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2019年3月3日 五旬節の主日説教 サマース神父様「祭壇の至聖なる秘蹟についての教え」

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2019年3月3日 五旬節の主日(大阪)
パトリック・サマーズ神父(聖ピオ十世会アジア管区長)御説教 「祭壇の至聖なる秘蹟についての教え」

彼は異邦人に渡され、あざけられ、鞭打たれ、つばをかけられるであろう。彼らは彼を鞭打ち、そして殺すだろう。それから三日目に彼はよみがえるであろう。(ルカ18章)


祭壇の秘蹟とは何でしょうか?

パンとぶどう酒の外観のもとに、私たちの主イエズス・キリストの御体と御血が、現実に、まことに、実体的に現存する秘蹟です。


キリストは、この秘蹟をいつ、どのようにして約束されましたか?

私たちの救い主は、天主のみ言葉のパンについてなさったように天の御父にそれを帰されたのではなく、このパンが何であるかを分かりやすく述べることによって、ご自身に帰されたのです。「私は天から下ってきた生けるパンである。このパンを食べる者は永遠に生きる。私が与えるパンは、世のいのちのための私の肉である」。(ヨハネ6章51、52節)

しかし、ユダヤ人たちは、非常にはっきりと表現されたこの言葉を信じようとしませんでした。なぜなら、彼らは、それが成就することは不可能だと考えたからであり、こう言いました。「この人は、どのようにして自分の肉を私たちに食べさせることができるのだろう」(53節)。しかし、イエズスはご自分の言葉を思い起こされることはなく、ユダヤ人たちの異議にお答えになることもなく、ご自分が言われたことの確認として、とくに強調してこう宣言されました。「まことにまことに私は言う。人の子の肉を食べず、その血を飲まなければ、あなたたちの中にはいのちがない」(54節)。「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠のいのちを有し、終わりの日にその人々を私は復活させる。私の肉はまことの食べ物であり、私の血はまことの飲み物であるから、私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私に宿り、私もまたその者のうちに宿る。生きてまします御父が私を遣わし、その御父によって私が生きているように、私を食べる者も私によって生きる。これは天から下ったパンである。先祖はマンナを食べても死んだが、このパンを食べる者は永遠に生きる」(55-59節)。

それゆえに、イエズスは、将来において彼がご自身の御体と御血を霊魂のまことの食べ物としてお与えになると、はっきりと分かりやすく言われました。さらに、ユダヤ人と弟子たちは共にこれらの言葉を、そのまことの文字通りの意味で受け取り、イエズスがここで比喩的な意味で御体と御血に言及されたのではなく、ご自身の本当の肉と血を食べ物として彼らにお与えになることを意図しておられたのを知っていました。彼らはイエズスがそのようなことをなさるのは不可能だと信じていたため、また彼らはイエズスが彼らにご自分の死んだ肉を品のない感覚的な方法でお与えになると思っていたからこそ、ユダヤ人たちは不平を言い、弟子たちの中の何人かさえもが、「難しい話だ。そんな話に耳が貸せようか」と言ったのです。しかし、イエズスは、ご自分のおっしゃった言葉を繰り返されました。「私の肉はまことの食べ物である」。

イエズスは彼らに、この神秘は聖霊の光と恩寵によらなければ信じることができないこと、また御体と御血にあずかるということは、品のない感覚的な方法でなされるのではなく、神秘的な方法でなされるということを示されました。それにもかかわらず、弟子たちの多くはイエズスの言われたことをまだ難しいと感じ、彼のもとから去って、もう彼とともに行こうとはしませんでした(67節)。彼らがイエズスの言われたことを難しいと思ったのは、私たちの救い主がはっきりとそう言われたように、彼らに信仰がなかったからです。イエズスは彼らを去らせるままにして、使徒たちに「あなたたちも去っていきたいか」と言われました。これによって、イエズスから去った人々はイエズスのおっしゃったことをはっきりと十分に理解していたこと、またイエズスご自身のお言葉の中には精神で理解するのに難しいものが含まれていたこと、が示されています。使徒たちはイエズスから去ることはありませんでしたが、それはイエズスの神性をよく確信しており、イエズスにとってはすべてが可能であると確信していたからです。聖ペトロがはっきりと「主よ、誰のところに行きましょう。あなたは永遠のいのちの言葉を有しておられます」と言ったように。

聖ヨハネによる報告から、キリストが私たちの食べ物として、現実に、実体的に、素晴らしく神秘的な方法で、ご自身のいと尊き御体と御血を私たちにお与えになることを約束されたということ、またキリストが比喩的に話されたのではないということは明らかです。もしイエズスが比喩的に話すことを意図されたのだとしたら、ご自分の言葉を文字通りに受け取ったため、イエズスがどのようにしてご自分の肉と血を彼らの食べ物として彼らにお与えになることができるのかを理解できなかったユダヤ人やご自分の弟子たちに対して、そのように説明なさったことでしょう。しかしイエズスは、ご自分の肉がまことの食べ物であり、ご自分の血がまことの飲み物であるというご自分の言葉を述べ続けられました。イエズスは、人がご自分の肉を食べご自分の血を飲むことが人にとって最も厳しい義務であるとさえされました(54節)。

イエズスは、この霊魂の食べ物から生じる利益(55節)と、この食べ物が大変必要かつ有益である理由を示されました(56節)。これが難しい言葉であるために弟子たちがイエズスのもとを去っていったとき、イエズスは彼らが去るのをお許しになりましたが、それは彼らがご自身の言葉を信じようとせず、自分たちのこの世的な考え方のせいで彼の言葉を信じることができなかったからです。私たちはこの聖なる神秘を信じなければなりませんが、それを理解することはできません。イエズスはそのとき、カトリック教会が常に守り、教えてきたように、イエズスご自身の御体と御血が、霊魂のためのまことの食べ物であるご聖体においてパンとぶどう酒の外観のもとに現存することをお約束になり、そしてお約束なさったものを本当にお与えになったのです。


キリストは、祭壇の至聖なる秘蹟を、いつ、どのような方法で制定されましたか?

それは、ご受難の前の日の最後の晩餐において、イエズスが使徒たちとともに、この神秘の前表である過ぎ越しの小羊を召し上がったあとでした。三人の福音記者マテオ(26章26-29節)、マルコ(14章22-25節)、ルカ(22章19-20節)は、短く、しかし分かりやすい言葉で、この夕べに、イエズスが手にパンとぶどう酒を取り、「これは、あなたたちのために渡される私の体である。これは、あなたたちと多くの人々のために流される私の血である」と言いつつ、祝別して使徒たちにお与えになったことを伝えています。ここにおいて、奇跡的な方法で、キリストの最も力あるみ言葉によって、神秘的な変化が起こりました。ここにおいて、イエズスは、食べ物としてご自身を使徒たちにお与えになり、あらゆる甘美に満ちたと教会が言うところのいとも聖なる愛の食事を制定されました。

これらの言葉から、またすでに言及した三人の福音記者の言葉から、イエズスがこの約束を本当にお守りになり、至聖なる秘蹟を本当に制定され、ご自分の至聖なる御体と御血を使徒たちに彼らの食べ物としてお与えになったことは明らかです。どの福音記者も聖パウロも、キリストがこれは私の体になる、とか、これは私の体を意味している、とおっしゃったとは伝えていません。私たちの救い主は、これは私の体である、これは私の血である、とおっしゃったことでは全員が一致しており、それゆえに、この神秘的な変化が起こるや否や、キリストの御体と御血が、現実に、まことに、実体的に、パンとぶどう酒の外観のもとに現存するということを私たちが理解するように彼らが明確に意図して書いているのは明らかです。そして、このことは、「これをあなたたちに与える。これは、あなたたちと多くの人々のために流される」という言葉によって再確認されます。なぜなら、キリストは、私たちの贖いのために、パンとぶどう酒をお与えになったのではなく、ご自分の御体と御血の象徴をお与えになったのでもなく、ご自分の本物の御体と本物の御血をお与えになったからです。

もしパンとぶどう酒の外観のもとにあるものがキリストの本物の御体と御血ではなく、その象徴にすぎなかったとしたら、または、もしただのパンとぶどう酒だったとしたら、聖パウロは、私たちが主の御体と御血をふさわしくないままいただくことがあり得ると主張することはできなかったことでしょう。このことはまた、聖書および最も古くからの途絶えることのない使徒的伝承に基づいて常に信じられ教えられてきた、パンとぶどう酒の外観のもとキリストの本当の御体と御血が現存するというカトリック教会の普遍的な信仰によっても証明されています。トリエント公会議はそれを次のように明確に宣言しました(第13総会第1章第1条聖体について)。「キリストの教会に属していたわれわれの先祖たちはみな、この至聖なる秘蹟について論じ、もっとも分かりやすい言葉で次のように告白した。すなわち、われわれの贖い主は最後の晩餐において、パンとぶどう酒を祝別した後、自分の体と自分の血そのものを彼らに与える、というもっとも分かりやすく正確な言葉で使徒たちに約束されたとき、この素晴らしい秘蹟を制定された、と。誰であれ、聖体がまことに、現実に、実体的に、われわれの主イエズス・キリストの体と血、霊魂と神性、それゆえに全キリストを含むということを否定し、聖体は効力のないしるし、または象徴にすぎないと主張する者は、排斥される」。


この秘蹟の外的なしるしは、どのようなものですか?

その形態と外観、つまり形や色、味といったものは私たちの感覚で捉えられるものですが、パンとぶどう酒の本質は聖別によってキリストの本当の御体と御血に変わるのであり、パンとぶどう酒の外観のみが残って、感覚で捉えられるのです。


この聖別がなされるのは、どこで、誰によってですか?

この聖別は、ミサの聖なるいけにえの間に、祭壇上でなされます(それゆえに祭壇の秘蹟という名称で呼ばれます)。そのとき、司祭は、キリストの御名によって、キリストの権能によって、パンとぶどう酒の上に、キリスト御自らがこの聖なる秘蹟を制定されたときに発した言葉を発するのです。


キリストは、それぞれの形態のもとに現存されますか?

キリストは、双方の形態の内に、神性と人性、御体と御霊魂、御肉体と御血において、現実に、まことに現存さます。


聖体拝領の効力は、どのようなものですか?

この至聖なる秘蹟の恩寵は、ローマ公教要理が言うように、数えられないほど多くあります。この秘蹟は、全ての秘蹟の創り主である私たちの主なるキリスト、全き善と完徳であるお方を含むため、すべての恩寵の泉です。教会の教理によれば、この秘蹟をふさわしく受けた人々には、それによってもたらされる恩寵による六つの特別な効果があります。

この秘蹟は拝領した人をキリストと一致させます。このことをキリストは、「私の肉を食べ私の血を飲む者は、私に宿り、私もまたその者のうちに宿る」(ヨハネ6章57節)と言って分かりやすくお教えになっています。それゆえに[ラテン語で『一致』を意味する]communioという名で呼ばれます。それについて大教皇聖レオはこう書いています。「キリストの御体と御血にあずかることによって、私たちは、私たちが受けるものに変えられるのである」。そしてまた、私たちの頭(かしら)であるキリストとのこの一致によって、わたしたちはキリストにおける私たちの兄弟たちと、キリストにおいて、一つの体に、いっそうに緊密に一致するのです(コリント前書10章17節)。

この秘蹟は、霊魂の霊的ないのちである成聖の恩寵を保ち、増加させます。それは、私たちの救い主が「私を食べる者も私によって生きる」(ヨハネ6章58節)とおっしゃるからです。

この秘蹟は、私たちの中の色欲を減少させ、悪魔の誘惑に対して私たちを強めます。聖ベルナルドはこう言っています。「この聖なる秘蹟は、われわれのうちに二つの効果をつくり出す。すなわち、小罪に感じる喜びを減らし、大罪に心から応じる意思を消す。もしあなたがたが今、怒り、ねたみ、あるいは不潔のような激しい感情を以前より頻繁には感じないなら、それは主の御体と御血のおかげである」。

また、聖クリゾストモスはこう言っています。「われわれがふさわしく聖体拝領をするなら、祭壇から戻るときには、私たちは心を燃え立たせた、悪魔も恐れるライオンのようになる」。この秘蹟は、私たちに、力と勇気をもって、善きわざを行わせます。それは、キリストのうちに宿り、キリストがそのうちに宿る者は良き実を結ぶ(ヨハネ15章)からです。

この秘蹟は、小罪を消し、大罪を防ぎます。それについて聖アンブロジオは次のように言っています。「この日ごとのパンは、日ごとの弱さに対抗する助けとして用いられる。この聖なる秘蹟を受けることによって、われわれは特別な方法でキリストの持ち物、キリストの子羊とされ、キリストご自身がその聖心の御血で養ってくださり、私たちが祈りと警戒と闘いによってキリストの恩寵に協力する限りにおいて、彼の御手から取り去られるのをお許しにならない。」

この秘蹟は、私たちを、栄光ある復活へと、そして永遠の幸福へと至らせます。それは、ふさわしく聖体拝領する人は、復活といのちである(ヨハネ11章25節)お方を、「私の肉を食べ私の血を飲む者は、永遠のいのちを有し、終わりの日にその人々を私は復活させる」(ヨハネ6章55節)とおっしゃったお方を持つからです。それゆえに、その人は、栄光のうちに復活し永遠に生きるという約束を、キリストにおいて持つのです。

この秘蹟を受けることが、それほど素晴らしい結果をもたらすならば、私たちはどれほど頻繁に、またどれほどの心からの望みをもって、この天の祝宴を、このすべての恩寵の泉を享受するために急いで行かなければならないことでしょうか! 初期のキリスト教徒はこの秘蹟を日々受けていましたし、聖アウグスティノは「日々益となるものは日々受けよ!」と言っています。また聖チリロは、「聖体拝領から長く遠ざかったままでいると、永遠のいのちから遠く離れてしまうということを、洗礼を受けた者は知っておいた方がよい」と言っています。

おお、ご聖体の無視やふさわしくない拝領からくる私たちの時代のキリスト信者の無関心、弱さ、不敬はどこから来るのでしょうか! キリスト信者の霊魂よ、あなたを非常にやさしく祝宴に招いておられるイエズスの声に耳を閉じてはいけません。「重荷を負う者はみな、私に来たれ、元気づけてあげよう」。頻繁に、本当に頻繁にイエズスのもとへ行きましょう。でも皆さんがイエズスのもとに行くときは、イエズスを受けるのにふさわしい準備を忘れないでください。そうすれば皆さんは、自分の霊魂にすぐその効果を感じることでしょう。


この聖なる秘蹟のためのふさわしい準備には、どのような要素がありますか?

霊魂のふさわしい準備は、心からの告白によって、すべての重い罪から自分を清めること、また深い謙遜と心からの愛、熱心な望みをもって、聖なる食卓に近づくことです。大罪の状態でご聖体を拝領する人は、使徒が言うように、自分に審判と地獄の宣告を引き下ろしてしまいます。体のふさわしい準備は、ご聖体拝領前の真夜中から断食をすることと、また主の祝宴に適切な服装をして行くことです。


それゆえ、本日、そして私たちがご聖体を受けるすべての機会に、私たちの主イエズス・キリストの御体と御血というこの素晴らしい秘蹟に対する感謝を表すために、大いなる努力をいたしましょう。  




【英語原文】

Sermon for Quinquagesima Sunday
Fr Patrick Summers, District Superior of Asia, FSSPX

For he shall be delivered to the Gentiles, and shall be mocked, and scourged, and spit upon: And after they have scourged him, they will put him to death; and the third day he shall rise again. (Luke 18)

INSTRUCTION ON THE MOST HOLY SACRAMENT OF THE ALTAR


What is the Sacrament of the Altar?

It is that Sacrament in which under the appearance of bread and wine the Body and Blood of our Lord Jesus Christ are really, truly and substantially present.


When and to what manner did Christ promise this Sacrament?

Our Savior did not ascribe to the Heavenly Father, as He did the bread of the divine word, but to Himself by plainly telling what this bread was: I am the living bread which came down from heaven. If any man eat of this bread, he shall live forever, and the bread that I will give, is my flesh for the life of the world. (V. 51, 52.)

But the Jews would not believe these words, so clearly expressed, for they thought their fulfillment impossible, and said: How can this man give us his flesh to eat? (V. 53.) But Jesus recalled not His words, answered not the Jews' objections, but confirmed that which He had said, declaring with marked emphasis: Amen, amen, I say unto you, except you eat the flesh of the Son of Man, and drink his blood, you shall not have life in you., (V. 54.) He that eateth my flesh and drinketh my blood, hath everlasting life, and I will raise him up in the last day. For my flesh is meat indeed: and my blood is drink indeed; he that eateth my flesh and drinketh my blood, abideth in me, and I in him. As the living Father hath sent me; and I live by the Father; so he that eateth me, the same also shall live by me. This is the bread that came down from heaven. Not as your fathers did eat manna and are dead. He that eateth this bread; shall live forever: (V. 55-59.)

Jesus, therefore, said distinctly and plainly, that at a future time He would give His own Body and Blood as the true nourishment of the soul; besides, the Jews and the disciples alike received these words in their true, literal sense, and knew that Jesus did not here mention His Body and Blood in a figurative sense, but meant to give them His own real Flesh and Blood for food; and it was because they believed it impossible for Jesus to do this, and because they supposed He would give them His dead flesh in a coarse, sensual manner, that the Jews murmured, and even several of His disciples said: This saying is hard, and who can hear it? But Jesus persisted in His words: My flesh is meat indeed.

He showed them that this mystery could be believed only by the light and grace of the Holy Spirit, and the partaking of His Body and Blood would not be in a coarse or sensual manner, but in a mysterious way. Notwithstanding this, many of His disciples still found the saying hard, and left Him, and went no longer with Him. (V. 67.) They found the saying hard, because, as our Saviour expressly said, they were lacking in faith. He let them go and said to His apostles: Will you also go away? thereby showing that those who left Him, understood Him clearly enough, and that His words did contain something hard for the mind to believe. The apostles did not leave Him, they were too well assured of His divinity, and that to Him all was possible, as St. Peter clearly expresses: Lord, to whom shall we go? Thou hast the words of eternal life.

From the account given by St. John, it is plainly seen that Christ really promised to give us for our food His most precious Body and Blood, really and substantially, in a Wonderful, mysterious manner, and that He did not speak figuratively. If Jesus had so meant it, He would have explained it thus to the Jews and to His disciples who took His words literally, and therefore could not comprehend, how Jesus could give His Flesh and Blood to them for their food. But Jesus persisted in His words, that His Flesh was truly food, and His Blood really drink. He even made it the strictest duty for man to eat His Flesh and drink His Blood; (V. 54) He shows the benefits arising from this nourishment of the soul, (V. 55) and the reason why this food is so necessary and useful. (V. 56.) When His disciples left Him, because it was a hard saying, He allowed them to go, for they would not believe His words, and could not believe them on account of their carnal manner of thinking. This holy mystery must be believed, and cannot be comprehended. Jesus has then promised, as the Catholic Church has always maintained and taught, that His Body and Blood would be present under the appearance of bread and wine in the Blessed Sacrament, a true nourishment for the soul, and that which He promised, He has really given.


When and in what manner did Christ institute the most holy Sacrament of the Altar?
At the Last Supper, on the day before His passion, after He had eaten with His apostles the paschal lamb, which was a prototype of this mystery. Three Evangelists, Matthew, (XXVI: 26-29.) Mark, (XIV. 22-25.) and Luke (XXII. 19-20.) relate in few, but plain words, that on this evening Jesus took into His hand bread and the chalice, blessed and gave both to His disciples, saying: This is my body, that will be given for you; this is my blood, which will be shed for you and for many. Here took place in a miraculous manner, by the all-powerful word of Christ, the mysterious transformation; here Jesus gave Himself to His apostles for food, and instituted that most holy meal of love which the Church says contains all sweetness.

From these words and those of the three holy Evangelists already mentioned, it is clear that Jesus really fulfilled His promise, really instituted the most holy Sacrament, and gave His most sacred Body and Blood to the apostles for their food. None of the Evangelists, nor St. Paul, informs us that Christ said: this will become my body, or, this signifies my body. All agree that our Savior said this is my body, this is my blood, and they therefore decidedly mean us to understand that Christ's body and blood are really, truly, and substantially present under the appearance of bread and wine, as soon as the mysterious change has taken place. And this is confirmed by the words: that is given for you; which shall be shed for you and for many; because Christ gave neither bread nor wine, nor a figure of His Body and Blood, for our redemption, but His real Body, and His real Blood, and St. Paul could not assert that we could eat the Body and Blood of the Lord unworthily, if under the appearance of bread and wine were present not the real Body and Blood of Christ, but only a figure of them, or if they were only bread and wine. This is also proved by the universal faith of the Catholic Church, which in accordance with Scripture and the oldest, uninterrupted Apostolic traditions has always believed and taught, that under the appearance of bread and wine the real Body and Blood of Christ are present, as the Ecumenical Council of Trent expressly declares: (Sess. XIII. C. I. Can. I. de sacros. Euchdr.) "All our ancestors who were of the Church of Christ, and have spoken of this most Blessed Sacrament, have in the plainest manner professed that our Redeemer instituted this wonderful Sacrament at the Last Supper, when, having blessed the bread and wine, He assured the apostles in the plainest and most exact words, that He was giving them His Body and Blood itself; and if any one denies that the holy Eucharist truly, really, and substantially contains the Body and Blood, the Soul and Divinity of, our Lord Jesus Christ, therefore the whole Christ, and asserts that it is only a sign or figure without virtue, let him be anathema."


Which are the external signs of this Sacrament?

The form and appearance, or that which appears to our senses, as the figure, the color, and the taste, but the substance of the bread and wine is by consecration changed into the real Body and Blood of Christ, and only the appearance of bread and wine remains, and is observable to the senses.


Where and by whom is this consecration effected?

This consecration is effected on the altar during the holy Sacrifice of the Mass (therefore the name Sacrament of the Altar), when the priest in the name and by the power of Christ pronounces over the bread and wine the words which Christ Himself pronounced when He instituted this holy Sacrament.


Is Christ present under each form?

Christ is really and truly present under both forms, in Divinity and Humanity, Body and Soul, Flesh and Blood.


Which are the effects of holy Communion?

The graces of this most holy Sacrament are, as the Roman Catechism says, innumerable; it is the fountain of all grace, for it contains the Author of all the Sacraments, Christ our Lord, all goodness and perfection. According to the doctrine of the Church, there are six special effects of grace produced by this Sacrament in those who worthily receive it. It unites the recipient with Christ, which Christ plainly shows when He says: He that eateth my flesh and drinketh my blood, abideth in me and I in him; (John VI. 57.) hence the name Communion, of which St. Leo writes: "The participation of the Body and Blood of Christ transforms us into that which we receive," and from this union with Christ, our Head, arises also a closer union with our brethren in Christ, into one body. (I Cor. X. 17.) It preserves and increases sanctifying grace, which is the spiritual life of the soul, for our Savior says: He that eateth me, the same also shall live by me. (John VI, 58.) It diminishes in us concupiscence and strengthens us against the temptations of the devil. St. Bernard says: "This holy Sacrament produces two effects in us, it diminishes gratification in venial sins, it removes the full consent in grievous sins; if any of you do not feel so often now the harsh emotion of anger, of envy, or impurity, you owe it to the Body and Blood of the Lord:" and St. Chrysostom: "When we communicate worthily we return from the table like fiery lions, terrible to the devils." It causes us to perform good works with strength and courage; for he who abides in Christ, and Christ in him, bears much fruit. (John XV.) It effaces venial sin, and preserves from mortal sin, as St. Ambrose says: "This daily bread is used as a help against daily weakness: and as by the enjoyment of this holy Sacrament, we are made in a special manner the property, the lambs of Christ, which He Himself nourishes with His own heart's blood, He does not permit us to be taken out of His hands, so long as we cooperate with His grace, by prayer, vigilance and contest. It brings us to a glorious resurrection and to eternal happiness; for he who communicates worthily, possesses Him Who is the resurrection and the life, (John XI. 25.) who said: He that eatheth my flesh, and drinketh my blood, hath everlasting life: and I will raise him up in the last day. (John VI, 55.) He has, therefore, in Christ a pledge, that he will rise in glory and live for ever. If the receiving of this Sacrament produces such great results, how frequently and with what sincere desire should we hasten to enjoy this heavenly banquet, this fountain of all grace! The first Christians received it daily, and St. Augustine says: "Daily receive what daily benefits!" and St. Cyril: The baptized may know that they remove themselves far from eternal life, when they remain a long time from Communion." Ah, whence comes in our days, the indifference, the weakness, the impiety of so many Christians but from the neglect and unworthy reception of Communion! Christian soul, close not your ears to the voice of Jesus who invites you so tenderly to His banquet: Come to me all you who are heavily laden and I will refresh you. Go often, very often to Him; but when you go to Him, do not neglect to prepare for His worthy reception, and you will soon feel its effects in your soul.


In what does the worthy preparation for this holy Sacrament consist?

The worthy preparation of the soul consists in purifying ourselves by a sincere confession from all grievous sins, and in approaching the holy table with profound humility, sincere love, and with fervent desire. He who receives holy Communion in the state of mortal sin draws down upon himself, as the apostle says, judgment and condemnation. The worthy preparation of the body consists in fasting from midnight before receiving Communion, and in coming properly dressed to the Lord's banquet.

Therefore, let us make great efforts to show gratitude for this wonderful sacrament of the Body and Blood of our Lord Jesus Christ today and at every opportunity that we have to receive it.
Finis


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