Quantcast
Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
Viewing all articles
Browse latest Browse all 4247

マルセル・ルフェーブル大司教が1976年6月29日にした歴史的な説教:聖伝を維持しながらこそ、ペトロの後継者(教皇)に対する私たちの愛と素直さと従順を表すことができる

$
0
0
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 マルセル・ルフェーブル大司教が1976年6月29日にエコンの神学校でなさった歴史的な説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)






Photo credit

ルフェーブル大司教の説教 1976年6月29日

 愛する兄弟の皆さん、あらゆる国々、四方の彼方から来て下さった兄弟たちよ、私たちは、今、私たちの聖ピオ十世会にとって、又、教会にとって、非常に重要なこのときに、兄弟たちを歓迎することが出来て、又、兄弟たちをこれほど身近に感じることができ、大きな喜びを感じています。

 私は思います。巡礼者の皆さんが非常に遠く離れたところから、この儀式に参加するために、夜昼と無く旅をする犠牲を払ったのは、皆さんに、信念があったからであると。それは、教会の儀式に参加するために、心を喜ばせる儀式に参与するために来た、と言う信念です。なぜなら、皆さんが帰路につくときには、カトリック教会は続いていると安心するであろうからです。

 はい、私はよく知っています。このことをするに困難はたくさんあることを。こんなことをするのはむちゃだと私は言われました。私たちは行き止まりの道を歩んでいるとも、言われました。なぜなら、3ヶ月前から、3月19日の聖ヨゼフの祝日から特に、ローマから懇願や要請、命令、威嚇などがありました。それは、私たちの活動を止めるように、この司祭叙階式を中止するようにとのことでした。これらの要請は、ここ数日、緊迫したものでした。特にここ12日間というもの私たちは絶え間なくローマからのメッセージや使者を受けました。この叙階式を敢えてしないようにと、言われました。

 しかし、全く客観的になって、私たちにこの司祭叙階式をするなと求める人たちを動かす本当の動機は何なのかと言うことを探してみると、その深い動機を探ってみると、それは私たちがこの司祭たちを叙階するのは、彼らが永遠のミサを捧げるためであるから、と言うことがわかります。

 彼らは知っています。これらの新しい司祭たちが教会のミサに、聖伝のミサに、永遠のミサに忠実であることを。だからこそ私たちに叙階するな、と圧力をかけるのです。私にはその証拠があります。6回、ここ3週間というもの6回にわたって私たちは、ローマと通常の関係を結ぶようにと求められました。そして、その証拠として新しい典礼様式を受け入れ、私自身これを捧げるようにと言われました。私が新しい典礼様式で共に共同司式をして、私が喜んでこの新しい典礼を受け入れたと言うことを示せ、そして、それさえすれば、ローマと私たちの関係は平らになると言われました。

 私は、手に新しいミサ典書を手渡され、「ほら、これが、あなたがしなければならないミサです。そして、あなたの全ての修道院で、捧げなければならない新しいミサです。」と言われました。また、今日この6月29日、皆の前で、私たちが新しい典礼様式でミサを捧げれば、ローマと私たちの関係は、何もなかったかのようになる、とも言われました。

 ですから、ミサの問題でエコンとローマとの間のドラマが展開されていることは、明らかではっきりとしています。

 永遠の典礼様式を守ろうと望む私たちは誤っているのでしょうか。確かに、私たちは祈り、相談し、考察し、黙想し、私たちこそが誤りのなかにいるのではないか、あるいは、新しい典礼様式を受け入れない私たちには十分な理由がないのではないかと言うことを知ろうとしました。ところが、まさにそのローマからの使者たちが私たちに典礼様式を変えるようにと要求するその要求の仕方が、私たちをして考えさせました。

 そして、私たちには確信があります。まさに、この新しいミサの典礼様式が新しい信仰を表明していると言うことを。この新しい信仰は私たちの信仰ではないこと、カトリック信仰ではないことを。この新しいミサは、新しい信仰の、近代主義者の信仰のシンボル、表現、イメージです。なぜなら、聖なる公教会が長い歴史のなかで、私たちに下さったこの貴重な宝、すなわち、聖ピオ五世によって聖別されたミサ聖祭の典礼様式を守ろうと望んだのは、きわめて重大な意味があったからです。

 何故かというと、このミサのなかに私たちの信仰が全て含まれているからです。全てのカトリック信仰が、すなわち、聖三位一体への信仰、イエズス・キリストのご神性にたいする信仰、私たちの主イエズス・キリストの贖いへの信仰、私たちの罪の赦しのために流された私たちの主の贖いの御血にたいする信仰、ミサ聖祭、十字架、全ての秘跡から来る超自然の聖寵への信仰が、すべてあるのです。これら全てを私たちは信じています。そして、これが永遠のミサ聖祭を捧げながら信じていることなのです。

 ミサは私たちに信仰を教えるものであり、信仰の源です。ありとあらゆる方面から私たちの信仰が攻撃にあっている現代において、私たちにとって必要不可欠のものです。私たちには、この本当のミサが、この永遠のミサが、私たちの主イエズス・キリストのいけにえが必要なのです。それは、私たちの霊魂を聖霊と私たちの主のおん力によって満たすためです。

 ところで、次のことは明らかです。新しい典礼様式は、知っているか知らないかに関わらず、カトリックの宗教とは別の概念を、ある別の宗教を前提としています。つまり、ミサ聖祭を捧げるのは、もはや司祭ではありません。それは会衆です。このことのために、全てはプログラムされています。金輪際、教会の権威に取って代わるのは、会衆です。司教たちの個人的な権力に取って代わるのは、司教団です。教区のなかの司教の権力に取って代わるのは、司祭たちが集ってつくる司祭諮問会です。今後、教会を動かすのは、数です。そして、そのことはミサのなかで明らかに表明されています。ミサでは、会衆が司祭の代わりになっているからです。それは、今では多くの司祭が会衆のない時にはもはやミサを捧げようともしないと言うところまでいっています。

 徐々に、聖なる教会のなかに、ミサに関するプロテスタントの考え方が導入されています。そして、このことは現代人の考え方に、近代主義者の考え方にぴったりなのです。全く一致しています。なぜなら、民主主義の理想が、現代人の考え方だからです。つまり、権力は会衆のうちに、権威は人間、民衆のうちにあり、天主にではない、と言うことです。

 これは非常にゆゆしきことです。なぜなら、私たちは、天主は全能で、天主に全ての権威があり、全ての権威が天主から来ること Omnis potestas a Deoを信じているからです。私たちは、権威が人民から、底辺から由来するとは信じません。しかし、これが現代人の考え方なのです。そして、新しいミサは、この考え方を、底辺に権威があり、天主にではないと言うことをはっきりと表明しているのです。このミサは位階制度的なものではなく、民主的です。これは、非常に重大なことです。新しいミサは、新しいイデオロギーのまったき表明なのです。私たちのもっとも神聖な典礼様式によって、私たちをして現代人のイデオロギーのなかに入らせようとしているのです。

 そして、これが現在、教会を全て腐敗させてしまっています。なぜなら、ミサ聖祭において底辺に権力を認めるというこの考えによって、司祭職を崩壊しています。司祭職を崩壊するのです。司祭は何をするのでしょうか。司祭に叙階の秘跡の時に授与される個人的な権力、そしてこの権能を彼らこの将来の司祭らはしばらくすると受け、天主の民の上に立つべく刻印を霊魂に受けるのです。叙階の後、彼らはもはや、自分たちは他の人々と同じだと言うことが出来なくなります。そんなことは出来ません。彼らは、もはや他の人々は全く違う人になるのです。彼らは、天主の人になるのです。彼らは、敢えて言えば、司祭の刻印によって、イエズス・キリストの天主性に参与する人となるのです。なぜなら、イエズス・キリストは、永遠の司祭、メルキセデクの位による大司祭であり、イエズス・キリストは、すなわり天主の本性がお受けになった人間の本性と一致し、いとも聖なる童貞女マリアのご胎内で、人性を受けたその瞬間、イエズスは司祭となったのです。

 これらの若い司祭たちがが参与する聖寵は、成聖の聖寵ではありません。洗礼の聖寵によって、私たちをしてイエズス・キリストに参与させるその成聖の聖寵ではありません。司祭の聖寵は、一致の聖寵です。この一致の聖寵は、イエズス・キリストだけの独自のものです。彼らは、この一致の聖寵に参与するのです。なぜなら、天主の神性、御言葉の天主性に一致することによって、イエズス・キリストは司祭となり、イエズス・キリストは王となり、イエズス・キリストは審判官となったのですから。

 これゆえに、この地上でいかなる被造物も受けたことのない崇高な聖寵である一致の聖寵のために、イエズス・キリストは、全ての人々によって礼拝されなければならないのです。ちょうど聖なる油を受ける者が聖別されるように、この天主性の聖寵自体が、イエズス・キリストの人性の中に油を注がれる如く、天から降り、イエズス・キリストの人性は天主の御言葉の天主性によって浸透され、イエズス・キリストは司祭となった、すなわち、天と人との間に立つ仲介者となったのです。そして、まさしくこの聖寵にこの若い司祭たちは参与するのです。そしてこの聖寵のために、彼らは天主の民の上に立つのです。彼らも天主と天主の民との間に立つ仲介者となるのです。

 彼らは天主の民の単なる代表ではありません。彼らは、天主の民が委任した代理人でもありません。彼らは集会の座長ではありません。彼らは永遠に司祭なのです。永遠に司祭の刻印を押された司祭なのです。彼らを敬わないと言う権利は誰にもありません。たとえ彼ら自身がこの刻印を敬っていなかったとしてもです。彼らは常にこれを持ち続けるからです。これこそが私たちの信じていることです。これが私たちの信仰です。これが、私たちのミサ聖祭を構成するものです。ミサを捧げるのは司祭です。そして信者はこの捧げものに心から霊魂を込めて参与します。ミサを捧げるのは信者ではありません。その証拠に、司祭はたった一人でもミサ聖祭を捧げ、数千人が参与すると同じように同じ価値でミサを捧げるのです。そのミサには無限の価値があります。司祭によって捧げられたイエズス・キリストの犠牲は、無限の価値があるからです。これが私たちの信じていることです。

 だからこそ、私たちは考えます。私たちにはこの新しい典礼様式を受け入れることが出来ないと。この新しい典礼は、別のイデオロギーの作品だからです。別のイデオロギー、新しいイデオロギーの作品です。この世の考え方を身につけたら、皆を引きつけることが出来ると思ったのです。信じない人々の考え、現代人の考えを身につけたら、教会に人を、信じない人を、引きつけることが出来ると思ったのです。現代人の考えとは、リベラルで、複数の宗教を受け入れ、そして、イエズス・キリストの社会的王国を受け入れない考えです。このことは私自身が、聖座から送られた使者の口から2回も聞きました。彼らは私に「イエズス・キリストの社会的王国は現在不可能だ、今後は、絶対的に複数の宗教を受け入れなければならない」と言いました。これが彼らの言ったことです。

 教皇ピオ11世によってイエズス・キリストの社会王国についてこれほど美しく書かれた回勅、「回勅Quas Primasを、今日では、教皇様は書かないだろう」と聖座の公式の使者が私に言いました。

 私たちはこの宗教を受け入れません。私たちはこの新しい宗教を受け入れません。私たちは永遠の宗教を信じるものです。私たちの宗教は、カトリックの宗教です。私たちの宗教は、現在人々の言うところの「普遍宗教」ではありません。こんなのはカトリック宗教ではありません。私たちの宗教は、このリベラルな近代主義の宗教ではありません。この新しい宗教には、それの礼拝様式、それの司祭、それの信仰、その公教要理、その聖書、エキュメニカルな聖書があります。私たちは、エキュメニカル聖書を受け入れません。エキュメニカル聖書などというものはありません。天主の聖書だけがあります。聖霊の息吹によって書かれた聖霊の聖書、天主の言葉だけがあります。私たちには天主の言葉を人の言葉と混ぜ合わせる権利などありません。エキュメニカル聖書などというものはありえません。唯一の聖霊の言葉だけです。私たちは私たちの信仰宣言をもはや公言しない公教要理を受け入れません。などなど。私たちはこれらのことを受け入れることが出来ないのです。私たちの信仰と矛盾するからです。

 私たちは本当に非常に残念です。量り知ることの出来ないほど大きな悲しみです。私たちにとって大きな悲しみです。私たちの信仰のゆえに、私たちがローマと問題があるなどと考えただけでも、悲しみです。どうしてこんな事が可能なのでしょうか。これは、私たちの想像を遙かに超えたことです。私たちはに考えることもできません。私たちはそんなことがあるなどと信ずることもできませんでした。特に私たちの子供のころ、全ては画一的で、全ての教会で一致を信じ、同じことを信じ、同じ秘跡を行い、同じミサ聖祭を捧げていました。どこでも同じ公教要理を教えていました。そして、突然、分裂のなかにあります。引きちぎられる思いです。

 ローマから来た人たちに私は申しました。教会の中で、教えられ実践されている新しい宗教によるこの分裂によって、キリスト信者は家庭の中で引きちぎられ、子供たちは分断され、心は引き裂かれている、と。司祭たちは心と霊魂のうちに大きな苦痛を感じて若死にしています。彼らは何をしてよいかわからないのです。彼らは誰に従順に従ったらよいのかわからないのです。そして、従順に従うことによって子供のころからの信仰を失い、また、叙階の時に反近代主義宣誓をした約束を反故にするか、あるいは、私たちの聖父でおられ、聖ペトロを代表する教皇様と離れてしまっているような印象を受けるか、どうしたらよいのかと。なんと司祭の心は引き裂かれていることでしょうか。多くの司祭は若くして苦しみのあまり死に至っています。司祭たちは今ではその教会から追放され、迫害を受けています。なぜなら彼らが永遠のミサを捧げているからです。

 私たちは今、本当に劇的な状況にいます。私たちは、選ばなければなりません。敢えて言えば見かけ上の不従順か、あるいは私たちの信仰を捨てるかのどちらかです。ところで、教皇様は私たちに信仰を捨てるようにと命じることは出来ません。それは不可能です。ですから私たちは、信仰を捨てないことを選びます。なぜなら、そうすることによって私たちは間違うことがないからです。なぜなら、教会が2000年間教えてきたのです。教会がその間ずっと誤っていたと言うことはありえません。全くありえません。

 だから、私たちはこの聖伝にしがみつくのです。聖伝は、素晴らしく、決定的に、そうです、教皇聖ピオ五世がうまく言ったように決定的に、ミサ聖祭において表明されているからです。

 もしかしたら、明日、新聞紙上に、私たちを排斥する記事が載ることでしょう。全くあり得る話です。それは今日のこの叙階式のためです。私自身、多分に聖職停止の罰を受けることでしょう。これらの若い司祭たちは、「不規則」の罰を受け、原則的にはミサ聖祭を捧げることが出来ないとされることでしょう。あり得ることです。

 それなら、私は聖ピオ五世に訴えます。聖ピオ五世はその勅書のなかで、永久にいかなる司祭もこのミサを捧げるためにいかなる教会法上の罰を受けることが出来ない、と言っているからです。従って、これらの罰則と破門など、もしそのような話が出たとしても、全く無効です。それらの罰則は、聖ピオ五世がその勅書の中で永久に有効なこととして荘厳に宣言したことと反対だからです。

 この聖なるミサを捧げた、と言うことによりいかなる司祭にも、いかなる場合でも、いつでも、いかなる刑罰も課すことが出来ない、決して出来ない、との言葉に。何故でしょうか?なぜなら、このミサは列聖されたからです。聖ピオ五世は、このミサを決定的に列聖したのです。ところで、教皇様といえども、以前列聖されたものを、聖でないと言うことは出来ません。教皇様は新しい典礼様式を造ることは出来ます、しかし、列聖されたものからその列聖を取り消すことは出来ません。教皇様は、列聖されたミサを禁止することは出来ません。ですから、ある人が列聖された場合、別の教皇様がでてきてこの聖人は聖人ではないと言うことは出来ないのと同様です。そのようなことはありえません。

 この聖なるミサは、聖ピオ五世によって列聖されました。ですから、私たちは全く平安に、安全に、このミサを捧げることが出来るのです。そして、このミサを捧げることによって、私たちの信仰を宣言し、それを維持し、又、信者たちの信仰を維持させることが出来るのだと、私たちは確信しています。これこそが、信仰維持のための最良の方法です。

 だからこそ、私たちは今しばらく後に、この叙階を執行するのです。勿論、私たちは出来ることなら、昔のように、聖座から祝福をいただけることを期待していました。昔は、新しく叙階を受ける司祭たちのためにローマからの祝福がありました。私たちは、よき天主様がいらっしゃり、全てをご覧になり、私たちのするこの叙階式を祝福されておられ、将来、確かにお望みになっておられるその実りを得ること、そして、私たちを維持し、教会を維持されることを考えます。

 特に聖母マリア様に、又、今日の聖ペトロとパウロにお願いいたしましょう。

 司祭職の母である聖母マリア様に祈りましょう。これらの若き司祭たちに、真の司祭職の聖寵をお与え下さいますように。聖霊降臨の日にご自分の取り次ぎによって使徒たちに聖霊を与えたように、彼らに聖霊を下さるように。

 聖ペトロのパウロに、私たちにおいて聖ペトロにたいする信仰を維持するように、求めましょう。おお、そうです。私たちには、ペトロにたいする信仰があります。ペトロの後継者に対する信仰が。しかし、教皇ピオ9世が教義憲章の中で、よく言ったように、教皇が聖霊を受けたのは新しい真理を作り出すためではなく、永遠の信仰において私たちを維持するためである、と。これが、第1バチカン公会議の時に教皇ピオ9世によってなされた、教皇様の定義です。

 だからこそ私たちは確信しているのです。この聖伝を維持しながら、私たちは、ペトロの後継者に対する私たちの愛と素直さと従順を表すのであると。

 聖父の聖子と聖霊との聖名によりて、アーメン。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 4247

Trending Articles