2019年2月15日(金)殉教者聖ファウスティノとジョヴィタの記念
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年2月15日、聖ファウスティノとジョヴィタ殉教者の記念を行なっています。
今日この御ミサの感謝の祈りの後に、いつものように終課を一緒に唱える事を提案します。
明日は10時半からミサがあります。いらして下さい。
3月は1・2・3・4日と続けてミサがあります。
「体を殺した後に、お前たちの霊魂をゲヘンナに落とすその方を恐れよ。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日、殉教者聖ファウスティノとジョヴィタのミサを行なっていますので、
⑴この殉教者がどういう方だったのか、
⑵そしてその殉教者を記念する為に、ミサは何を私たちに語っているかを黙想して、
⑶最後に今日、遷善の決心を取る事に致しましょう。
⑴殉教者聖ファウスティノとジョヴィタは、兄弟でした。北イタリアのブレシアという所で住んでいました。殉教録によると、西暦120年頃の2月15日の今日、殉教しました。
その殉教の前はどういう生涯をしたかというと、トライアヌス皇帝のローマ皇帝の時に迫害が起こり、そして捕まえられました。この兄弟は特に熱心で、恐れずにイエズス・キリストの事を宣教していました、「イエズス・キリストだけが唯一の救い主である」と。その熱心を見て、ブレシアの司教様はファウスティノを司祭に、そしてとジョヴィタを助祭に叙階しました。
しかし捕らえられた後には、拷問や、あるいは色々な処罰、体罰を与えられたにも関わらず、それを無傷で耐え忍びました。あまりにもびくともしないので、官吏たちは怒り、この二人を最初にはミラノに連れて行きました。ミラノにやっても何も害を受けないのを見て、次にローマに、そしてローマに連れて行っても、色々な拷問にも関わらず何の害を受けないのを見て、遂にはナポリに、だんだん南に連れて行くのですけれども、どうしても何ともなく、しかもイエズス・キリストを力強く信じ、その信仰を捨てないのを見て、結局ブレシアに送り返して、最後に首を切られて殉教します。それは約2000年前の今日の事でした。
⑵その殉教者を称える為に、教会はこの今日のこのミサを選びました。
入祭誦では、「義人たちの救いは、主にある」と始まります。ちょうど、「この二人が、イエズス・キリストにのみ信頼をかけていた」という事を、最初から宣言するかのようです。
そして書簡の時には、聖パウロの書簡ですけれども、あたかも私たちにこの二人が語りかけているかのようです、典礼の専門家の学者によると、そう聞こえると言います。あたかもこの二人の殉教者が、2000年の時を越えて日本の大阪にいる私たちに、「お前たちが光を受けた、その日の事を忘れてはならない。」
「光を受けた」というのは、すなわち「洗礼を受けた」という日の事です。「そしてそれ以後、お前たちは財産を奪われても、色々な目に遭っても、名誉を奪われても、イエズス・キリストを固く信頼してきた。そしてその大きな信頼を決して失ってはならない。なぜならば、その報いはとてつもなく大きいからだ。そしてその主は、すぐに報いを持ってやって来る」と、二人は私たちに言い聞かせているかのようです。
実際、ミサのこのすぐ後で、御聖体によってイエズス様は、私たちに報いを既に与えようと、世の終わりまで待ちきれずに、私たちの元にやって来ます。慰めと、そして喜びと、平和と、そして特別の御恵みを与えようとやって来ます。
もちろんこの世の終わりには、最後の審判の後には、私たちの目も見た事がない、耳も聞いた事のない、頭にも想像できないほどのとてつもない報いが、私たちが信仰の為に、迫害の為に失ったものと比較できないほどのものが、待っています。それを二人は、私たちに思い出させています。
書簡の後に福音では、今度はイエズス様が私たちに言います、私たちに慰めの言葉を語りかけます、「偽善者に気を付けよ。私たちは、恐れなければならない者はたった一人の方しかいない。人々を決して恐れてはならない。最後の裁きは、天主によって行なわれる。他の人が私たちを憎んだとしても、許さないと言ったとしても、拷問をしたとしても、そんなのは恐れるに値しない。」
「友よ、愛する友よ、これを聞け、お前たちに言う、恐るべき方はたった一人だ。私たちの体が殺されても、その霊魂を地獄の火に落とす事のできる、この力ある方だけを、最後の審判の時に裁きの時に、私たちを裁いて地獄に落とす事のできる全能の天主、この方を恐れよ。永遠の救霊の事を恐れよ。大罪を恐れよ。罪を犯す事を恐れよ。それ以外の事は全く恐れる事はない。主を罪によって傷付ける事だけを恐れよ。」
「もしも人々の前で私を宣言するものは、私はこの人の事を全ての天使たちの前で、そして聖父の前で宣言する、『彼は私の友だ。』誰も恐れる事はない。私が付いている」と仰るかのようです。
⑶では今日、私たちはどのような遷善の決心を取ったら良いでしょうか?
私たちを裁くのは、私たちの永遠の幸せと永遠の不幸を、それを決定するのは、天主であるという事です。イエズス・キリストこそが私たちの救い主であり、守護者であり、そして裁き主であり、その人間は恐れるに値しないという事です。
私たちの最も大切なのは、命をたとえ落としてまでも、この地上での命を落としてまでも守らなければならないというものは、永遠の命であるという事です。
永遠の命を受ける為には、もちろん天主からの赦しが必要です。天主様からイエズス様から赦される為には、隣人を赦さなければなりません。
私たちが恐れるのは、最後の裁き主であるイエズス・キリストです。私たちが愛するべきは、イエズス・キリストです。そしてイエズス・キリストが私たちの全てで、このイエズス様を信じる事によって、私たちはこの信仰によって、生きなければならないという事です。
この、これを口で言うのは非常にたやすく、しかしこれを生きるのは、その通りに生きるのは、特別の御恵みが必要です。聖ファウスティノとジョヴィタ、それから殉教者の元后であるマリア様に、そして日本の聖なる殉教者たち、特に日本二十六聖人に心から寄りすがって、この主を恐れて、永遠の救いを全うする御恵みを乞い求めましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年2月15日、聖ファウスティノとジョヴィタ殉教者の記念を行なっています。
今日この御ミサの感謝の祈りの後に、いつものように終課を一緒に唱える事を提案します。
明日は10時半からミサがあります。いらして下さい。
3月は1・2・3・4日と続けてミサがあります。
「体を殺した後に、お前たちの霊魂をゲヘンナに落とすその方を恐れよ。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日、殉教者聖ファウスティノとジョヴィタのミサを行なっていますので、
⑴この殉教者がどういう方だったのか、
⑵そしてその殉教者を記念する為に、ミサは何を私たちに語っているかを黙想して、
⑶最後に今日、遷善の決心を取る事に致しましょう。
⑴殉教者聖ファウスティノとジョヴィタは、兄弟でした。北イタリアのブレシアという所で住んでいました。殉教録によると、西暦120年頃の2月15日の今日、殉教しました。
その殉教の前はどういう生涯をしたかというと、トライアヌス皇帝のローマ皇帝の時に迫害が起こり、そして捕まえられました。この兄弟は特に熱心で、恐れずにイエズス・キリストの事を宣教していました、「イエズス・キリストだけが唯一の救い主である」と。その熱心を見て、ブレシアの司教様はファウスティノを司祭に、そしてとジョヴィタを助祭に叙階しました。
しかし捕らえられた後には、拷問や、あるいは色々な処罰、体罰を与えられたにも関わらず、それを無傷で耐え忍びました。あまりにもびくともしないので、官吏たちは怒り、この二人を最初にはミラノに連れて行きました。ミラノにやっても何も害を受けないのを見て、次にローマに、そしてローマに連れて行っても、色々な拷問にも関わらず何の害を受けないのを見て、遂にはナポリに、だんだん南に連れて行くのですけれども、どうしても何ともなく、しかもイエズス・キリストを力強く信じ、その信仰を捨てないのを見て、結局ブレシアに送り返して、最後に首を切られて殉教します。それは約2000年前の今日の事でした。
⑵その殉教者を称える為に、教会はこの今日のこのミサを選びました。
入祭誦では、「義人たちの救いは、主にある」と始まります。ちょうど、「この二人が、イエズス・キリストにのみ信頼をかけていた」という事を、最初から宣言するかのようです。
そして書簡の時には、聖パウロの書簡ですけれども、あたかも私たちにこの二人が語りかけているかのようです、典礼の専門家の学者によると、そう聞こえると言います。あたかもこの二人の殉教者が、2000年の時を越えて日本の大阪にいる私たちに、「お前たちが光を受けた、その日の事を忘れてはならない。」
「光を受けた」というのは、すなわち「洗礼を受けた」という日の事です。「そしてそれ以後、お前たちは財産を奪われても、色々な目に遭っても、名誉を奪われても、イエズス・キリストを固く信頼してきた。そしてその大きな信頼を決して失ってはならない。なぜならば、その報いはとてつもなく大きいからだ。そしてその主は、すぐに報いを持ってやって来る」と、二人は私たちに言い聞かせているかのようです。
実際、ミサのこのすぐ後で、御聖体によってイエズス様は、私たちに報いを既に与えようと、世の終わりまで待ちきれずに、私たちの元にやって来ます。慰めと、そして喜びと、平和と、そして特別の御恵みを与えようとやって来ます。
もちろんこの世の終わりには、最後の審判の後には、私たちの目も見た事がない、耳も聞いた事のない、頭にも想像できないほどのとてつもない報いが、私たちが信仰の為に、迫害の為に失ったものと比較できないほどのものが、待っています。それを二人は、私たちに思い出させています。
書簡の後に福音では、今度はイエズス様が私たちに言います、私たちに慰めの言葉を語りかけます、「偽善者に気を付けよ。私たちは、恐れなければならない者はたった一人の方しかいない。人々を決して恐れてはならない。最後の裁きは、天主によって行なわれる。他の人が私たちを憎んだとしても、許さないと言ったとしても、拷問をしたとしても、そんなのは恐れるに値しない。」
「友よ、愛する友よ、これを聞け、お前たちに言う、恐るべき方はたった一人だ。私たちの体が殺されても、その霊魂を地獄の火に落とす事のできる、この力ある方だけを、最後の審判の時に裁きの時に、私たちを裁いて地獄に落とす事のできる全能の天主、この方を恐れよ。永遠の救霊の事を恐れよ。大罪を恐れよ。罪を犯す事を恐れよ。それ以外の事は全く恐れる事はない。主を罪によって傷付ける事だけを恐れよ。」
「もしも人々の前で私を宣言するものは、私はこの人の事を全ての天使たちの前で、そして聖父の前で宣言する、『彼は私の友だ。』誰も恐れる事はない。私が付いている」と仰るかのようです。
⑶では今日、私たちはどのような遷善の決心を取ったら良いでしょうか?
私たちを裁くのは、私たちの永遠の幸せと永遠の不幸を、それを決定するのは、天主であるという事です。イエズス・キリストこそが私たちの救い主であり、守護者であり、そして裁き主であり、その人間は恐れるに値しないという事です。
私たちの最も大切なのは、命をたとえ落としてまでも、この地上での命を落としてまでも守らなければならないというものは、永遠の命であるという事です。
永遠の命を受ける為には、もちろん天主からの赦しが必要です。天主様からイエズス様から赦される為には、隣人を赦さなければなりません。
私たちが恐れるのは、最後の裁き主であるイエズス・キリストです。私たちが愛するべきは、イエズス・キリストです。そしてイエズス・キリストが私たちの全てで、このイエズス様を信じる事によって、私たちはこの信仰によって、生きなければならないという事です。
この、これを口で言うのは非常にたやすく、しかしこれを生きるのは、その通りに生きるのは、特別の御恵みが必要です。聖ファウスティノとジョヴィタ、それから殉教者の元后であるマリア様に、そして日本の聖なる殉教者たち、特に日本二十六聖人に心から寄りすがって、この主を恐れて、永遠の救いを全うする御恵みを乞い求めましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。