、ハリウッドの映画ではありません。十字架というのは、私たちの直面する辱め、頭と足までの、そしてお腹と背中に至る肉体的な痛み。「十字架を愛する、十字架を担う」と言いながらも、ちょっとした十字架があるとすぐに不平不満を言ったりすると、どこに十字架への愛があるでしょうか。「十字架を愛して、十字架を受け入れる」と言いながら、小野田神父様が「また下らない事を、またおかしな事をやって」といってちょっと嫌味を言われると、「もう小野田神父の所には行かない!ミサに与らない!」と言うではないですか。難しい状況、あるいは困難な状況に、これを捧げる事、これが十字架です。疑い、孤独、皆から捨てられてしまったような感覚、失望、現代は人から騙されたりします。十字架を愛するとは、これを担ぐ、これを耐え忍ぶ事です。
この「十字架を担う」というのは、嫌々ながら「え〜、」と言って担ぐのではないのです。よくその十字架をブツブツ文句を言いながら、恨み言を言いながら担ぐのでもありません。この十字架を与えた人に対して特に、こうブツブツ言いながら文句を言いながら担ぐのではありません。十字架というのは自然の本性に反しているので、誰もが反感を買ったり、もう重いと感じるのは当然です。もしもそれが、十字架が苦しいと思わなければ、ちょっと精神病院に行かなければなりません。イエズス様が十字架を担った時には、非常に重く、非常に苦しいものでした。もう涙も流された事でしょう。しかし反抗や反乱はありませんでした。怒りや悪意もありませんでした。愛を込めてそれを受け入れました。
この十字架は貴重なものです。6つの理由があります。
まず第1の理由は、もしもそのような十字架があって、それを愛を込めて担ぐと、イエズス様に似た者になります。もしも誰かが担ぐべき十字架が無いとしたら、これは何かどこかおかしいという事です。何か良い事をしたい、例えば御聖堂を建てるとか、あるいは修道院を創立するとか、あるいは召命を遂行するとか、あるいはカトリックの家族を作るとか、そのような時に、もしも全てが順調にいって、何の波風も無く、何の問題も無いとしたら、何かがおかしいという事で、これは天主様の祝福がないという事で、もうこの事業は終わりだという事です。
天主様が望んだ全ての偉大な事業は、十字架と、苦しみの、混乱の中において立てられました、祝福を受けました。もしも十字架が重く感じられる時には、そのような十字架は非常に貴重なものだ、という理由を思い出して担いで下さい。
第1は、イエズス様に似通った者にする。
第2は、この十字架は、皆さんを天主聖父に相応しい子供とする。特に、三位一体によって特別に愛されるだろう。なぜかというと、愛する父は、愛する子供にお仕置きを与えるから、そして浄めるから。
第3の理由は、十字架は貴重である、なぜならば、十字架は人々の心を照らすから。本には書かれていない照らしを、十字架は与えるから。十字架の光の下に私たちは、真理と誤謬を明確に区別する光が与えられるから。
第4の理由は、十字架というのは、愛の源であって、愛の糧であって、愛の証拠であるから。なぜならば十字架は、天主の愛を私たちの心の中に燃やすから。十字架を担ぐ事によって、私たちの愛がますます増えるから。木は火を起こす燃料であると同時に、十字架の木は愛の火を起こす燃料だから。十字架は、天主を愛している、という証拠だから。
イエズス様に、「愛している」と言う事はとても簡単です。もしも皆さん簡単に歌を歌う事が上手い人でしたら、愛していると歌を歌うのはもっと簡単だ。イエズス様の為に何か働く、というのはちょっと大変だ。でもイエズス様の為に苦しむ、というのこそ、愛の証拠である。もしも夫婦が、その相手の為に苦しみを捧げているのであれば、この愛は確かであるという証拠です。
第5の理由は、十字架は、喜びと、平和と、御恵みの源であるから。もしも十字架を担うなら、天主様は私たちを慰めて下さる。私たちがもしも十字架を担うならば、イエズス様の為に何かする事ができた、という喜びが起こります。十字架を喜んで担ぐ時には、これ以上悪い事をこの世は与える事ができないので、私たちの心には平和があります、イエズス様と一緒にいる平和です。
第6の理由は、十字架は、私たちがもうそれを期待する事をはるかに超える、大きな栄光を準備するから。
ですから、この十字架というものをますます正しく理解して、これを貴重に思わなければなりません。
この世は、年を取った方々に「もう用がないから」とは言うかもしれませんけれども、イエズス様は、「今こそ、最も実りのある最高の時である」と教えます。
グリニョン・ド・モンフォールは十字架についての考察の時に、こういう美しい言葉で終わります。
「イエズス・キリストの友よ、この苦い杯を飲み干せ。そうすれば、友情はますます増えるだろう。今、イエズス・キリストと共に苦しめ。すると、後にイエズス・キリストと共に栄光を味わうだろう。今、忍耐強く苦しめ。この地上の一瞬の苦しみは、永遠の終わりない喜びに変わるだろう。」
では、終課を唱えましょう。
同時通訳:小野田圭志神父
イエズス様に対する深い知識と、イエズス様との一致が、私たちの霊的生活の究極の目的です。
この地上での生活には、素晴らしいロジックが、論理があります。まず私たち自身の新しい認識から始まります。そして私たちは簡単に、安全に行く道を辿るように招かれています。それがマリア様です。マリア様を通して、究極のゴールであるイエズス様へと辿り着きます。
私たちの霊的な道行きの最後はイエズス様との一致ですけれども、これは聖徳を獲得するという事です。「私が生きるのではなく、キリストが私によって生きている。」 聖パウロはまた他の所で、「私にとりて生きるとは、キリストなり」と。また別のところでは、「願わくは、キリストが信仰によってあなたの心に生きていますように、ありますように。」
そして知性においては、イエズス様の知識が、表面的ではなく、完璧なイエズス様への知識が。意志については、イエズス様の御旨を果たそうという意志が。そして心にはイエズス様を愛するという愛が、他のものよりもイエズス様を選ぶという愛がなければなりません。
イエズス様は御自身を、私たちの目の前に提示します。一致する前には、自分自身が誰であるかを見せなければなりません。これが喜びの玄義の本質です。
イエズス様が天から地に来られて、自分を私たちの間に置いて、身を置いて、私たちと共に住んで、御自分を示したという事です。イエズス様のその美しさ、その優しさ、その柔和さ、その態度に、私たちは最も魅惑されました。
イエズス様がいらっしゃるという事だけではなく、イエズス様がなさった事は、もっと素晴らしい事でした。イエズス様のなさった事を見ると、私たちの心に愛の火が点きます。これは苦しみの玄義です。苦しみの玄義を黙想する事は、愛の学校です。私を愛する為にこんなに小さくなって、そんなにも苦しんだイエズス様を、全能の天主を、私たちはどうして愛さずにいる事ができるでしょうか。
ですから愛のしるし、勝利のしるし、そしてキリスト教のしるしはこれです。つまり「十字架」です。聖グリニョン・ド・モンフォールは、「終末の使徒たちは、右の手には十字架像を握っている」と書いています。旧約聖書の言葉を引用して、聖グリニョン・ド・モンフォールは、「十字架の受難は、十字架というのは、王の秘密だ」と言います。
『永遠の知恵への愛』の本を引用します、「天主は天から地に降りてきた。それは、悪魔を追い払い、悪魔を鎖で縛る為だ。そして地獄の門を閉じる為である。そして、天国の門を人間の為に開く為である。そして天主聖父に、永遠の光栄を帰する為。」
どうやってこれをするでしょうか、天から地に来られた全能の天主が。全能の天主ですから、一言仰るだけで、この事は達成されるはずです。これを望みさえすれば、その事が完成されるはずです。でもイエズス様は、御稜威の力強い王としてこの地上には来られませんでした。
グリニョン・ド・モンフォールは本当にこれで驚きつつ、それを進めます、「天主の聖子は、私たちと同じものになろうと望んだ。私たちの友となろうと望んだ。私たちが天国に行く為に、天から降りて来られた。私たちは主が、栄光の内に来られるという事を期待する事もできた。大群の天使たちと一緒に付き添って来られるという事も期待できた。その天軍の大群と共に、復活されたようなこの光栄ある力を持って来られる事も考えられた。そしてこの力ある天主が、自分の力を使って、自分の敵、悪魔たちを一払いにして勝ち誇る事もできた。」
「でも、イエズス様はそうはなさらなかった。イエズス様が天から地に来られた時には、ほんの小さな者となって、小さな村の馬小屋の中でお生まれになって、小さな子供として、名前もないような子供として生まれてきた。全能の天主が、貧しい子供となった。謙遜なやり方で、福音を宣べ伝えた。」
この小さな、弱々しい、この謙遜なやり方で、どうやって地獄を閉じるのですか?指をちょっとだけ動かすだけで、地獄は閉じる事はできるはずです。でもイエズス様は、「ユダヤ人にとっては躓き」「ギリシャ人にとっては愚かさ」を使うのです。イエズス様は、軽蔑すべき、卑しい木を使うのです。極悪の非道の犯罪人を罰する為に使われる木を選ぶのです。
十字架による死刑というのは、最も最低の死刑のやり方でした。その十字架の木に、イエズス様は眼差しを注ぐのでした。それに喜びを覚えました。天のあらゆる栄光よりも、この十字架の木を大切に思うようになりました。この卑しい木こそ、征服の武器となる。この卑しい木こそ、自分の帝国の喜びとなる。そしてイエズス様の心の配偶者の喜びとなる。
イエズス様は、「私の時はまだやって来ない」「私の時はまだだ」とよく仰っていますけれども、それは十字架の時でした。公生活をする時に、よくこの「時」、「私の時」について話ました。御変容の時に、栄光の姿で預言者に一体何の話をしたでしょうか?それは受難の話でした。
「私の時はやって来た。」イエズス様は御自分を十字架に結び付けます。十字架に抱かれて、あたかも友人に抱かれるかのように抱かれて、亡くなります。
イエズス様が御復活されて、天国に栄光ある凱旋をする時に、十字架は捨て去られるでしょうか?いえ、十字架はイエズス様と共に一緒に行きます。掟があります、法があります。それは、「十字架には必ずイエズス様が付いている」という事です。これで、最悪のものが、最善のものになりました。最も軽蔑すべきものが、最も貴重なものになりました。最も邪悪なシンボルだったものが、愛のシンボルになりました。そして「この十字架こそ、全人類によって礼拝されなければならない」と命じます。
最後の審判の時に、聖人の聖遺物は残らないでしょう。なぜかというと、その聖遺物は全て復活の時に、その持ち主である聖人に戻されるからです。これが肉体の復活です。でも例外が1つあります。それは聖十字架の聖遺物です。イエズス様は、ケルビムとセラフィムの最も最高の天使たちに向かって、「全世界に散らばっている木の破片を、聖なる十字架の本当の破片を集めるように」命ずる事でしょう。
世の終わりには、人の子のしるしが、光をもって空に天に現れるでしょう。それはイエズス様がまさにその上で亡くなった、正確な正にその十字架が現れる事でしょう。この十字架は、天使たちによって凱旋されるでしょう。この十字架によって、全ての人が裁かれるでしょう。十字架の友にとっては、この十字架というのは何という大きな喜びでしょうか。十字架の敵、十字架を受けようとしなかった者たちにとっては、どれほどその失望は深い事でしょうか。
そして最後の審判に至るその間の、その最後の審判を待っている間の時代には、十字架のしるしは、信じる者の武器となるからです。
「十字架のしるしを以てのみ、子供は洗礼を授けられる。1日は十字架のしるしを以て始まり、十字架のしるしを以て終わるべきである。十字架のしるし無しに秘跡は与えられない。もしもこの十字架を皆に見せる事を恥ずかしがるような者は、弟子であるとは言われない。」
「このプログラムは、誰かがこのイエズス様に従うプログラムは、これである、『もしも誰か私の後を従うならば、自分を捨て、自分の十字架を日々取って従え。』」
313年、コンスタンティノ皇帝に天に現れたしるしは、「このしるしによってお前は勝て。」
十字架というのは深い神秘です。この十字架の秘密は、イエズス様の親友の為だけに明かされます。イエズス様と十字架とは全く一致しているので、この現代世界においては、十字架は嫌われ、躓きの元となっています。ユダヤ人やイスラムや、あるいは異教の人々にとって憎まれ、そして馬鹿にされているのみならず、カトリック信者によっても、しかも熱心な人々によっても、十字架は軽蔑されています。
今から、究極の質問があります。
「あなたは、本当にイエズス様と一致したいですか?」
「イエズス様が十字架と共に来られる時に、皆さんはイエズス様の十字架の友ですか?あるいは十字架の敵ですか?」
「神父様、これを見て下さい、十字架が掛かっています。神父様、家には十字架が、美しい十字架が掛かっています。教会に来た時はいつも十字架に接吻をします、千回!あぁ、イエズス様の御受難についての本を読む事が大好きです。」
でも、それでもまだ十字架の友となるには足りません。十字架というのは、接吻をしたり、あるいは飾ったりするのでは足りません。十字架は担がなければなりません。十字架というのは貴重なものだ、という事を理解しなければなりません。
では、この「十字架」という名前の後ろには何があるのでしょうか?
十字架というのは、私たちの日々の戦いです。十字架というのは、ハリウッドの映画ではありません。十字架というのは、私たちの直面する辱め、頭と足までの、そしてお腹と背中に至る肉体的な痛み。「十字架を愛する、十字架を担う」と言いながらも、ちょっとした十字架があるとすぐに不平不満を言ったりすると、どこに十字架への愛があるでしょうか。「十字架を愛して、十字架を受け入れる」と言いながら、小野田神父様が「また下らない事を、またおかしな事をやって」といってちょっと嫌味を言われると、「もう小野田神父の所には行かない!ミサに与らない!」と言うではないですか。難しい状況、あるいは困難な状況に、これを捧げる事、これが十字架です。疑い、孤独、皆から捨てられてしまったような感覚、失望、現代は人から騙されたりします。十字架を愛するとは、これを担ぐ、これを耐え忍ぶ事です。
この「十字架を担う」というのは、嫌々ながら「え〜、」と言って担ぐのではないのです。よくその十字架をブツブツ文句を言いながら、恨み言を言いながら担ぐのでもありません。この十字架を与えた人に対して特に、こうブツブツ言いながら文句を言いながら担ぐのではありません。十字架というのは自然の本性に反しているので、誰もが反感を買ったり、もう重いと感じるのは当然です。もしもそれが、十字架が苦しいと思わなければ、ちょっと精神病院に行かなければなりません。イエズス様が十字架を担った時には、非常に重く、非常に苦しいものでした。もう涙も流された事でしょう。しかし反抗や反乱はありませんでした。怒りや悪意もありませんでした。愛を込めてそれを受け入れました。
この十字架は貴重なものです。6つの理由があります。
まず第1の理由は、もしもそのような十字架があって、それを愛を込めて担ぐと、イエズス様に似た者になります。もしも誰かが担ぐべき十字架が無いとしたら、これは何かどこかおかしいという事です。何か良い事をしたい、例えば御聖堂を建てるとか、あるいは修道院を創立するとか、あるいは召命を遂行するとか、あるいはカトリックの家族を作るとか、そのような時に、もしも全てが順調にいって、何の波風も無く、何の問題も無いとしたら、何かがおかしいという事で、これは天主様の祝福がないという事で、もうこの事業は終わりだという事です。
天主様が望んだ全ての偉大な事業は、十字架と、苦しみの、混乱の中において立てられました、祝福を受けました。もしも十字架が重く感じられる時には、そのような十字架は非常に貴重なものだ、という理由を思い出して担いで下さい。
第1は、イエズス様に似通った者にする。
第2は、この十字架は、皆さんを天主聖父に相応しい子供とする。特に、三位一体によって特別に愛されるだろう。なぜかというと、愛する父は、愛する子供にお仕置きを与えるから、そして浄めるから。
第3の理由は、十字架は貴重である、なぜならば、十字架は人々の心を照らすから。本には書かれていない照らしを、十字架は与えるから。十字架の光の下に私たちは、真理と誤謬を明確に区別する光が与えられるから。
第4の理由は、十字架というのは、愛の源であって、愛の糧であって、愛の証拠であるから。なぜならば十字架は、天主の愛を私たちの心の中に燃やすから。十字架を担ぐ事によって、私たちの愛がますます増えるから。木は火を起こす燃料であると同時に、十字架の木は愛の火を起こす燃料だから。十字架は、天主を愛している、という証拠だから。
イエズス様に、「愛している」と言う事はとても簡単です。もしも皆さん簡単に歌を歌う事が上手い人でしたら、愛していると歌を歌うのはもっと簡単だ。イエズス様の為に何か働く、というのはちょっと大変だ。でもイエズス様の為に苦しむ、というのこそ、愛の証拠である。もしも夫婦が、その相手の為に苦しみを捧げているのであれば、この愛は確かであるという証拠です。
第5の理由は、十字架は、喜びと、平和と、御恵みの源であるから。もしも十字架を担うなら、天主様は私たちを慰めて下さる。私たちがもしも十字架を担うならば、イエズス様の為に何かする事ができた、という喜びが起こります。十字架を喜んで担ぐ時には、これ以上悪い事をこの世は与える事ができないので、私たちの心には平和があります、イエズス様と一緒にいる平和です。
第6の理由は、十字架は、私たちがもうそれを期待する事をはるかに超える、大きな栄光を準備するから。
ですから、この十字架というものをますます正しく理解して、これを貴重に思わなければなりません。
この世は、年を取った方々に「もう用がないから」とは言うかもしれませんけれども、イエズス様は、「今こそ、最も実りのある最高の時である」と教えます。
グリニョン・ド・モンフォールは十字架についての考察の時に、こういう美しい言葉で終わります。
「イエズス・キリストの友よ、この苦い杯を飲み干せ。そうすれば、友情はますます増えるだろう。今、イエズス・キリストと共に苦しめ。すると、後にイエズス・キリストと共に栄光を味わうだろう。今、忍耐強く苦しめ。この地上の一瞬の苦しみは、永遠の終わりない喜びに変わるだろう。」
では、終課を唱えましょう。