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聖ピオ十世会日本:聖伝のミサ(ラテン語ミサ)の報告 ノートルダム大聖堂の火災と、ベネディクト十六世の「教会と性スキャンダル」の文書

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖週間です。日本で聖伝のミサを捧げるお恵みを頂き、特に東京では枝の主日のミサを執行しました。

突然、パリのノートル・ダム大聖堂の火災で、信仰の貴重な記念碑であるパリの聖母大聖堂の天上や塔が焼け落ちてしまったことを知りました。市民たちが大聖堂の周りに集まり、跪いて、聖母マリア様に祈りや聖歌を歌っている動画を見て感動しました。Je vous salue, Marie, pleine de grâce ; le Seigneur est avec vous. ... Sainte Marie, priez pour nous pauvres pecheurs maintenant, et a l'heure de notre mort.



ノートルダム大聖堂には、聖ルイ九世が国家財産を果たして購入した茨の冠の聖遺物が保管してありました。消防隊の従隊司祭(チャプレン)であったジャン・マルク・フルニエ神父(Jean-Marc Fournier)が、大聖堂に駆けつけるや、命の危険を冒しても御聖体と茨の冠を救い出したそうです。今日の英雄として全世界で感謝されました。【実は、ジャン・マルク・フルニエ神父とはフラヴィニーの神学校で一年の間同級生でした。私たちの神学校を退学したところまでは知っていましたが、ニュースによると聖ペトロ会で司祭に叙階されしばらく聖ペトロ会の司祭だったとのことです。】命がけで私たちの主の聖遺物を守ったフルニエ神父様、ありがとうございます! それと同時に、命がけで聖伝のミサ(私たちの主イエズス・キリストの十字架の犠牲の再現)を守って私たちに伝えて下さったルフェーブル大司教様、ありがとうございます!

つい最近の、ニュースによれば、ベネディクト十六世引退教皇は「教会と性スキャンダル」についての記事を発表しました。三部に分かれていて、一部では、社会的文脈を提示しています。1960年から1980年にかけて社会的な規範が崩壊し、新しい規律を作ろうとしていた歴史的背景が取り上げられます。
第二部では、この状況の下で司祭養成がどのような影響を受けたのかについて議論します。
第三部では、教会の答えを提案します。特に、「天主不在の社会」により、「目的不在の社会」「意味不在の社会」「規範不在の社会」になってしまったこと、真理ではなく、権力だけが自己主張をする社会になってしまったことを指摘します。そこで天主の現存を取り戻さなければなりません。
ベネディクト十六世は、現在、教会で御聖体があまりにも粗末に不敬に取り扱われていることを歎きます。御聖体という賜物を乱用から守るために全力を尽くさなければならない、私たちの主の苦しみと犠牲の偉大さを私たち皆が理解するように祈り求めなければならない、と訴えます。100年前、ロマノ・グアルディニは「教会は霊魂たちにおいて覚醒させている」と希望の言葉を述べたが、それから100年後の今、私たちはこう言う誘惑に襲われている:「教会は霊魂たちにおいて死につつある」と。教会は政治団体ではない。教会は、証し人(殉教者)の教会とならなければならない、と言われます。

教会の危機は、御聖体に対する崇敬と礼拝と、聖母への祈りによってのみ克服することが出来ます。会議によって解決は出来ません。それがベネディクト十六世のおっしゃりたかったことだと受け取りました。

では、愛する兄弟姉妹の皆様にレポートをご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

大阪でのミサの報告をお送り致します。

4月12日(御受難の週の金曜日) 聖母の七つの御悲しみのミサには11人、
4月13日 御受難の週の土曜日のミサには14人、
4月14日 枝の主日のミサには17人が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!

ご復活祭の準備がクライマックスになってきたので、神父様がいつもにも増してイエズス様の御受難に深く入っておられるようにお説教をお聞きして感じました。

金曜日のマリア様の御悲しみのミサのお説教の中で、十字架のもとにたたずみ給うマリア様の黙想がとても心に残り、寝床に入ってもそれを考えると中々眠れなくなりました。私もイエズス様の十字架の元に御ミサを通して参与していることを考え、今までは十字架の元にいても弱音を吐いて下を見て座りこんでいたけれども、これからはマリア様にしがみついて立っていることが出来るようになりたいと思いました。

枝の主日にはワリエ神父様が韓国からいらして下さり、枝の祝別とミサが滞りなく行われました。
東京のように外へでて信徒皆での行列は出来ませんでしたが、前日に小野田神父様がブログに載せて下さった枝の主日の黙想をひとつひとつ追いながらミサに与りました。飛行機のご都合で休む暇もなくとんぼ返りで日本を発たれたワリエ神父様と、いつものように大きな犠牲を払って日本へ来て下さる小野田神父様に、四旬節の特別割り増しの御恵みがありますように!

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え

【報告】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 27人(内、子供5人)
女: 32人(内、子供5人)
計: 59人(内、子供10人)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ! 

枝の主日のミサを報告させていただきます。
枝の主日には、オリベト山が象徴された二階の会場で枝の祝別と枝の配布が行われました。
聖歌隊が歌われるなか、私たち信者は一人ひとり跪き、祝別された棕櫚の枝を神父様の手から受け取りました。二階の会場は枝を手にもつ子供たちと信者たちでいっぱいになりました。
続いて一同で外に出て、赤い祭服を纏われた司祭と十字架などを掲げ持つ侍者たちを先頭に聖歌隊が続き、ホザンナの歌とともに棕櫚の枝を手にみんなで町内の一角の道を行進いたしました。栄光と賛美を誉れとは、王、贖い主なるキリストにあれ!
このあたりのすぐそばにも日本の殉教者が葬られているという由緒ある土地を行進しながら、先祖のキリシタンの信仰と殉教を思い十字架に従おうと思いました。そして教会の前に到着して、天の門を再び開いてくださったキリストの勝利を思いました。(ここでは復活があらかじめ告げられた場面だったのですね。)聖歌隊の歌う声が最後まで聞こえないほど行列は長く続きました。

続くミサの中、いつもの聖福音書は司祭と聖歌隊とにより歌われました。とても長い福音書でした。最後のほうでは特に司祭によって歌われる悲しみの歌声を聞きながら、今年も胸がジーンといたしました。ありがとうございました。

主の御受難が歌われるなか、最後までキリストにつき従うことができますようにと思いました。それから「おのれを卑うして従い給うた主であるキリストの御前に膝をかがめて天主の光栄を崇め奉り」ました。本当に主の御謙遜と従順に最後まで倣うことができますようにと思います。ご聖体拝領では紫のおおいで隠された十字架を前に、今は隠されている主の栄光と力が確かに感じられました。

今年はこの日も含めて4回ほども公教要理に時間にイエズス様の御受難についてとマリア様の七つの御悲しみについてお話しいただきました。ありがとうございました。

ミサで歌われていた御受難の場面は御苦難を受けられた様子が描かれた場面です。裏切られ屈辱を受け嘲られ暴行を受け、ただされるがままになっているかのようなイエズス様。一度は王であるイエズス様につき従って行列した民も、最後にイエズス様などいらない死刑にしてしまえと叫んでしまう。イエズス様は、無理やりみんなから殺されて死に給うたと思っていたのですが、今年はお話を伺いながら黙想してきたおかげで、そうではなかったと思いました。イエズス様はご自分の力でもって御父が定められたとおりに御死去された(死なれた)のだということがしっかり理解できたように思います。

誰も自分で死ぬとき死ぬ場所死に方そのときの自然現象などを決めることなどできないのに、イエズス様はすべてあらかじめ預言されていたままのとおりにすべてそういったことを正確にクリアして(成し遂げられて)その御霊を御父にお返しになられたのですね。そういったことは人間にはできないことで、この出来事からイエズス様はやはり天主であったと知りました。

その十字架のもと苦しみと悲しみのなかで聖母マリア様は、イエズス様が御父の仕事をするためにエルサレムの訪問していたことを告げた21年前の出来事を思い起こしていたかもしれないということ、そしてイエズス様にまた三日後に再びお会いできるという希望もお持ちになられていたかもしれないこと、そういうことをこの日の公教要理を教わり黙想しています。
「私が御父の仕事をしているということがわからなかったのですか」、ああ、まことにイエズス様の御受難は、御父によって託された私たちの霊魂を買い戻すための代償の尊い御苦しみの御業だったのですね。

聖週間の間も、主の御受難を思いながら、静かに祈りながら過ごしたいと思います。
小野田神父様、枝の主日のミサをありがとうございました。

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

枝の主日の前日ですが「枝の主日の枝って何の木の枝なの?」と家族から聞かれました。「棕櫚(しゅろ)とか橄欖(かんらん)という木の枝のようですよ」と答えました。「オリーブの木なのかな?あの鳩がくわえてきたのも、オリーブの枝だったね?」といわれました。

蘇鉄の葉が使われることが多いようですが、私たちは時に(今年も)棕櫚の葉を祝別していただいています。でも、橄欖の木というのはオリーブの木のようだったし橄欖山とかオリベト山とは、オリーブと関係のある名前なのだろうかと思ったりしました。
そして、ふと、鳩がくわえてきた枝というのは、ノアの時代に、水が引いて土地が固まり、その地に木が生えて住めるようになったことを示すものだったことを思い出しました。

それで確かに、この日の祝別された枝を、自分の部屋に一年飾るということは、私たちの救いの地である天国をもうイエズス様が用意してくださっていることを思い起こすためでもあるのかもしれないと、想像しました。イエズス様が御受難によって天国の用意をしてくださったことを、この日の枝を見て思いました。

すると、昨日の枝の主日のミサは、ノアの箱舟であるカトリック教会が2000年もの間守り続けてきている救いのための舟かもしれない、しっかりと水が浸み込まないように荒波にも壊れないよう頑丈に築き上げたノアの箱舟は、この聖なる聖伝のミサを守り続けているカトリック教会だと感じられました。

たとえ、ノブス・オルドミサによって攻撃を受け教会から消されようとしたにも関わらずしっかりと守られ残されている聖伝のミサ!今も世界中で確かに捧げられるこの聖なるピオ5世教皇によって聖別された聖伝のミサ!これこそ、この世の精神という水が決して浸み込んでくることのないように守ってくれるもの、いざこの世の大洪水の大水が引いたときに乾いて固まった土地(天国)に私たちを運んでくれる舟そのものと思いました。(この世の精神が浸み込んでくるように替えられてしまっては、そんな舟は途中で沈んでしまって、土地が乾くまで持たないかもしれないと思いました。)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

枝の主日のミサでは、たくさんの信者さんと枝の行列とミサ聖祭にあずかることができました。大勢でこの日、枝をいただきイエズス様の栄光を讃えて讃美しながら行列を出来たことを感謝いたします。素晴らしく荘厳に主日を過ごすことができました。ありがとうございます。
(いつもいらっしゃる信者さんがお誘いくださったと聞きましたが)新しく来てくださった信者さんも、「とてもよかった。小さい時のミサを思い出す、やっぱりこれが本当のミサだな」とお話されたことを伺って、うれしかったです。

それで思い出したのですが、10歳ほどのお子さんが初めてこの聖伝のミサに与られたとき、こっちが本当のミサだよねと親御さんに話されたのだそうです。きっと、小さい子供の純粋な心は本物を見抜く感受性があるのでしょう。小さい子供のようでいなさいと言われたイエズス様の言葉を思いだします。そういえば、友人も小さいころに通っていた教会の感じが忘れられなくて、この聖ピオ十世会のミサはそれとおんなじ雰囲気のままなので、こちらのミサにしか来る気持ちにならないとよくおはなしされていらっしゃいます。

小さい時にこのミサに与った方がこの世の喧騒から解き放たれて幼心(おさなごころ)をとり戻されたら、そして近くにこのミサがあることを知ったらきっとこちらに与りたいと思われる方が多いだろうなあと想像します。この昔からの聖伝のミサに与ったという記憶は、日本ではせいぜい今現在で60歳前後の世代までの方にしか残っていないかもしれません。そんな幼い時にこのミサに与った方々がどうか幼心(おさなごころ)を思い出してくださいますようにとお祈りいたします。

日本でこの聖伝のミサが捧げ続けられる限り、この聖伝のミサがよいものだと感じる人が必ず増えると思います。いま日本にいる子どもたちも純粋な心をもっていますから。日本はマリア様に奉献された国ですので、マリア様がきっと助けてくださるでしょうから、もっとロザリオをしっかりと祈りたいと思います。秋田巡礼でも、お祈りいたします。小野田神父様、これからも日本での聖伝のミサを、どうぞよろしくお願いいたします。

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