回勅「モルタリウム・アニモス Mortalium animos」
真実の宗教の一致について
教皇ピオ十一世 1928年1月6日
教皇ピオ十一世は、尊敬すべき兄弟たちに挨拶と使徒的祝福を送ります。
1 いつかは必ず死ななければならない人間の心は人類の共通善を求め、私たち全てを互いに緊密に結びつけようとし、人類兄弟の絆を強めたい、また拡張させたいと切望していますが、このような望みに今日ほど駆られたことはかつてありませんでした。
世界はいまだ、平和の実りを完全に享受しているわけではありません。その反対に、さまざまなところでは新旧の反目がまだ、反乱や対立という形で吹き出ています。このようないざこざは、諸国の平静な繁栄に影響を及ぼしています。そのため、これを平定するには、これらの諸国の政府責任者が、協力して積極的に良い意志を持って努力するしか、為すすべもありません。従って現代は人類の一致がもはや疑問視されなくなっており、特に人類の普遍の家族関係を考慮し、全ての国々が日々互いにより緊密な関係を結ばなければならないと言う望みが遍く広がったのを、理解するのは容易なことです。
2 同じような動機で、私たちの主イエズス・キリストによって発布された新法に関連することにおいても、何らかの努力が払われています。
ある人達は「宗教的感覚を完全に失ってしまった人は極めてまれである」と確信しています。そして、この確信を基礎に、諸民族を、その宗教の違いにもかかわらず、宗教生活の共通の基礎として認められる幾つかの教義を兄弟的に認めあうまでもって行くことが、容易にできるという希望を養っているようです。ですから、彼らはかなり多くの聴衆者が出入りする会合、集会、講演会などを開いています。彼らは全ての人々を区別無く、ありとあらゆる種類の不信者、信者、更に不幸なことにキリストから離れ苦々しくそして頑固にキリストの神性とその使命を否定するものまでもその公演に招待しています。
このような骨折りにたいして、カトリック信者はいかなる賛同をも与えてはなりません。何故かというと、彼らの活動が“全ての宗教は、たとえ形は違っていても、全て等しく、私たちを天主に導き、私たちをして天主の力の前に尊敬を持って屈めさせる自然の生まれつきの感情を表している”という意味で“どの様な宗教でも、多かれ少なかれ、良いものであり称賛すべきである”という、間違った考えに基づいているからです。
彼らは、ただ単に誤謬のうちに迷い込んでいるだけではありません。この誤りを支持しつつ、彼らは、宗教に関する本当の観念を歪め、同時にそれを拒んでいるのです。そうして彼らは、[どんな宗教でも同じだという]宗教に関する誤った考えを持ち、少しずつ[真の宗教に関する問題よりも、この地上のことを重視する]超自然否定主義(naturalism)そして、[真の宗教も、真の天主もないのだという]無神論へと歩んでいます。ですから、このような誤った教えの賛同者となり宣伝者に合同することは、天主によって啓示された宗教[すなわちカトリック教]を全く打ち捨てることであるということは完全に明らかです。
3 しかしながら、それが全てのキリスト者の一致を促進させることとなりますと、より簡単に多くの霊魂たちは、この達成すべき目標の素晴らしさに魅せられて、誤った道に引きずり込まれてしまいます。
よく耳にすることですが、『全てキリストの聖名を呼び求めるものが、相互の非難をやめて、互いの愛によって遂に一致するのが正しく、更に義務ではないか? もし誰かが、キリストを愛していると言いながらも、主が御父に願った、ご自分の弟子らが一つであるように(ヨハネ17:21)とのキリストご自身の願いを実現させるため、全ての力を尽くして追求せずに、どうしてキリストを愛するなどとあえて主張できるのか。キリストは、ご自分の弟子らが、その他の人々から相互の愛の印によって印され区別されることを願われたではないか。主曰く“全ての人々は、もしあなたたちが互いに愛するなら、これによってあなたたちがわたしの弟子であると知るだろう”(ヨハネ13:35)と。願わくは、全てのキリスト者が一つであるように。何故なら、現代、日々、一層ひどく不敬虔の毒は広がり、福音の壊滅を準備しているからだ。そのさなかに、この一致によって、この不敬虔の毒を、より一層効果的に排斥できるではないか』と。
これや、これと似たようなことを、[教派に偏らず、福音の教えを純粋に伝えると主張する]『汎キリスト者』と呼ばれる人々が常に教えています。ところで、このような人々が数少なくまれでバラバラな個人に過ぎない、と思うのは大間違いです。彼らは、信仰の真理に関していろいろな人々がいるにもかかわらず、完全な組織を幾つも作り、非カトリック者が指導する会をあらゆるところに創立しています。この事業はさまざまなところで好感を得、更に、多くのカトリック信者の好感さえも勝ち取る程に活発に活動しています。何故なら、この事業が、私たちの母なる聖なる公教会の願いに沿った一致を実現できるという、見かけ上の希望を提示しているからです。確かに、公教会は道に迷った自分の子らを、自分の胸元に呼び戻し連れ戻したいということをひたすら願っています。しかし、これらの美しく魅惑的な言葉の下に、間違いなく、最も危険でカトリック信仰の基盤をそこから覆す誤謬が滑り込んでいます。
4 私の持つ使徒継承の責務は、主の羊の群れを迷わしに来る、かの危険な誤謬を禁止することです。そのため、尊敬する兄弟たちよ、私は自分の責務を良心に従って果たすため、このような悪を予防するようにと、諸君の熱心に呼びかけます。私は、諸君の書物により、また言葉により、それぞれが信者たちに私がこれから説明する原理と理由を容易に理解させることができると確信しています。カトリック信者は、諸君の努力により、「キリスト者という名を自称する全ての人々を、まぜこぜの一致であろうと、一つの体にまとめることを目指す事業」に対して、一体どの様な見解と、どの様な行動をとったらよいか、を知ることができるでしょう。
5 全てのものの作り主である天主は、私たちが天主を知り、天主に仕えるために、私たちを創造されました。私たちの存在の原理であるが為に、天主は私たちが天主に仕えるのを要求する絶対の権利があります。天主はなさろうと思えば、人の心に刻み込んだ自然法だけを、人間を創造した時に規範として人に与え、そしてその後に、通常の摂理によって自然法が発展するようにすることができました。
しかしながら、天主は、人間が遵守すべき幾つかの実定法の掟を、自然法に添えるのがより良いと判断されました。そして、時代の流れの中、即ちこの世の始まりからイエズス・キリストの御到来とその御説教まで、天主ご自身が、人間に“全ての理性的存在がその創造主に対して負うところの義務”について教えられたのです。『その昔天主は私たちの祖先に、預言者たちにいくたびもいろいろな方法で語られたが、この最後の時において御子を通して我らに語られた。』(ヘブレオ1:1)
そこから、この天主の啓示のうえに基礎を置く宗教の他に真の宗教は無いということになります。この天主からの啓示は、この世の初めから与えられ、旧約の律法の下に続けられ、キリスト・イエズス自身が、新法においてそれを完成させたのです。しかし、天主が語られたその時より(これは歴史が証明するところですが)、人間が、天主の語られる時に彼を信じ、天主が命ずる時には彼に従う絶対の義務を持つことは明らかです。そして、私たちはこの2つの義務を良く果たすことが出来るのです。何故なら、天主の栄光と私たち自身の救霊とのために働くために、天主の御独り子は地上にその教会を創立されたからです。
ところで、キリスト者と自称する者たちは一つの教会が、そして唯一の教会がキリストによって立てられたことを信じない人は一人もいない、と思います。
6 しかし、その次に、教会の創始者の意志によれば、その教会の本性は何なのかと彼らに尋ねると彼らやもはや同意を見ません。
例えば、彼らの多くは、キリストの教会が目に見えるものであるべきこと、信者たちの唯一の目に見える形の団体となること、一つの教導権と唯一の統治のもとに唯一の同じ教えを全てが口にすることを否定しています。彼らによれば、反対に、目に見える教会とは、外でもなく「時としては互いに矛盾さえする、さまざまな教えに従うさまざまなキリスト者の共同体の連合」でしかないのです。
私たちの主イエズス・キリストは、しかしながら、ご自分の教会を完全な社会として創立されました。即ち、教会はその本性からして、外的(物理的)性質を備え、私たちの感覚が感じることのできるもの、唯一の頭の指導の下に、教えと説教により、天の聖寵の源である秘跡を執行することにより、将来に全人類の救いを与えるという目的を持っています(ヨハネ3:5,6:48-59,20:22、マテオ18:18)。それゆえ、主は教会を一つの王国(マテオ13)、一つの家(マテオ16:18)、一つの檻(ヨハネ10:16)、一つの群れ(ヨハネ21:14-17)にたとえられました。
従って、教会の創立者の死の後、更に、御教えを広めるようにと命を受けたその最初の弟子たちの死の後、かくも素晴らしく創立された教会は滅びることも消滅することもできませんでした。何故なら、教会は時と場所を越えて全ての人を救いへと導くようにとの命令を受けたからでした。『行って全ての国に教えよ(マテオ28:20)』と。教会は、この使命を永久に遂行する際に、『見よ、わたしは毎日世の終わりまでおまえたちと共にいる』(マテオ28:20)と言うこの荘厳な約束の力により、キリストご自身から、その絶え間無い助けを受けるのです。それにもかかわらず、教会が、衰えたり座礁したりすることができたでしょうか。
ですから、キリストの教会が、今日なお、今まで通り存在するのみならず、この教会は、常に使徒の時代の教会と同一のままでいることは必然です。
もしそうでないなら、(これは認めることができませんが)わたしたちの主イエズス・キリストはそのご計画を果たすことができなかったか、あるいは地獄の門も教会に打ち勝つことは無いだろう(マテオ16:18)と断言したのは間違いだった、と言わざるを得なくなります。
7 この全ての問題の基礎にある、そして、私が上述したようにキリスト教の諸教会を連合させるための非カトリック者の多くの活動と努力が出てくる、その誤謬を示し、それに反論する時が来ました。
この計画の作者らは、キリストのこの御言葉を引用するのを常とします。『全てが一つになるように。一つの群れ、一つの牧者となるだろう』(ヨハネ17:21,10:16)と。
あたかも彼らによれば、キリスト・イエズスの祈りと長いが今に至るまで死文書となっていたかのように、彼らは「唯一の真の教会の性質である信仰と統治の一致が、今に至るまでほとんど存在したことも無く今も存在していない」ということを、「本当のことを言えば、それを願い、時としては共通の意志の疎通により実現できるのだが、しかし、それはやはり一種のユートピアとして考えるべきである」ということを支持しています。
彼らは加えてこういうのです。『教会はそれ自体その本性からして分かれている。即ち、教会は、教義のうえでいくらかの共通点を持ちながらも、その他の点でそれぞれ異なる更に細分化された多くの教会、又は、個別の共同体によって構成されている。そしてそれぞれの教会は、同じ権利を享受する。特に使徒の時代から最初の幾つかの公会議までは、教会は一つであり唯一だった。そこで、たとえ最も古くからの論争であれ、教義の違いであれ、今日までこれらの教会を分裂し続けているものは、忘れ取り去らねばならない。更に別の教義上の真理とともに、共通の信仰の確かな基準を提示し、築き上げなければならない。この信仰宣言において、彼らは自分たちが知る以上に、互いが兄弟であると感じるようになるだろう。更に、さまざまな教会や共同体が、一度、全世界的な一種の連邦を結べば不敬虔の進歩に対抗して力強く勝利を勝ち取るとるために戦うことができるようになるだろう。…』
8 これが、尊敬する兄弟たちよ、皆が繰り返し説くところです。しかし中には、『プロテスタント主義が、慰めになり有益な、いくらかの教義あるいは何らかの外的儀式をあまりにも良く考えもせずに、捨ててしまったが、ローマ教会はそれをまだ保持している』と説き、譲歩する者たちもいます。
実のところ彼らは、この(ローマ)教会自身が、福音に反するというよりも、むしろ『福音に幾らかそぐわない幾つかの教えを付け加え、信者にそれを信じるように押し付けたので、初代の宗教から迷い腐敗した』とあわてて言い足しています。
彼らはそれらの付け加えられた教えとしていろいろある中で、特に、ペトロとローマ司教座に於けるその後継者たちに帰せられた裁治権の首位性を挙げています。彼らのうちで僅かに少数はローマ司教に名誉上の首位を、あるいは裁治権か権威の権能を幾らか譲歩することに同意はします。しかし、この首位権は神権に基づくものではなく、『信者たちのなんらかの同意から得られたところである』とします。他の者たちは、『雑種の』と呼べる彼らの集まりが、ローマ教皇その人によって司られることを願いさえします。
しかし、キリスト・イエズスにおいて兄弟的な交わりをしきりに説く非カトリックの多くは、イエズス・キリストの代理者が教えを説く時には、それに従おうともせず、彼が命じる時、それに従順たろうともしません。しかし彼らは喜んでローマ教会と同じレベルで、同輩の者として話し合おうとするでしょう。しかし、現実には、彼らがもしそうしたとしたら全く疑いもなく彼らは、彼らを今でもキリストの唯一の群れの外に迷わせ放浪させているまさにその誤りを放棄しなくても大丈夫だという考えを持ってしか、いかなる同意をも結ばないでしょう。
この条件の下では、使徒座はいかなる口実の下であろうとこれらの集いに参加することができず、いかなる犠牲を払ってまでもカトリック信者は、その賛同あるいは行動によってこれらに好意を与えることができないことは一目瞭然です。
9 そうする(=誤謬を持ったままでの一致に賛同する)ことによって、カトリック信者は、或る一つの偽りの宗教に、キリストの唯一の教会に全くよそ者である宗教に、権威を与えることになるってしまうでしょう。
私は真理が、特に、啓示された真理が、この様に疑問視されるがままになるのを黙認することができるでしょうか。いえ、私がそうすることは邪悪の極みでしょう。
実に、これは、啓示された真理を守ることに関わるのです。全ての国々が、福音の信仰について教えを受けるために、キリスト・イエズスはその使徒たちを遣わされたました。それは、まさしく、全ての国々へとであったのですから、また、彼らのほんの僅かな誤謬さえも恐れ給い、主は、聖霊が全ての真理を彼らに教えるように望まれたのですから、その頭また守護者として天主ご自信をもつ教会に於いて、使徒たちのこの教えが、完全に既に消えうせたり、幾らかの大きな変更を受けたということは、認められ得ることなのでしょうか。更に、私たちのあがない主の明らかな宣言に基づいて、もし福音が使徒の時代だけでなく更に全ての時代に関わるものだとしますと、信仰の対象が、時と共にいろいろの意見、更にさまざまな矛盾までも、今日黙認され得るほどに、かくも曖昧で不確かなものになってしまったと言うことを認め得るでしょうか。もしそうであるとすれば、聖霊が使徒たちのうえに降臨したこと、この同じ聖霊が教会に絶えずおられること、イエズス・キリストご自身のご説教が、数世紀も前からその全ての有効性その全ての福祉を失ったということを支持しなければならなくなります。これは明らかに冒涜的な断言です。
それだけではありません。天主の御独り子は、その使者に全ての国々に教えよと命じ、他方で『天主によってあらかじめ立てられた証人』(使徒10:41)を信じる義務を全ての人に負わせられました。主はこのみ言葉によってその掟を裁可されました。「信じて洗礼を受ける者は救われ、信じない者は排斥される」(マルコ16:16)と。ところで、キリストのこの2重の掟は、即ち永遠の救いを得るための教える掟と、信じる掟は、もし教会が福音の教えを完璧にかつ公に示し、かつ、この教えの公示において、教会が全ての誤りから免れている、とした時に初めて守りかつ理解することができるのです。
この地上のどこかに真理の遺産が存在することを信じてはいる迷ったものがまだいるかも知りませんが、彼らがそれを発見しそれに溶け込むために、人生がようやく足りるか足りないかの長い勉強と議論の労苦がそれの追求のために必要でしょう。従って、無限に良い天主が予言者とその独り子によってただ僅かに、年老いた少数の人々だけに啓示を示したに過ぎず、人々をその生涯の長きにわたって導くことのできる信仰と教えと道徳律とを与えようとは夢想だにしなかったということになってしまいます。
10 諸教会を連合させようともくろむこれらの汎キリスト教徒は、全てのキリスト者間の愛徳を発展させるという崇高な計画を遂行しているかのように見えます。
しかし、信仰を犠牲にしてまでの愛徳の増加をどうして想像できるでしょうか。愛徳の使徒である聖ヨハネ自身が、その福音の中で言わばイエズスの聖心の秘密を明かすのですが、そして、互いに愛し合いなさいと新しい掟を信徒たちに絶えず繰り返すこの使徒が、キリストの教えを完全にそして純粋に宣言しない者たちとの全ての関係を一切断て、と言うことを知らない者はいません。
『もしこの教えをもたずにあなたたちのところに来るものがあれば、その人を家にいれず挨拶もするな。(2ヨハネ10)』
11 従って、愛徳の土台は真摯で完全な信仰ですから、信仰の一致こそがキリストの弟子たちを一つに結ぶ第一の絆でなければなりません。
そうならば、信仰に関する問題に於いてでさえ自分独自の見解や思潮を保持しつつ、多大に他人の意見と矛盾していても、キリスト者の間で締結を結ぶ可能性さえ考えられるでしょうか。
私はあなたたちに尋ねます。一体いかなる信仰表明でもって、互いに矛盾する意見の人々を一つで唯一の連合に結ぶことができるとでも言うのでしょうか。
例えば、或る者たちは、聖伝は啓示の正真正銘の源であると断言し、或る者たちはそれを否定しています。
或る者は教会の位階制度は天主のみ旨によって、司教・司祭そして他の聖職者から成ると考えますが、他の者たちは位階制度は時代情勢やその時期により少しずつ導入されたと断言します。
或る者は、全実体変化と呼ばれるパンとブドウ酒のいとも素晴らしいこの変化のお陰で、いとも聖なる聖体において、現実に現存するキリストを礼拝します。他の者たちはキリストの体は、信仰によってか、又は印と秘跡の力によってでしか、そこに現存しないと言います。前者は聖体の秘跡において犠牲と秘跡の本性を同時に認めますが、後者は最後の晩餐の思いであるいは記念以外の何物をも認めません。
或る者は諸聖人、とりわけ母なる童貞女がキリストと共に天で君臨していると信じ、従って、彼らを呼び求め、彼らに祈り、彼らの聖画を敬うべきであると信じています。他者はこの崇敬は非合法であり、天主と人との唯一の仲介者であるキリストにふさわしい名誉に反していると言います。
12 教会の一致が、信仰の唯一の規範と、全てのキリスト者の同じ信仰によらねば生まれえませんのに、これらの意見の深い相違を目前にして、私たちはほとんど教会の一致を見ることができません。
しかし、それ(意見の相違にも関わらず一致をもくろむこと)によって、人々は宗教をなおざりにする、即ち[どの宗教でも結局は一緒だとする]宗教無差別主義(indifferentism)、あるいは、近代主義(modernism)と呼ばれるものにたどり着くだろうと私たちは良く知っています。これらの誤謬に犯された不幸なものは、「教義上の真理は絶対ではなく、相対的、即ち、真理は時と場所のいろいろな要求に応じて、また霊魂のさまざまな必要に応じて適応しなければならない、何故かというと、教義上の真理は不変の啓示の中に含まれず、その本性からして人の生活に適応しなければならない」と言っています。
13 信仰上の教義に関して、全く許されない区別が、また存在します。それは、全ての人によって認められなければならない信仰箇条と、信者が同意してもしなくても自由に任されている信仰箇条とに分け、『基本的』信仰箇条と『非基本的』信仰箇条との区別を、信仰箇条の中に導入するのが良いと或るものが判断した区別です。
ところで、信仰という超自然の徳の形相的対象は、啓示し給う天主の権威、この種の区別を全く受け付けることの無い権威です。[つまり、「何故信じるのか」と言うと、真理そのものであり、間違えることも、欺くこともあり得ない天主を信じるからです。言い換えると、信仰を信仰たらしめるその中核は、天主にあるのですから、天主の啓示することは全て区別なく信じなければならないのです。]
ですから、キリストの真の弟子たちは全て、例えば、至聖なる聖三位の玄義を無原罪の御孕りの教義を信じるのと同じく信じ、私たちの主の御托身を信じるのと同じく、勿論[第1]バチカン公会議が宣言した意味でローマ教皇の不可謬の教導権を信じます。そしてこれらの真理は、いろいろな時代に、そしてつい最近にでさえ、教会によって荘厳に宣言され裁可されたという理由で、確かではないとか、信ずるに値しない、などということは一切無いのです。何故かと言うと、それは天主が全てそれを啓示されたではないでしょうか。
14 教会の教導権は、天主のご計画によって啓示された諸真理の遺産を、永久にそのまま守るために、そして、それに関する知識を人々に保証するために、この地上に確立され、ローマ教皇とそれと交わりのある全ての司教らによって毎日行使されます。
そしてこの教導権は、更に、異端者たちの誤謬や攻撃にもっと効果的に反対するために、あるいは聖なる教えの或る点についてより明確に又はより詳しく説明するために必要な時はいつでも、信者たちの精神にそれらをより良く染みとおらせるために、勅令によって機会を得た荘厳な定義を下す使命をも含んでいます。この特別教導職を使ったとしても、それは天主が教会に遺産として預けた啓示の中に、少なくとも含蓄的に含まれていた諸真理の全てに、いかなる発明、いかなる付け足しをも、導入するのではありません。ただ、あるいは特別教導職は、その時まで或る人々にとっては不明瞭に見え得たことを宣言する、あるいは、以前には何らかの議論の対象たり得た或る点について、信ずるべきこととして信仰の義務を負わせるだけです。
15 尊敬する兄弟たちよ、それゆえこの使徒座がカトリック信者に、非カトリックの集いに参加することを決して許さなかったのが何故かが理解できただろうと思います。
キリスト者の一致は、反乱分子がかつで自分たちの不幸にして捨て去ってしまった唯一の真なるキリストの教会に立ち戻るのを促すことによるほか得られません。即ち、誰によっても目に見えることのでき、人々の共通の救いのために主ご自身が創立されたごとくそのまま留まるように、その創立者の意志によってそう定められたキリストの唯一の本当の教会に立ち戻ることです。
何故かというと、かつて歴史の流れの中で、キリストの神秘的な花嫁は一度も汚されたことが無く、将来にわたってそのようなことが決してないからです。
このことを聖チプリアノがこう証言しています。『キリストの花嫁は辱められることができない。彼女は腐敗することがなく純粋である。彼女は一つの棲み家しか知らない。そして彼女の貞潔なる謹みにより、自分の唯一の円居の聖性を疵なく守る』と。この聖なる殉教者(聖チプリアノ)は『天主の恒常性の実りであり、天的秘跡によって固められたこの一致が、不和の意志の衝撃で崩れさる危険にさらされている』と言うことが想像できるだろうか、と正しくも全く驚いています。キリストの神秘体、即ち、教会は、物理的な肉体と同じように唯一であり均一であり、完全に節々がついています。従ってこの神秘体が互いに散らばり隔離している肢体によって作られ得ると言うことを主張することは、全く非論理であり笑い事です。従って、キリストの神秘体に一致してないものは誰であれその肢体たり得ず、その頭キリストにつながることもできません。
16 更に、このキリストの唯一の教会において、ペトロと、ペトロの合法的な後継者たちの権威と首位権を受け入れないもの、認めないもの、それに従わないものは、この教会の中に留まることは出来ません。フォティウス(820-891年、ギリシア離教の首謀者)と宗教改革者たちの誤謬にはまりこんでいる人たちの先任者たちは、霊魂の第一の牧者であるローマの司教に従わなかったではないですか。彼らの子供たちは、残念なことに父の家を離れてしまったのです。しかしながら、たとえ彼らが家を出ても、この家は地に落ち、永遠に滅びてしまったのではありません。何故なら、天主はこの家を支え給うからです。ですから、願わくは彼らが父の家に戻ってきますように。父は、使徒座に対した彼らがなした侮辱を全て忘れ、最高の愛に満ちた歓迎を持って彼らを受け入れるでしょう。もしも、彼らが常に口にするように、彼らが私と私の全ての群とに一致をしたいと望むのなら、何故、彼らは教会の中に、“全ての信者の母にして教師である”(第四ラテラン公会議)教会に、急いで戻ってこないのでしょうか?願わくは、彼らが真の礼拝の言葉を聞き入れますように。
「これ(カトリック教会)こそが真理の泉、これこそが信仰の家、これこそが天主の神殿、もし誰かがここに入らないのなら、あるいは、もし誰かがここから出ていくのなら、彼は命と救いの希望のよそ者となる。願わくは、誰も頑固な論争によって騙されないように。何故なら、ここに命と救いがあり、彼らの利益が、注意深く、熱心に心に秘めておかれない限り、彼らは永遠に破滅するだろう。」(Divin. Inst. IV, 30, 11-12)
17 ですから、この都市[ローマ]に建てられ、使徒の頭聖ペトロとパウロの血潮によって聖別された使徒座にこそ、そうです、“カトリック教会の基礎にして生みの親”であるこの聖座にこそ、離れた子供たちは戻って来なくてはならないのです。
願わくは彼らが戻って来ることを。しかし、生ける天主の教会、真理の柱であり支えである教会が、信仰の完全性を犠牲にして誤謬を黙認するだろうという考えや期待などを持たずに、かえって反対に、教会の教導職とその統治とに自らを従えるという意向を持って帰って来るように。
願わくは、私の多くの前任の教皇たちがついに見ることの出来なかったこの喜ばしい出来事が、私の身に起こりますように。忌まわしい諍いのために遠ざかってしまったこの子らについて、私は心から涙するのですが、願わくは、私が、この子らを私の父の心を持って抱き受け入れることができますように。
私たちの天主にして救い主の意志は、全ての人々が救われ真理の知識へと到達することですが、願わくは、私たちが全力を尽くしてこれらの道を迷える霊魂たちを全て教会の一致へと連れ戻そうとするのをひれ伏して願う時、主が私たちの祈りを聞き給わんことを。
これ以上重大なことの無いこの問題に関し、私は天主の聖寵の御母、全ての異端を打ち砕いたお方、キリスト信者の助け、聖なる童貞女マリアが、『全ての人々が“平和の絆において霊の一致に忠実に留まりつつ”(エフェゾ4:3)その天主なる御子のみ声を聞くことのできるそのかくも願わしい日』が一日も早く来るように私たちのためにとりなして下さるよう、人々が聖母の取り次ぎに馳せ寄せるよう、私は訴えそれを望みます。
18 尊敬すべき兄弟たちよ、あなた達はもうこの望みが、どれ程私にとって大切なものであるか知りました。そして、私は、私の子供たちも、カトリックの群に属する人々だけでなく、私たちから離れてしまった人々も、このことを知ってもらいたいと思います。
もし彼らが謙遜に天からの光を乞うならば、イエズス・キリストの唯一の真の教会を認め、そこに入り、完全な愛徳において私たちとともに遂に一致するということは、疑いの余地がありません。
尊敬すべき兄弟たちよ、このことが実現することを期待しつつ、そして、私の父としての善意の印として、私は、あなた達と、あなた達の聖職者や、信者の皆さんに、深い愛を込めて使徒的祝福を送ります。
ローマ、聖ペトロの傍らにて、1928年、教皇在位6年目、1月6日私たちの主イエズス・キリストの御公現の祝日において
真実の宗教の一致について
教皇ピオ十一世 1928年1月6日
教皇ピオ十一世は、尊敬すべき兄弟たちに挨拶と使徒的祝福を送ります。
1 いつかは必ず死ななければならない人間の心は人類の共通善を求め、私たち全てを互いに緊密に結びつけようとし、人類兄弟の絆を強めたい、また拡張させたいと切望していますが、このような望みに今日ほど駆られたことはかつてありませんでした。
世界はいまだ、平和の実りを完全に享受しているわけではありません。その反対に、さまざまなところでは新旧の反目がまだ、反乱や対立という形で吹き出ています。このようないざこざは、諸国の平静な繁栄に影響を及ぼしています。そのため、これを平定するには、これらの諸国の政府責任者が、協力して積極的に良い意志を持って努力するしか、為すすべもありません。従って現代は人類の一致がもはや疑問視されなくなっており、特に人類の普遍の家族関係を考慮し、全ての国々が日々互いにより緊密な関係を結ばなければならないと言う望みが遍く広がったのを、理解するのは容易なことです。
2 同じような動機で、私たちの主イエズス・キリストによって発布された新法に関連することにおいても、何らかの努力が払われています。
ある人達は「宗教的感覚を完全に失ってしまった人は極めてまれである」と確信しています。そして、この確信を基礎に、諸民族を、その宗教の違いにもかかわらず、宗教生活の共通の基礎として認められる幾つかの教義を兄弟的に認めあうまでもって行くことが、容易にできるという希望を養っているようです。ですから、彼らはかなり多くの聴衆者が出入りする会合、集会、講演会などを開いています。彼らは全ての人々を区別無く、ありとあらゆる種類の不信者、信者、更に不幸なことにキリストから離れ苦々しくそして頑固にキリストの神性とその使命を否定するものまでもその公演に招待しています。
このような骨折りにたいして、カトリック信者はいかなる賛同をも与えてはなりません。何故かというと、彼らの活動が“全ての宗教は、たとえ形は違っていても、全て等しく、私たちを天主に導き、私たちをして天主の力の前に尊敬を持って屈めさせる自然の生まれつきの感情を表している”という意味で“どの様な宗教でも、多かれ少なかれ、良いものであり称賛すべきである”という、間違った考えに基づいているからです。
彼らは、ただ単に誤謬のうちに迷い込んでいるだけではありません。この誤りを支持しつつ、彼らは、宗教に関する本当の観念を歪め、同時にそれを拒んでいるのです。そうして彼らは、[どんな宗教でも同じだという]宗教に関する誤った考えを持ち、少しずつ[真の宗教に関する問題よりも、この地上のことを重視する]超自然否定主義(naturalism)そして、[真の宗教も、真の天主もないのだという]無神論へと歩んでいます。ですから、このような誤った教えの賛同者となり宣伝者に合同することは、天主によって啓示された宗教[すなわちカトリック教]を全く打ち捨てることであるということは完全に明らかです。
3 しかしながら、それが全てのキリスト者の一致を促進させることとなりますと、より簡単に多くの霊魂たちは、この達成すべき目標の素晴らしさに魅せられて、誤った道に引きずり込まれてしまいます。
よく耳にすることですが、『全てキリストの聖名を呼び求めるものが、相互の非難をやめて、互いの愛によって遂に一致するのが正しく、更に義務ではないか? もし誰かが、キリストを愛していると言いながらも、主が御父に願った、ご自分の弟子らが一つであるように(ヨハネ17:21)とのキリストご自身の願いを実現させるため、全ての力を尽くして追求せずに、どうしてキリストを愛するなどとあえて主張できるのか。キリストは、ご自分の弟子らが、その他の人々から相互の愛の印によって印され区別されることを願われたではないか。主曰く“全ての人々は、もしあなたたちが互いに愛するなら、これによってあなたたちがわたしの弟子であると知るだろう”(ヨハネ13:35)と。願わくは、全てのキリスト者が一つであるように。何故なら、現代、日々、一層ひどく不敬虔の毒は広がり、福音の壊滅を準備しているからだ。そのさなかに、この一致によって、この不敬虔の毒を、より一層効果的に排斥できるではないか』と。
これや、これと似たようなことを、[教派に偏らず、福音の教えを純粋に伝えると主張する]『汎キリスト者』と呼ばれる人々が常に教えています。ところで、このような人々が数少なくまれでバラバラな個人に過ぎない、と思うのは大間違いです。彼らは、信仰の真理に関していろいろな人々がいるにもかかわらず、完全な組織を幾つも作り、非カトリック者が指導する会をあらゆるところに創立しています。この事業はさまざまなところで好感を得、更に、多くのカトリック信者の好感さえも勝ち取る程に活発に活動しています。何故なら、この事業が、私たちの母なる聖なる公教会の願いに沿った一致を実現できるという、見かけ上の希望を提示しているからです。確かに、公教会は道に迷った自分の子らを、自分の胸元に呼び戻し連れ戻したいということをひたすら願っています。しかし、これらの美しく魅惑的な言葉の下に、間違いなく、最も危険でカトリック信仰の基盤をそこから覆す誤謬が滑り込んでいます。
4 私の持つ使徒継承の責務は、主の羊の群れを迷わしに来る、かの危険な誤謬を禁止することです。そのため、尊敬する兄弟たちよ、私は自分の責務を良心に従って果たすため、このような悪を予防するようにと、諸君の熱心に呼びかけます。私は、諸君の書物により、また言葉により、それぞれが信者たちに私がこれから説明する原理と理由を容易に理解させることができると確信しています。カトリック信者は、諸君の努力により、「キリスト者という名を自称する全ての人々を、まぜこぜの一致であろうと、一つの体にまとめることを目指す事業」に対して、一体どの様な見解と、どの様な行動をとったらよいか、を知ることができるでしょう。
5 全てのものの作り主である天主は、私たちが天主を知り、天主に仕えるために、私たちを創造されました。私たちの存在の原理であるが為に、天主は私たちが天主に仕えるのを要求する絶対の権利があります。天主はなさろうと思えば、人の心に刻み込んだ自然法だけを、人間を創造した時に規範として人に与え、そしてその後に、通常の摂理によって自然法が発展するようにすることができました。
しかしながら、天主は、人間が遵守すべき幾つかの実定法の掟を、自然法に添えるのがより良いと判断されました。そして、時代の流れの中、即ちこの世の始まりからイエズス・キリストの御到来とその御説教まで、天主ご自身が、人間に“全ての理性的存在がその創造主に対して負うところの義務”について教えられたのです。『その昔天主は私たちの祖先に、預言者たちにいくたびもいろいろな方法で語られたが、この最後の時において御子を通して我らに語られた。』(ヘブレオ1:1)
そこから、この天主の啓示のうえに基礎を置く宗教の他に真の宗教は無いということになります。この天主からの啓示は、この世の初めから与えられ、旧約の律法の下に続けられ、キリスト・イエズス自身が、新法においてそれを完成させたのです。しかし、天主が語られたその時より(これは歴史が証明するところですが)、人間が、天主の語られる時に彼を信じ、天主が命ずる時には彼に従う絶対の義務を持つことは明らかです。そして、私たちはこの2つの義務を良く果たすことが出来るのです。何故なら、天主の栄光と私たち自身の救霊とのために働くために、天主の御独り子は地上にその教会を創立されたからです。
ところで、キリスト者と自称する者たちは一つの教会が、そして唯一の教会がキリストによって立てられたことを信じない人は一人もいない、と思います。
6 しかし、その次に、教会の創始者の意志によれば、その教会の本性は何なのかと彼らに尋ねると彼らやもはや同意を見ません。
例えば、彼らの多くは、キリストの教会が目に見えるものであるべきこと、信者たちの唯一の目に見える形の団体となること、一つの教導権と唯一の統治のもとに唯一の同じ教えを全てが口にすることを否定しています。彼らによれば、反対に、目に見える教会とは、外でもなく「時としては互いに矛盾さえする、さまざまな教えに従うさまざまなキリスト者の共同体の連合」でしかないのです。
私たちの主イエズス・キリストは、しかしながら、ご自分の教会を完全な社会として創立されました。即ち、教会はその本性からして、外的(物理的)性質を備え、私たちの感覚が感じることのできるもの、唯一の頭の指導の下に、教えと説教により、天の聖寵の源である秘跡を執行することにより、将来に全人類の救いを与えるという目的を持っています(ヨハネ3:5,6:48-59,20:22、マテオ18:18)。それゆえ、主は教会を一つの王国(マテオ13)、一つの家(マテオ16:18)、一つの檻(ヨハネ10:16)、一つの群れ(ヨハネ21:14-17)にたとえられました。
従って、教会の創立者の死の後、更に、御教えを広めるようにと命を受けたその最初の弟子たちの死の後、かくも素晴らしく創立された教会は滅びることも消滅することもできませんでした。何故なら、教会は時と場所を越えて全ての人を救いへと導くようにとの命令を受けたからでした。『行って全ての国に教えよ(マテオ28:20)』と。教会は、この使命を永久に遂行する際に、『見よ、わたしは毎日世の終わりまでおまえたちと共にいる』(マテオ28:20)と言うこの荘厳な約束の力により、キリストご自身から、その絶え間無い助けを受けるのです。それにもかかわらず、教会が、衰えたり座礁したりすることができたでしょうか。
ですから、キリストの教会が、今日なお、今まで通り存在するのみならず、この教会は、常に使徒の時代の教会と同一のままでいることは必然です。
もしそうでないなら、(これは認めることができませんが)わたしたちの主イエズス・キリストはそのご計画を果たすことができなかったか、あるいは地獄の門も教会に打ち勝つことは無いだろう(マテオ16:18)と断言したのは間違いだった、と言わざるを得なくなります。
7 この全ての問題の基礎にある、そして、私が上述したようにキリスト教の諸教会を連合させるための非カトリック者の多くの活動と努力が出てくる、その誤謬を示し、それに反論する時が来ました。
この計画の作者らは、キリストのこの御言葉を引用するのを常とします。『全てが一つになるように。一つの群れ、一つの牧者となるだろう』(ヨハネ17:21,10:16)と。
あたかも彼らによれば、キリスト・イエズスの祈りと長いが今に至るまで死文書となっていたかのように、彼らは「唯一の真の教会の性質である信仰と統治の一致が、今に至るまでほとんど存在したことも無く今も存在していない」ということを、「本当のことを言えば、それを願い、時としては共通の意志の疎通により実現できるのだが、しかし、それはやはり一種のユートピアとして考えるべきである」ということを支持しています。
彼らは加えてこういうのです。『教会はそれ自体その本性からして分かれている。即ち、教会は、教義のうえでいくらかの共通点を持ちながらも、その他の点でそれぞれ異なる更に細分化された多くの教会、又は、個別の共同体によって構成されている。そしてそれぞれの教会は、同じ権利を享受する。特に使徒の時代から最初の幾つかの公会議までは、教会は一つであり唯一だった。そこで、たとえ最も古くからの論争であれ、教義の違いであれ、今日までこれらの教会を分裂し続けているものは、忘れ取り去らねばならない。更に別の教義上の真理とともに、共通の信仰の確かな基準を提示し、築き上げなければならない。この信仰宣言において、彼らは自分たちが知る以上に、互いが兄弟であると感じるようになるだろう。更に、さまざまな教会や共同体が、一度、全世界的な一種の連邦を結べば不敬虔の進歩に対抗して力強く勝利を勝ち取るとるために戦うことができるようになるだろう。…』
8 これが、尊敬する兄弟たちよ、皆が繰り返し説くところです。しかし中には、『プロテスタント主義が、慰めになり有益な、いくらかの教義あるいは何らかの外的儀式をあまりにも良く考えもせずに、捨ててしまったが、ローマ教会はそれをまだ保持している』と説き、譲歩する者たちもいます。
実のところ彼らは、この(ローマ)教会自身が、福音に反するというよりも、むしろ『福音に幾らかそぐわない幾つかの教えを付け加え、信者にそれを信じるように押し付けたので、初代の宗教から迷い腐敗した』とあわてて言い足しています。
彼らはそれらの付け加えられた教えとしていろいろある中で、特に、ペトロとローマ司教座に於けるその後継者たちに帰せられた裁治権の首位性を挙げています。彼らのうちで僅かに少数はローマ司教に名誉上の首位を、あるいは裁治権か権威の権能を幾らか譲歩することに同意はします。しかし、この首位権は神権に基づくものではなく、『信者たちのなんらかの同意から得られたところである』とします。他の者たちは、『雑種の』と呼べる彼らの集まりが、ローマ教皇その人によって司られることを願いさえします。
しかし、キリスト・イエズスにおいて兄弟的な交わりをしきりに説く非カトリックの多くは、イエズス・キリストの代理者が教えを説く時には、それに従おうともせず、彼が命じる時、それに従順たろうともしません。しかし彼らは喜んでローマ教会と同じレベルで、同輩の者として話し合おうとするでしょう。しかし、現実には、彼らがもしそうしたとしたら全く疑いもなく彼らは、彼らを今でもキリストの唯一の群れの外に迷わせ放浪させているまさにその誤りを放棄しなくても大丈夫だという考えを持ってしか、いかなる同意をも結ばないでしょう。
この条件の下では、使徒座はいかなる口実の下であろうとこれらの集いに参加することができず、いかなる犠牲を払ってまでもカトリック信者は、その賛同あるいは行動によってこれらに好意を与えることができないことは一目瞭然です。
9 そうする(=誤謬を持ったままでの一致に賛同する)ことによって、カトリック信者は、或る一つの偽りの宗教に、キリストの唯一の教会に全くよそ者である宗教に、権威を与えることになるってしまうでしょう。
私は真理が、特に、啓示された真理が、この様に疑問視されるがままになるのを黙認することができるでしょうか。いえ、私がそうすることは邪悪の極みでしょう。
実に、これは、啓示された真理を守ることに関わるのです。全ての国々が、福音の信仰について教えを受けるために、キリスト・イエズスはその使徒たちを遣わされたました。それは、まさしく、全ての国々へとであったのですから、また、彼らのほんの僅かな誤謬さえも恐れ給い、主は、聖霊が全ての真理を彼らに教えるように望まれたのですから、その頭また守護者として天主ご自信をもつ教会に於いて、使徒たちのこの教えが、完全に既に消えうせたり、幾らかの大きな変更を受けたということは、認められ得ることなのでしょうか。更に、私たちのあがない主の明らかな宣言に基づいて、もし福音が使徒の時代だけでなく更に全ての時代に関わるものだとしますと、信仰の対象が、時と共にいろいろの意見、更にさまざまな矛盾までも、今日黙認され得るほどに、かくも曖昧で不確かなものになってしまったと言うことを認め得るでしょうか。もしそうであるとすれば、聖霊が使徒たちのうえに降臨したこと、この同じ聖霊が教会に絶えずおられること、イエズス・キリストご自身のご説教が、数世紀も前からその全ての有効性その全ての福祉を失ったということを支持しなければならなくなります。これは明らかに冒涜的な断言です。
それだけではありません。天主の御独り子は、その使者に全ての国々に教えよと命じ、他方で『天主によってあらかじめ立てられた証人』(使徒10:41)を信じる義務を全ての人に負わせられました。主はこのみ言葉によってその掟を裁可されました。「信じて洗礼を受ける者は救われ、信じない者は排斥される」(マルコ16:16)と。ところで、キリストのこの2重の掟は、即ち永遠の救いを得るための教える掟と、信じる掟は、もし教会が福音の教えを完璧にかつ公に示し、かつ、この教えの公示において、教会が全ての誤りから免れている、とした時に初めて守りかつ理解することができるのです。
この地上のどこかに真理の遺産が存在することを信じてはいる迷ったものがまだいるかも知りませんが、彼らがそれを発見しそれに溶け込むために、人生がようやく足りるか足りないかの長い勉強と議論の労苦がそれの追求のために必要でしょう。従って、無限に良い天主が予言者とその独り子によってただ僅かに、年老いた少数の人々だけに啓示を示したに過ぎず、人々をその生涯の長きにわたって導くことのできる信仰と教えと道徳律とを与えようとは夢想だにしなかったということになってしまいます。
10 諸教会を連合させようともくろむこれらの汎キリスト教徒は、全てのキリスト者間の愛徳を発展させるという崇高な計画を遂行しているかのように見えます。
しかし、信仰を犠牲にしてまでの愛徳の増加をどうして想像できるでしょうか。愛徳の使徒である聖ヨハネ自身が、その福音の中で言わばイエズスの聖心の秘密を明かすのですが、そして、互いに愛し合いなさいと新しい掟を信徒たちに絶えず繰り返すこの使徒が、キリストの教えを完全にそして純粋に宣言しない者たちとの全ての関係を一切断て、と言うことを知らない者はいません。
『もしこの教えをもたずにあなたたちのところに来るものがあれば、その人を家にいれず挨拶もするな。(2ヨハネ10)』
11 従って、愛徳の土台は真摯で完全な信仰ですから、信仰の一致こそがキリストの弟子たちを一つに結ぶ第一の絆でなければなりません。
そうならば、信仰に関する問題に於いてでさえ自分独自の見解や思潮を保持しつつ、多大に他人の意見と矛盾していても、キリスト者の間で締結を結ぶ可能性さえ考えられるでしょうか。
私はあなたたちに尋ねます。一体いかなる信仰表明でもって、互いに矛盾する意見の人々を一つで唯一の連合に結ぶことができるとでも言うのでしょうか。
例えば、或る者たちは、聖伝は啓示の正真正銘の源であると断言し、或る者たちはそれを否定しています。
或る者は教会の位階制度は天主のみ旨によって、司教・司祭そして他の聖職者から成ると考えますが、他の者たちは位階制度は時代情勢やその時期により少しずつ導入されたと断言します。
或る者は、全実体変化と呼ばれるパンとブドウ酒のいとも素晴らしいこの変化のお陰で、いとも聖なる聖体において、現実に現存するキリストを礼拝します。他の者たちはキリストの体は、信仰によってか、又は印と秘跡の力によってでしか、そこに現存しないと言います。前者は聖体の秘跡において犠牲と秘跡の本性を同時に認めますが、後者は最後の晩餐の思いであるいは記念以外の何物をも認めません。
或る者は諸聖人、とりわけ母なる童貞女がキリストと共に天で君臨していると信じ、従って、彼らを呼び求め、彼らに祈り、彼らの聖画を敬うべきであると信じています。他者はこの崇敬は非合法であり、天主と人との唯一の仲介者であるキリストにふさわしい名誉に反していると言います。
12 教会の一致が、信仰の唯一の規範と、全てのキリスト者の同じ信仰によらねば生まれえませんのに、これらの意見の深い相違を目前にして、私たちはほとんど教会の一致を見ることができません。
しかし、それ(意見の相違にも関わらず一致をもくろむこと)によって、人々は宗教をなおざりにする、即ち[どの宗教でも結局は一緒だとする]宗教無差別主義(indifferentism)、あるいは、近代主義(modernism)と呼ばれるものにたどり着くだろうと私たちは良く知っています。これらの誤謬に犯された不幸なものは、「教義上の真理は絶対ではなく、相対的、即ち、真理は時と場所のいろいろな要求に応じて、また霊魂のさまざまな必要に応じて適応しなければならない、何故かというと、教義上の真理は不変の啓示の中に含まれず、その本性からして人の生活に適応しなければならない」と言っています。
13 信仰上の教義に関して、全く許されない区別が、また存在します。それは、全ての人によって認められなければならない信仰箇条と、信者が同意してもしなくても自由に任されている信仰箇条とに分け、『基本的』信仰箇条と『非基本的』信仰箇条との区別を、信仰箇条の中に導入するのが良いと或るものが判断した区別です。
ところで、信仰という超自然の徳の形相的対象は、啓示し給う天主の権威、この種の区別を全く受け付けることの無い権威です。[つまり、「何故信じるのか」と言うと、真理そのものであり、間違えることも、欺くこともあり得ない天主を信じるからです。言い換えると、信仰を信仰たらしめるその中核は、天主にあるのですから、天主の啓示することは全て区別なく信じなければならないのです。]
ですから、キリストの真の弟子たちは全て、例えば、至聖なる聖三位の玄義を無原罪の御孕りの教義を信じるのと同じく信じ、私たちの主の御托身を信じるのと同じく、勿論[第1]バチカン公会議が宣言した意味でローマ教皇の不可謬の教導権を信じます。そしてこれらの真理は、いろいろな時代に、そしてつい最近にでさえ、教会によって荘厳に宣言され裁可されたという理由で、確かではないとか、信ずるに値しない、などということは一切無いのです。何故かと言うと、それは天主が全てそれを啓示されたではないでしょうか。
14 教会の教導権は、天主のご計画によって啓示された諸真理の遺産を、永久にそのまま守るために、そして、それに関する知識を人々に保証するために、この地上に確立され、ローマ教皇とそれと交わりのある全ての司教らによって毎日行使されます。
そしてこの教導権は、更に、異端者たちの誤謬や攻撃にもっと効果的に反対するために、あるいは聖なる教えの或る点についてより明確に又はより詳しく説明するために必要な時はいつでも、信者たちの精神にそれらをより良く染みとおらせるために、勅令によって機会を得た荘厳な定義を下す使命をも含んでいます。この特別教導職を使ったとしても、それは天主が教会に遺産として預けた啓示の中に、少なくとも含蓄的に含まれていた諸真理の全てに、いかなる発明、いかなる付け足しをも、導入するのではありません。ただ、あるいは特別教導職は、その時まで或る人々にとっては不明瞭に見え得たことを宣言する、あるいは、以前には何らかの議論の対象たり得た或る点について、信ずるべきこととして信仰の義務を負わせるだけです。
15 尊敬する兄弟たちよ、それゆえこの使徒座がカトリック信者に、非カトリックの集いに参加することを決して許さなかったのが何故かが理解できただろうと思います。
キリスト者の一致は、反乱分子がかつで自分たちの不幸にして捨て去ってしまった唯一の真なるキリストの教会に立ち戻るのを促すことによるほか得られません。即ち、誰によっても目に見えることのでき、人々の共通の救いのために主ご自身が創立されたごとくそのまま留まるように、その創立者の意志によってそう定められたキリストの唯一の本当の教会に立ち戻ることです。
何故かというと、かつて歴史の流れの中で、キリストの神秘的な花嫁は一度も汚されたことが無く、将来にわたってそのようなことが決してないからです。
このことを聖チプリアノがこう証言しています。『キリストの花嫁は辱められることができない。彼女は腐敗することがなく純粋である。彼女は一つの棲み家しか知らない。そして彼女の貞潔なる謹みにより、自分の唯一の円居の聖性を疵なく守る』と。この聖なる殉教者(聖チプリアノ)は『天主の恒常性の実りであり、天的秘跡によって固められたこの一致が、不和の意志の衝撃で崩れさる危険にさらされている』と言うことが想像できるだろうか、と正しくも全く驚いています。キリストの神秘体、即ち、教会は、物理的な肉体と同じように唯一であり均一であり、完全に節々がついています。従ってこの神秘体が互いに散らばり隔離している肢体によって作られ得ると言うことを主張することは、全く非論理であり笑い事です。従って、キリストの神秘体に一致してないものは誰であれその肢体たり得ず、その頭キリストにつながることもできません。
16 更に、このキリストの唯一の教会において、ペトロと、ペトロの合法的な後継者たちの権威と首位権を受け入れないもの、認めないもの、それに従わないものは、この教会の中に留まることは出来ません。フォティウス(820-891年、ギリシア離教の首謀者)と宗教改革者たちの誤謬にはまりこんでいる人たちの先任者たちは、霊魂の第一の牧者であるローマの司教に従わなかったではないですか。彼らの子供たちは、残念なことに父の家を離れてしまったのです。しかしながら、たとえ彼らが家を出ても、この家は地に落ち、永遠に滅びてしまったのではありません。何故なら、天主はこの家を支え給うからです。ですから、願わくは彼らが父の家に戻ってきますように。父は、使徒座に対した彼らがなした侮辱を全て忘れ、最高の愛に満ちた歓迎を持って彼らを受け入れるでしょう。もしも、彼らが常に口にするように、彼らが私と私の全ての群とに一致をしたいと望むのなら、何故、彼らは教会の中に、“全ての信者の母にして教師である”(第四ラテラン公会議)教会に、急いで戻ってこないのでしょうか?願わくは、彼らが真の礼拝の言葉を聞き入れますように。
「これ(カトリック教会)こそが真理の泉、これこそが信仰の家、これこそが天主の神殿、もし誰かがここに入らないのなら、あるいは、もし誰かがここから出ていくのなら、彼は命と救いの希望のよそ者となる。願わくは、誰も頑固な論争によって騙されないように。何故なら、ここに命と救いがあり、彼らの利益が、注意深く、熱心に心に秘めておかれない限り、彼らは永遠に破滅するだろう。」(Divin. Inst. IV, 30, 11-12)
17 ですから、この都市[ローマ]に建てられ、使徒の頭聖ペトロとパウロの血潮によって聖別された使徒座にこそ、そうです、“カトリック教会の基礎にして生みの親”であるこの聖座にこそ、離れた子供たちは戻って来なくてはならないのです。
願わくは彼らが戻って来ることを。しかし、生ける天主の教会、真理の柱であり支えである教会が、信仰の完全性を犠牲にして誤謬を黙認するだろうという考えや期待などを持たずに、かえって反対に、教会の教導職とその統治とに自らを従えるという意向を持って帰って来るように。
願わくは、私の多くの前任の教皇たちがついに見ることの出来なかったこの喜ばしい出来事が、私の身に起こりますように。忌まわしい諍いのために遠ざかってしまったこの子らについて、私は心から涙するのですが、願わくは、私が、この子らを私の父の心を持って抱き受け入れることができますように。
私たちの天主にして救い主の意志は、全ての人々が救われ真理の知識へと到達することですが、願わくは、私たちが全力を尽くしてこれらの道を迷える霊魂たちを全て教会の一致へと連れ戻そうとするのをひれ伏して願う時、主が私たちの祈りを聞き給わんことを。
これ以上重大なことの無いこの問題に関し、私は天主の聖寵の御母、全ての異端を打ち砕いたお方、キリスト信者の助け、聖なる童貞女マリアが、『全ての人々が“平和の絆において霊の一致に忠実に留まりつつ”(エフェゾ4:3)その天主なる御子のみ声を聞くことのできるそのかくも願わしい日』が一日も早く来るように私たちのためにとりなして下さるよう、人々が聖母の取り次ぎに馳せ寄せるよう、私は訴えそれを望みます。
18 尊敬すべき兄弟たちよ、あなた達はもうこの望みが、どれ程私にとって大切なものであるか知りました。そして、私は、私の子供たちも、カトリックの群に属する人々だけでなく、私たちから離れてしまった人々も、このことを知ってもらいたいと思います。
もし彼らが謙遜に天からの光を乞うならば、イエズス・キリストの唯一の真の教会を認め、そこに入り、完全な愛徳において私たちとともに遂に一致するということは、疑いの余地がありません。
尊敬すべき兄弟たちよ、このことが実現することを期待しつつ、そして、私の父としての善意の印として、私は、あなた達と、あなた達の聖職者や、信者の皆さんに、深い愛を込めて使徒的祝福を送ります。
ローマ、聖ペトロの傍らにて、1928年、教皇在位6年目、1月6日私たちの主イエズス・キリストの御公現の祝日において