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教皇レオ十三世のフリーメーソンについての回勅「フマヌム・ジェヌス」Humanum Genus, Leo XIII, 1884年4月14日

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

教皇レオ十三世のフリーメーソンに関する1884年4月14日付け回勅「フマヌム・ジェヌス」Humanum Genus の日本語訳をご紹介します。
天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



Photo Credit

天主の御摂理により教皇であるレオ十三世の回勅
『フマヌム・ジェヌス』
フリーメーソンについて

訳者 聖ピオ十世司祭兄弟会
Copyright (C) Society of Saint Pius X, 2001
All rights reserved

恩寵の中にあり聖座との交わりを保つ、
私の尊敬する兄弟である
カトリック世界の全ての
総大司教、首座大司教、大司教、司教たちに宛てて
教皇レオ十三世は、尊敬する兄弟の皆さんに、挨拶と使徒的祝福を送ります。

2つの王国

1.人類は [Humanum genus] 創造主にして天来の賜物の与え主である天主から離れるという惨めな堕落の後、「悪魔のねたみによって」2つの別々の互いに対立する部分に分かれました。そのうちの1つは真理と徳とのために、もう一方は真理と徳に反することのためにたゆまず戦います。一方は地上における天主の王国、すなわちイエズス・キリストの真の教会です。そして救いを得るためにそれと一致することを心から望む者は必然的に、天主とその御ひとり子を知性と意志とを尽(ことごと)く挙げて仕えねばなりません。もう一方はサタンの王国であり、その支配下にくだり、[いわば]所有物となるのは、この国の指導者[たるサタン]ならびに人祖の模範にならう者、天主の永遠の法に従うことを拒む者、そして天主を軽んじてまで、あるいは天主に逆らってまで追い求めるような目的を数多く持っている者たちです。

2つの愛と2つの国

2.聖アウグスチヌスはこの2つの王国を互いに相対する目的のために働くが故に、正反対の法を有する2つの国として明確に区別し、描き出しました。そしてたくみな言葉をもって簡潔に、それぞれの国を生み出す原因を示しています。「2つの愛が2つの国をつくった。天主をないがしろにするまでに至る自己愛と、自己をないがしろにするまでに至る天的な、天主への愛である。」 fecerunt civitates duas amores duo: terrenam scilicet amor sui usque ad contemptum Dei: caelestem vero amor Dei usque ad contemptum sui (De Civit. Dei Lib. XIV, c. 17)

 ありとあらゆる種類の武器と戦いとによってこの両者は、たとえ常に等しい熱心さと攻勢によってではないにしても、全ての時代にわたって互いに対立し、争ってきました。しかしながら現代において、悪に与する者たちは互いに結束し、その激しい勢いを一つにまとめて戦いを挑んでいるように見受けられます。彼らはフリーメーソンと呼ばれる非常に組織化され、広範囲に広がっている組織に導かれ、あるいは後押しされています。今や、彼らは自分たちの目的をもはや隠そうとはせず、天主ご自身に対して大胆不敵に立ち上がっています。彼らは聖なる教会を破壊することを公にかつ大っぴらに計画しており、キリスト教世界の国々から、私たちの救い主イエズス・キリストを通して得られた諸々の恩恵を、可能ならば尽く剥奪するという確固とした目的のためにこれを成し遂げようとしています。私はこれらの害悪を嘆きつつも、同時に愛徳に駆られて天主に向かい、度々こう叫ばずにはいられません。

「みよ、御身の敵どもは騒ぎ立て、御身を憎む彼らは頭を上げた。彼えらは御身の民に対して悪しき計画を練り、御身の聖徒らに対して作戦を立てた。彼らは言った『来い、彼らをうち砕こう彼らがもはや民ではないように』と。」

教皇の責務

3.かくも激しく圧迫的な攻勢がキリスト教の名誉に加えられる、このような危急の事態にあって、危険がどこにあるか、また誰が敵であるかを示し、彼らの計画と企みに力の限りをつくして立ち向かうことは私の責務です。それは、こうして私に託された者たちが滅びることなく、また私の監督に委ねられたイエズス・キリストの王国が傷つくことなく存立し、そればかりでなく、たゆまぬ増加により世界中で拡大しますように。

警戒を怠らなかった先任の教皇たち

4.キリスト教民の安全に絶えず注意を注いでいた先任の教皇たちは、この最大の敵の存在と目的を、それが陰に隠れた謀略たることをやめ、日向に踊り出るやいないや迅速に察知しました。またそれのみならず、真の先見の明によって、言わば警鐘を鳴らし、君主たちおよび諸国民に、彼らを欺くべく張り巡らされた種々の仕掛けや罠にかからないよう共々警戒し、勧告したのでした。

クレメンテ十二世からピオ九世まで

5.この危険について最初の警告は、クレメンテ十二世によって1738年に出され、その教皇憲章はベネディクト十四世によって確認され、更新されました。ピオ七世もその後にならい、そしてレオ十二世は使徒的教令「クオ・グラヴィオラ」によって、この問題に関する先任教皇らの決議、教令をまとめ合わせ、それらを永久に裁可し、確認しました。また、この同じ線に沿ってピオ八世、グレゴリオ十六世、そしてピオ九世は発言しました。

教会と国家、およびフリーメーソン

6.事実、メーソン結社の綱領および精神が、その活動に伴う明白な印、具体的事例の検証、その規約、儀式、ならびに解説書の公表、ならびに同組織の秘密に通じていた人々の証言によってはっきりと見定められるやいなや、使徒座はフリーメーソンを排斥し、その綱領が法と正義に反し、国家はもとよりキリスト教界にきわめて有害なものであると公に宣言しました。さらに使徒座は何人たりともこの結社に入ることを禁じ、違反者には、教会が普通、並外れて重大な犯罪を犯した者に課するのが常である刑罰を定めました。これに憤慨したフリーメーソンの信奉者たちは、こうした教令の効力を、あるいはそれらを軽視することによって、あるいは中傷によってそれをはぐらかし、ないしは弱めようとして、それらを発布した教皇たちを非難しました。曰く、当の教皇たちは、それらの教令において中庸の域を越えたか、あるいは公正でないことを定めたのである、と。このようにして、彼らはクレメンテ十二世やベネディクト十四世、ならびにピオ七世とピオ九世の使徒的教令の権威と重みとをはぐらかそうとしたのです。しかし、当の結社自体の中にも、ローマ教皇たちがその[正当な]権限の中で、愛徳の教義と規律に従って行動したと不承不承認める者た違いました。教皇たちはまた、同様の賛同を、しかも強い調子のそれを、多くの君主や政府の首長から受けました。これらの指導者たちは、あるいはメーソン結社を使徒座に密告すること、あるいは自発的に特別な法令によって同結社を[国家にとって]有害なものとして確定しました。後者のようにした例としては、オランダ、オーストリア、スイス、スペイン、バヴァリアおよびサヴォアをはじめとするイタリアの諸地域が挙げられます。

7.しかるに、きわめて重大なことには、事態の成り行きによって私の先任者たちの賢明さが証明されました。と言うのも、かかる教皇たちの先見の明と慈父の配慮とは常に、どこであれ望む結果を得なかったからです。そしてこれは、当の悪事において積極的に働いた者たちの巧妙さならびにずるがしこさ、あるいはまた、この問題に熱心な注意を払うべき者たち―効することが彼ら自身のためにもなるのですが―の思慮を欠いた軽薄さが原因でした。結果としてフリーメーソンの党派は1世紀半の間に想像を絶する速さで成長し、ついには奸計あるいは大胆な行動によって国家のあらゆる階層に入り込み、ほとんどそれを支配する勢力となるにいたりました。この迅速かつ恐るべき躍進は、先任の教皇たちがずっと前から予見していた重大な危害を君主たちの権力ならびに民衆の福利にとってもたらしたのです。したがって今や、問題となっている党派ないしはその弟子、その配下としてこれに組する同種の党派の勢力がはびこる国家にとっては憂慮、懸念すべき重大な理由が存在する―――教会については、このとおりではありません。何故なら、教会の基盤は欠くも強固であり、人間のはたらきによって覆され得ないからです―――という状況になっています。

フリーメーソンの教えおよび目的

8.こういった理由により、教会の舵取り役となった私は、すぐさま、これほど大きな害悪に対して自らの権威を最大限に用いることが自分の義務であると明らかに理解し、監督するにいたったのです。すでに折にふれてフリーメーソンの邪悪な影響をことさらはっきりと示す教説の主要なポイントのいくつかを幾度にもわたって弾劾してきました。すなわち回勅『クォド・アポストリチ・ムネリス』の中で私は社会主義者ならびに共産主義者らの恐るべき教説の論駁を図り、ついで『アルカヌム』を表し、婚姻がその源泉かつ起源である家庭生活についての真実で正しい理念を弁護すべく努め、また『ディウトゥルヌム』においてキリスト教的叡知の諸原則に沿った国政のあり方を示しました。このような政治・統治のあり方は、一方では物事の自然なあり方に、他方では国家の主権を有する君主、またさらには国民の福祉に素晴らしく調和するものです。したがって、この度の私の意図は、先任者たちの例にならい、メーソン結社そのもの、その教え全体、その目的、ならびにその考え方および行動のパターンについて直接に取りあつかって、同結社の悪を生み出す力をよりいっそう明るみに出し、この致命的な疫病の伝染を防ぐべく全力を尽くすことにあります。

 全ての秘密結社の一致

9.名称、儀式、形態、起源の点で異なるものの、共通の目的を有し、かつ主要な見解において互いに似通い合い、フリーメーソンのセクトと事実上一体を成すさまざまな団体があります。これらの組織はすべてフリーメーソンを一種の中心として、それに源を発し、またそこに帰り着くものです。さて今日、これらの組織は隠れていようとする態度をもはや見せなくなりました。と言うのも、これらは白昼に公衆の目前で集会を開き、また独自の機関紙を発行しているからです。しかし、詳しく理解を深めれば、これらの組織は秘密結社の性質ならびに習性を保っていることが分かります。[これらの組織には]部外者はおろか、大多数のメンバーに対してさえきわめて慎重に伏せておくことが慣わしとなっている、多くの言わば秘儀のようなものがあります。それは例えば当組織の秘密の最終的な意図、主な指導者の名前、内密の会議とその決定、およびそれを実行に移すための手段と方法といった事柄です。これ[すなわちこれらの組織において本当の目的を隠しておくこと]こそ、まぎれもなくメンバー間の権利、役職、特権における相違、ならびに与えられる序列階級の区別、および組織内で保たれる厳しい規律の存在理由なのです。

秘密と欺瞞

[こういった組織の]入会希望者は、普通、決して誰にも、いかなる時にも、またどのような形でもメンバー、行動、および討議される議題について知らせないと約束、否、むしろ特別な宣誓を誓わされます。こうして、偽りの外観と、常に似通った偽装によってフリーメーソンは古(いにしえ)のマニ教徒のように、可能な限り自らの正体を隠し、ただメンバーにしかその内情を明らかにしようとしません。態のいい隠れ蓑として、彼らは学問のために集う文士、ないしは学者をよそおいます。彼らは教養をさらに磨くことへの熱意、貧しい者に対する博愛をよく口にし、さらに彼らのただ一つの願いは一般大衆の境遇の改善、そして市民生活のあらゆる恩恵をできるだけ多くの人に分配することだと言明しています。しかし、たとえこれらの目的が真実に追求されているのだとしても、これが彼らの目的としているところの全てでは到底ありません。のみならず、入会が許されるために、志願者は今後、自らの指導者および師に対して能うる限りの服従と忠誠をもって完全に従順であることを約束し、かつ励むことが必要とされています。したがって、指導者の命令には、そのごくわずかな意思表示があるやいなや従う用意がなければならず、もしそれに不従順であれば、死刑をも含む最も厳しい処罰に甘んじることをよしとしなければなりません。事実、もしある者がセクト内でなされていることを外に漏らしたり、あるいは与えられた命令に盾突いた場合、しばしばそういった人には刑が下されます。そしてそれはきわめて大胆かつ巧妙に行われるので、暗殺者は多くの場合発見されず、自らの犯した犯罪に対する刑罰から免れているのです。

フリーメーソンの邪悪な実り

10.しかし、カモフラージュして隠れたがり、人々を何の理由付けもなく奴隷のように極めて強固な絆で縛り付け、他者の意志に隷属化された人々にどんなことでもさせるため、いいように使い、また犯罪行為に対する刑罰から逃れる術を確保した上で人々に殺害を強要するといったことはすべて、人間の自然本性が受けつけることのできない極悪非道の行為です。したがって、理性ならびに真理自体は、今問題となっているような社会が正義と自然的な公正さとに全く相反していることを明らかにしています。さらに他の明白な議論によっても、かかる社会が自然的な徳に本質的に相容れないものであることが証明されるにおよんで、このことはさらに明らかとなります。何故なら、たとえどれほど人が巧みに隠蔽をなし、またどれほど欺くことに熟達していたとしても、ある原因の結果が、何らかの形で、自らを生み出した原因に具わっている本質を表すことを妨げるのは不可能だからです。「善い木は悪い実を結ぶことができず、悪い木は善い実を結ぶことができない」のです。しかるに、メーソン団は邪で、きわめて苦い実を結んでいます。と言うのも、先にすでに示したように、彼らの究極目的となっているものは、否応なしに露見せずにはお適いからです。すなわちその目的とは、キリスト教の教えに基いて生まれた、世界における宗教的、政治的秩序の転覆、そしてそれを彼らの理念に即して形成され、はだかの「自然主義」に則った法と基盤とを有する新しい秩序に取って替えることなのです。

フリーメーソンと関連する諸組織

11.私がこれまで述べてきたこと、およびこれから述べようとすることは一般的に見たフリーメーソン結社、さらにそれに類した、ないしはそれと結託した諸々の組織を包含したものとしてのフリーメーソン結社についてであり、そういった組織のメンバーとなっている個人についてではありません。これらの組織の中には、少なからず、そのような組織に関わり合いになったことについては責任を免れないにしても、かかる組織の犯罪的行為には関与せず、またそれらが達成すべく尽力している最終目的に気づいていない人た違います。同様に、メーソンと緊密な関係にある組織のいくつかは、フリーメーソンと共に抱く共通の諸原則から必然的に出来する極端な結論を―――これらの組織は、その醜悪さに恐れをなしてためらうことなく、一貫性を保とうとするならば当然それらを受容れるべきところなのですが―――まったく承認していません。また、このような組織の中のあるものは時間的・地理的状況のために他の同類の組織が普通企図するような事柄、ないしは自身が本来望んでいるよりも瑣末な事柄の実現を目指して活動しています。しかしながら、その故にこの種の組織はメーソン連合に組していないと見なされるべきではありません。何故ならフリーメーソンの連合組織とは、それが為したこと、あるいは達成した事柄よりも、それが表明している意見・考え方によって判断されるべきものだからです。

自然主義の諸原理

12.さて、自然主義者たちの根本的な教義は、その名が示すとおり、人間の自然本性および人間の理性がすべてのことにおいて主人かつ導き手となるべきだというものです。このような原理を定める彼らは、天主に対する義務について頓着せず、あるいはこの義務を誤ったあいまいな思念によって歪曲してしまいます。と言うのも、彼らは天主によってあることがらが教えられたということを全く否定し、また人間の知性によって理解することのできない宗教的教義ないし真理、あるいは自らの権威によって信じられるべきいかなる教師の存在も一切認めようとしないからです。しかるに天主から受けとった諸々の真理を言葉で明示し、また救いを得るために天主から与えられたその他の助けと共に自らの職務の権威について教え、かつそれが完全に純粋であるようにと守ることがカトリック教会の固有、かつ独専的な義務であるが故に、[教会の]敵たちの憤激と攻撃とは真っ先に教会に対して向けられるのです。

自然主義を信奉するフリーメーソン

13.宗教に関することがらについてはフリーメーソンの一派が、とりわけ制限を被ることなく比較的自由に行動する余地がある場合に、どのようにふるまうかを観察すれば、この組織が自然主義者たちの行動指針の実践を希求しているのであることは誰の目にも明らかとなるでしょう。長く忍耐強い働きにより、彼らフリーメーソンはこの成果を生み出すべく尽力しています。それはすなわち、教会の職務と権威とが市民国家において全く取るに足らないものとされてしまうことです。そして、まさにこれがために彼らは教会と国家は完全に切り離されるべきだと民衆に告げ、かつ主張しています。このようにして彼らは、法律ならびに国家からカトリック教の健全な影響を排除し、したがって国家は教会の法と掟とを全く顧みずに形成されるべきだと考えるのです。

キリストの教会を攻撃するフリーメーソン

彼ら(フリーメーソン)はまた、最高の導き手である教会を無視するだけでは充分とせず、敵意をもって傷つけようとします。実際、言論、書物、教育活動によってカトリック教の基盤そのものを攻撃することは正当なことであり、教会の諸々の権利も、その攻撃から免れず、天主から与えられた職務も無事に済まされることはありません。教会の運営に関する最小限の自由は残され、これを定める法律は表面上、教会に対して敵対的なものではありませんが、実際は行動の自由を妨げるものです。さらに、聖職者に対しては、特別な負担の大きい法律が課せられ、その数および活動に必要な手段が着実に減少していくように立案されたものであることに私たちは気づきます。また、残された教会の財産もきわめて厳しい条件によって拘束され、国家の行政当局の権利と身勝手な意志の下に置かれ、修道会は略奪され、打ち散らされるのを私たちは目にしています。

 キリストの代理者たる教皇を攻撃するフリーメーソン

15.しかし、これら教会の敵たちの抗争の矛先は長年、使徒座とローマ教皇に対して向けられてきました。教皇はまず、もっともらしい口実の下に自らの自由と権利の防壁である世俗的国家の首長の座から駆逐され、それからすぐに、あらゆる方面からわき起こる問題のために堪えがたい状況に不正にも追いやられ、そして今や諸々の党派の支持者たちが、これまで内々で秘密裡に計画してきたことを公言してはばからない時が来ました。すなわち、教皇の神聖な権利は剥奪されねばならず、そして天主の有する権利に基く教皇職そのものが完全に廃止されねばならないと宣言するにいたったのです。もし他に証拠がなかったとしても、フリーメーソンの内情によく通じていた人たちによって公表された証言―その中のあるものは、最近のもの、またあるものはそれ以前に明かされたものですが―この事実を立証するのに充分でしょう。すなわち彼らの証言は、フリーメーソンが収まることのない敵意をもって教会を攻撃することを図り、そして歴代の教皇たちが[真の]宗教のために制定してきたものをすべて破壊し尽くしてしまうまで満足しないということが真実であることを証ししています。

あらゆる宗教を危機に陥れるフリーメーソン

16.メンバーとして受け入れられた人々が何らかの決まった言葉によってカトリックの教えを捨てることを誓うよう命じられないとしても、この省略は、フリーメーソンの企みにとって不利となるどころか、その目的とするところのために、より有用なのです。まず第一に、こうすることによって彼らは単純な人、注意力に欠く人たちを容易に欺き、こうして、ずっと大きな数の人を引き入れることができるのです。また、入会志願者は、どんな宗教を信じていようと[関係なく]受け入れられるため、これによりフリーメーソンは、この時代の大きな誤謬、すなわち、[ある人の]宗教に対する態度はどうでもよいこととしてみなされるべきであり、また全ての宗教はみな似通ったものであるという考え方です。このような考え方は、あらゆる形の宗教、特にカトリック教を滅ぼしてしまうよう仕組まれたものです。何故ならカトリック教こそが唯一正しい宗教であり、そのため、それを単に他の諸々の宗教と同等のものと見なすのは甚だしく不公正なことだからです。

天主についてのフリーメーソンの信条

17.しかし自然主義者たちは、さらに多くの誤謬に陥っています。と言うのも、もっとも高遠なことがらについて全く誤った道に踏み入ってしまった彼らは一直線に極端へと、―あるいは人間の自然本性の弱さのために、あるいは天主が彼らの傲慢に対してふさわしい罰を下されたために―流されてしまうからです。このため、彼らは理性の自然的な光によって充分に理解可能な種々のことがら―例えば天主の存在、人間の霊魂の非物質性および不滅性を、もはや確実で恒久的なこととして考えないのです。フリーメーソンの党派は同様の誤謬の道すじをたどり、これらの[自然主義者が陥っているのと]同じ危険にさらされています。何故なら、たとえ彼らが一般的な意味で天主の存在を公言しても、彼ら自身が彼らの中みながこの真理を知性の完全な同意ないしは強固な確信をもって奉じているわけではないことの証人です。さらに彼らは、この天主についての問題が彼らの間で起こる不和の最大の源かつ原因であることを隠そうとしません。事実、まさにこの点について彼らの間で少なからぬ論争がごく最近まであったのです。しかるに、フリーメーソンはその信奉者に大きな自由を与えており、したがって天主が存在するとする側にも、天主が存在しないとする側にも共に自らの見解を弁護する権利が与えられているのです。そして天主が存在しないと主張する者たちは、天主が存在すると主張する者たち―しかしこの人たちもまた汎神論者と同様、天主に関して誤った観念を抱いているのですが―と全く同様に入会を許されるのです。こういったことはすべて、天主の本性に関する何らか愚劣な観念を保持しつつ、真実を取り去ってしまうことに他なりません。

自然的真理の喪失

18.一旦この最大の根本的真理が覆され、弱められてしまうと自然的に知られる他の諸々の真理もまた崩れ始めます。すなわち、これら自然的に理解されうる真理とは、あらゆるものが創造主たる天主の自由な意志によってつくられたこと、世界は摂理によって支配されていること、霊魂は不死であること、この地上の生活の後、人々にはもうひとつ別の永遠につづく生活が待っていることなどです。

道徳に対する影響

19.自然の原理として知識ならびに実践的用途のために重要なこれらの真理が捨て去られてしまうとき、公共および私的な倫理がどのようになるかを予見することは容易いことです。ここで天主の特別の賜物と恩寵によらなければ誰一人として実践あるいは獲得することすらできないより天上的な諸徳について言っているのではありません。人類の贖い、天主の恩寵、秘跡、天国において得られる幸福を不明のこととして否定する人々の中にそれらが見出され得ないことは当然だからです。私がここで問題にしているのは、自然的な実直さから由来する種々の義務についてです。天主が世界の創造主であり、御摂理による支配者であること、[天主の]永遠の法は自然の秩序が保たれるよう命じ、それが乱されることを禁じていること、人々の最終目的は人間的事物をはるかに超え、この地上における滞在の先にある運命であること。これらこそ、あらゆる正義と道徳の源であり、原理なのです。

もしこれらの真理が、自然主義者やフリーメーソンが望んでいるごとく取り去られるやいなや、何をもって正義あるいは不正義と成すのか、またいかなる原理に基いて道徳が成り立っているのかについての理解は全く消滅してしまいます。そして実際、フリーメーソンが唯一賛同し、それによって青少年が教え導かれるべきだとする道徳教育は、彼らが「世俗的」、「自立的」で「自由」な教育と呼んでいるもの、すなわちいかなる宗教的信条も含まない教育です。しかしながら、そのような教育がいかに不十分なものであるか、いかに健全さに欠け、あらゆる種類の情念の衝動によってどれほどた易く動揺されてしまうかは、すでに現れ始めているその苦い実によって充分に証明されるでしょう。何故なら、キリスト教的教育を取り払ってフリーメーソンが一層完全に支配し始め、道徳の優良さと廉直さがすぐさま低落し出した所ではどこでも、恐るべき、厚顔無恥な言説が噴出し、悪事の大胆さも度を増してきています。こういったことは全て一般に苦情と嘆きの種となっており、そのような事実を認めたくない人の多くもおびただしい証拠を前にして、しばしば同様の告白をせざるを得なくなっています。

人間の自然本性の弱さ

20.加えて人間の自然本性は原罪によって汚され、したがって徳に対するよりも悪徳に対して大きな傾きを有しています。と言うのも、有徳な生活のためには魂の不秩序な動きに歯止めをかけ、情念が理性に従うようにすることが絶対に必要だからです。この拮抗において理性が常に支配権を保つように、往々にして人間的ことがらが軽んじられ、最大の労苦と困難が忍ばれねばなりません。しかるに、私たち[キリスト信者]が天主の啓示によって知るにいたった諸々のことがらについていささかの信仰も持ち合わせていない自然主義者およびフリーメーソンは人祖が罪を犯したことを否定し、その結果[人の]自由意志は全く弱められても、悪に傾いているのでもないと考えます。むしろ逆に、人間の自然的な徳と卓越性とを過度に協調し、そこにのみ正義の原理と規範とを置く彼らは、情念の激しい動きとその支配とに打ち勝つため、たゆまぬ戦い[努力]と完全な不抜の態度が必要であるなどと考えることすらできないのです。 

快楽の福音

こうして人々が快楽を魅了する多くのものに公然と誘惑され、慎みを欠いた破廉恥な雑誌や小冊子が発行され、演劇は驚くほど放縦なものと化し、芸術作品のデザインはいわゆる「リアリズム」の規範に従って探求され、柔弱で繊細な生活を実現するための工夫がきわめて入念に考え出され、快楽のあらゆる手くだが熱心に追い求められ、その結果、徳が眠りにつかされるのを私たちは目にします。天国の喜びの期待を打ちすて、あらゆる幸福をこの死に至るべき人生のレベルに引き下ろし、言わば地に沈めてしまう人々は邪に、しかし同時に、非常に首尾一貫して行動しています。以上述べてきたことを確証するためには次の事実を―これはそれ自体としてよりも、それが公然と表明される場合に驚愕をさそうものですが―確認することが役立つでしょう。一般的に言って、魂が情念の支配によって弱められた人たちほど、聡く狡知に長けた者らに素直に従う者はいないので、フリーメーソンの中のある者は巧みに、しかも意図的に、民衆は際限のない悪徳の放縦により飽かされるべきだとあからさまに断定し、提唱するにいたりました。何故なら、こうしておけば民衆はた易く彼らの権利と権威の下にくだり、どんな大胆な所業を為すことも辞さなくなるだろうからです。

婚姻に関する教説

21.家庭生活に関する自然主義者の教説は、次に示す[彼らの]宣言の中にほとんど含まれています。すなわち、婚姻は商業的契約の類に属するものであってそれを結んだ者たちの意志によって正当に解消され得、また国家の為政者は婚姻の契りの上に権能を有しており、青少年の教育においては、いかなる宗教的ことがらも確実で定まった見解として教えられるべきでなく、そして各人は年頃になれば何であれ彼が選ぶところのものに自由にしたがえばよいということです。これらの主張にフリーメーソンはまったく賛同しており、そしてただ賛同するだけでなく、長年の間、これらを法律および制度として定めるべく努力してきたのです。実際、多くの国々、そしてただ名目上のカトリック国においては、法律上、教会を離れた結婚式によって取り交わされない婚姻は合法的なものとして認められません。また他の国では法律によって離婚が許され、また他の国ではできるだけ早く離婚を合法化すべくあらゆる努力が払われています。このようにして、婚姻がもはやある種の契約に転ぜられ、気まぐれに結んでは解かれる、変更可能で不確実な結合に過ぎないものとされてしまう時がすみやかに近づいています。

教育原理

フリーメーソンはまた、一致団結して青少年の教育を自らからの手で行おうと尽力しています。彼らは、この素直で柔軟な世代[の心]をた易く自分たちの意見に合わせて形成し、また自分たちの思うがままに曲げることができると信じているのです。このようにしてフリーメーソンは、国家の青少年を自分たちの計画に沿うよう育て上げることができると考えています。したがって、彼らは子供たちの教育と規律において教会の役務者にいかなる分け前も与えようとしません。また多くのところでは、フリーメーソンは青少年の教育が専ら非聖職者の手によってのみ行われ、人々の天主に対する最も重要かつ最も神聖な義務に関することがらが何一つ道徳教育において取り扱われないという状況をつくり出すことに成功しています。

政治に関する教説

22.次いで彼らの政治に関する教説について述べなければなりません。自然主義者は全ての人が同等の権利を有し、また全ての点において平等で似通った条件のもとにあると主張しています。また、各人はその自然状態において自由であり、誰一人として他人に命令する権利を持っておらず、人々に自分たち自身から生じた権威以外の権威に、たとえそれがどのようなものであれ従うよう求めることは暴力的行為であるとしています。したがってこの見解によれば、あらゆる事物は自由な人民のものであり、権力は人民の命令または許可によって保持されるのです。したがって、人民の意志が転ずるとき、為政者は合法的に退位させることができます。そして、あらゆる権利と市民的義務の源は一般民衆に、あるいは最新の教説にしたがってつくり出された統治権威に存するのです。また、国家は天主なしであるべきであり、さまざまな形の宗教の中で、あるものを他のものに優先させる理由など何一つなく、それらはすべて等しい立場を有すべきだとされています。

結果として生ずる共産主義

23.これらの政治に関する教説がフリーメーソンにとっても同様に好ましいものであり、また彼ら(フリーメーソン)がこれを模範かつモデルとして国家を構築しようと望んでいることは、あまりにも知れわたっており、あえて証明する必要もないほどです。と言うのも、過去少なからぬ期間にわたって彼らは公然とこれを実現すべくそのあらゆる力と視力とを用いて働きたからです。こうして彼らは、あらゆる階級序列と財産権の区別を抹消することによって平等と全ての財の共有制とを確立しようと励む、少なからぬより大胆な者たちに道を準備したのです。

フリーメーソンは一つの異教に他ならない

以上述べてきた要約によって、フリーメーソンがいかなるものであるか、またどのよう方向を目指しているのか充分にお分かりになったことと思います。彼らの主だった教義はあまりにも大きく、また明白に理性に悖(もと)っており、この上なく邪悪なものです。天主自らが打ち立てられ、その御保護によって永続性を保証されている宗教および教会を抹殺し、また18世紀もの年月を経た後に異教徒の風習と慣行とを復活させることを欲するのは際立った愚行、厚顔無恥な不敬虔に他なりません。また、イエズス・キリストが個人のためのみならず、家庭ならびに市民社会のために、憐れみ深くかち得てくださった諸々の恩恵、そしてこの恩恵は教会の敵どもの判定と証言によっても極めて大いなるものですが、この恩恵を否認することもできませんし、フリーメーソンがその恩恵よりましでより容認し得るというわけではありません。この正気を欠き、悪辣な努力の中に、私たちは、他ならぬサタンがイエズス・キリストに対して燃やした収まることのない憎悪と復讐の精神をおおよそ見出すことができます。

ですから、正義と公正の主要な土台を破壊し、動物のように己の欲するところを行おうとする者たちと協働せんがためのフリーメーソンの努力は、ただ人類を恥ずべき、不名誉な滅亡へと導くものです。

社会に対する危険

また、害悪が家庭および国家[市民]社会を脅かす種々の危険によって増大します。他の文書において私がすでに示したように、ほとんど全ての民族において、婚姻には何か神聖で宗教的なものがあると信じられており、また天主の法は婚姻が解消されてはならないことを定めています。もし婚姻が神聖な性格を剥奪され、解消可能なものとされてしまうならば、家庭内でのもめ事と混乱が結果として生じ、妻はその尊厳を奪われ、子供は自らの利害と福祉との保護なしに取り残されることとなります。公の政において宗教をまったく顧みず、また国事の計画と執行において、あたかも天主が存在しないかのようにもはや天主を考慮に入れないことは、異教徒たちさえも与り知らない無分別です。何故なら、彼らの心と魂には神的存在の観念および公の宗教の必要性がかくも固く刻み込まれていたので、土台なしに国家が存在するほうが天主なしに国家が存在するよりも簡単だと、考えたに違いないほどです。実際、自然が私たちをそのために形づくるところの人間の社会は、自然の創作者である天主によって確立されたのです。そして社会を潤わせる無数の恩沢は、その本源かつ源泉たる天主から、いきいきと力強く、永続的に流れ出るのです。他ならぬ自然自体の声によって、私たち一人々々は、天主を生命とそこにおいて見出されるあらゆる善きものの与え主として敬虔に聖なるしかたで礼拝するよう促されているのですから、それ故社会をあらゆる宗教上の義務から解き放とうとする者らがただ正義に反してだけでなく、無知と愚かさによって行動していることは明らかです。

国民の従順の根拠

25.天主の意志により、人々は国家的結合ならびに社会で生活するよう生まれついており、また統治する権力は社会の絆にとって、かくも不可欠なものであり、もしそれが取り去られてしまうならば社会は直ちに崩壊してしまうに違いありません。したがって、社会の創作者である方から、統治する権力もまた来たのであるなら、誰であれ統治する者は天主の従僕であることになります。ですから、人間社会の目的と本性とがそのように要求するのですから、合法的な権威の正当な命令に従うことは、万物を統治する天主に従うのが正しいのと同様、正しいことであり、人民はいつでも望むままに従順を放棄する権力を有しているとするのは、きわめて真実に悖(もと)ることです。

真の平等と偽りの平等

26.同様に、全ての人がその共通の起原と本性、および個々の人が達すべき最終目的

ならびにそこから生じてくる諸々の権利と義務に関する限り平等であることは、何人も疑わないところです。しかるに、皆の能力は同じではなく、個々の人は知性ないし身体の能力において異なり、さらにふるまい方、気質、性格の点できわめて多くの差異が存在するため、あらゆる人を同一の尺度に押し込め、完全な平等を市民的生活の諸制度に広めようとする試みは著しく理性に反するものです。身体の完全な状態が、形状と目的において異なりつつも、その統一ならびに各々の適所への配置によって、見るに美しく、堅固な力強さをほこり、また機能するために必要な結合を成すところの様々な部分の結びつきと構成による様に、国家においても全体の部分たる人々の間にはおよそ限りのない相違が見られます。もし全ての人が平等であり、それぞれが自分自身の意志に従うべきとするならば、国家は甚だしく奇態な姿をとるでしょう。しかし、もし尊厳、追求している目的、職業の段階を区別するなら、皆が共に共通善のため態勢よく働き、よく構成された国家の自然な姿を映し出すでしょう。

国家の脅威となるフリーメーソン

27.さて、上で解説してきた騒乱の元となる種々の誤謬から諸国家に対するごの上なく大きい危険が危ぶまれます。と言うのも、天主への怖れと神法の尊敬が取り去られてしまうやいなや、為政者の権威は軽視され、反乱が許され、また認められ、人民の情欲は無法の極に達し、もはや抑止力となるのは刑罰のみとなり、あらゆる事物の変化と転覆とが必然的に結果します。さよう、かかる変化と転覆とは共産主義者および社会主義者の数多の組織によって意図的に計画され、推進されてきたのです。そしてかかる企てに対してフリーメーソンは反対するどころか、その計画に大いに賛同し、彼らの主な論点を同じく支持するのです。そして、もしこのような者らが今すぐに、またいたるところで自分たちの極端な思想を実行に移さないとすれば、それは彼らの教説あるいは彼らの意志によるのではなく、抹殺されえない天主の宗教の力によるのであり、それはまた人々のうちでも健全な方の者たちは秘密結社に隷属化することを拒み、彼らの狂気じみた試みに頑強に抵抗するからです。

騙された人民と為政者

28.願わくは全ての人が木をその実によって判断し、そうして私たちを圧迫する諸悪、ならびに迫り来る危険の種子と起源とを認識しますように。私たちは民衆と君主との耳に甘言を呈し、耳ざわりのよい話とへつらいとによって彼らの心をとらえてしまった、かの欺瞞に長け、ずるがしこい敵と相対しなければならないのです。好意をよそおって為政者たちにとりいったフリーメーソンは、彼らをキリスト教会の名誉を打ち砕くための同盟、強力な援助者となすべく力を尽くしてきました。そして彼らを一層強く駆り立てるために、フリーメーソンは意図的な中傷により、教会が嫉妬にかられて為政者たちと為政者たちの権威および主権に関する事柄について対立を試みていると非難しました。これらの術策によって自らの安全と大胆な行動の余地を確保したフリーメーソンは、諸国家の統治に大きな影響力を行使するようになりました。しかし、自らが望むのとは別様に統治するように見受けられるごとに、帝国の土台を揺るがし、国家の支配者を妨害し、弾劾し、追放する用意があるのです。同様に、フリーメーソンは甘言によって民衆を欺きました。自由と国家の繁栄を声高に唱え、民衆が不正な隷属状態と貧困から抜け出すことができなかったのは教会ならびに君主[国家の主権者]のせいだと言いふくめ、民衆を欺いて新規な事物に対する欲求をかき立て、教会と国家権力の双方を攻撃するよう仕向けたのです。しかしながら、望む利益に対する期待は現実[に得られたもの]より大きいものでした。事実、以前に増して抑圧された一般の民衆は、その悲惨な境遇にあって、もし物事がキリスト教的なやり方で運ばれていたならば容易に、しかもふんだんに享受できたであろう慰安を奪われています。しかし、誰であれ天主の摂理が定めた秩序に逆らって働く者は、自らの高慢の代償を支払うのが常であり、すべてが順調に、自分たちの望みどおりに運ぶと軽率にも信じたところで、苦悩とみじめさとに直面します。

教会の教えのもたらす利益

29.教会が、もし人々をして第一に、何ものにもまして[万物の]主宰者たる主なる天主に対して従順であるよう指導すれば、国家権力を羨んでいるか、あるいは主権者の権力の何ものかを横領すると不当に、事実に反して見なされるのです。反対に、教会は、国家の権力にはそれに正当に属するものを帰さなければならないと、確信と義務の意識とをもって教えています。天主ご自身に統治権が由来すると教えることを通して、教会は国家権力に大きな尊厳、ならびに市民の従順と好意を得るにあたっての少なからぬ助けを付与します。平和の友にして和合の維持者である教会は、全ての人を母の愛をもって抱擁します。そして死すべき人間に助けを施すことにのみ心を配りつつ、教会は次のように教えます。すなわち正義には温情が、権威には衡平が、立法には適度な中庸が結び付けられねばならないこと、何人の権利も侵されてはならないこと、秩序と公の静穏とが保れるべきこと、困窮に喘(あえ)ぐ者の貧困は可能な限り公的および私的な慈善事業によって救済されるべきであるということです。ここで聖アウグスチヌスの言葉を借りるならば、「しかし、この故に人々はキリスト教の教えが国家の善のために適合していないと考え、あるいは他の人がそう信じることを望むのです。何故なら、彼らは国家が堅固な美徳の上にではなく、悪徳の放埓の上に築かれるのを望んでいるからです。」もし君主ならびに人民がこれらの事実をふまえ、教会を抹殺すべくフリーメーソン結社に名を連ねるかわりに、その攻撃を撃退すべく教会に与するなら、政治上の知恵に適い、また一般の安寧が求めるところに即して行動することとなるでしょう。

諸教皇の警告を再度思い起こす必要

30.尊敬する兄弟たちよ、未来がどのようなものであろうと、この重大かつ広範にわたる悪の渦中にあって、解決策を見出すべく努めることが、私の責務です。そして最善かつ最も確かな解決策として期待できるものは、フリーメーソンがそれを恐れれば怖れるほどに憎しみをつのらせる、かの神聖な宗教の力に存すると承知している私は、共通の敵に対する助力を、この最も救済的な力に求めることがこの上なく重要であると考えます。ですから、何であれ先任のローマ教皇たちが、フリーメーソン結社の計画と企てに対抗する目的で、またこの種の結社に人々が加わるのを防ぎ、またすでに入ってしまった人を引き戻すために命じ定めたことの全てを、私は自らの使徒的権威により裁可し、確認します。そしてキリスト教徒の善意に大いに信頼しつつ、私は各人にその永遠の救いのために、使徒座がこの問題に関して命じることからいささかも外れることのないよう願い、求めます。

不可能なフリーメーソンとの妥協

31.尊敬する兄弟たちよ、私はあなた方が自らの働きを私のそれと合わせて、国家の欠陥に浸透してくるこの忌まわしい疫病を根絶すべく熱心に励んでくれるよう願い、求めます。あなた方は天主の栄光と隣人の救霊とを守らねばなりません。そしてあなた方がそのために奮励すべきこの目的を眼前にして、あなた方は決して勇気と力を欠くことがないでしょう。途中出会う困難、障害を克服するためにどのような手段を用いるかは、あなた方の賢明な判断にゆだねます。しかし、職務上、私自身何か適当な事の進め方を示すことがふさわしいので、次のようにされることを勧めます。すなわち、フリーメーソンの仮面をはぎ取り、その実体を明るみに出すこと。さらに説教と司牧書簡によって人々に、この種の組織が人を惑わし、その隊伍に惹き入れるために用いる諸々の術策、ならびに彼らの思想の劣悪さと所業の邪さとを知らせることです。私の先任者たちが再三繰り返して述べていたように、自分のカトリックとしての名誉と永遠の救いとを尊ぶ者のうちで誰一人として、いかなる理由によってもフリーメーソン結社に加わり得ると考えることがありませんように。また、誰も見せかけの誠実さに騙されることがありませんように。一部の人には、フリーメーソンが宗教と道徳にあからさまに反することを何一つ[そのメンバーに]要求していないと思われるかもしれません。しかし、この組織の原理と目的の尽くが邪悪で犯罪的なことに存在するがために、これらの者たちに加わり、あるいはどのような仕方にせよ援助することは、決して認められることが出来ません。

健全な宗教教育の必要

32.さらに、たゆまぬ教えと励ましにより、一般の人々は宗教的戒律を熱心に学ぶよう促されねばなりません。そのために私は、適当な著作と説教とを通して彼らが、キリスト教哲学をその内に含む諸々の聖なる真理の基礎を教わるようにすることを強く勧めます。この結果、人々の知性はかかる教導を通して健全とされ、幾多の誤謬や悪へと誘う事物、とりわけ現今の状況において、際限なしの著作の自由ならびに飽くことのない知識欲から守られるでしょう。

聖職者と信徒の一致した努力

33.なすべき仕事は実に大きいものです。しかし聖職者階級があなた方の労苦の一部を分かち、担ってくれるでしょう。それは、あなた方の配慮を通して、彼らが学識とよく鍛錬された生活により、それにふさわしく養成されていればのことですが。このすぐれて、大いなる事業は、一般信徒の内で、宗教と祖国に対する愛が学識と善い生活にともなわれている者らの熱心な働きの助けを要します。尊敬する兄弟たちよ、[こうした]聖職者と一般信徒の努力を結び合わせて、人々が教会を十分に知り、かつ愛するようにしてください。そうすれば人々は、その分だけ種々の秘密結社から引き離されることでしょう。

聖フランシスコの理想

34.したがって、私がこの機会を用いて、他のところですでに語ったことを再度述べるのは、理由のないことではありません。すなわち、聖フランシスコの第三会―つい最近、私はその規則を賢明な配慮により和らげましたが―は、熱心に促進され、維持されねばなりません。何故なら、その創立者が意図した、この会の目的の全体は人々をイエズス・キリストの模倣、教会に対する愛、あらゆるキリスト教的諸徳の実践へと招くことにあり、それ故、種々の邪悪な結社の悪影響を防ぐ上で、大きな効力を発揮するはずだからです。ですから、この聖なる信心会が日々その勢力を増し、ますます強固なものとなりますように。この会の活動から期待される幾多の善益の中でも、次のこと、すなわち、人々の心を自由と友愛、権利の平等へと導くことが特に望まれます。ここで言う自由、友愛、平等とは、しかし、フリーメーソンが浅はかにも夢想するようなものではなく、イエズス・キリストが人類のためにかち得、聖フランシスコが希求したところのそれです。すなわち、私が言う自由とは「天主の子らの自由」であり、これによって私たちはサタンと情欲―――この両者はきわめて悪辣な主人ですが―――への隷属状態から解放されます。友愛とは、全ての人の共通の造り主にして父なる天主に起源をもつものです。また平等とは正義と愛徳に基き、人々の間からあらゆる区別を取り去ってしまうのではなく、かえって生き方、責務、追求する目的の多様性から、国家の利益と尊厳に自然に益するかの一致と調和とを形成するのです。

カトリック同業組合復興への促し

35.第3にの方策として、私たちの父祖が賢明にも打ち立て、しかし時の流れとともに顧みられなくなってしまった制度を挙げることができます。これは今日ある同種の組織の範形ないし形式として用いることができるでしょう。それはすなわち、宗教による導きの下に自分たちの現世的利害ならびに道徳の保護を目的とした、労働者の組織ないし同業組合です。私たちの父祖が長年の実践と経験を通して、このような同業組合の利点を感得していたとするなら、今日の世代は諸々の結社の勢力の粉砕に好機をもたらすが故に、更にその利点を感じることでしょう。自らの手の仕事で生計を立てる人々は、その境遇[生活条件]自体のために他のどんな人々にもまさって慈善の業と慰めを受けるに値すると同時に、欺瞞とごまかしを手くだとする者らの誘いに、特にさらされています。ですから、彼らは能うる限りの親切をもって援助され、また、悪い組織に引き込まれることのないよう、良い組織に加入するよう招かれるべきです。それ故、人々の救いのために、このような同業組合が司教たちの指導と保護の下、適当な時機に、広く復興されることを、私は強く望みます。たいへん喜ばしいことに、この種の団体ならびに職人頭の組合がすでに多くの場所で設立されています。これらの同業組合には様々な種類のものが見られますが、そのいずれも実直な労働者を扶助し、その子息と家族とを保護し、彼らのうちに敬虔[な心]とキリスト教の知識、ならびに道徳的生活を培うことを目的としています。この点に関して、その創立者聖ヴィンセンチオの名をいただき、低い階層の人々に対し、かくも大きな働きをなした、かの模範的な団体について触れないわけにはいきません。この会の目的は貧しく、あわれな境遇にある人々に救いの手を差し伸べることにつきます。同会はこれを並外れた賢慮と慎ましさをもって行いますが、人目につ適いようにすればするだけ、それだけキリスト教愛徳の実践および苦難の救済に適合したものとなるのです。

青少年のための特別な指導

36.第4に、私が望む目的をより容易に達成するために、私は人々社会の希望である青少年を特別に、あなた方の忠実と注意深さにゆだねます。彼らの指導にあなた方の最大の配慮をそそいでください。[悪質な]諸組織の毒気を含んだ息を吐きかけられる恐れのある教師や学校から青少年を遠ざけるにあたって、用心し過ぎるなどということがあると思わないでください。あなた方の指導の下に、両親、宗教科の教師、それに人々の霊魂の世話をすべき司祭が、自らの施すキリスト教的教育においてあらゆる機会を用い、子供たちならびに生徒らに、これら諸結社の悪辣な性質を知らせますように。そうすれば彼らは人々を陥れるべく[この種の結社が]用いるのが常である多様な欺瞞の術策に警戒することを予め学ぶことができます。また、青少年に宗教についての知識を教える者たちが、彼らに両親、あるいは教区司祭ないし指導司祭の承諾なしに配下なる団体・組織にも決して入らないよう決心し、実際そのようにするよう導くなら、たいへん賢明に行動することになります。

祈りと行動への呼びかけ

37.しかしながら、もし天におられるぶどう園の主人が憐れみ深く私たちの努力を助けてくださらなかったなら、私たちの一致した働きも、主の畑からこれらの有害な種を摘み取るのに十分足り得ないことを、私はよく承知しています。ですから私たちは天主に、危険と必要の大きさが要求するに応じた助力を、大いなる切実さをもって願うことにしましょう。フリーメーソンは不遜で自らの成功に思い上がり、その頑迷さにいかなる歯止めもかけることを知らぬかのようです。その支持者たちは邪な盟約と内密の勧告によって結び合わされ、互いに助け合い、邪悪な事柄を大胆に為すようけしかけ合います。このように激しい攻撃には、それに匹敵する防御が必要です。すなわち、善意の人が皆こぞって、可能な限り広範な、活動と祈りの会を結成することです。ですから私は、これら善意の人々に、心を一つにして共に立ち上がり、突き進んでくる諸結社の勢力に対し、不動の姿勢で立ち向かうよう願います。そして、嘆きと願いのうちに手を天主に向かって広げ、キリスト教の栄誉が栄え、いや増すように、教会が必要な自由を享受するように、道を誤った者たちが正気に立ち返るように、最後には誤謬が真理に、悪徳が徳に場所を譲るように祈るよう求めます。私たちは皆、天主の御母なる童貞マリアを私たちの助け手、取りなし手とすることにしましょう。こうして、その懐妊のときからサタンを打ち負かした聖母が、その中で悪魔の反抗的精神が彼の倦むことを知らぬ背信と欺瞞と共に再生されるこれらの邪悪な組織に対してその力を示してくださいますように。堕天使どもを駆逐した、天の天使らの総帥ミカエル、ならびに、いと聖き童貞の浄配にしてカトリック教会の天上の保護者なるヨゼフにも祈りましょう。そして、偉大な使徒、キリスト教信仰の父にして勝利に輝く英雄であるペトロとパウロにも祈ることにしましょう。彼らの保護、ならびに私たちのたゆまぬ一致した祈りによって、天主が憐れみ深く、かくも多くの危険に取り囲まれた人類に、時宜に適った助けをほどこしてくださいますように。

38.天からの賜と私の好意の印として、私は主においてあなた方尊敬する兄弟たち、ならびにあなた方の注意深い配慮に委ねられている聖職者および信徒に、愛情をこめて使徒的祝福をおくります。

39.教皇在位第6年、1884年4月14日、ローマ、聖ペトロ大聖堂にて

教皇レオ十三世

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