2016年8月14日 聖母黙想会 シュテーリン神父様講話【15】
同時通訳:小野田圭志神父
聖母への奉献、自己奉献の祈りは、契約であって、決意であって、意志の働きです。でもこの奉献の祈りは、ただ最初の一歩にしか過ぎません。契約を結ぶのと同じです。契約を作っただけで、それでそれを実践しなければ、全く意味をなしません。
婚姻の秘跡も契約です。しかし、婚姻の秘跡を結んで祝福を受けた日は、ただ始まりに過ぎません。婚姻はそこから始まります。もう取り消す事がない約束は、二人の霊魂を一つに結びますが、ご結婚をなさった方はよくご存知だと思いますけれども、その結婚生活とは、長い戦争が始まる事です。
司祭に叙階された日も、その叙階式はとても美しい日でした。そして荘厳な約束をしました。そしてその叙階された時以後、私たちはその約束を実現しようと、更に進まなければなりません。
この荘厳な、マリア様を通したイエズス様への奉献は、荘厳な始まりです。荘厳な約束です。私たちの生活を規定する新しい掟です。毎日この奉献を生きなければなりません。グリニョン・ド・モンフォールは具体的に、どうやったらこの奉献を実践する、実行する事ができるかを示しています。これはモンフォール式の実践、モンフォール様式と言われています。257番から265番までに書かれています。これを次の講話の時までにお読み下さい。
モンフォール様式によれば、「マリアによって、マリアと共に、マリアの内に、マリアの為にする」という事に要約されます。もしもこれができれば、私たちはもっと完璧に、「イエズス様を通して、イエズス様と共に、イエズス様の内に、イエズス様の為にする」事ができるようになります。
カギ括弧をちょっと開けると、「マリア様への奉献」と「ミサ聖祭」とを密接に関連付けるというのはとても、グリニョン・ド・モンフォールのやっている特別なやり方です。例えば奉献の祈りは、ミサの4つの目的と一致しています。ミサの典文の終わりに、「彼と共に、彼において、彼の内に」という“PER IPSUM, ET CUM IPSO, ET IN IPSO”というこの言い方で、このホスチアの上で十字架を切る司祭の仕草がありますけれども、ちょうどその言葉とこのモンフォールの様式、「マリア様を通して、マリア様と共に」というのは、似通っています。「キリストを通して、キリストと共に、キリストの内に」というこのカノンの最後の言葉を、私たちは深く黙想しなければなりません。
このミサの典文のこの最後の言葉のエコーであるかのように、こだまして、「マリア様を通して、マリア様と共に、マリア様の内に、マリア様の為に」というグリニョン・ド・モンフォールの言い方になっています。
私たちは、マリア様を通して、マリア様と共に、マリア様の内に、マリア様の為に、全てをします。するとマリア様は、私たちをしてイエズス様の方に移させます。イエズス様は、イエズス様を通して、イエズス様と共に、イエズス様において、全ての栄光と讃美は、聖父に捧げられます。
マリア様への奉献を通して、イエズス様によって、イエズス様と共に、三位一体への最高の讃美と栄光を帰する。これが私たちの人生の究極の目的です。
では、「全てを、マリア様を通してする」という事は何であるかを見てみましょう。258番です。「マリア様を通して、マリア様によって」という、これは何を意味するのでしょうか?
これは、「マリア様に従わなければならない、従順でなければならない」という事です。私たちの愚かな精神を、マリア様の精神と交換する必要があります。マリア様の精神、マリア様の霊とは何でしょうか?それは「聖霊」の事です。
マリア様に従わなければなりません。コルベ神父様の全生涯を特徴づけるものは、この「従順」です。この従順という事を文字通り実践したので、コルベ神父様は偉大な聖人となりました。
このグリニョン・ド・モンフォールは、マリア様と聖霊との深い関係について数語でまとめています。では、これは私たちにとってはどのような意味があるでしょうか?259番です。
3つの事をして下さい。もしもその3つの事がなければ、「マリア様を通してする」という事ではないからです。
それは、「何をするにも、自分の考えや自分の見方を捨てる」という事です。
例を、グリニョン・ド・モンフォールが挙げる例が非常に面白いです。私たちの日々の生活を計画する時には、マリア様の考えに従って下さい。例えば、買い物に行く時には、マリア様がお望みの物を、マリア様がお望みの所に行って、買い物をするようにします。人と何かおしゃべりをする時には、私たちの判断や、私たちの考えや、私たちの噂話を捨てて下さい。でもグリニョン・ド・モンフォールはこういう事を話しません。それよりももっと高い、私たちの宗教生活について語ります。
例えば、黙想をする時。ミサを捧げるとかミサに与る時。あるいは聖体拝領をする時。私たち自身の考えや、私たち自身の見方や、自分自身の黙想をしては、これは良い黙想とは言えません。もしも私自身の考え、私自身の望み、私自身のやり方で御聖体拝領をすると、大体は雑念で終わってしまいます。私自身の考え、望み、行為は、たとえ私たち自身には良いものに見えたとしても、実際はその中には暗闇があって、悪意も潜んでいるので、マリア様の聖なる霊にとっては障害となってしまいます。
私の考え、私のインスピレーションとか、私の望み、願いとかを見て下さい。私たちのそういう願いをよく分析してみると、最初はこの本能的な自分の望みを満足させるとか、自分の利己利益を達成するとか、という事に動かされています。
例を挙げます。1日はどうやって始まるでしょうか?起きる事から始まります。起きます。どうやって目を覚ましますか?普通は目覚まし時計が鳴ります。寝るのですけれども、あまりよく寝付けなくて、よく寝れなかった、「あぁ、疲れてるな」と、そこでベルルルルル!とベルが鳴ります。
皆さんの最初の反応は何でしょうか?「まだ時間があるし、もうちょっと寝よう…」世界中の携帯電話の中で、目覚まし時計には必ずスヌーズ機能が付いています。そして私たちの自然本性はこうあまりにも、このベッドの暖かい中にもうちょっと居ようという、そこでこの眠り続ける、それがあります。これを放棄して下さい。この自然の、自動的にやってくるこの傾向を放棄すると、そうすると友人の皆さん、私たちには勝利があります。
私たちがよくそれに従うように、この自然の傾向に従ってしまうと、最初から敗北で一日が始まります。私の記憶が正しければ、去年皆さんに、この「一日最初に負けると、一日がどのように終わってしまうか」という事について詳しく説明しました。全てがこう慌ただしくて、全てがこうストレスでいっぱいで、忍耐を欠いて、不親切な言葉を言って、朝のお祈りはしないし。
「もし私の後に従うならば、自分を捨てて、十字架を担え。」これがイエズス様の望みです。自分を捨てるというのは本当に難しい事です。でもマリア様をお愛しする為には、とても簡単になります。マリア様を通して、マリア様によって、これを放棄します。小さな事から大きな事まで、マリア様を通して、マリア様によって、これを放棄します。
もしも誰かに手紙を書くとか、あるいは誰かにEメールを書くとか、あるいは誰かに話をする事とか、という時に、「すぐにこう言いたい」という欲求があるかもしれません。その自分のやりたい事は放棄して下さい。
でもこの「自分を放棄する」というのは第一歩の段階で、その自分を空にした後で、マリア様で埋めなければなりません。これが第2のポイントです。
マリア様の導きの通りに、マリア様の導きのままにしなければなりません。ちょうどマリア様の御手に置かれた、職人の道具が仕事の道具が職人の手の中にあるように、私たちも置かればなりません。
これ(ボールペン)は道具です。これは私の思う通りに動く時に初めて、役に立ちます。もしも私が何か書こうとして、このボールペンが飛び跳ねたり、何か抵抗すると、役に立ちません。書こうとすると抵抗して動かない、書こうとするとインクも出ない。マリア様の霊によって導かれるがままに、マリア様のお望みのままになさせる。それがマリア様によって、マリア様を通してする、という事です。
これはとても簡単な事で、難しい事ではありません。ほんの瞬間、ほんのちょっとした意志の動きで十分です。「私は自分を捨てます。マリア様、私をあなたに与えます。」誰かと話している時、何かイライラする時、その時に、「あぁマリア様、私は自分の言いたい事ではなくて、マリア様が仰りたい事を言います。マリア様のままに動きます。」
この時に何かを感じる必要はありません。何か私が言う事をですね、感じなくても、感覚で何かなくても良いのです。もしも「マリア様、私は御身に私を捧げます」と言うと、何か霊がコオオオッと来て、霊に満たされて…という事を感じる必要はありません。もしも私が真面目に、「これは、悪魔に自分を売り渡す。」もしもそうしたら、自分の感覚は変わりませんけれども、悪魔はそうではありません。同じように、マリア様も同じです。私たちが何も感覚を受けなくても、マリア様はちゃんと働いておられます。具体的なアドバイスがあります。
時々、行為の最中でも、また行為の後でも、マリア様への奉献と一致の行為を何度も更新して下さい。この行為を更新すれば更新するほど、それだけ早く霊魂が聖化されて、それだけ早くイエズス様と一致します。
例えば終日の間、「あ、何かお腹が減ったなぁ」というと、何か盲目的に本能的に、こう足は冷蔵庫の方にまわって、冷蔵庫を手が自動的に開けて、食べる時間ではないのにもかかわらず、こう何か飲んだり食べたりする。こうやって何か本能のままに、こうちょっとお腹が減った、ちょっとこうだというと、それに流されて行動するのは、非常に不健康です。この1日に3回あるいは4回、そのような時間がありますけれども、それ以上ではない、という事を知らなければなりません。
これは規則によって決定されています。例えば昼食の時間は、お昼から夕方18時までの間ではありません。例えば朝食は8時です。お昼は12時、おやつは16時、夕食は19時。その間にもしも喉が乾けば、水を飲みます。もしもお水を飲むのにアレルギーがある人はお茶を飲んで下さい。その他には、例えばケーキを食べたりとか色々な物を、そのあれやこれやというものは必要ありません。このいつもこう食べて食べて、ムシャムシャして、ムシャムシャして、食べて食べて、この際限なく口を動かしていれば、お昼のご飯の意味はなくなってしまいます。
グリニョン・ド・モンフォールは非常に具体的な例を説明します。「マリア様を通してする」というのはこれです。
「マリア様と共に」次に、260番です。「マリア様を見て、マリア様をモデルとして、模範として、それに従う」という事です。
子供をどうやって母親は教育するでしょうか?子供にどうやってこの話をするとか、教えるとか、お祈りのやり方を教えるでしょうか?命令して、「こうやりなさい」と言うだけではありません。自分で模範を示して、「こうやるのよ」と言います。子供はお母さんの様子を見て、それを真似をします。お母さんの声の出し方とか、お母さんの動きの仕方とか、手の動かし方とかをそのまま真似します。
マリア様を模倣して、マリア様が徳の模範となります。これはルルドの聖ベルナデッタの徳でした。ベルナデッタは、「あなたの霊性は何ですか?」と言われた時に、「私は、マリア様を見て、マリア様の真似をするのです」と答えました。
これは2つの事が入っています。1つは、「しなければならない事を、具体的に見る」という事です。そして「マリア様、もしもマリア様が私の立場に立ったら、一体何をなさったでしょうか?マリア様だったらこの同じ事をどのようになさるだろうか?」と考察する事です、尋ねる事です。
では私たちの貴重な模範を、瞬間を、もう一度黙想してみましょう。
まず第1は、「私は、自分を放棄する」という事です。私はスヌーズ機能を放棄します。マリア様の意志に従って立ち上がります。
そして私は別の事を尋ねます、「私の起きるのは、マリア様の起きるのと似ているだろうか?ナザレトの家で、あるいは神殿で、マリア様はどうやって起床されただろうか?」自分が覚醒する、起きる、目を覚ました時に、すぐにマリア様は天主様へと精神を高めて、天主に対する礼拝と、深い感謝と、そして委託とを全て表しました。マリア様が今日しなければならない全ての事を、既に天主様に奉献して。
ところで、私が起きるとどうでしょうか?私の意志に反して、目覚まし時計の通りに立ち上がったら、それは1つの勝利でした。
そして私は起き上がって、こうやって背伸びをします。そして洗面所に行って、こう髭を剃ったり、そうではなくて皆さんは私は、こう手を最初に携帯にやって、「あ、何かメッセージがあるんじゃないか」あるいはラジオのスイッチを入れて、「何かニュースはないか。」音楽を聴く、パッパ〜パッパ〜。「マリア様はそうしただろうか?」
違いが分かりますか?「マリア様、私の起床がマリア様のものと少しだけでも似る事ができますように」とお祈り致しましょう。これは起床の事だけではなくて、全ての事において真似なければなりません。
マリア様はどうやってお祈りしただろうか?私はどうやってお祈りするだろうか?
私はどうやって御ミサに与るだろうか?マリア様はどうやってミサに与るだろうか?
私の聖体拝領はどうだろうか?マリア様だったらどうだろうか?
マリア様は台所のお仕事を、あるいはお掃除を、あるいはお洗濯をどうしただろうか?私はどうしているだろうか?
私は他の人々とどうやって接触しているだろうか?でもマリア様はどうやって対応しただろうか?
3つの段階を見て下さい。そして「マリア様はどうやっただろうか?私はどうだろうか?」と、まず比較して下さい。謙遜に、「マリア様と全然違う」という事を認識して下さい。
第2に、強く望んで下さい。マリア様とますます似通った者となるように願って下さい。マリア様に常に多く強く願って、私のマリア様と似通った者になるようにお願いして、もしも間違った事をしていれば、それを直す事ができるように頼んで下さい。
「マリア様と共にする」という事と別のやり方もグリニョン・ド・モンフォールは言います。グリニョン・ド・モンフォールが今言ったやり方は、「具体的に今、このマリア様のやっている事を見る」という事です。具体的な日常の生活一つ一つを、マリア様の仕方一つ一つと比較する事です。第2は、一般的なこう常に常駐的なやり方で、それを見るという事です。それは「マリア様の御心はどのような状態であったのか。そのそこから全ての行為が出る、その源の御心はどうだったか」というところに目を向ける事です。
私たちが話すのも、行なうのも行為するのも、皆、その何かそういう状態から、心の状態から出ています。もしも私たちの心が平和であって、主との一致があって、主に信頼していて、良い、清い良心であれば、そこから溢れ出る言葉とか、行動というのは、不安で、良心が汚い、汚れている呵責のある人、あるいは主を信頼していない人の言葉や行動とは、全く違うはずです。
マリア様のその心の状態を黙想しなければなりません。そしてそのマリア様の心の状態を、私の心にもやらなければなりません。
そこで3つの事を挙げます。まずマリア様の「信仰」、第2が「謙遜」、第3が「清らかさ、純潔さ」です。私たちの他の人々に対する態度とか、あるいは祈りは、マリア様とどれほどかけ離れているでしょうか。
例えば信仰。他の人々と話す時に信仰を、生き生きとした信仰を持っているでしょうか?それとも自然の本性に従った、ただそれだけででしょうか?誰かと会って話をする時に、何を考えますか?話す時にどのように話しますか?信仰を持って話しますか?それとも信仰を無しに話すでしょうか?
この黙想の家、有名な黙想の家で出会う人々にどのように対応しているでしょうか?マリア様がなさったような態度で対応するでしょうか?この学生は本当に夜騒がしい、うるさい、ペチャペチャうるさい、態度が悪い、と思って言っているのではないでしょうか?マリア様はおそらくこのような学生たちを見て、「あぁ、救わなければ、この霊魂たちを救わなければならない」と。
教会に行って、御聖堂に行ってお祈りをしなければならない時、イエズス様が現存しておられます。私たちはでも普通行くと、何か誰もいないかのように確信しています。あるいは私たちは、この聖遺物の前に頭を屈めます。私たちが教会に聖堂に入る時に、どのような態度で入るでしょうか?「あぁ、お祈りの本はどこだろう?あぁ忘れちゃった、あぁそれから…」と、雑念だらけでしょうか?「あぁ、このお花を変えなければならない」「あぁ、この人は歌が下手だ」「あぁ、あの人はあんな事をしている」もしもそのような事を考えないとしたら、何も考えていません、ぼけっとしていいます。そしてしばらくすると、「あ、よく考えたら御聖堂の中にいた」と気が付きます。
でもマリア様は、御聖堂の中に入って御聖体の現存の前に来ると、マリア様は御眼差しも、心も、耳も、全てイエズス様の方に向かって、それに沈黙と礼拝の内に、イエズス様を讃美するでしょう。「イエズス様がここに真に在す」と確信してそうなさいます。
「マリア様と共にする」という事は、「マリア様を私たちの模範として、マリア様のようにする」という事です。「マリア様がなさったその内的な、その中に入ってする」という事です。
最初のこの具体的な、マリア様の生活様式を具体的に一つ一つ考察するのは、「行為」について考えます。
ところが第2の、マリア様の心の状態を考えてみるのは、そのマリア様の「意向」とか、マリア様の「心のその態度」を見ます。
この第1のやり方では、マリア様の具体的な行動一つ一つですが、外面的な行動を真似する事ですけれども、第2のやり方によって、マリア様の内的な状態に、内的な心の持ち方を真似する事によって、その中に入るようになります。
マリア様の心の持ち方、在り方というのは、深い信仰と、深い謙遜と、深い清らかさです。マリア様は全ての事によって、謙遜でした。マリア様は決して傲慢な態度をお取りになった事はありませんでした。「私は何か言いたい事がある」とか。
私の場合には、何かやると、「私は、俺は」とすぐ考えてしまいます。「私はこれが嫌いだ。」「私はこれが好きだ。」「これは僕には興味がない。」「これは僕には関心がある。僕は好きだ。」「私と比べると、この人は私よりも…」と、そこから、嫉妬とか妬みとかが生まれます。
マリア様が十字架の元に立ち留まった時に、マリア様は決して、「自分はファリサイ人より良い人だ」とは思っていませんでした。マリア様は、そのイエズス様を悪く言う人々を軽蔑しませんでした。もしもこのファリザイ人や、イエズス様を攻撃するような人々を軽蔑するとしたら、マリア様は私たちを子供として受ける事ができなかったでしょう。
では、このモンフォール形式の2つを見ました。今日からこれを始めて下さい。このマリア様を通して、マリア様と共に、これを始めて下さい。その残る2つ(マリア様の内に、マリア様の為に)は後で付いてきます。マリア様がどうなさって、どうやって生活されたのか、どのようなお心持ちだったのか、という事を考えながら、そしてマリア様と共に、マリア様によって全てをする、という事を、この始終一日中全てをする、という事で、私たちにはやる事がたくさんあります。
もちろん口先だけで、「あぁマリア様、私はあなたによって、あなたと共に全てをする事をします」と言うのは簡単です。「私はマリア様に全てを」という、この「全てを」と言うのは簡単ですけれども、でもこのただ意味のない虚ろな言葉になってしまう危険があります。朝起きる事から始まって、この全てを一つ一つ埋めてやって下さい。すると、「あぁ、自分はまだまだしなければならない事がたくさんあるな」と思われる事でしょう。そして良い遷善の決心を立てて下さい。
261から265番まで、ちょっとした言葉があります。グリニョン・ド・モンフォールについて一番重要とされているのは、その「マリア様の内に」という事です。この部分をよく読んで下さい。これは非常に深いものがあります。261から265番の「マリアの内に」という非常に深いものがあります。この「マリアの内にする」という事は深い霊性なので、もしも私たちが「マリア様を通して」、「マリア様と共にする」という事を実践していなければ、この「マリアの内にする」という深い意味を理解する事は難しいと思います。
皆さんにあまり詰め込まないように、この「マリアの内に」という事については、今の段階では説明を控えます。なぜかというと、「やりすぎるというのは、善の敵である」という諺がありますから(^^;)
同時通訳:小野田圭志神父
聖母への奉献、自己奉献の祈りは、契約であって、決意であって、意志の働きです。でもこの奉献の祈りは、ただ最初の一歩にしか過ぎません。契約を結ぶのと同じです。契約を作っただけで、それでそれを実践しなければ、全く意味をなしません。
婚姻の秘跡も契約です。しかし、婚姻の秘跡を結んで祝福を受けた日は、ただ始まりに過ぎません。婚姻はそこから始まります。もう取り消す事がない約束は、二人の霊魂を一つに結びますが、ご結婚をなさった方はよくご存知だと思いますけれども、その結婚生活とは、長い戦争が始まる事です。
司祭に叙階された日も、その叙階式はとても美しい日でした。そして荘厳な約束をしました。そしてその叙階された時以後、私たちはその約束を実現しようと、更に進まなければなりません。
この荘厳な、マリア様を通したイエズス様への奉献は、荘厳な始まりです。荘厳な約束です。私たちの生活を規定する新しい掟です。毎日この奉献を生きなければなりません。グリニョン・ド・モンフォールは具体的に、どうやったらこの奉献を実践する、実行する事ができるかを示しています。これはモンフォール式の実践、モンフォール様式と言われています。257番から265番までに書かれています。これを次の講話の時までにお読み下さい。
モンフォール様式によれば、「マリアによって、マリアと共に、マリアの内に、マリアの為にする」という事に要約されます。もしもこれができれば、私たちはもっと完璧に、「イエズス様を通して、イエズス様と共に、イエズス様の内に、イエズス様の為にする」事ができるようになります。
カギ括弧をちょっと開けると、「マリア様への奉献」と「ミサ聖祭」とを密接に関連付けるというのはとても、グリニョン・ド・モンフォールのやっている特別なやり方です。例えば奉献の祈りは、ミサの4つの目的と一致しています。ミサの典文の終わりに、「彼と共に、彼において、彼の内に」という“PER IPSUM, ET CUM IPSO, ET IN IPSO”というこの言い方で、このホスチアの上で十字架を切る司祭の仕草がありますけれども、ちょうどその言葉とこのモンフォールの様式、「マリア様を通して、マリア様と共に」というのは、似通っています。「キリストを通して、キリストと共に、キリストの内に」というこのカノンの最後の言葉を、私たちは深く黙想しなければなりません。
このミサの典文のこの最後の言葉のエコーであるかのように、こだまして、「マリア様を通して、マリア様と共に、マリア様の内に、マリア様の為に」というグリニョン・ド・モンフォールの言い方になっています。
私たちは、マリア様を通して、マリア様と共に、マリア様の内に、マリア様の為に、全てをします。するとマリア様は、私たちをしてイエズス様の方に移させます。イエズス様は、イエズス様を通して、イエズス様と共に、イエズス様において、全ての栄光と讃美は、聖父に捧げられます。
マリア様への奉献を通して、イエズス様によって、イエズス様と共に、三位一体への最高の讃美と栄光を帰する。これが私たちの人生の究極の目的です。
では、「全てを、マリア様を通してする」という事は何であるかを見てみましょう。258番です。「マリア様を通して、マリア様によって」という、これは何を意味するのでしょうか?
これは、「マリア様に従わなければならない、従順でなければならない」という事です。私たちの愚かな精神を、マリア様の精神と交換する必要があります。マリア様の精神、マリア様の霊とは何でしょうか?それは「聖霊」の事です。
マリア様に従わなければなりません。コルベ神父様の全生涯を特徴づけるものは、この「従順」です。この従順という事を文字通り実践したので、コルベ神父様は偉大な聖人となりました。
このグリニョン・ド・モンフォールは、マリア様と聖霊との深い関係について数語でまとめています。では、これは私たちにとってはどのような意味があるでしょうか?259番です。
3つの事をして下さい。もしもその3つの事がなければ、「マリア様を通してする」という事ではないからです。
それは、「何をするにも、自分の考えや自分の見方を捨てる」という事です。
例を、グリニョン・ド・モンフォールが挙げる例が非常に面白いです。私たちの日々の生活を計画する時には、マリア様の考えに従って下さい。例えば、買い物に行く時には、マリア様がお望みの物を、マリア様がお望みの所に行って、買い物をするようにします。人と何かおしゃべりをする時には、私たちの判断や、私たちの考えや、私たちの噂話を捨てて下さい。でもグリニョン・ド・モンフォールはこういう事を話しません。それよりももっと高い、私たちの宗教生活について語ります。
例えば、黙想をする時。ミサを捧げるとかミサに与る時。あるいは聖体拝領をする時。私たち自身の考えや、私たち自身の見方や、自分自身の黙想をしては、これは良い黙想とは言えません。もしも私自身の考え、私自身の望み、私自身のやり方で御聖体拝領をすると、大体は雑念で終わってしまいます。私自身の考え、望み、行為は、たとえ私たち自身には良いものに見えたとしても、実際はその中には暗闇があって、悪意も潜んでいるので、マリア様の聖なる霊にとっては障害となってしまいます。
私の考え、私のインスピレーションとか、私の望み、願いとかを見て下さい。私たちのそういう願いをよく分析してみると、最初はこの本能的な自分の望みを満足させるとか、自分の利己利益を達成するとか、という事に動かされています。
例を挙げます。1日はどうやって始まるでしょうか?起きる事から始まります。起きます。どうやって目を覚ましますか?普通は目覚まし時計が鳴ります。寝るのですけれども、あまりよく寝付けなくて、よく寝れなかった、「あぁ、疲れてるな」と、そこでベルルルルル!とベルが鳴ります。
皆さんの最初の反応は何でしょうか?「まだ時間があるし、もうちょっと寝よう…」世界中の携帯電話の中で、目覚まし時計には必ずスヌーズ機能が付いています。そして私たちの自然本性はこうあまりにも、このベッドの暖かい中にもうちょっと居ようという、そこでこの眠り続ける、それがあります。これを放棄して下さい。この自然の、自動的にやってくるこの傾向を放棄すると、そうすると友人の皆さん、私たちには勝利があります。
私たちがよくそれに従うように、この自然の傾向に従ってしまうと、最初から敗北で一日が始まります。私の記憶が正しければ、去年皆さんに、この「一日最初に負けると、一日がどのように終わってしまうか」という事について詳しく説明しました。全てがこう慌ただしくて、全てがこうストレスでいっぱいで、忍耐を欠いて、不親切な言葉を言って、朝のお祈りはしないし。
「もし私の後に従うならば、自分を捨てて、十字架を担え。」これがイエズス様の望みです。自分を捨てるというのは本当に難しい事です。でもマリア様をお愛しする為には、とても簡単になります。マリア様を通して、マリア様によって、これを放棄します。小さな事から大きな事まで、マリア様を通して、マリア様によって、これを放棄します。
もしも誰かに手紙を書くとか、あるいは誰かにEメールを書くとか、あるいは誰かに話をする事とか、という時に、「すぐにこう言いたい」という欲求があるかもしれません。その自分のやりたい事は放棄して下さい。
でもこの「自分を放棄する」というのは第一歩の段階で、その自分を空にした後で、マリア様で埋めなければなりません。これが第2のポイントです。
マリア様の導きの通りに、マリア様の導きのままにしなければなりません。ちょうどマリア様の御手に置かれた、職人の道具が仕事の道具が職人の手の中にあるように、私たちも置かればなりません。
これ(ボールペン)は道具です。これは私の思う通りに動く時に初めて、役に立ちます。もしも私が何か書こうとして、このボールペンが飛び跳ねたり、何か抵抗すると、役に立ちません。書こうとすると抵抗して動かない、書こうとするとインクも出ない。マリア様の霊によって導かれるがままに、マリア様のお望みのままになさせる。それがマリア様によって、マリア様を通してする、という事です。
これはとても簡単な事で、難しい事ではありません。ほんの瞬間、ほんのちょっとした意志の動きで十分です。「私は自分を捨てます。マリア様、私をあなたに与えます。」誰かと話している時、何かイライラする時、その時に、「あぁマリア様、私は自分の言いたい事ではなくて、マリア様が仰りたい事を言います。マリア様のままに動きます。」
この時に何かを感じる必要はありません。何か私が言う事をですね、感じなくても、感覚で何かなくても良いのです。もしも「マリア様、私は御身に私を捧げます」と言うと、何か霊がコオオオッと来て、霊に満たされて…という事を感じる必要はありません。もしも私が真面目に、「これは、悪魔に自分を売り渡す。」もしもそうしたら、自分の感覚は変わりませんけれども、悪魔はそうではありません。同じように、マリア様も同じです。私たちが何も感覚を受けなくても、マリア様はちゃんと働いておられます。具体的なアドバイスがあります。
時々、行為の最中でも、また行為の後でも、マリア様への奉献と一致の行為を何度も更新して下さい。この行為を更新すれば更新するほど、それだけ早く霊魂が聖化されて、それだけ早くイエズス様と一致します。
例えば終日の間、「あ、何かお腹が減ったなぁ」というと、何か盲目的に本能的に、こう足は冷蔵庫の方にまわって、冷蔵庫を手が自動的に開けて、食べる時間ではないのにもかかわらず、こう何か飲んだり食べたりする。こうやって何か本能のままに、こうちょっとお腹が減った、ちょっとこうだというと、それに流されて行動するのは、非常に不健康です。この1日に3回あるいは4回、そのような時間がありますけれども、それ以上ではない、という事を知らなければなりません。
これは規則によって決定されています。例えば昼食の時間は、お昼から夕方18時までの間ではありません。例えば朝食は8時です。お昼は12時、おやつは16時、夕食は19時。その間にもしも喉が乾けば、水を飲みます。もしもお水を飲むのにアレルギーがある人はお茶を飲んで下さい。その他には、例えばケーキを食べたりとか色々な物を、そのあれやこれやというものは必要ありません。このいつもこう食べて食べて、ムシャムシャして、ムシャムシャして、食べて食べて、この際限なく口を動かしていれば、お昼のご飯の意味はなくなってしまいます。
グリニョン・ド・モンフォールは非常に具体的な例を説明します。「マリア様を通してする」というのはこれです。
「マリア様と共に」次に、260番です。「マリア様を見て、マリア様をモデルとして、模範として、それに従う」という事です。
子供をどうやって母親は教育するでしょうか?子供にどうやってこの話をするとか、教えるとか、お祈りのやり方を教えるでしょうか?命令して、「こうやりなさい」と言うだけではありません。自分で模範を示して、「こうやるのよ」と言います。子供はお母さんの様子を見て、それを真似をします。お母さんの声の出し方とか、お母さんの動きの仕方とか、手の動かし方とかをそのまま真似します。
マリア様を模倣して、マリア様が徳の模範となります。これはルルドの聖ベルナデッタの徳でした。ベルナデッタは、「あなたの霊性は何ですか?」と言われた時に、「私は、マリア様を見て、マリア様の真似をするのです」と答えました。
これは2つの事が入っています。1つは、「しなければならない事を、具体的に見る」という事です。そして「マリア様、もしもマリア様が私の立場に立ったら、一体何をなさったでしょうか?マリア様だったらこの同じ事をどのようになさるだろうか?」と考察する事です、尋ねる事です。
では私たちの貴重な模範を、瞬間を、もう一度黙想してみましょう。
まず第1は、「私は、自分を放棄する」という事です。私はスヌーズ機能を放棄します。マリア様の意志に従って立ち上がります。
そして私は別の事を尋ねます、「私の起きるのは、マリア様の起きるのと似ているだろうか?ナザレトの家で、あるいは神殿で、マリア様はどうやって起床されただろうか?」自分が覚醒する、起きる、目を覚ました時に、すぐにマリア様は天主様へと精神を高めて、天主に対する礼拝と、深い感謝と、そして委託とを全て表しました。マリア様が今日しなければならない全ての事を、既に天主様に奉献して。
ところで、私が起きるとどうでしょうか?私の意志に反して、目覚まし時計の通りに立ち上がったら、それは1つの勝利でした。
そして私は起き上がって、こうやって背伸びをします。そして洗面所に行って、こう髭を剃ったり、そうではなくて皆さんは私は、こう手を最初に携帯にやって、「あ、何かメッセージがあるんじゃないか」あるいはラジオのスイッチを入れて、「何かニュースはないか。」音楽を聴く、パッパ〜パッパ〜。「マリア様はそうしただろうか?」
違いが分かりますか?「マリア様、私の起床がマリア様のものと少しだけでも似る事ができますように」とお祈り致しましょう。これは起床の事だけではなくて、全ての事において真似なければなりません。
マリア様はどうやってお祈りしただろうか?私はどうやってお祈りするだろうか?
私はどうやって御ミサに与るだろうか?マリア様はどうやってミサに与るだろうか?
私の聖体拝領はどうだろうか?マリア様だったらどうだろうか?
マリア様は台所のお仕事を、あるいはお掃除を、あるいはお洗濯をどうしただろうか?私はどうしているだろうか?
私は他の人々とどうやって接触しているだろうか?でもマリア様はどうやって対応しただろうか?
3つの段階を見て下さい。そして「マリア様はどうやっただろうか?私はどうだろうか?」と、まず比較して下さい。謙遜に、「マリア様と全然違う」という事を認識して下さい。
第2に、強く望んで下さい。マリア様とますます似通った者となるように願って下さい。マリア様に常に多く強く願って、私のマリア様と似通った者になるようにお願いして、もしも間違った事をしていれば、それを直す事ができるように頼んで下さい。
「マリア様と共にする」という事と別のやり方もグリニョン・ド・モンフォールは言います。グリニョン・ド・モンフォールが今言ったやり方は、「具体的に今、このマリア様のやっている事を見る」という事です。具体的な日常の生活一つ一つを、マリア様の仕方一つ一つと比較する事です。第2は、一般的なこう常に常駐的なやり方で、それを見るという事です。それは「マリア様の御心はどのような状態であったのか。そのそこから全ての行為が出る、その源の御心はどうだったか」というところに目を向ける事です。
私たちが話すのも、行なうのも行為するのも、皆、その何かそういう状態から、心の状態から出ています。もしも私たちの心が平和であって、主との一致があって、主に信頼していて、良い、清い良心であれば、そこから溢れ出る言葉とか、行動というのは、不安で、良心が汚い、汚れている呵責のある人、あるいは主を信頼していない人の言葉や行動とは、全く違うはずです。
マリア様のその心の状態を黙想しなければなりません。そしてそのマリア様の心の状態を、私の心にもやらなければなりません。
そこで3つの事を挙げます。まずマリア様の「信仰」、第2が「謙遜」、第3が「清らかさ、純潔さ」です。私たちの他の人々に対する態度とか、あるいは祈りは、マリア様とどれほどかけ離れているでしょうか。
例えば信仰。他の人々と話す時に信仰を、生き生きとした信仰を持っているでしょうか?それとも自然の本性に従った、ただそれだけででしょうか?誰かと会って話をする時に、何を考えますか?話す時にどのように話しますか?信仰を持って話しますか?それとも信仰を無しに話すでしょうか?
この黙想の家、有名な黙想の家で出会う人々にどのように対応しているでしょうか?マリア様がなさったような態度で対応するでしょうか?この学生は本当に夜騒がしい、うるさい、ペチャペチャうるさい、態度が悪い、と思って言っているのではないでしょうか?マリア様はおそらくこのような学生たちを見て、「あぁ、救わなければ、この霊魂たちを救わなければならない」と。
教会に行って、御聖堂に行ってお祈りをしなければならない時、イエズス様が現存しておられます。私たちはでも普通行くと、何か誰もいないかのように確信しています。あるいは私たちは、この聖遺物の前に頭を屈めます。私たちが教会に聖堂に入る時に、どのような態度で入るでしょうか?「あぁ、お祈りの本はどこだろう?あぁ忘れちゃった、あぁそれから…」と、雑念だらけでしょうか?「あぁ、このお花を変えなければならない」「あぁ、この人は歌が下手だ」「あぁ、あの人はあんな事をしている」もしもそのような事を考えないとしたら、何も考えていません、ぼけっとしていいます。そしてしばらくすると、「あ、よく考えたら御聖堂の中にいた」と気が付きます。
でもマリア様は、御聖堂の中に入って御聖体の現存の前に来ると、マリア様は御眼差しも、心も、耳も、全てイエズス様の方に向かって、それに沈黙と礼拝の内に、イエズス様を讃美するでしょう。「イエズス様がここに真に在す」と確信してそうなさいます。
「マリア様と共にする」という事は、「マリア様を私たちの模範として、マリア様のようにする」という事です。「マリア様がなさったその内的な、その中に入ってする」という事です。
最初のこの具体的な、マリア様の生活様式を具体的に一つ一つ考察するのは、「行為」について考えます。
ところが第2の、マリア様の心の状態を考えてみるのは、そのマリア様の「意向」とか、マリア様の「心のその態度」を見ます。
この第1のやり方では、マリア様の具体的な行動一つ一つですが、外面的な行動を真似する事ですけれども、第2のやり方によって、マリア様の内的な状態に、内的な心の持ち方を真似する事によって、その中に入るようになります。
マリア様の心の持ち方、在り方というのは、深い信仰と、深い謙遜と、深い清らかさです。マリア様は全ての事によって、謙遜でした。マリア様は決して傲慢な態度をお取りになった事はありませんでした。「私は何か言いたい事がある」とか。
私の場合には、何かやると、「私は、俺は」とすぐ考えてしまいます。「私はこれが嫌いだ。」「私はこれが好きだ。」「これは僕には興味がない。」「これは僕には関心がある。僕は好きだ。」「私と比べると、この人は私よりも…」と、そこから、嫉妬とか妬みとかが生まれます。
マリア様が十字架の元に立ち留まった時に、マリア様は決して、「自分はファリサイ人より良い人だ」とは思っていませんでした。マリア様は、そのイエズス様を悪く言う人々を軽蔑しませんでした。もしもこのファリザイ人や、イエズス様を攻撃するような人々を軽蔑するとしたら、マリア様は私たちを子供として受ける事ができなかったでしょう。
では、このモンフォール形式の2つを見ました。今日からこれを始めて下さい。このマリア様を通して、マリア様と共に、これを始めて下さい。その残る2つ(マリア様の内に、マリア様の為に)は後で付いてきます。マリア様がどうなさって、どうやって生活されたのか、どのようなお心持ちだったのか、という事を考えながら、そしてマリア様と共に、マリア様によって全てをする、という事を、この始終一日中全てをする、という事で、私たちにはやる事がたくさんあります。
もちろん口先だけで、「あぁマリア様、私はあなたによって、あなたと共に全てをする事をします」と言うのは簡単です。「私はマリア様に全てを」という、この「全てを」と言うのは簡単ですけれども、でもこのただ意味のない虚ろな言葉になってしまう危険があります。朝起きる事から始まって、この全てを一つ一つ埋めてやって下さい。すると、「あぁ、自分はまだまだしなければならない事がたくさんあるな」と思われる事でしょう。そして良い遷善の決心を立てて下さい。
261から265番まで、ちょっとした言葉があります。グリニョン・ド・モンフォールについて一番重要とされているのは、その「マリア様の内に」という事です。この部分をよく読んで下さい。これは非常に深いものがあります。261から265番の「マリアの内に」という非常に深いものがあります。この「マリアの内にする」という事は深い霊性なので、もしも私たちが「マリア様を通して」、「マリア様と共にする」という事を実践していなければ、この「マリアの内にする」という深い意味を理解する事は難しいと思います。
皆さんにあまり詰め込まないように、この「マリアの内に」という事については、今の段階では説明を控えます。なぜかというと、「やりすぎるというのは、善の敵である」という諺がありますから(^^;)