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聖ピオ十世会日本 聖伝のミサ(トリエント・ミサ、ラテン語ミサ)の報告 Traditional Latin Mass SSPX Japan 2019年3月

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

先日は、大阪で初金、初土に聖伝のミサを捧げることができました。初金には御聖体の前で聖時間も行いました。四人の子供たちも一生懸命お祈りしていて、とても嬉しく思いました。
土曜日には、大阪で復活祭の時に洗礼を受けるべきご家族の四名のために、ミサの後に洗礼式固有部分の前の準備の儀式を行いました。

主日には東京で受難の第一主日のミサを捧げました。ミサの後には、月の最初の主日でしたのでいつもの通り御聖体降福式があり、その直後に、生まれたばかりの赤ちゃん(カタリナ)の洗礼式がありました。天主様に感謝!

来たる4月12日、13日、14日、15日、16日には大阪で、
4月14日(主日)には東京で聖伝のミサがあります。

ティシエ・ド・マルレ司教様が、手術を受けなければならなくなり、アメリカの神学校で4月7日に予定されていた叙階式が延期になりました。司教様のためにお祈り下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

私たちの大切な小野田神父様こんばんは。
大阪での4月の初金・初土のミッションありがとうございました。
ミサの報告をお送り致します。

5日(初金) 至聖なる聖心の随意ミサには20人、
6日(初土) 四旬節第四週の土曜日(御受難の主日の前日)のミサには24人の方々が御ミサに与るお恵みを頂きました。
デオグラチアス!

5日のお説教で、私達の創造主であり、無限の善、至高の存在であられる天主の御一人子、三位一体の第二位の天主ご自身が、なぜ、あれほどまでにお苦しみになったかがカトリックの信仰の核心である事、それは私達の人類の罪が許されるためであり、如何に天主が私達を愛しているかという事を黙想しました。

ひと言の不平もなく恩知らずの私のために苦しみ、十字架上でご自分の命を差し出されたイエズス様に比べ、少しの痛みや苦しみに弱音を吐いたり、周りの同情を買おうとした自分が情けなくなりました。
どうか、今日からは、イエズス様の愛に愛で答えることができるよう、十字架のもとにいることを愛する事が出来るようしてくださいと、にマリア様を通してお恵みをお願い致しました。

御聖体降福式では、洗礼を受ける準備をしている方々の為、また病気で苦しんでい居る兄弟姉妹のため、日本に早く聖ピオ十世会の修道院ができて多くの霊魂がイエズス様の元へ帰る事が出来るようにお祈りしました。

6日の四旬節第四週の土曜日のミサは洗礼志願者のために特に祈っていることがわかります。
イザヤの予言の中のイエズス様が善き牧者としてだけでなく、やさしい母として私達の事を見て下さっているという箇所に感動しました。
イエズス様と共に、極限まで苦しまれた御母マリア様のお苦しみの事も黙想しました。聖クリゾストモがカルワリオにイエズス様を捧げる祭壇とマリア様の苦しみを捧げる祭壇があると仰った事の意味を明日から始まる御受難節、聖週間によく黙想したいと思います。

ミサの後、ご家族4人の洗礼式の前の部分がありました。
ご復活には水で洗われて洗礼式を完成されますが、ご家族が聖なる家族となられて出来ればご家庭から聖なる召命がある事を祈ります。

食事の後に行われた聖母の汚れなき御心へ聖ピオ十世会を奉献する祈りの更新、初土曜日の黙想、ティシエ・ド・マルレ司教様のためのロザリオ一環、グレゴリオ聖歌の練習にも沢山のかたが参加されて、天主様を中心とした時間を兄弟姉妹と一緒に持つことができたことも大きなお恵みでした。

神父様には、ただでさえ苛酷なミッションスケジュールに加えて、洗礼などの秘跡や祝別などをお時間のギリギリまで与えて頂きました。
天主様が神父様の多くの犠牲と愛に報いてくださいますように。また、マリア様の特別の御保護がありますようにお祈り申し上げます。
ありがとうございました。

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
昨日は数々のご配慮を賜り、ありがとうございました(^-^)

教会では洗礼式中の返答ができなかった娘ですが、インマクラータさんが式次第を持たせてくださったので、帰宅後にも読み上げて聞かせました。
すると、『捨てます』『信仰です』『永遠のいのちです』と返ってきたのでビックリしました。
小さいながらに、心はしっかり洗礼式に向いていたのですね。

デオ・グラチアス!

【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 27人(内、子供3人)
女: 32人(内、子供5人)
計: 59人(内、子供8人)

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幼児洗礼式後のパーティー
26人

晩課
7人
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【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

御受難の主日のミサの報告をさせていただきます。
祭壇の上に掲げられている十字架には喪に服すため紫の布が掛けられていました。
十字架が喜びを表しているから十字架を隠すのですという言葉が印象に残りました。
十字架のすばらしさを理解するものは、イエズス様の流された御血によって自分が天主のものとなるよう買い戻されたと知る故だとのことでした。十字架から放たれる光を霊的に見ることができるのでしょうか。

私も、十字架がキリスト教の象徴でカトリック信仰の要であることの意味をもっとよく理解できるようになりたいと思います。なぜ、祭壇の中央には、十字架に釘付けにされている主であるイエズス様の御姿が掲げられているのでしょう、イエズス様のこの愛の深さをよくわかることができますように、と思います。十字架から放たれている光を霊的に見ることができたらと思います。

人々に裏切られて屈辱を受けて暴力の限りを受けて耐え難い苦痛と計り知れない悲嘆とをうけて、しかもそれを極限まで受け入れようとさえ望まれ、少しでも多くの苦痛と悲嘆を望まれさえされたのは、人間の救いのために必要なものがご自分という生贄によって捧げられる苦しみと痛みと悲しみ・嘆きだけだったという、現実のゆえだったのかなと思いました。(どうしてもっと他の方法で必要な贖いが捧げられることができなかったかを考えようとしても私にはわからないこと、ほかの方法で人間の霊魂を買い戻すための値を支払うことができたのかもしれないのに?)

旧約聖書に記されたこと一つ一つすべてが実現されなければならなかったから、ということをしらなければ、もっと自由に他の方法を選択することもできただろうにと、思ってしまいます。

いずれにしてもその人間の救済の方法は、罪をおかしてしまったものである人間が決定できるのではなく、天主の正義が定めたことが実現されるべきことだったということを、理解いたしました。

人間がおかした罪の大きさが無限であること、・・・、、無限の天主を侮辱し反抗したのですから、無限の価値を持つ贖いによらなければ贖われなかった、支払いができなかった、ということを私がよく理解できますように。

永遠という概念や無限という概念を真実にわかり受けいれるには、私の心はあまりに小さく惨めだからです。主が私を赦しくださいますように、そしてあわれみによって、わたしの心にあなたの無限なる命を受け入れる恵みを注いでくださいますように。まことの人間でありまことの天主でもあったイエズス・キリストと、ご自分の罪のない清らかな人間性をイエズス様に与えてくださいました聖母マリア様にお祈りいたします。

お説教の第二の点、「イエズス様は私に何を期待しているのか、何をするように招かれているのか」というところですが、それはイエズス様の御受難を黙想するのにとどまらず、キリストの神秘体の欠けたところを一緒に捧げることについてお話しくださいました。

ほんとうに、イエズス様の十字架をもしよく黙想することができれば自分が受けている苦しみはほんのちっぽけなものに過ぎないことがよくわかるようになり、それをイエズス様の十字架に合わせていただけますよう願ってお捧げさせていただこうと思うようになるのでしょう。

最近、そのようなことを著述しているカトリック信者の自叙伝を読み掛けているところです。その方は、自分が望んだわけでなく家庭における不幸を受けて、つまり母の愛情無く育つ…それどころか虐待さえ受け続け身体までも動けなくなってしまうという残酷な不幸を受け入れて生涯を生きた方のようです。なんて苛酷な生涯だったことでしょう。それでも、その方はイエズス様の愛によって自分を聖化して、 その心と体に受ける痛みのすべてを他の霊魂の救いのための犠牲として捧げますと書かれています。

確かにそのカトリック信者の苦しみは、イエズス様の苦しみにはない欠けた所に違いないと思いました。

それどころか、苦しみを受けることが自分の(霊的)喜びでもあるとさえ書いていることにハッとさせられて、その部分を何度か読み返しています。自分の苦痛を一人の見ず知らずの霊魂の救いのために使っていただけると思うとこの上もなく喜びを感じます、と書いてあったのです。

これは、いつも、このごミサの中で励まされていることと同じことと思いました。そこまでの信仰を持つには、よほどの深い愛と信仰が必要なこと・・・とはいえ、カトリック信仰が生きた信仰であって、確かに霊魂の救いということのための宗教であるということがよく証しされていると思いました。本当に天主様はそのような霊魂をこの世に幾つも作られ無数に作られて守ってくださり、天国へ運ばれているのですね。そして救われた霊魂も完全な喜びに入る前の-でも安全な-場所に運ばれているのですね。

神父様は「キリストは苦しみをうけて栄光を受けるべきではなかったのか」、「十字架は祝福に満ちたものでわたしたちに命を与える手段としてくださったもの」とお話しくださいました。

ミサの中で、このように霊魂の救いのための祈りをすることができるのは、ほんとうに素晴らしいことです。
このような聖なるミサに与るカトリック信者の方が一人でも増えますようにと、心からお祈りします。
このようなミサをもっといたるところでお捧げしていただけるよう、司教さまたちは日本の神父様たちをもっと励ましていただきたいと望みます。
このような信仰がカトリック信仰だということに気づかれる日本人が一人でも増えて洗礼の恵みをうけられますよう、マリア様にお祈りします。

今は、御受難の週に入り、ますます、イエズス様の御受難を黙想しながら、このような恵みをいただくに値しない自分の心の中をよく反省して、過ごしていきたいと思います。御受難の主日のミサをありがとうございました。

聖マリアのけがれなき御心のうちに


Photo credit

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