2018年12月25日(火)主の御降誕の大祝日 日中のミサ(東京)
小野田神父 説教
聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。
今日は、私たちの主イエズス・キリストの御降誕の大祝日のミサを祝っています。
今日このミサの直後に、いつもの通りミサの後の感謝のお祈りがありますが、その後でローマの習慣に従って、いつも私たちが毎年やっているように、幼きイエズス様に是非接吻を、皆さんにする事を招待致します。
洗礼を受けていない方でも、どうぞイエズス様の近くにいらして、接吻をなさって下さい。その御手、あるいはその御足、あるいはその御体に接吻をなさって下さい。その後でちょっとした、皆さんとのイエズス様の御降誕のお祝いをしたいと思っているので、もしも時間がありましたらいらして下さい。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日はものすごい、とてつもない大きな喜びの日です。真の天主、この全世界を創造された、大宇宙を創造されて、太陽・銀河系を創造された創られた、無から創られた、そして私たちを創って下さった天主が、今日、皆さんと私の為に、小さな幼子となってお生まれになった日だからです。
聖ヨハネによると、「ここに天主の愛が現れた。この世をどれほどお愛しになっているかという事が、これによって雄弁に語られた」とあります。
そこで今日私は、愛する兄弟の皆さんに、2つの事を黙想する事を提案します。
⑴1つは、「聖子が生まれた」という事によって、「天主が人となって生まれた」という事によって、どれほど雄弁に、「私たちが愛されているか、天主によって愛されているか」という事が語られている事を、皆さんが知ってもらいたいという事です。
たとえ皆さんが、辛い思いをされた、一人ぼっちだ、あるいは悲しい、という時があっても、この事実を知って下さい、「天主は、永遠の昔から、私たちの幸せと、喜びをだけ考えて、聖子を私たちに与えられた」事実を。
⑵第2は、一体何の為に、一体その目的は何なのか?という事を一緒に黙想致しましょう。
⑶そして最後に、今日この御ミサの時にこの黙想で、どれほど私たちが、皆さんと私が愛されているか、という事を知って下さい。確信して下さい。そして喜びに満たされて下さい。そしてできれば今日、この御聖体拝領を、愛に満ちて聖体拝領なさって下さい。
⑴では一体、私たちはどうして主に愛されている事が分かるのでしょうか?
なぜかというと、まず私たちが創造された、無からここに在るように創られた、という事から言えます。私たちが今ここに生きている理由は、たった1つです。偶然ではありません。私たちがここにいるのは、何百万の確率の中からではなくて、愛の計画の内に創られました。精巧な体と、緻密な計画の内に全宇宙は創られました。その目的は何かというと、知性的な、理性的な被造物である、天使たちと私たちに、「永遠の喜びを分け与えたい」と思ったからです。
私たちが今この地上に生まれているのは、喜ぶ為です。永遠の命を、天主の命を、共に味わって、永遠に無限に幸せである為です。
ところが、この愛の計画は、最初の瞬間から、アダムとエヴァの時代から破壊されました。唯一、私たちには悪があります。それは貧困でも、それは事故でもありません。それは「私たちが罪を犯す事」です。罪を犯す事によって天主に戦争を挑み、必ず負ける戦争を挑み、戦いを挑み、反乱を起こして、そして私たちが永遠に不幸になる事です。天主から離れる事です。天主の敵となって、地獄と悪魔の元に行く事です。それだけが唯一の不幸で、唯一の最大の悪です。
しかし私たちには、その最初の瞬間から、そのアダムとエヴァの時から今に至るまで、もしも救い主が来られなかったら、どうする事もできませんでした。なぜかというと、罪というのは無限の邪悪であるので、なぜかというと、無限の聖なる天主を犯すものであるので、私たちにはその無限の負債を返す、無限の罪の償いをする事ができないからです。謝っても謝っても、償いをしても償いをしても、果たしきれないほどの負債を負ってしまっているからです。
しかし天主は、その私たちの為に聖子を送って下さいました。その罪を赦す為です。私たちの罪を全て赦し、負債をチャラにする為です。私たちを天主の友として、天主の子供として、永遠の無限の遺産を相続をさせる為です。
私たちは失われた羊でしたが、良き牧者は私たちを探して、天から今日、降りて来られました。私たちは道端に捨てられた、盗賊に襲われた、半死半生の旅人でした。しかし私たちを探して、私たちの為にサマリア人が来てくれました。天主が人となった、真の、この全宇宙さえも包みきれない、抱えきれない偉大なる方が、小さな赤ちゃんとなってお生まれになった。
天主は私たちを善に導く為に、警察官や軍隊や、恐れと恐怖で脅迫して、私たちに「善をなせ!」と脅す方ではありませんでした。そうではなく、私たちをその甘美さと、優しさと、憐れみと、平和と、喜びで、私たちが進んで主の元に来る事を望まれる方でした。愛と、平和と、優しさに満ちておられる方でした。
この赤ちゃんは、真の天主です。今日、私たちの為に生まれる赤子は、永遠の知恵、天主の御言葉、それによって全てが創られた御言葉、真の光、最高の善、それがお生まれになりました。
この子供は、言葉では私たちに何も言う事ができません、ただオギャーオギャーオギャーと泣く事しかできません。しかしその泣き声一つ一つにも、私たちに叫んでいます、「皆さんと私を愛している。皆さんと私の永遠の幸せを願っている。そしてその為には全てをする準備がある。その為に私はここにやってき来た。私は、皆さんと私のものだ」と叫んでいます。
その叫びはますます強くなります。十字架の上ではその全ての傷が、御血が、流された血が叫びます、私たちの事を愛しておられる。死に至るまで愛しておられる。天国に連れて行きたい。地獄の火から守りたい。
⑵では第2のポイントに、一体何の目的で、どのような手段で、私たちをその天国に連れて行こうとするのでしょうか?
はい、もちろん天主は色々な手段がありました。私たちを救う為の方法がありましたが、全く正義に適った、そして憐れみに同時に適った方法を選びました。
それは、「私たちに代わって苦しむ。私たちに代わって、全ての罪の罰を受ける」という方法でした。
その赤ちゃんは、この手を見て下さい、幼い手を。十字架の釘に付けられる為に、皆さんと私の代わりに、その罪の償いをする為にお生まれになって来られました。そして私たちに言います、「さぁ、あなたの全ての悲しみや、苦しみや、辛い事を、私に下さい。私はその代わりに、お礼に、私の持っている幸せを与えたいのです。私の持っている幸せを受けて下さい。その代わりに、全ての苦しみを私に分けて欲しい。」
そして今日、真冬、真夜中に、真冬の中に、木枯らしの吹く中に、王の王が、天と地の支配者が、天使たちが礼拝しておられるその御方が、動物たちの中で、家もなく、捨てられて、全く見捨てられて、全くの貧しさの中で、お生まれになりました。あたかも罪人であるかのように、全ての苦しみを身に背負って、お生まれになりました。私たちの幸せの為だけに、お生まれになりました。
これを見ると、天主聖父が将来何度も言われる、「これは私の愛する子。彼に聞け」というその聖子がどれほど苦しまれたか、という事を見ると、またマリア様が、天主からこれほど愛された罪の無い天主の御母がこれほど苦しまれた、ヨゼフ様が苦しまれた、聖家族のこの御生涯を見ると、私たちも1つの事を理解します。
私たちの人生にとって一番大切なのは、どうやって面白おかしく、このお金を簡単に儲けて、他の人からちやほやされて、あるいは偉ぶって、あるいは他の人を支配して、という一般の人が考えているようなものは、実はイエズス様にとって全く無関心な事だった、それよりももっと大切な事は、「主を愛する」という事、「本当の幸せの為に、聖なる一生を送る」という事である。
マリア様とヨゼフ様を見ると、「イエズス様の元にいる、という事だけが幸せである」という事が分かります。今日、この最高のプレゼントが私たちに与えられました。
⑶この幼いイエズス様は私たちに一体、何を求めているのでしょうか?
たった1つの事を求めています。それは、「私たちがイエズス様をお愛し申し上げる」という事です。その他の事は一切何も求めません。
放蕩息子の例え話をする時があります、イエズス様が大きくなると。その時に言います。この放蕩息子が帰った時に、「父よ、私はあなたの為に罪を犯しました。どうぞ私をあなたの奴隷として使って下さい。もう息子と呼ばれる資格はありません。」すると父親は彼を抱き上げて、「さぁ、宴会を開こう。さぁ、王の指輪をはめなさい。さぁ靴を履きなさい。きれいな服を着なさい。」父親は一切、「罪の償いをしなさい、弁償をしなさい」あるいは「その罪の償いの為に、どれだけの労働しなさい、お金を払いなさい」とは言いませんでした。「宴会を開こう。喜べ。」
イエズス様も同じ事を求めています。イエズス様の求めている事は、私たちが幼きイエズス様の近くに行って、こう言うことです。
「主よ、ありがとう。イエズス様、御身は私を愛して下さっています。感謝します。私もイエズス様を愛します!」
「イエズス様、私は御身に罪を犯しました。御身を悲しませました。どうぞ私の心を浄めて下さい。」
たったそれだけで全ては、「おぉ、そうか!帰っておいで。もうお前の罪はもう思い出さない。さぁ、お前にもっと、もっと祝福を与えよう。もっと栄光を与えよう。さぁ喜ぼう」と。
今日は喜びの日です。愛に満たされた日です。どうぞこの、そのクリスマスの本当の喜びを受けて下さい。この世の人々、世界の人々は、クリスマスパーティーでごちそうを食べているかもしれません。しかし、その最も大切なことは、知られていません。
でも皆さん、それを知って下さい。それは、「皆さんが、天主から永遠の昔から愛されている」という事を知る事です。それを確信する事です。そしてイエズス様の元に近寄る事です。さぁ、イエズス様の元に近寄って下さい。愛の言葉をイエズス様に投げかけて下さい。主はどれほどお喜びになる事でしょうか。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
小野田神父 説教
聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。
今日は、私たちの主イエズス・キリストの御降誕の大祝日のミサを祝っています。
今日このミサの直後に、いつもの通りミサの後の感謝のお祈りがありますが、その後でローマの習慣に従って、いつも私たちが毎年やっているように、幼きイエズス様に是非接吻を、皆さんにする事を招待致します。
洗礼を受けていない方でも、どうぞイエズス様の近くにいらして、接吻をなさって下さい。その御手、あるいはその御足、あるいはその御体に接吻をなさって下さい。その後でちょっとした、皆さんとのイエズス様の御降誕のお祝いをしたいと思っているので、もしも時間がありましたらいらして下さい。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日はものすごい、とてつもない大きな喜びの日です。真の天主、この全世界を創造された、大宇宙を創造されて、太陽・銀河系を創造された創られた、無から創られた、そして私たちを創って下さった天主が、今日、皆さんと私の為に、小さな幼子となってお生まれになった日だからです。
聖ヨハネによると、「ここに天主の愛が現れた。この世をどれほどお愛しになっているかという事が、これによって雄弁に語られた」とあります。
そこで今日私は、愛する兄弟の皆さんに、2つの事を黙想する事を提案します。
⑴1つは、「聖子が生まれた」という事によって、「天主が人となって生まれた」という事によって、どれほど雄弁に、「私たちが愛されているか、天主によって愛されているか」という事が語られている事を、皆さんが知ってもらいたいという事です。
たとえ皆さんが、辛い思いをされた、一人ぼっちだ、あるいは悲しい、という時があっても、この事実を知って下さい、「天主は、永遠の昔から、私たちの幸せと、喜びをだけ考えて、聖子を私たちに与えられた」事実を。
⑵第2は、一体何の為に、一体その目的は何なのか?という事を一緒に黙想致しましょう。
⑶そして最後に、今日この御ミサの時にこの黙想で、どれほど私たちが、皆さんと私が愛されているか、という事を知って下さい。確信して下さい。そして喜びに満たされて下さい。そしてできれば今日、この御聖体拝領を、愛に満ちて聖体拝領なさって下さい。
⑴では一体、私たちはどうして主に愛されている事が分かるのでしょうか?
なぜかというと、まず私たちが創造された、無からここに在るように創られた、という事から言えます。私たちが今ここに生きている理由は、たった1つです。偶然ではありません。私たちがここにいるのは、何百万の確率の中からではなくて、愛の計画の内に創られました。精巧な体と、緻密な計画の内に全宇宙は創られました。その目的は何かというと、知性的な、理性的な被造物である、天使たちと私たちに、「永遠の喜びを分け与えたい」と思ったからです。
私たちが今この地上に生まれているのは、喜ぶ為です。永遠の命を、天主の命を、共に味わって、永遠に無限に幸せである為です。
ところが、この愛の計画は、最初の瞬間から、アダムとエヴァの時代から破壊されました。唯一、私たちには悪があります。それは貧困でも、それは事故でもありません。それは「私たちが罪を犯す事」です。罪を犯す事によって天主に戦争を挑み、必ず負ける戦争を挑み、戦いを挑み、反乱を起こして、そして私たちが永遠に不幸になる事です。天主から離れる事です。天主の敵となって、地獄と悪魔の元に行く事です。それだけが唯一の不幸で、唯一の最大の悪です。
しかし私たちには、その最初の瞬間から、そのアダムとエヴァの時から今に至るまで、もしも救い主が来られなかったら、どうする事もできませんでした。なぜかというと、罪というのは無限の邪悪であるので、なぜかというと、無限の聖なる天主を犯すものであるので、私たちにはその無限の負債を返す、無限の罪の償いをする事ができないからです。謝っても謝っても、償いをしても償いをしても、果たしきれないほどの負債を負ってしまっているからです。
しかし天主は、その私たちの為に聖子を送って下さいました。その罪を赦す為です。私たちの罪を全て赦し、負債をチャラにする為です。私たちを天主の友として、天主の子供として、永遠の無限の遺産を相続をさせる為です。
私たちは失われた羊でしたが、良き牧者は私たちを探して、天から今日、降りて来られました。私たちは道端に捨てられた、盗賊に襲われた、半死半生の旅人でした。しかし私たちを探して、私たちの為にサマリア人が来てくれました。天主が人となった、真の、この全宇宙さえも包みきれない、抱えきれない偉大なる方が、小さな赤ちゃんとなってお生まれになった。
天主は私たちを善に導く為に、警察官や軍隊や、恐れと恐怖で脅迫して、私たちに「善をなせ!」と脅す方ではありませんでした。そうではなく、私たちをその甘美さと、優しさと、憐れみと、平和と、喜びで、私たちが進んで主の元に来る事を望まれる方でした。愛と、平和と、優しさに満ちておられる方でした。
この赤ちゃんは、真の天主です。今日、私たちの為に生まれる赤子は、永遠の知恵、天主の御言葉、それによって全てが創られた御言葉、真の光、最高の善、それがお生まれになりました。
この子供は、言葉では私たちに何も言う事ができません、ただオギャーオギャーオギャーと泣く事しかできません。しかしその泣き声一つ一つにも、私たちに叫んでいます、「皆さんと私を愛している。皆さんと私の永遠の幸せを願っている。そしてその為には全てをする準備がある。その為に私はここにやってき来た。私は、皆さんと私のものだ」と叫んでいます。
その叫びはますます強くなります。十字架の上ではその全ての傷が、御血が、流された血が叫びます、私たちの事を愛しておられる。死に至るまで愛しておられる。天国に連れて行きたい。地獄の火から守りたい。
⑵では第2のポイントに、一体何の目的で、どのような手段で、私たちをその天国に連れて行こうとするのでしょうか?
はい、もちろん天主は色々な手段がありました。私たちを救う為の方法がありましたが、全く正義に適った、そして憐れみに同時に適った方法を選びました。
それは、「私たちに代わって苦しむ。私たちに代わって、全ての罪の罰を受ける」という方法でした。
その赤ちゃんは、この手を見て下さい、幼い手を。十字架の釘に付けられる為に、皆さんと私の代わりに、その罪の償いをする為にお生まれになって来られました。そして私たちに言います、「さぁ、あなたの全ての悲しみや、苦しみや、辛い事を、私に下さい。私はその代わりに、お礼に、私の持っている幸せを与えたいのです。私の持っている幸せを受けて下さい。その代わりに、全ての苦しみを私に分けて欲しい。」
そして今日、真冬、真夜中に、真冬の中に、木枯らしの吹く中に、王の王が、天と地の支配者が、天使たちが礼拝しておられるその御方が、動物たちの中で、家もなく、捨てられて、全く見捨てられて、全くの貧しさの中で、お生まれになりました。あたかも罪人であるかのように、全ての苦しみを身に背負って、お生まれになりました。私たちの幸せの為だけに、お生まれになりました。
これを見ると、天主聖父が将来何度も言われる、「これは私の愛する子。彼に聞け」というその聖子がどれほど苦しまれたか、という事を見ると、またマリア様が、天主からこれほど愛された罪の無い天主の御母がこれほど苦しまれた、ヨゼフ様が苦しまれた、聖家族のこの御生涯を見ると、私たちも1つの事を理解します。
私たちの人生にとって一番大切なのは、どうやって面白おかしく、このお金を簡単に儲けて、他の人からちやほやされて、あるいは偉ぶって、あるいは他の人を支配して、という一般の人が考えているようなものは、実はイエズス様にとって全く無関心な事だった、それよりももっと大切な事は、「主を愛する」という事、「本当の幸せの為に、聖なる一生を送る」という事である。
マリア様とヨゼフ様を見ると、「イエズス様の元にいる、という事だけが幸せである」という事が分かります。今日、この最高のプレゼントが私たちに与えられました。
⑶この幼いイエズス様は私たちに一体、何を求めているのでしょうか?
たった1つの事を求めています。それは、「私たちがイエズス様をお愛し申し上げる」という事です。その他の事は一切何も求めません。
放蕩息子の例え話をする時があります、イエズス様が大きくなると。その時に言います。この放蕩息子が帰った時に、「父よ、私はあなたの為に罪を犯しました。どうぞ私をあなたの奴隷として使って下さい。もう息子と呼ばれる資格はありません。」すると父親は彼を抱き上げて、「さぁ、宴会を開こう。さぁ、王の指輪をはめなさい。さぁ靴を履きなさい。きれいな服を着なさい。」父親は一切、「罪の償いをしなさい、弁償をしなさい」あるいは「その罪の償いの為に、どれだけの労働しなさい、お金を払いなさい」とは言いませんでした。「宴会を開こう。喜べ。」
イエズス様も同じ事を求めています。イエズス様の求めている事は、私たちが幼きイエズス様の近くに行って、こう言うことです。
「主よ、ありがとう。イエズス様、御身は私を愛して下さっています。感謝します。私もイエズス様を愛します!」
「イエズス様、私は御身に罪を犯しました。御身を悲しませました。どうぞ私の心を浄めて下さい。」
たったそれだけで全ては、「おぉ、そうか!帰っておいで。もうお前の罪はもう思い出さない。さぁ、お前にもっと、もっと祝福を与えよう。もっと栄光を与えよう。さぁ喜ぼう」と。
今日は喜びの日です。愛に満たされた日です。どうぞこの、そのクリスマスの本当の喜びを受けて下さい。この世の人々、世界の人々は、クリスマスパーティーでごちそうを食べているかもしれません。しかし、その最も大切なことは、知られていません。
でも皆さん、それを知って下さい。それは、「皆さんが、天主から永遠の昔から愛されている」という事を知る事です。それを確信する事です。そしてイエズス様の元に近寄る事です。さぁ、イエズス様の元に近寄って下さい。愛の言葉をイエズス様に投げかけて下さい。主はどれほどお喜びになる事でしょうか。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。