2019年2月3日(主日)シュテーリン神父様霊的講話 前編
「聖母の騎士とは何か? 私たちを天国に連れて行くための聖母の軍隊」
同時通訳:小野田圭志神父
皆さんにはぜひ、聖母の騎士というものが何であって、その次に、何でそんなに重要であるか、という事を理解して下さる事を願っています。
もちろん、歴史的な背景を以て、歴史的に聖母の騎士が何であったか、という事を説明する事ができます。
若き聖マキシミリアノ・コルベはローマに、1917年にいます。当時マキシミリアノ・コルベ神学生は、不思議のメダイを通して、アルフォンソ・ラティスボンというユダヤ人が75年前にローマで、同じローマで回心した、その奇跡の事を黙想していました。ちょうどその時、マキシミリアノ・コルベ神学生は親指を失うところでした。もしも失ってしまったら、司祭になれませんでした。しかしルルドの奇跡の水によって癒されて、治癒を受けたところでした。(ところで、このルルドの水は巡礼に行ったオリビエさんが皆さんに今日配ります。)
マキシミリアノ・コルベ神学生は、そのバックグラウンドとして、霊的な背景に、ポーランドの、カトリック・ポーランドがありました。そしてこのもしもポーランドがカトリックである事ができるのは、マリア様のおかげでした。ポーランドの人はよく知っています、「ポーランドという国自体は、とても弱い、弱小の国である」という事です。ですからポーランドは、その周辺国によっていつも攻撃や侵略を受けています。まず異教の国から、それから次に北方のプロテスタントの国々から、次に東方の離教のロシアから、またプロテスタントのプロシアから、遂には共産主義によって、そしていつも強大な軍事力を持った、あるいは周辺の国々よって侵略されていましたけれども、そしてポーランドはあまりにも弱い国だったのですけれども、いつも勝っていました。マリア様のおかげでした。ですからポーランドでは、マリア様の精神というのは、戦闘的です。マリア様はポーランドでは、「キリスト教軍の将軍、統率者」と呼ばれています。
そしてコルベ神父様がローマに行った時には、子供の幼少の時の体験があります。この子供の時代には、非常に気性が激しく、怒りっぽくて、自分の怒りをコントロールする事ができませんでした。親がどんなに注意しても、怒っても、直そうとしても、そしてコルベ君はそれを直そうとしても、直す事ができませんでした。そこで彼は、マリア様に一生懸命お祈りしました。
するとマリア様は有名な、2つの王冠を持って現れて、「2つの冠、白の冠と赤の冠、白は貞潔の殉教者、赤は流血の殉教者、どちらを選ぶか?」マリア様とコルベ君の間の会話は有名です。マリア様は仰います、「レイモンド、君はこの2つの内のどちらを選びますか?」レイモンドは答えます、「2つを下さい。」
その御出現の後、この事をレイモンド君はお母さんに言います。お母さんは、この子供が全く見違えて変わってしまった事の証人になっています。
ポーランドの国の歴史、そして自分の体験、そして周りの事を見ると、「マリア様がどれほど力があるか」という事を理解していました。
ローマでは、フリーメイソン200周年の大賀を行なっていました。フリーメイソンたちは、「この200周年のこの大記念こそが、このヴォルテールがけなしたカトリック教会の終わりの始まりだ!」と言っていました。フリーメイソンたちは声を高らかにして、冒瀆、そして侮辱の演説、あるいは行列、あるいはそのような行事が繰り広げられていました。
他方カトリック教会では、ただ涙を流して沈黙を守るだけでした。この神学生が立ち上がって、「私たちは、涙を流して黙って座っているだけでは、お祈りしているだけではダメだ。何かをしなければならない。マリア様は、彼らよりももっと力がある!」
この時から、「マリア様の為に軍隊を作る」という事を考え付きました。
そこで、「騎士」という名前は、騎士というのはまず、霊的な戦いに参加します。騎士というのは、単なる軍人ではなくて、崇高な理想に燃えた軍人です。騎士というのは、高貴な階級に属する人々で、貴族たちですから、低俗な、そして品の悪い事とは関係ありません。そしてこの騎士たちは、自分の名誉ではなくて、マリア様の名誉、そしてマリア様を通して天主の名誉の為に戦う軍人です。
そこでコルベ神父様は、「インマクラータの騎士、無原罪の聖母の騎士」の会を創ります。これは円卓の騎士とか、単なる聖母の騎士とは違います。なぜかというと、追求すべき理想というのは、最も高いものだからです。騎士というのは、それに属する為には呼ばれなければなりません。もしもその君主が騎士として呼ばなければ、何もする事ができません。また騎士というのは、自分勝手に自分の好きな事をしているような浪人ではありません。この騎士は、王あるいは女王様の為に、その命令を果たす軍人です。
では聖母の騎士の、「聖母」という女王様の、元后の命令とは何でしょうか?マリア様のおかげで、レパントの海戦によって、トルコ軍に対してキリスト教海軍が勝利を収めた時の、マリア様の命令とは何だったでしょうか?1646年に、プロテスタントのオランダがマニラ湾にやって来てフィリピンを占領しようとしてきた時に、マリア様がこのマニラにいた人たちに命じた事は何だったのでしょうか?
マリア様の望みは、「私の民を守りなさい。私の子供たちが守られている、安全な事を望みます。彼らの持っている、私に対する愛を破壊しようとする、あるいは私から取り去ろうとしている人々がいます。全ての手段を使って、全ての方法、やり方で、私と私の御子イエズス・キリストの名前、あるいはその信仰を全く忘れさせて、この地上から消し去ってしまおうとする人々がいます。」
マキシミリアノ・コルベ神父様がマリア様の為に作ろうとしたこの軍隊が、どのような軍隊か、これでお分かりになるでしょうか。これは一人や二人、特定の人ではなくて、全ての人がこの軍隊に名前を登録しなければならないような軍隊の事を考えていました。なぜでしょうか?
なぜかというと、マリア様がいなければ、マリア様なしには、どんな霊魂さえも、天国へと導く事ができないからです。マリア様がなければ、私たちがこの人生を以って天主を喜ばせる事さえもできないのです。
コルベ神父様がいつも、この話や書いている事によって、何度も何度も繰り返し仰る事を、私も申し上げます。私たちはどうやったら天国に行く事ができるでしょうか?どうやったら、天主の御旨に従って生活する事ができるでしょうか?
これはイエズス様が言います、「もしも天国に行きたいのならば、全ての心を込めて、天主を愛せ。これこそが第1の、最高の掟である。第2の掟もこれと似ている。隣人を自分の如く愛せよ」と。
では皆さん、天主をどのようにお愛しになっていますか?
私たちにとって、「天主に対する愛に燃え盛っている」というのは簡単なはずです。なぜかというと、考えて下さい。24時間、毎瞬、毎瞬、天主様からの愛の贈り物として、命とこの生活、全てを受けているからです。
更に、私たちが天主の御旨に従って生活する事ができるように、聖子を人間として送りました。イエズス様は、どのようにして生きるべきか私たちの模範となって30年間生活した後に、全ての真理を教えて下さいました。最後には、1000を超える多くの傷を受けて、そこから御血を滴り流して、私の救いの為に苦しまれて、血を流されたのですから。
私たちを天国に連れて行く為に十字架に釘付けにせられて、そして命を御捧げになって、そして私たちの為に亡くなった、この事実を見れば、そのような方の為に、愛を以って返すというのは当然、もう自然にするのが簡単でなければならないはずではありませんか。
そして、しかも十字架の上で、それでも足りないかのように、御自分の愛する母を、私たちの母として下さいました。それでも足りないと思って、その死者の内からよみがえって、天国に上がって、私たちの天の国の準備をしています。それでも足りないと言って、毎日ミサによって、この十字架のいけにえを再現して、私たちの所に来られます。
そのような愛する方に、そうやって私たちは愛する方がいるのにもかかわらず、そのような方に愛を以って返さないでいるという人がいたとしたら、もう言葉も出ないもう愚かな者で、それ以外の何でしょうか。
では私たちは一体、どうやってイエズス様をお愛ししているでしょうか?
若い青年の人たち、若い女性の事に恋に落ちた男性の方々は、あなたはいつも絶え間なくその女性の事を想っているじゃないですか。結婚なさった方はよく言います、「あぁ、あなた、この前2週間前に何かメッセージを送ってくれたけれども、どれだけ私の事を考えてくれてるの?」「ちょっと待ってほしい…、う〜ん…、1ヶ月の間に、2回かな。」もしもそういう事を言ったらですね、奥さんは、「何ですって!?」もしも誰かの事を愛したら、その方の事を忘れる事はできません。もしも誰かが愛しているとしたら、その方の事をいつも考えて、よくこうメッセージを送ったり、あるいは手紙を書いたり、「あぁ、会いたい」と書きます。「あぁ、いつ今度会えるか」と、「今度会えるまで何日か」と計算します。
では、私たちは天主様を、イエズス様の事をどれだけ頻繁に考えるでしょうか?どれだけ「あぁ、会いたいな」と言うでしょうか?もしも誰かを愛したとしたら、その人の喜ぶ事をしたいなと思います。「愛する」というのは、悪口を言わないという事だけではありません。
「あなた、あの、愛してくれているという事があんまりよく分からないわ。」
「何を言っているのか。俺はね、お前の事をね、殴った事もないし、殺した事もないから、それで十分じゃないの?」
なぜかというと、多くの信者は、「天主の事を侮辱したり冒瀆しなければ、それでOKだ」と思っている、勘違いしているからです。
でも私たちは、冒瀆しないのみで十分のみならず、罪を犯す事によって天主を辱めています。イエズス様は荘厳に私たちに命じられました、「汝の天主を少し愛しなさい」と言ったのではなくて、「汝の天主を、全ての心を尽くし、全ての力を尽くし、全ての精神を尽くし、全ての霊魂を尽くして、愛せよ。」
でも、天主様は私たちに不可能な事は命じられません。しかし人間の弱さの為に、私たちが本当にするべきような程度で、天主を愛する事は難しいのです。でもそれであるならば、解決策があるはずです。解決策とは何でしょうか?
秘跡を受けて、祈る事です。でも皆さんなさっています。私たちはそれを何年も何年もやってきましたけれども、私の愛の力は全くもうみすぼらしい限りです。でも天主様は特別なものを望んでいます。天主様は私たちを、「ある方」に出会わせようとしているからです。私たちが出会ったその方から、天主を愛するその力をもらうように。この方というのが、「マリア様」です。
なぜかというと、マリア様こそが、全ての力を尽くし、全ての心を尽くし、全ての精神を尽くして、天主を全生涯において愛した方であるからです。冒瀆も、屈辱も、罪も、全くありませんでした。燃え盛る愛にいつも掻き立てられていました。天主から受けた恵みの感謝にいつも満ちていました。これが「無原罪、汚れ無い」という意味です。“Immaculata「インマクラータ」”という、この「無原罪」という、この「汚れの無い」というのは、「罪が全く無い」という事です。
例えばそのような、これに似た言葉で、これと同じ語源の言葉でフランス語で、“immaculé”いう言葉がありますけれども、その言葉を形容詞を使うと、「その美しさと、その清らかさと、その素晴らしさというのは、もう言葉を絶する」というニュアンスがあります。
十字架の上で、イエズス様がマリア様に、「あなたの子供を見なさい」と言った時に、「ここに、私を愛する事を知らない、かわいそうな多くの子供たちがいる」という事を仰いました。という事は何を意味するかというと、「母親が持っているものを、この持っていない者に与えなさい」という事です。つまり、「マリア様が持っている天主への愛を、この子供たちに分配しなさい」という事です。
天主は、私たちがこの「愛」というものすごい贈り物を、マリア様から受ける事を望んでいます。これが、全ての御恵みの仲介者であるマリア様の役割です。もしも私がマリア様の子供である、という事に同意する限りにおいて、マリア様は私たちの母親になる事ができます。もしも母親になって下さるならば、私を導く事も、教える事も、私を養う事もできます。もしもマリア様が私の人生の母として導いて下さるように望む限り、マリア様は助けてくれます。
もしもマリア様が指導してくれなければ、導いてくれなければ、私の人生は失敗に終わります。ちょうど、小さな赤ちゃんの傍にお母さんがいつも付き添ってやらなければ、この子供がいつどんな危険に待ち伏せされているか分からないように、私たちもマリア様の傍にいつもいなければなりません。ここにいるたくさんの小さな子供たちを見て下さい。子供たちが1日にどれほど、走っている内にずっこけたり、危ない所に行ったり、色々な危険に遭っているのをご存知でしょうか。
「また怠慢だった」「また嫉妬をしていた」「また怒りを収める事ができなかった」「また罪を犯した。」
もしも子供が転んでしまったら、子供はどうするのでしょうか?この地面にこう接吻をしたり、地面の土を食べるのでしょうか?子供は普通、転んでしまったら、「うゎ〜ん!お母さ〜ん!!」と泣き叫ぶだけです。するとお母さんは来て、「また倒れたの!?フンッ!」と言うのでしょうか?「もしもまた倒れたら踏んづけちゃうよ!」と言うのでしょうか?そんな事を言うお母さんは一人もいません。
マリア様は同じような事を見ています。でもそれよりもっとひどいものを見ています。私たちが汚い泥の中にずっこけて、もうその中に埋まってしまって、臭くなっているのを見ます。
この世の全ての雰囲気や、その環境が、私たちをこの泥の中に突き落としてしまおうとします。その快楽主義や、官能主義や、あるいはその他物質主義や、全てが。そのような危険に取り囲まれている私たち、そして何度も落ちている危険があって、そして落ちてしまった私たちを助ける母が、どれほど必要な事でしょうか。
皆さん、もしもいたら私に教えて下さい、1回も転んだ事がない子供を。1つしか例がありません、それは、お母さんの手をずっと握って離さない子供がいれば、それは倒れる事はありません。たとえ子供が転んで倒れそうになっても、お母さんが「おっ」と持ち上げるので決して転びません。もしも例えば、谷のような床が無いような所も、子供が走ろうとしたらお母さんがそれを「危ない!」と言って、安全な所に移してくれます。
このマリア様の役割について素晴らしいやり方で描写した方が、カトリック教会にいます。それは、聖マリア・グリニョン・ド・モンフォール、コルベ神父様の師匠です。その教えを一言でまとめれば、「マリア様が私の母であって、そして私がマリア様の子供であって、奴隷であって、その騎士となれば、アリア様は必ず私を天国に導いて下さる」という事です。
これは教会の望みです。「司祭、修道者、修道女、平信徒の方々も全ての身分に関係なく、聖グリニョン・ド・モンフォールの精神に従って、その教えに従って、自分をマリア様に奉献する」という事を教会は望んでいます。
例えばメルシエ枢機卿(これはベルギーの方ですけれども)とか、あるいは司教様たちが、自分の司教区を全て、グリニョン・ド・モンフォールの精神に従って、あるいは全ての人々をそうやって奉献させた、という例もあります。
「奉献」というのは、ただきれいな美しい文章を読む、声を出して朗読する、のではなくて、私たちがそのマリア様の手をずっと握っていて離さないで、そのマリア様に、「この汚い手ですけれども、ずっと持っていて下さい」とお願いする事です。マリア様が教えて下さるのは、「愛」です。マリア様は私たちに、愛する事だけを教えてくれます。
ところで、世の終わりに私たちは、審判がある事を知っています。聖テレジアは、「私たちの人生の夕べには、私たちは愛に、愛したかどうかについて裁かれるだろう。」私たちが裁かれるのは、どれだけ綺麗な家を建てたかとかではなく、どれほど銀行の中にお金があったかではなく、どれほど多くの勲章や賞章をもらったかではなく、「どれほど、日常の生活を愛を込めて過ごしたか」です。
では、マリア様が私たちをして、「天生を愛する」という事を助けて下さる、という事は分かりましたけれども、どうやったら隣人を自分のように愛する事ができるでしょうか?
イエズス様は最後の時に言いました、「私が愛したように、お前たちも愛し合え。」ですから隣人を愛するという事は、「イエズス様が愛したように、私も隣人を愛する」という事です。
つまり、私が隣人を愛する時には、隣人が受ける事ができる最高の善と、最高の喜びを私も望んで、それをする事ができるようにする、という事です。最高の善というのは、際限のない、終わる事のない善です。これが天主の約束する、永遠の命、永遠の至福の事です。ですから本当の隣人愛というのは、「私の愛する隣人が、永遠の至福を得る事ができるようにする、助ける」という事です。
ですから隣人愛には、2つの側面があります。
1つは、否定的な側面で、「私の愛する隣人が、天主へと辿る事を妨害するようなものがないようにする」という事です。
そして第2の側面が、肯定的なものであって、その「天主の永遠の命を隣人が受ける事ができるように、全力を尽くしてあげる」という事です。
私たち全てがその為に創造を受けたのが、「永遠の命」です。「天主三位一体を、永遠の至福直観において所有する」という事です。これこそが私たちの望むべき望み、永遠最高の善です。
しかし、これを下さる事ができるのは唯一、イエズス・キリスト、そして十字架の犠牲を通して、イエズス・キリストが私たちにくれる事ができます。ですから本当の隣人愛というのは、彼が、私の愛する彼が、永遠の命を受ける事ができるように、イエズス・キリストを知る事ができるように助ける事です。そしてもしもイエズス様の掟に反する生活をしているならば、その生活から回心するように、その生活から遠ざかるようにと助けてあげる事です。肯定的に、その愛する彼がイエズス様の与える永遠の命を受ける事ができるように、積極的に助ける事です。
でも私たち一人も、隣人にそういう事をする事ができる人はありません。私は隣人を回心させる事もできません。周りの周囲の人々は誰一人、イエズス・キリストを知りません。一体どうしたら良いのでしょうか?また私の隣人愛というのは一体、そこまでどうしてしなければならないのでしょうか、関わっているのでしょうか?私の隣人とは一体誰なのでしょうか?
もしかしたら私にとって、この周りの人々はあたかも、いない存在であるかのようかもしれません。ただ数であるだけなのかもしれません。例えば私たちが電車の中や街で出会うような人々、多くの人々、バスや電車に乗って、周りの同じ乗っている人々の事をどのように思いますか?特に大きな駅では、もうひっきりなしに電車がやって来て、ひっきりなしに多くの人が行き来しています。私はその「あぁ、人が多過ぎる」とか思うだけかもしれません。
でもよく考えて下さい。イエズス様は、この今日電車の中でこの乗ってきた人々一人一人の為に、十字架の上で血を流されて、この彼らの救いを望んで、彼らを愛しておられます。
実はマリア様が、この私たちの名前も知らないようなこの人々を一人一人心から愛しておられて、そしてこのような人々が誤謬から目が覚めて、真理を知って、永遠の命にまで導かれる、という事をどれほど望んでおられるか、という事を考えた事がありますか?そして実は同じ家族の中でも、親戚の中でも、このイエズス様が彼らをどれほど愛しているか、マリア様がどれほど愛しているか、という事を考えた事はありますか?私の大きな義務は、彼らの救いを望む事です。
コルベ神父様が日本に来た時、コルベ神父様はその事を、日本人の多くの霊魂たちの事を考えていました。コルベ神父様が長崎に上陸して、初めて会った日本の人々を心から愛して、この「日本人の霊魂が救われますように」という事を一生懸命真剣に考えていました。コルベ神父様は6年間日本に滞在しましたけれども、この6年間、日本で出会った一人一人の救霊の事を心から願っていたので、その結果が無原罪の園でした。これはたった1つの例ですけれども、そのような例が何百何千とあります。
そのような隣人愛に燃えた人々の事を見ると、「一体私の隣人愛、私が持っている隣人に対する愛というのは、何なのだろうか?」
そのような惨めな私の隣人愛への回答が、「マリア様」です。
では、皆さん10分間休憩を入れます。コーヒーを飲んで下さい。その後で眠り続けて下さい(^_^;)
「聖母の騎士とは何か? 私たちを天国に連れて行くための聖母の軍隊」
同時通訳:小野田圭志神父
皆さんにはぜひ、聖母の騎士というものが何であって、その次に、何でそんなに重要であるか、という事を理解して下さる事を願っています。
もちろん、歴史的な背景を以て、歴史的に聖母の騎士が何であったか、という事を説明する事ができます。
若き聖マキシミリアノ・コルベはローマに、1917年にいます。当時マキシミリアノ・コルベ神学生は、不思議のメダイを通して、アルフォンソ・ラティスボンというユダヤ人が75年前にローマで、同じローマで回心した、その奇跡の事を黙想していました。ちょうどその時、マキシミリアノ・コルベ神学生は親指を失うところでした。もしも失ってしまったら、司祭になれませんでした。しかしルルドの奇跡の水によって癒されて、治癒を受けたところでした。(ところで、このルルドの水は巡礼に行ったオリビエさんが皆さんに今日配ります。)
マキシミリアノ・コルベ神学生は、そのバックグラウンドとして、霊的な背景に、ポーランドの、カトリック・ポーランドがありました。そしてこのもしもポーランドがカトリックである事ができるのは、マリア様のおかげでした。ポーランドの人はよく知っています、「ポーランドという国自体は、とても弱い、弱小の国である」という事です。ですからポーランドは、その周辺国によっていつも攻撃や侵略を受けています。まず異教の国から、それから次に北方のプロテスタントの国々から、次に東方の離教のロシアから、またプロテスタントのプロシアから、遂には共産主義によって、そしていつも強大な軍事力を持った、あるいは周辺の国々よって侵略されていましたけれども、そしてポーランドはあまりにも弱い国だったのですけれども、いつも勝っていました。マリア様のおかげでした。ですからポーランドでは、マリア様の精神というのは、戦闘的です。マリア様はポーランドでは、「キリスト教軍の将軍、統率者」と呼ばれています。
そしてコルベ神父様がローマに行った時には、子供の幼少の時の体験があります。この子供の時代には、非常に気性が激しく、怒りっぽくて、自分の怒りをコントロールする事ができませんでした。親がどんなに注意しても、怒っても、直そうとしても、そしてコルベ君はそれを直そうとしても、直す事ができませんでした。そこで彼は、マリア様に一生懸命お祈りしました。
するとマリア様は有名な、2つの王冠を持って現れて、「2つの冠、白の冠と赤の冠、白は貞潔の殉教者、赤は流血の殉教者、どちらを選ぶか?」マリア様とコルベ君の間の会話は有名です。マリア様は仰います、「レイモンド、君はこの2つの内のどちらを選びますか?」レイモンドは答えます、「2つを下さい。」
その御出現の後、この事をレイモンド君はお母さんに言います。お母さんは、この子供が全く見違えて変わってしまった事の証人になっています。
ポーランドの国の歴史、そして自分の体験、そして周りの事を見ると、「マリア様がどれほど力があるか」という事を理解していました。
ローマでは、フリーメイソン200周年の大賀を行なっていました。フリーメイソンたちは、「この200周年のこの大記念こそが、このヴォルテールがけなしたカトリック教会の終わりの始まりだ!」と言っていました。フリーメイソンたちは声を高らかにして、冒瀆、そして侮辱の演説、あるいは行列、あるいはそのような行事が繰り広げられていました。
他方カトリック教会では、ただ涙を流して沈黙を守るだけでした。この神学生が立ち上がって、「私たちは、涙を流して黙って座っているだけでは、お祈りしているだけではダメだ。何かをしなければならない。マリア様は、彼らよりももっと力がある!」
この時から、「マリア様の為に軍隊を作る」という事を考え付きました。
そこで、「騎士」という名前は、騎士というのはまず、霊的な戦いに参加します。騎士というのは、単なる軍人ではなくて、崇高な理想に燃えた軍人です。騎士というのは、高貴な階級に属する人々で、貴族たちですから、低俗な、そして品の悪い事とは関係ありません。そしてこの騎士たちは、自分の名誉ではなくて、マリア様の名誉、そしてマリア様を通して天主の名誉の為に戦う軍人です。
そこでコルベ神父様は、「インマクラータの騎士、無原罪の聖母の騎士」の会を創ります。これは円卓の騎士とか、単なる聖母の騎士とは違います。なぜかというと、追求すべき理想というのは、最も高いものだからです。騎士というのは、それに属する為には呼ばれなければなりません。もしもその君主が騎士として呼ばなければ、何もする事ができません。また騎士というのは、自分勝手に自分の好きな事をしているような浪人ではありません。この騎士は、王あるいは女王様の為に、その命令を果たす軍人です。
では聖母の騎士の、「聖母」という女王様の、元后の命令とは何でしょうか?マリア様のおかげで、レパントの海戦によって、トルコ軍に対してキリスト教海軍が勝利を収めた時の、マリア様の命令とは何だったでしょうか?1646年に、プロテスタントのオランダがマニラ湾にやって来てフィリピンを占領しようとしてきた時に、マリア様がこのマニラにいた人たちに命じた事は何だったのでしょうか?
マリア様の望みは、「私の民を守りなさい。私の子供たちが守られている、安全な事を望みます。彼らの持っている、私に対する愛を破壊しようとする、あるいは私から取り去ろうとしている人々がいます。全ての手段を使って、全ての方法、やり方で、私と私の御子イエズス・キリストの名前、あるいはその信仰を全く忘れさせて、この地上から消し去ってしまおうとする人々がいます。」
マキシミリアノ・コルベ神父様がマリア様の為に作ろうとしたこの軍隊が、どのような軍隊か、これでお分かりになるでしょうか。これは一人や二人、特定の人ではなくて、全ての人がこの軍隊に名前を登録しなければならないような軍隊の事を考えていました。なぜでしょうか?
なぜかというと、マリア様がいなければ、マリア様なしには、どんな霊魂さえも、天国へと導く事ができないからです。マリア様がなければ、私たちがこの人生を以って天主を喜ばせる事さえもできないのです。
コルベ神父様がいつも、この話や書いている事によって、何度も何度も繰り返し仰る事を、私も申し上げます。私たちはどうやったら天国に行く事ができるでしょうか?どうやったら、天主の御旨に従って生活する事ができるでしょうか?
これはイエズス様が言います、「もしも天国に行きたいのならば、全ての心を込めて、天主を愛せ。これこそが第1の、最高の掟である。第2の掟もこれと似ている。隣人を自分の如く愛せよ」と。
では皆さん、天主をどのようにお愛しになっていますか?
私たちにとって、「天主に対する愛に燃え盛っている」というのは簡単なはずです。なぜかというと、考えて下さい。24時間、毎瞬、毎瞬、天主様からの愛の贈り物として、命とこの生活、全てを受けているからです。
更に、私たちが天主の御旨に従って生活する事ができるように、聖子を人間として送りました。イエズス様は、どのようにして生きるべきか私たちの模範となって30年間生活した後に、全ての真理を教えて下さいました。最後には、1000を超える多くの傷を受けて、そこから御血を滴り流して、私の救いの為に苦しまれて、血を流されたのですから。
私たちを天国に連れて行く為に十字架に釘付けにせられて、そして命を御捧げになって、そして私たちの為に亡くなった、この事実を見れば、そのような方の為に、愛を以って返すというのは当然、もう自然にするのが簡単でなければならないはずではありませんか。
そして、しかも十字架の上で、それでも足りないかのように、御自分の愛する母を、私たちの母として下さいました。それでも足りないと思って、その死者の内からよみがえって、天国に上がって、私たちの天の国の準備をしています。それでも足りないと言って、毎日ミサによって、この十字架のいけにえを再現して、私たちの所に来られます。
そのような愛する方に、そうやって私たちは愛する方がいるのにもかかわらず、そのような方に愛を以って返さないでいるという人がいたとしたら、もう言葉も出ないもう愚かな者で、それ以外の何でしょうか。
では私たちは一体、どうやってイエズス様をお愛ししているでしょうか?
若い青年の人たち、若い女性の事に恋に落ちた男性の方々は、あなたはいつも絶え間なくその女性の事を想っているじゃないですか。結婚なさった方はよく言います、「あぁ、あなた、この前2週間前に何かメッセージを送ってくれたけれども、どれだけ私の事を考えてくれてるの?」「ちょっと待ってほしい…、う〜ん…、1ヶ月の間に、2回かな。」もしもそういう事を言ったらですね、奥さんは、「何ですって!?」もしも誰かの事を愛したら、その方の事を忘れる事はできません。もしも誰かが愛しているとしたら、その方の事をいつも考えて、よくこうメッセージを送ったり、あるいは手紙を書いたり、「あぁ、会いたい」と書きます。「あぁ、いつ今度会えるか」と、「今度会えるまで何日か」と計算します。
では、私たちは天主様を、イエズス様の事をどれだけ頻繁に考えるでしょうか?どれだけ「あぁ、会いたいな」と言うでしょうか?もしも誰かを愛したとしたら、その人の喜ぶ事をしたいなと思います。「愛する」というのは、悪口を言わないという事だけではありません。
「あなた、あの、愛してくれているという事があんまりよく分からないわ。」
「何を言っているのか。俺はね、お前の事をね、殴った事もないし、殺した事もないから、それで十分じゃないの?」
なぜかというと、多くの信者は、「天主の事を侮辱したり冒瀆しなければ、それでOKだ」と思っている、勘違いしているからです。
でも私たちは、冒瀆しないのみで十分のみならず、罪を犯す事によって天主を辱めています。イエズス様は荘厳に私たちに命じられました、「汝の天主を少し愛しなさい」と言ったのではなくて、「汝の天主を、全ての心を尽くし、全ての力を尽くし、全ての精神を尽くし、全ての霊魂を尽くして、愛せよ。」
でも、天主様は私たちに不可能な事は命じられません。しかし人間の弱さの為に、私たちが本当にするべきような程度で、天主を愛する事は難しいのです。でもそれであるならば、解決策があるはずです。解決策とは何でしょうか?
秘跡を受けて、祈る事です。でも皆さんなさっています。私たちはそれを何年も何年もやってきましたけれども、私の愛の力は全くもうみすぼらしい限りです。でも天主様は特別なものを望んでいます。天主様は私たちを、「ある方」に出会わせようとしているからです。私たちが出会ったその方から、天主を愛するその力をもらうように。この方というのが、「マリア様」です。
なぜかというと、マリア様こそが、全ての力を尽くし、全ての心を尽くし、全ての精神を尽くして、天主を全生涯において愛した方であるからです。冒瀆も、屈辱も、罪も、全くありませんでした。燃え盛る愛にいつも掻き立てられていました。天主から受けた恵みの感謝にいつも満ちていました。これが「無原罪、汚れ無い」という意味です。“Immaculata「インマクラータ」”という、この「無原罪」という、この「汚れの無い」というのは、「罪が全く無い」という事です。
例えばそのような、これに似た言葉で、これと同じ語源の言葉でフランス語で、“immaculé”いう言葉がありますけれども、その言葉を形容詞を使うと、「その美しさと、その清らかさと、その素晴らしさというのは、もう言葉を絶する」というニュアンスがあります。
十字架の上で、イエズス様がマリア様に、「あなたの子供を見なさい」と言った時に、「ここに、私を愛する事を知らない、かわいそうな多くの子供たちがいる」という事を仰いました。という事は何を意味するかというと、「母親が持っているものを、この持っていない者に与えなさい」という事です。つまり、「マリア様が持っている天主への愛を、この子供たちに分配しなさい」という事です。
天主は、私たちがこの「愛」というものすごい贈り物を、マリア様から受ける事を望んでいます。これが、全ての御恵みの仲介者であるマリア様の役割です。もしも私がマリア様の子供である、という事に同意する限りにおいて、マリア様は私たちの母親になる事ができます。もしも母親になって下さるならば、私を導く事も、教える事も、私を養う事もできます。もしもマリア様が私の人生の母として導いて下さるように望む限り、マリア様は助けてくれます。
もしもマリア様が指導してくれなければ、導いてくれなければ、私の人生は失敗に終わります。ちょうど、小さな赤ちゃんの傍にお母さんがいつも付き添ってやらなければ、この子供がいつどんな危険に待ち伏せされているか分からないように、私たちもマリア様の傍にいつもいなければなりません。ここにいるたくさんの小さな子供たちを見て下さい。子供たちが1日にどれほど、走っている内にずっこけたり、危ない所に行ったり、色々な危険に遭っているのをご存知でしょうか。
「また怠慢だった」「また嫉妬をしていた」「また怒りを収める事ができなかった」「また罪を犯した。」
もしも子供が転んでしまったら、子供はどうするのでしょうか?この地面にこう接吻をしたり、地面の土を食べるのでしょうか?子供は普通、転んでしまったら、「うゎ〜ん!お母さ〜ん!!」と泣き叫ぶだけです。するとお母さんは来て、「また倒れたの!?フンッ!」と言うのでしょうか?「もしもまた倒れたら踏んづけちゃうよ!」と言うのでしょうか?そんな事を言うお母さんは一人もいません。
マリア様は同じような事を見ています。でもそれよりもっとひどいものを見ています。私たちが汚い泥の中にずっこけて、もうその中に埋まってしまって、臭くなっているのを見ます。
この世の全ての雰囲気や、その環境が、私たちをこの泥の中に突き落としてしまおうとします。その快楽主義や、官能主義や、あるいはその他物質主義や、全てが。そのような危険に取り囲まれている私たち、そして何度も落ちている危険があって、そして落ちてしまった私たちを助ける母が、どれほど必要な事でしょうか。
皆さん、もしもいたら私に教えて下さい、1回も転んだ事がない子供を。1つしか例がありません、それは、お母さんの手をずっと握って離さない子供がいれば、それは倒れる事はありません。たとえ子供が転んで倒れそうになっても、お母さんが「おっ」と持ち上げるので決して転びません。もしも例えば、谷のような床が無いような所も、子供が走ろうとしたらお母さんがそれを「危ない!」と言って、安全な所に移してくれます。
このマリア様の役割について素晴らしいやり方で描写した方が、カトリック教会にいます。それは、聖マリア・グリニョン・ド・モンフォール、コルベ神父様の師匠です。その教えを一言でまとめれば、「マリア様が私の母であって、そして私がマリア様の子供であって、奴隷であって、その騎士となれば、アリア様は必ず私を天国に導いて下さる」という事です。
これは教会の望みです。「司祭、修道者、修道女、平信徒の方々も全ての身分に関係なく、聖グリニョン・ド・モンフォールの精神に従って、その教えに従って、自分をマリア様に奉献する」という事を教会は望んでいます。
例えばメルシエ枢機卿(これはベルギーの方ですけれども)とか、あるいは司教様たちが、自分の司教区を全て、グリニョン・ド・モンフォールの精神に従って、あるいは全ての人々をそうやって奉献させた、という例もあります。
「奉献」というのは、ただきれいな美しい文章を読む、声を出して朗読する、のではなくて、私たちがそのマリア様の手をずっと握っていて離さないで、そのマリア様に、「この汚い手ですけれども、ずっと持っていて下さい」とお願いする事です。マリア様が教えて下さるのは、「愛」です。マリア様は私たちに、愛する事だけを教えてくれます。
ところで、世の終わりに私たちは、審判がある事を知っています。聖テレジアは、「私たちの人生の夕べには、私たちは愛に、愛したかどうかについて裁かれるだろう。」私たちが裁かれるのは、どれだけ綺麗な家を建てたかとかではなく、どれほど銀行の中にお金があったかではなく、どれほど多くの勲章や賞章をもらったかではなく、「どれほど、日常の生活を愛を込めて過ごしたか」です。
では、マリア様が私たちをして、「天生を愛する」という事を助けて下さる、という事は分かりましたけれども、どうやったら隣人を自分のように愛する事ができるでしょうか?
イエズス様は最後の時に言いました、「私が愛したように、お前たちも愛し合え。」ですから隣人を愛するという事は、「イエズス様が愛したように、私も隣人を愛する」という事です。
つまり、私が隣人を愛する時には、隣人が受ける事ができる最高の善と、最高の喜びを私も望んで、それをする事ができるようにする、という事です。最高の善というのは、際限のない、終わる事のない善です。これが天主の約束する、永遠の命、永遠の至福の事です。ですから本当の隣人愛というのは、「私の愛する隣人が、永遠の至福を得る事ができるようにする、助ける」という事です。
ですから隣人愛には、2つの側面があります。
1つは、否定的な側面で、「私の愛する隣人が、天主へと辿る事を妨害するようなものがないようにする」という事です。
そして第2の側面が、肯定的なものであって、その「天主の永遠の命を隣人が受ける事ができるように、全力を尽くしてあげる」という事です。
私たち全てがその為に創造を受けたのが、「永遠の命」です。「天主三位一体を、永遠の至福直観において所有する」という事です。これこそが私たちの望むべき望み、永遠最高の善です。
しかし、これを下さる事ができるのは唯一、イエズス・キリスト、そして十字架の犠牲を通して、イエズス・キリストが私たちにくれる事ができます。ですから本当の隣人愛というのは、彼が、私の愛する彼が、永遠の命を受ける事ができるように、イエズス・キリストを知る事ができるように助ける事です。そしてもしもイエズス様の掟に反する生活をしているならば、その生活から回心するように、その生活から遠ざかるようにと助けてあげる事です。肯定的に、その愛する彼がイエズス様の与える永遠の命を受ける事ができるように、積極的に助ける事です。
でも私たち一人も、隣人にそういう事をする事ができる人はありません。私は隣人を回心させる事もできません。周りの周囲の人々は誰一人、イエズス・キリストを知りません。一体どうしたら良いのでしょうか?また私の隣人愛というのは一体、そこまでどうしてしなければならないのでしょうか、関わっているのでしょうか?私の隣人とは一体誰なのでしょうか?
もしかしたら私にとって、この周りの人々はあたかも、いない存在であるかのようかもしれません。ただ数であるだけなのかもしれません。例えば私たちが電車の中や街で出会うような人々、多くの人々、バスや電車に乗って、周りの同じ乗っている人々の事をどのように思いますか?特に大きな駅では、もうひっきりなしに電車がやって来て、ひっきりなしに多くの人が行き来しています。私はその「あぁ、人が多過ぎる」とか思うだけかもしれません。
でもよく考えて下さい。イエズス様は、この今日電車の中でこの乗ってきた人々一人一人の為に、十字架の上で血を流されて、この彼らの救いを望んで、彼らを愛しておられます。
実はマリア様が、この私たちの名前も知らないようなこの人々を一人一人心から愛しておられて、そしてこのような人々が誤謬から目が覚めて、真理を知って、永遠の命にまで導かれる、という事をどれほど望んでおられるか、という事を考えた事がありますか?そして実は同じ家族の中でも、親戚の中でも、このイエズス様が彼らをどれほど愛しているか、マリア様がどれほど愛しているか、という事を考えた事はありますか?私の大きな義務は、彼らの救いを望む事です。
コルベ神父様が日本に来た時、コルベ神父様はその事を、日本人の多くの霊魂たちの事を考えていました。コルベ神父様が長崎に上陸して、初めて会った日本の人々を心から愛して、この「日本人の霊魂が救われますように」という事を一生懸命真剣に考えていました。コルベ神父様は6年間日本に滞在しましたけれども、この6年間、日本で出会った一人一人の救霊の事を心から願っていたので、その結果が無原罪の園でした。これはたった1つの例ですけれども、そのような例が何百何千とあります。
そのような隣人愛に燃えた人々の事を見ると、「一体私の隣人愛、私が持っている隣人に対する愛というのは、何なのだろうか?」
そのような惨めな私の隣人愛への回答が、「マリア様」です。
では、皆さん10分間休憩を入れます。コーヒーを飲んで下さい。その後で眠り続けて下さい(^_^;)