2019年1月20日(主日)御公現後第2主日のミサ
小野田神父 説教
日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2019年1月20日、御公現後第2主日のミサをしております。
今日のこの御ミサの後に、いつもの通りミサの後の感謝の祈りがありますが、1月は恒例の、踏み絵に対して犯された罪の償いを、皆さんと一緒にしようと思っています。
踏み絵のレプリカをお持ちしましたので、皆さんどうぞそれに接吻をして下さい。
今日は公教要理がキャンセルになりました。その代わりに14時頃から子供の洗礼式があります。
侍者の会の集いも14時頃から1時間の予定であります。多くの方が侍者をするようになっていて本当に嬉しく思っております。若い男性の方がたくさん侍者をして下さるようになりますように、どうぞよろしくお願いします。
晚課はその後15時頃からあります。
明日も朝7時から御ミサがあります。
そして今日は本当に嬉しいニュースがあります。来月の最初の主日、2月3日ですけれども、その時にはシュテーリン神父様がわざわざポーランドからいらして下さって「是非マリア様の、無原罪の聖母のお話をしたい」という事です。
大阪にも行きたいと言ってくださっていますが「コルベ神父様が一生懸命働いた、そして私たちに伝えて下さった無原罪のマリア様の信心をそのまま、コルベ神父様がそのお望みのまま、皆さんに伝えたい」と、はるばるご足労を下さいます。
そこで、このような機会は今後あるかどうか分かりません。そして皆さんに是非お願いしたいのは、この来月の2月3日のミサの時には、是非お友達を一人連れて来て下さって、この御聖堂が、今60人皆さんがいらっしゃれば、120人になるようにお願いいたします。
是非この貴重なミサと、貴重なお話を皆さんが、多くの方がそこから利益を得て下さいますように、マリア様がより多くの方に知らされますように、皆さんの寛大なご協力をお願いしたいと思っています。2月3日は是非、多くの方をお誘い下さい。
「その時、ガリレアのカナで、婚宴の式が行なわれた。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は御公現後第2の主日で、イエズス様が「天主である」という事をお現しになった、いくつかの重要な場面を福音書で読みます。今日起こったのは、今日読まれたのは、カナでの婚宴の式でした。まずマリア様がそこにいらっしゃいました。何か付け足しのように、「イエズス様と弟子たちもそこに呼ばれた」と書かれます。
そこで今日、このカナの婚宴のこの神秘を見る時に、今現代日本で、現代世界で、一番イエズス様が公生活の最初に行なった、大切にしようと思った、そしてマリア様もその心を砕いたそのものが攻撃されているものを見ています。つまり、「婚姻」という天主の制定した秘跡、制度であり、「家庭」という人類の最も、社会の最も中心となる基礎です。
そこで今日は、イエズス様がそれを祝福して最初の奇跡を起こした「婚宴」の、その福音を読んだこのこれを、これを私たちの黙想のテーマとする事を提案します。1つは、これは聖ピオ十世会のトゥワデク神父様が、『カトリック家庭』という素晴らしい本をお書きになって、それを読んでいる内にインスピレーションをたくさん受けたものです。
⑴では天主は、「家庭、婚姻」というものをどのように制定されたのか、という事を簡単に見る事にします。
⑵その次に、「婚姻を元に作られるカトリックの家庭」というのはどのようなものなのか、イエズス様とマリア様が祝福した、そして聖ヨゼフと共に模範を示した、カトリックの家庭について、私たちは黙想しましょう。特にここにいらっしゃるたくさんの若い方々が、その家庭生活の理想というものの素晴らしさにますます深く気付いて下さるように願いを込めて。
⑶そして最後に、私たちは遷善の決心を立てる事に致しましょう。
⑴第1の点は、「婚姻」という事です。
婚姻は、アダムとエヴァの創造のその最初から作られました。アダムが一人でいるのを見て、「これは良くない。同伴者を作ろう、与えよう。」そして天主が人類に、アダムに与えた最高の贈り物、プレゼント、それが美しいエヴァでした。アダムの同伴者であり、そしてアダムはそれを見て、「これは私の骨からの骨、肉からの肉」と、嬉しさのあまりに天主に感謝しました。天主はこの二人を見て、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と、婚姻の目的を制定しました。
これを見ると、「天主は、世の最初から婚姻を制定した」という事が分かります。それは、「人類の出産とその教育の為に」という第1の目的の為に、そしてその目的がよく達成させる事ができるように、そして人類の幸福の為に、この「夫婦は、婚姻をした夫婦は、父と母を離れて二人は一体となる。」そこに、「婚姻が決して解消される事ができない、天主によって結び付けられたものである」という事をはっきりと言われています。イエズス様もその事をはっきり言います。
そして最初から、婚姻というのは、「一人の男と一人の女性とが結ぶ」ものです。一夫一婦制。これが天主の創造した制定したものであって、これを傷付けるようなものはつまりは天主を傷付け、私たちを傷付け、全人類に対しての傷となります。
イエズス様はこの婚姻という自然の制度を、「秘跡」にまで高められました。秘跡にまで高められたという事は、婚姻の制度の上に何かを加えるというのではなくて、その「全体の質を、超自然の次元にまで高めた」という事です。この婚姻の秘跡を通して、私たちが必要な、婚姻生活に必要な全ての超自然の御恵みを保証して、更に私たちの婚姻の生活が超自然の価値を持つように、天国の無限の報いを得るものとなるように価値を高めた、という事です。同じ飲み物でも、水とぶどう酒の違いのようなものかもしれませんが、その差はもっとです。自然が超自然の次元まで上げられたからです。
神学者たちは、一体いつ、イエズス様がこの婚姻の秘跡を制定されたのか、議論があります。
ある神学者は、「カナの婚宴で、カナの席に呼ばれた時に、その最初の公生活の出来事を、御自分の現存を以って秘跡と聖化された」と言います。「ちょうどそれが、イエズス様が洗礼を受ける事によって洗礼の水を聖化して、洗礼を制定したと同じだ」とある人は言いますが、ある人は、「そうではなくて、イエズス様が公生活の最後に十字架に付けられて、胸から、第2のアダムとして胸から水と血を流されて、そして自分の花嫁である教会を脇から出した時に、婚姻の秘跡が制定されたのだ」と言いますが、まだ、教皇様による決着は着いていません。
私たちがこの周りで、これに反する事をたくさん見ています、「あぁ、結婚は子供をたくさん無くても良いのだ。」子供の新しい生命に対して閉ざされている家庭、拒否する家庭。
あるいは、「あぁ、もう一緒にいるのは嫌だ」と、天主の定めたその制度を破壊して傷を付ける、深い傷を負わせる人々、これは人類への深い傷となって、死をもたらすものとなってしまいます。
家庭が健康であれば健康であるほど、一致していれば一致しているほど、社会は、あるいは日本の国は、あるいは世界の国々は、それほど健康であって、生き生きとして、そして活力を持って、そして指導的な民族になりますが、もしも家庭が歪んでいたり、傷付いていたり、苦しんでいたりすると、まず子供や妻が犠牲となって、そして特に弱い人々が犠牲となって、そのような社会はあまりにも傷が多く、死へと、死に至ってしまいます。
あるいは、この天主が定めた「一夫一婦制」というものに対して反対する、あるいはそれを妨害するような勢力もあります。
イエズス様はそれを強く守ろうと戒めました、「天主が一つにまとめたものを、人間はいかなるどのような力も、それを解消する事はできない、それに反する事はできない。」
⑵では第2の点に、では確かにイエズス様はそれを、「婚姻」を秘跡として、超自然のレベルにまで高めて下さいましたけれども、ではイエズス様は「家庭生活」をどのように聖化したでしょうか?
なんと30年間、家庭生活を送る事によって、「家庭生活というものがどれほど大切か、どれほど聖なるものであるか、どれほど天主の御旨に適うものであるか」という事を教えようとしています。
特に聖ヨゼフを見ると分かりますけれども、カトリックの家庭では、家の頭は家長は夫です、父親です。という事は、最高の最大の責任があるという事です。まず天主は夫に、この家庭の成員の救霊について、その福祉について、それの聖寵について責任を問う、という事です。
その家長、家の頭というのは、どこかの会社の社長であるという事よりも、あるいは一国の総理大臣であるという事よりも、更に名誉な事であって、更に責任のある、天主からの祝福を受けるものです。なぜかというと、一国の首相も、大統領も、あるいは社長も、交換する事はできますが、家長というのは、あるいは夫というのは父親というのは、天主が定めたものであるからです。かけがえのない、取り替える事ができない存在であるからです。
ですから、男性にとって必要とされるのは、賢明さ、家族の善を求めるその愛と、その献身、我が身を忘れるほどの奉仕の心。これは、イエズス様が公教会に対して、教会の為に血を流してまでも愛された、そこに模範が見えます。
ピオ十二世教皇様によると、「夫があるいは父親が、家の頭であるとすれば、妻はあるいは母親は、家庭のハートだ、心臓だ。家庭の太陽だ」と言います。
頭だけでは体が成り立たないように、心臓が脈々と打っていなければなりません。暖かい血を全身に回さなければなりません。天主から与えられた最高のプレゼントとして、女性には特別の尊厳があります。まずアダムの心臓の一番、心の一番側の、アダムの愛する愛の隣の脇腹から創られたという事から、女性は男性の奴隷でもないし、あるいはご主人様でもなく、同伴者であるという事です。
ピオ十二世教皇様によると、「また女性の尊厳さは、更に『母親となる事ができる』という事にある」と言います。「母親になる事ができるという事は、つまりたとえ母親になってなかったとしても、あるいはなれなかったとしても、なる事がないとしても、あるいは結婚していなかったとしても、女性には母親になる事ができるという、その可能性があるが故に、特別の尊厳が与えられている」と言います。
ですから女性が、「自分は母親である」「母親となるべき者である」という事を自覚した女性は、自覚すればするほど、その身振る舞いも高貴なものでありますし、立派なものですし、そして決して俗っぽい、あるいはおかしなものではなく、他の人から尊敬を集めさせるようなものと自然となっていきます。
もしもそのような自覚がないという人は、残念ながら多くの場合、あまりにも俗っぽくなってしまったり、自分を軽く取り扱ってしまったり、あるいは残念ながら犠牲者となって、苦しい思いをされてしまいます。
天主の御摂理によって、女性には色々な特別な能力と力が与えられました。特に夫の良い助言者として、良い助け手として、信頼を以って、そして献身的にこの「助ける」という事ができる存在として与えられました。
あるプロテスタントからカトリックになった、回心した有名な女性作家によると、その「女性の偉大さは、ベールを被るところにある。マリア様こそがその偉大さを体現された方だ。黙示録の時代になると、男性は獣のようになる、そして人間らしさを失う。しかし女性は女性としてのまま残っている。ただ黙示録に出てくるのは、太陽に包まれた子供を産む女性と、あとバビロンの大淫婦だ。最高の善が腐敗すると、最高の悪になる。」
そこで、この「家庭の心臓である、という事がいかに大事であるか」という事をピオ十二世教皇様は更に説明して、「特に妻、母親は、太陽のようだ」と言います、「太陽の光線のようだ。なぜかというと、家庭を温めるものであって、家庭に平和を与えるものであって、喜びと、一致と、幸せと、休みと、休息とを与えるものであるから。」
ピオ十二世によると、「マリア様は決して、聖家族において冷たい態度や、あるいは少しの事でイライラ怒ったりとか、あるいは子供に対して、イエズス様に対して、あるいは夫に対して、厳しい言葉遣いをしたりとかはなかった。」
しかし、この夫婦の間には、調和と協力がなければなりません。「仕事は夫の仕事、家事は私、関係ない」のではなくて、互いに、かといって他の相手の仕事の分野に割り込むのではなく、互いに関心を持って感謝したり、もしも必要ならば助けを申し出たり、あるいは提案したり、あるいはその仕事の価値を認めてその賞賛したり、あるいは互いに自分の考えを単純に、そして尊敬を込めて、愛徳を込めて、意見を交換したり、そして自分の考えを押し付けるのではなくて、相手の必要や弱さを理解したり、つまり超自然の精神を持って家庭生活を送るという事です。これをイエズス様は30年間なさいました。
⑶では最後に、私たちはこれを見てどのように、どのような遷善の決心を取ったら良いでしょうか?どのようにしたら、イエズス様が私たちを祝福して、私たちの家庭を最高のワインのようにして下さるでしょうか?私たちの日常の生活がより少なく辛いものであったり、この涙の谷においても平和と喜びに満ちたものとなるでしょうか?
それは「マリア様」であって、「お祈り」です。もしも最初の奇跡がカナの婚宴で行なわれたとしたら、マリア様がそこにいらしたからであるし、そしてマリア様がいらしたからこそ、イエズス様も喜んで与ったに違いありません。
マリア様にとって、婚宴の式でブドウ酒が無くなったという事が一体どれほど重要だった事でしょうか。しかしマリア様の優しさと憐れみは、ここに現れています。私たちが必要としているものをマリア様は言わずとご存知ですから、私たちの為にいつもイエズス様にとりなして、取り次いで下さって、「この家庭にはこれが必要。」
そしてマリア様は私たちに、「イエズス様がなさったような、仰る事をしなさい」と、「ただイエズス様をお喜ばせする事をしなさい」と仰るに違いありません。ですから私たちはお祈りを致します。特にミサを中心に、この家庭生活を築いていくようにしましょう。
それを今年の、新年の決心とする事に致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
小野田神父 説教
日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2019年1月20日、御公現後第2主日のミサをしております。
今日のこの御ミサの後に、いつもの通りミサの後の感謝の祈りがありますが、1月は恒例の、踏み絵に対して犯された罪の償いを、皆さんと一緒にしようと思っています。
踏み絵のレプリカをお持ちしましたので、皆さんどうぞそれに接吻をして下さい。
今日は公教要理がキャンセルになりました。その代わりに14時頃から子供の洗礼式があります。
侍者の会の集いも14時頃から1時間の予定であります。多くの方が侍者をするようになっていて本当に嬉しく思っております。若い男性の方がたくさん侍者をして下さるようになりますように、どうぞよろしくお願いします。
晚課はその後15時頃からあります。
明日も朝7時から御ミサがあります。
そして今日は本当に嬉しいニュースがあります。来月の最初の主日、2月3日ですけれども、その時にはシュテーリン神父様がわざわざポーランドからいらして下さって「是非マリア様の、無原罪の聖母のお話をしたい」という事です。
大阪にも行きたいと言ってくださっていますが「コルベ神父様が一生懸命働いた、そして私たちに伝えて下さった無原罪のマリア様の信心をそのまま、コルベ神父様がそのお望みのまま、皆さんに伝えたい」と、はるばるご足労を下さいます。
そこで、このような機会は今後あるかどうか分かりません。そして皆さんに是非お願いしたいのは、この来月の2月3日のミサの時には、是非お友達を一人連れて来て下さって、この御聖堂が、今60人皆さんがいらっしゃれば、120人になるようにお願いいたします。
是非この貴重なミサと、貴重なお話を皆さんが、多くの方がそこから利益を得て下さいますように、マリア様がより多くの方に知らされますように、皆さんの寛大なご協力をお願いしたいと思っています。2月3日は是非、多くの方をお誘い下さい。
「その時、ガリレアのカナで、婚宴の式が行なわれた。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は御公現後第2の主日で、イエズス様が「天主である」という事をお現しになった、いくつかの重要な場面を福音書で読みます。今日起こったのは、今日読まれたのは、カナでの婚宴の式でした。まずマリア様がそこにいらっしゃいました。何か付け足しのように、「イエズス様と弟子たちもそこに呼ばれた」と書かれます。
そこで今日、このカナの婚宴のこの神秘を見る時に、今現代日本で、現代世界で、一番イエズス様が公生活の最初に行なった、大切にしようと思った、そしてマリア様もその心を砕いたそのものが攻撃されているものを見ています。つまり、「婚姻」という天主の制定した秘跡、制度であり、「家庭」という人類の最も、社会の最も中心となる基礎です。
そこで今日は、イエズス様がそれを祝福して最初の奇跡を起こした「婚宴」の、その福音を読んだこのこれを、これを私たちの黙想のテーマとする事を提案します。1つは、これは聖ピオ十世会のトゥワデク神父様が、『カトリック家庭』という素晴らしい本をお書きになって、それを読んでいる内にインスピレーションをたくさん受けたものです。
⑴では天主は、「家庭、婚姻」というものをどのように制定されたのか、という事を簡単に見る事にします。
⑵その次に、「婚姻を元に作られるカトリックの家庭」というのはどのようなものなのか、イエズス様とマリア様が祝福した、そして聖ヨゼフと共に模範を示した、カトリックの家庭について、私たちは黙想しましょう。特にここにいらっしゃるたくさんの若い方々が、その家庭生活の理想というものの素晴らしさにますます深く気付いて下さるように願いを込めて。
⑶そして最後に、私たちは遷善の決心を立てる事に致しましょう。
⑴第1の点は、「婚姻」という事です。
婚姻は、アダムとエヴァの創造のその最初から作られました。アダムが一人でいるのを見て、「これは良くない。同伴者を作ろう、与えよう。」そして天主が人類に、アダムに与えた最高の贈り物、プレゼント、それが美しいエヴァでした。アダムの同伴者であり、そしてアダムはそれを見て、「これは私の骨からの骨、肉からの肉」と、嬉しさのあまりに天主に感謝しました。天主はこの二人を見て、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と、婚姻の目的を制定しました。
これを見ると、「天主は、世の最初から婚姻を制定した」という事が分かります。それは、「人類の出産とその教育の為に」という第1の目的の為に、そしてその目的がよく達成させる事ができるように、そして人類の幸福の為に、この「夫婦は、婚姻をした夫婦は、父と母を離れて二人は一体となる。」そこに、「婚姻が決して解消される事ができない、天主によって結び付けられたものである」という事をはっきりと言われています。イエズス様もその事をはっきり言います。
そして最初から、婚姻というのは、「一人の男と一人の女性とが結ぶ」ものです。一夫一婦制。これが天主の創造した制定したものであって、これを傷付けるようなものはつまりは天主を傷付け、私たちを傷付け、全人類に対しての傷となります。
イエズス様はこの婚姻という自然の制度を、「秘跡」にまで高められました。秘跡にまで高められたという事は、婚姻の制度の上に何かを加えるというのではなくて、その「全体の質を、超自然の次元にまで高めた」という事です。この婚姻の秘跡を通して、私たちが必要な、婚姻生活に必要な全ての超自然の御恵みを保証して、更に私たちの婚姻の生活が超自然の価値を持つように、天国の無限の報いを得るものとなるように価値を高めた、という事です。同じ飲み物でも、水とぶどう酒の違いのようなものかもしれませんが、その差はもっとです。自然が超自然の次元まで上げられたからです。
神学者たちは、一体いつ、イエズス様がこの婚姻の秘跡を制定されたのか、議論があります。
ある神学者は、「カナの婚宴で、カナの席に呼ばれた時に、その最初の公生活の出来事を、御自分の現存を以って秘跡と聖化された」と言います。「ちょうどそれが、イエズス様が洗礼を受ける事によって洗礼の水を聖化して、洗礼を制定したと同じだ」とある人は言いますが、ある人は、「そうではなくて、イエズス様が公生活の最後に十字架に付けられて、胸から、第2のアダムとして胸から水と血を流されて、そして自分の花嫁である教会を脇から出した時に、婚姻の秘跡が制定されたのだ」と言いますが、まだ、教皇様による決着は着いていません。
私たちがこの周りで、これに反する事をたくさん見ています、「あぁ、結婚は子供をたくさん無くても良いのだ。」子供の新しい生命に対して閉ざされている家庭、拒否する家庭。
あるいは、「あぁ、もう一緒にいるのは嫌だ」と、天主の定めたその制度を破壊して傷を付ける、深い傷を負わせる人々、これは人類への深い傷となって、死をもたらすものとなってしまいます。
家庭が健康であれば健康であるほど、一致していれば一致しているほど、社会は、あるいは日本の国は、あるいは世界の国々は、それほど健康であって、生き生きとして、そして活力を持って、そして指導的な民族になりますが、もしも家庭が歪んでいたり、傷付いていたり、苦しんでいたりすると、まず子供や妻が犠牲となって、そして特に弱い人々が犠牲となって、そのような社会はあまりにも傷が多く、死へと、死に至ってしまいます。
あるいは、この天主が定めた「一夫一婦制」というものに対して反対する、あるいはそれを妨害するような勢力もあります。
イエズス様はそれを強く守ろうと戒めました、「天主が一つにまとめたものを、人間はいかなるどのような力も、それを解消する事はできない、それに反する事はできない。」
⑵では第2の点に、では確かにイエズス様はそれを、「婚姻」を秘跡として、超自然のレベルにまで高めて下さいましたけれども、ではイエズス様は「家庭生活」をどのように聖化したでしょうか?
なんと30年間、家庭生活を送る事によって、「家庭生活というものがどれほど大切か、どれほど聖なるものであるか、どれほど天主の御旨に適うものであるか」という事を教えようとしています。
特に聖ヨゼフを見ると分かりますけれども、カトリックの家庭では、家の頭は家長は夫です、父親です。という事は、最高の最大の責任があるという事です。まず天主は夫に、この家庭の成員の救霊について、その福祉について、それの聖寵について責任を問う、という事です。
その家長、家の頭というのは、どこかの会社の社長であるという事よりも、あるいは一国の総理大臣であるという事よりも、更に名誉な事であって、更に責任のある、天主からの祝福を受けるものです。なぜかというと、一国の首相も、大統領も、あるいは社長も、交換する事はできますが、家長というのは、あるいは夫というのは父親というのは、天主が定めたものであるからです。かけがえのない、取り替える事ができない存在であるからです。
ですから、男性にとって必要とされるのは、賢明さ、家族の善を求めるその愛と、その献身、我が身を忘れるほどの奉仕の心。これは、イエズス様が公教会に対して、教会の為に血を流してまでも愛された、そこに模範が見えます。
ピオ十二世教皇様によると、「夫があるいは父親が、家の頭であるとすれば、妻はあるいは母親は、家庭のハートだ、心臓だ。家庭の太陽だ」と言います。
頭だけでは体が成り立たないように、心臓が脈々と打っていなければなりません。暖かい血を全身に回さなければなりません。天主から与えられた最高のプレゼントとして、女性には特別の尊厳があります。まずアダムの心臓の一番、心の一番側の、アダムの愛する愛の隣の脇腹から創られたという事から、女性は男性の奴隷でもないし、あるいはご主人様でもなく、同伴者であるという事です。
ピオ十二世教皇様によると、「また女性の尊厳さは、更に『母親となる事ができる』という事にある」と言います。「母親になる事ができるという事は、つまりたとえ母親になってなかったとしても、あるいはなれなかったとしても、なる事がないとしても、あるいは結婚していなかったとしても、女性には母親になる事ができるという、その可能性があるが故に、特別の尊厳が与えられている」と言います。
ですから女性が、「自分は母親である」「母親となるべき者である」という事を自覚した女性は、自覚すればするほど、その身振る舞いも高貴なものでありますし、立派なものですし、そして決して俗っぽい、あるいはおかしなものではなく、他の人から尊敬を集めさせるようなものと自然となっていきます。
もしもそのような自覚がないという人は、残念ながら多くの場合、あまりにも俗っぽくなってしまったり、自分を軽く取り扱ってしまったり、あるいは残念ながら犠牲者となって、苦しい思いをされてしまいます。
天主の御摂理によって、女性には色々な特別な能力と力が与えられました。特に夫の良い助言者として、良い助け手として、信頼を以って、そして献身的にこの「助ける」という事ができる存在として与えられました。
あるプロテスタントからカトリックになった、回心した有名な女性作家によると、その「女性の偉大さは、ベールを被るところにある。マリア様こそがその偉大さを体現された方だ。黙示録の時代になると、男性は獣のようになる、そして人間らしさを失う。しかし女性は女性としてのまま残っている。ただ黙示録に出てくるのは、太陽に包まれた子供を産む女性と、あとバビロンの大淫婦だ。最高の善が腐敗すると、最高の悪になる。」
そこで、この「家庭の心臓である、という事がいかに大事であるか」という事をピオ十二世教皇様は更に説明して、「特に妻、母親は、太陽のようだ」と言います、「太陽の光線のようだ。なぜかというと、家庭を温めるものであって、家庭に平和を与えるものであって、喜びと、一致と、幸せと、休みと、休息とを与えるものであるから。」
ピオ十二世によると、「マリア様は決して、聖家族において冷たい態度や、あるいは少しの事でイライラ怒ったりとか、あるいは子供に対して、イエズス様に対して、あるいは夫に対して、厳しい言葉遣いをしたりとかはなかった。」
しかし、この夫婦の間には、調和と協力がなければなりません。「仕事は夫の仕事、家事は私、関係ない」のではなくて、互いに、かといって他の相手の仕事の分野に割り込むのではなく、互いに関心を持って感謝したり、もしも必要ならば助けを申し出たり、あるいは提案したり、あるいはその仕事の価値を認めてその賞賛したり、あるいは互いに自分の考えを単純に、そして尊敬を込めて、愛徳を込めて、意見を交換したり、そして自分の考えを押し付けるのではなくて、相手の必要や弱さを理解したり、つまり超自然の精神を持って家庭生活を送るという事です。これをイエズス様は30年間なさいました。
⑶では最後に、私たちはこれを見てどのように、どのような遷善の決心を取ったら良いでしょうか?どのようにしたら、イエズス様が私たちを祝福して、私たちの家庭を最高のワインのようにして下さるでしょうか?私たちの日常の生活がより少なく辛いものであったり、この涙の谷においても平和と喜びに満ちたものとなるでしょうか?
それは「マリア様」であって、「お祈り」です。もしも最初の奇跡がカナの婚宴で行なわれたとしたら、マリア様がそこにいらしたからであるし、そしてマリア様がいらしたからこそ、イエズス様も喜んで与ったに違いありません。
マリア様にとって、婚宴の式でブドウ酒が無くなったという事が一体どれほど重要だった事でしょうか。しかしマリア様の優しさと憐れみは、ここに現れています。私たちが必要としているものをマリア様は言わずとご存知ですから、私たちの為にいつもイエズス様にとりなして、取り次いで下さって、「この家庭にはこれが必要。」
そしてマリア様は私たちに、「イエズス様がなさったような、仰る事をしなさい」と、「ただイエズス様をお喜ばせする事をしなさい」と仰るに違いありません。ですから私たちはお祈りを致します。特にミサを中心に、この家庭生活を築いていくようにしましょう。
それを今年の、新年の決心とする事に致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。