アヴェ・マリア・インマクラータ!
2019年4月5日(初金)至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
小野田神父 説教
聖母の汚れなき聖心聖堂にようこそ。
今日は2019年4月5日、四旬節の第4主日の後の金曜日、4月の初金曜日のミサをしています。
このミサの後で、初金曜日ですので、御聖体を顕示した聖時間もあります。もしもできたらいらして下さい。今日は小さなお友達がたくさん来てくれて非常に嬉しく思います。
では今日は初金ですので、私たちは一緒に、イエズス様の聖心の信心を黙想する事に致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、福音書の中で、初金曜日の時にはいつもこの言葉を読みます。
「イエズス様の所に兵士がやって来ると、死んだかどうかを確認する為に、十字架に付けられた所にやって来ると、もう既に死んでいたので、死期を早める為の脛は折らずに、しかし兵士が槍を持って心臓を開いた。するとすぐに、水と血が出てきた。」
イエズス様は確かに既に亡くなっておられた。しかしそれとその死を確認すると同時に、イエズス様の聖心が開いた。
イエズス様の聖心は、人類に対する、私たちに対する愛のシンボルです。この愛が一番よく分かる、それが、イエズス様の「御受難」です。
そこで特に教会は、このイエズス様の御受難を黙想する事を大切にしています。復活祭の前40日間、教会は断食をします。断食というのは、何も食べないのです。イエズス様も40日間、公生活を始める前に断食をしました。お祈りと断食をしました。それなので、復活祭の前の40日間、教会は私たちに「断食をするように」と言っています。
ですから、昔の人は1日に1回、パンをちょっと食べて、お水を飲んで、40日間、お腹が減っているのをずっと我慢していました。現代ではそれがあまりにも大変なので、必ずしも断食をしなくてもよくなっています。でもそれでも、断食をする日です。
40日間、一週間は7日あるので、6週間です。7×6=42。6週間の内の最初の4週間は、特にイエズス様のそういう断食やお祈りについて、「私たちは一体何の為に生まれてきたのか?何の為にこの世の中にいるのか?私たちは天国の為にいるのだ。私たちはお祈りしなければならない。私たちはただ動物や、猫や犬のようにただご飯を食べて、面白おかしく過ごしているだけではない。永遠の命の為に生きているのだ。超自然の命を生きているのだ。天国の為に今戦っているのだ」という事を、4週間の間黙想しますけれども、最後の2週間は、復活祭までの14日間は、「私たちの主がイエズス様が、どれほど御苦しみになったのか、という事を黙想するように」と言います。
ですから特別に、これは受難の季節、「受難節」と言われています。2週間。
そして、この何でイエズス様がそれほど苦しまれたのか、というのを黙想するのは、その理由があります。まずこのイエズス様の御受難というのは、キリスト教の最も深い神秘の一つで、理解するのが難しいからです。
なぜ理解するのが難しいかというと、イエズス様がそれほど高貴で天主様であるにもかかわらず、人となったこの世の創造主であるにもかかわらず、罪の汚れが全く無い方であるにもかかわらず、そんなに聖なる方であるにもかかわらず、愛に満ちた方であるにもかかわらず、なぜこれほど苦しまなければならなかったのか?なぜ?
これを、理解しなければなりません。ここに、キリスト教の一番深い核心があります。
何で、何でイエズス様は苦しまれたのでしょうか?
なぜかというと、3つの理由があります。
それは、「私たちの罪が赦される為」です。
私たちはどうしても、罪を、自分の力では罪を償う事ができないからです。いくら謝っても、いくら何をしても、人間同士であれば、「あぁ、いいよ」「ごめん」と言えば、もちろん償いができます。しかし相手は、その罪の相手が天主様なので、もう罪を償いきれないのです。その為に、イエズス様が罪の償いをしてくれました。
この「罪の償いをしてくれた」という事は私たちに、「罪がどれほど恐ろしいか」という事を教えてくれます。「どれほど苦しまれたか」という事を見れば分かります。
もう1つは、「どれほど天主が、この私たちを創って下さった創造主が、私たちを愛して下さっているか」という事を教えています。
そして最後に、この御受難は、「私たちがこの地上の事ではなくて、永遠の命の為に生きているのだ」という事を教えてくれます。
でもこの御受難の神秘があまりにも簡単には理解できないので、それが簡単に理解できるように、昔から「前兆」という鍵を持って、「こういう事が起こる」という事をあらかじめ予告しておいて、そして「そういう事が本当に起こるのだ」という事を知らせておきました。
例えば、カインとアベルという話があります。アダムとエヴァの最初の子供たちです。兄弟です。アベルというのは、罪が無くて殺害されます。それはイエズス様の前兆でした。イエズス様も、罪が無くて殺されるからです、兄弟によって。
あるいはアブラハムとイサアクという話があります。アブラハムはお父さんです、イサアクはその子供です。アブラハムはとても信心深い人でした。聖なる人でした。
アブラハムはある時、あまりにも聖なる方だったので、「ユダヤ人」という特別な民族を作るその創始者になりました、最初の人になりました。アブラハムはある時天主に言われました、「お前の子孫たちは、天の星々のようになるだろう。海の砂浜の、砂の粒よりももっと大きな子孫をお前は持つだろう。大きな民族になるだろう」と言われました。
そしてところが、それにもかかわらず、子供が無かったのです。お祈りをして、お祈りをして、お祈りをすると、アブラハムが100歳ぐらいになった時に、90歳ぐらいの奥さんからサラという人から、子供が生まれます。最初は「こんなに年を取ったのでもう、きっともう無理だ」と思ったくらいです。しかし子供が生まれました。その唯一の一人息子が、そのアブラハムの、「まさにこの子供が、この子から大きな民族が出る」と言われるその子供が、大きくなって、とても良い子になって、そしていつもお父さんの言う事を聞いている時に、ある時天主に、「この子供を、生贄にして屠れ」と言われた。
「屠る」というのは、生贄として動物を屠殺する事です、そして祭壇に捧げる時に「屠る」と言います。「お前の一番大切な子供を、生贄として屠れ。山に登って、生贄を捧げろ。」
「えっ、え?一体どうして!?」と私たちでしたらこう言うかもしれませんが、アブラハムは、「はい、分かりました。御旨のままになりますように。」
子供を連れて山に登ります。
「さぁ、この木を担いで行きなさい。これは祭壇だ。」
「あぁお父さん、今から何をするのですか?」
「山に、今から山に行って生贄を捧げるんだよ。」
「あぁ、はい分かりました。」
「じゃあこれを。」
「この木は何ですか?」
「この木は祭壇の為に作るのだ。」
「はい、担いで行きます。」
アブラハムがお父さんが、イサアクを頂上に、山の上に着くと縛ります。
「お父さん、木で祭壇を作って、生贄はどこにあるんですか?」
「生贄はお前だ。」
「はい。」
その上に乗せられて、「さぁ、」いざ、アブラハムは刀を持って、イサアク、子供を、一人っ子を屠ろうとする時に、天主が、「ストップ!生贄は、そこの藪にある。角がかかってある子ヤギを使いなさい。「あぁ、はい!」イサアクを降ろして、その子ヤギを生贄を捧げます。
これは、イエズス様が十字架を担いで、十字架の木を担いで、聖父の命令に従って、自分がいけにえになる、というその前兆でした。子ヤギの頭がかかって動けなくなったというのも、十字架の、茨の冠を被せられたというイエズス様の象りでした。イサアクはそのまま救われましたけれども、イエズス様はそのまま屠られました。
あるいはモーゼが、エジプトの元にいた、奴隷生活をしていたユダヤ民族をエジプトから解放した時があります。その時には子羊を屠って、夜中に食べて、そして紅海という紅い海というものを渡って行きます、逃げ出します。
そしてある時そのモーゼは、この癩病や病気の人たちがいるのを見て、その紅海を渡る時に海を真っ二つに分けて、壁のような水の中をユダヤ人たちが通ったその時に使った奇跡の杖を使って、それをそれに蛇を、青銅という特別の金属で蛇を作って、それを掲げると、それを見た人は癩病が治りました。何か不思議な話ですけれども、そういう事が起こりました。
なぜモーゼが「蛇」の青銅を杖に掲げる事によって癩病が治ったのでしょうか?蛇というのはサタンを表わす事によく使われているのに?何故 (?_?) 聖パウロはこう言います。「天主は罪を知らなかったお方を、私たちのために罪となされた。それは、私たちを、かれにおいて天主の正義とするためである。」(コリント後書5:21)
十字架に付けられたイエズス・キリストは、私たちのために「罪」となった(!)と。あたかも「蛇」であるかのようになって、上げられたのです。それは私たちをキリストにおいて、癩病(罪)を赦し、清くするためでした。
これも、イエズス様の前兆でした。イエズス様は復活祭の聖金曜日の時に、十字架に付けられた子羊です。イエズス様の流した真っ赤な血の海を私たちは通って、洗礼の水を通って、そして罪から解放されます。そして癩病のように、もう私たちの力では治癒ができないというものすごい病気でも、木に付けられた蛇を見たように、イエズス様を見る事によって、私たちは癒される、という前兆でした。
今こう言ったのは、ほんのちょっとした事ですけれども、そのような前兆がそれ以外にもたくさんあります。何時間も話しても話しても話し尽くせないほど、そのような旧約聖書の中にあったそれは全て、救い主の御受難をあらかじめ予告する出来事でした、そのようなものを通して私たちに、この深い神秘の中に入るように、「天主は人となって、私たちをあまりにも愛してるが為に、自ら苦しんで、そして私たちを罪から解放させるのだ。その為に人となって、十字架に付けられた」という事を教えています。「どれほど私たちを愛されているか」という事を知って下さい。
もしも辛い事があったり、悲しい事があったり、嫌な事があったら、イエズス様のこの十字架の事を思い出して下さい。友達から悪口を言われた、友達が、これやってと言ったのにやってくれなかった、友達から変な事をされた、殴られた、馬鹿にされた。
「あぁ、」イエズス様も、天主であったにもかかわらず、とても私たちをはるかに超えた高貴な方であったにもかかわらず、私たちの為に屈辱を受けて、嫌がらせをされて、そして暴力をされて、命さえも失ってしまいました。しかしそれをみな、私たちを愛するが為に受けてくれました。
ですから、小さなお友達も是非、イエズス様の為にお捧げして下さい。もしも「宿題をするのが嫌だなぁ」あるいは何か「良い事をするのが辛いなぁ」と思ったら、イエズス様の事を思い出して下さい。「あぁ、イエズス様はどれほど私たちを愛して下さって、私たちの為にイエズス様はどれほど辛い事も捧げて下さっているのか」という事を思い出して、「じゃあ、この辛い事も、イエズス様の為にしよう」と思って下さい。
特に、もしも友達ができて、何か「悪い事をしよう、一緒に悪い事をしよう」と言われたら、「ダメ」と言って下さい。なぜかというと、私たちが悪い事をすると、罪を犯すと、イエズス様はとても悲しむからです。心が張り裂けるほど悲しむからです。なぜかというと、私たちが赦されるように、罪から赦されるようにこれほどまで苦しんだにもかかわらず、それを馬鹿にして、それをあたかも何でもなかったかのように悪を、悪を返すと、イエズス様はとても悲しむからです。
では今日は金曜日で、初金曜日ですから、イエズス様の愛がますます分かるように、マリア様にお祈り致しましょう。マリア様はイエズス様の心がよく分かっていました。イエズス様の辛い思いがよく分かりました。イエズス様の思いの一つ一つが、敏感に心で感じていました。私たちもマリア様のように、イエズス様の心を理解する事ができるように、お祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
2019年4月5日(初金)至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
小野田神父 説教
聖母の汚れなき聖心聖堂にようこそ。
今日は2019年4月5日、四旬節の第4主日の後の金曜日、4月の初金曜日のミサをしています。
このミサの後で、初金曜日ですので、御聖体を顕示した聖時間もあります。もしもできたらいらして下さい。今日は小さなお友達がたくさん来てくれて非常に嬉しく思います。
では今日は初金ですので、私たちは一緒に、イエズス様の聖心の信心を黙想する事に致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、福音書の中で、初金曜日の時にはいつもこの言葉を読みます。
「イエズス様の所に兵士がやって来ると、死んだかどうかを確認する為に、十字架に付けられた所にやって来ると、もう既に死んでいたので、死期を早める為の脛は折らずに、しかし兵士が槍を持って心臓を開いた。するとすぐに、水と血が出てきた。」
イエズス様は確かに既に亡くなっておられた。しかしそれとその死を確認すると同時に、イエズス様の聖心が開いた。
イエズス様の聖心は、人類に対する、私たちに対する愛のシンボルです。この愛が一番よく分かる、それが、イエズス様の「御受難」です。
そこで特に教会は、このイエズス様の御受難を黙想する事を大切にしています。復活祭の前40日間、教会は断食をします。断食というのは、何も食べないのです。イエズス様も40日間、公生活を始める前に断食をしました。お祈りと断食をしました。それなので、復活祭の前の40日間、教会は私たちに「断食をするように」と言っています。
ですから、昔の人は1日に1回、パンをちょっと食べて、お水を飲んで、40日間、お腹が減っているのをずっと我慢していました。現代ではそれがあまりにも大変なので、必ずしも断食をしなくてもよくなっています。でもそれでも、断食をする日です。
40日間、一週間は7日あるので、6週間です。7×6=42。6週間の内の最初の4週間は、特にイエズス様のそういう断食やお祈りについて、「私たちは一体何の為に生まれてきたのか?何の為にこの世の中にいるのか?私たちは天国の為にいるのだ。私たちはお祈りしなければならない。私たちはただ動物や、猫や犬のようにただご飯を食べて、面白おかしく過ごしているだけではない。永遠の命の為に生きているのだ。超自然の命を生きているのだ。天国の為に今戦っているのだ」という事を、4週間の間黙想しますけれども、最後の2週間は、復活祭までの14日間は、「私たちの主がイエズス様が、どれほど御苦しみになったのか、という事を黙想するように」と言います。
ですから特別に、これは受難の季節、「受難節」と言われています。2週間。
そして、この何でイエズス様がそれほど苦しまれたのか、というのを黙想するのは、その理由があります。まずこのイエズス様の御受難というのは、キリスト教の最も深い神秘の一つで、理解するのが難しいからです。
なぜ理解するのが難しいかというと、イエズス様がそれほど高貴で天主様であるにもかかわらず、人となったこの世の創造主であるにもかかわらず、罪の汚れが全く無い方であるにもかかわらず、そんなに聖なる方であるにもかかわらず、愛に満ちた方であるにもかかわらず、なぜこれほど苦しまなければならなかったのか?なぜ?
これを、理解しなければなりません。ここに、キリスト教の一番深い核心があります。
何で、何でイエズス様は苦しまれたのでしょうか?
なぜかというと、3つの理由があります。
それは、「私たちの罪が赦される為」です。
私たちはどうしても、罪を、自分の力では罪を償う事ができないからです。いくら謝っても、いくら何をしても、人間同士であれば、「あぁ、いいよ」「ごめん」と言えば、もちろん償いができます。しかし相手は、その罪の相手が天主様なので、もう罪を償いきれないのです。その為に、イエズス様が罪の償いをしてくれました。
この「罪の償いをしてくれた」という事は私たちに、「罪がどれほど恐ろしいか」という事を教えてくれます。「どれほど苦しまれたか」という事を見れば分かります。
もう1つは、「どれほど天主が、この私たちを創って下さった創造主が、私たちを愛して下さっているか」という事を教えています。
そして最後に、この御受難は、「私たちがこの地上の事ではなくて、永遠の命の為に生きているのだ」という事を教えてくれます。
でもこの御受難の神秘があまりにも簡単には理解できないので、それが簡単に理解できるように、昔から「前兆」という鍵を持って、「こういう事が起こる」という事をあらかじめ予告しておいて、そして「そういう事が本当に起こるのだ」という事を知らせておきました。
例えば、カインとアベルという話があります。アダムとエヴァの最初の子供たちです。兄弟です。アベルというのは、罪が無くて殺害されます。それはイエズス様の前兆でした。イエズス様も、罪が無くて殺されるからです、兄弟によって。
あるいはアブラハムとイサアクという話があります。アブラハムはお父さんです、イサアクはその子供です。アブラハムはとても信心深い人でした。聖なる人でした。
アブラハムはある時、あまりにも聖なる方だったので、「ユダヤ人」という特別な民族を作るその創始者になりました、最初の人になりました。アブラハムはある時天主に言われました、「お前の子孫たちは、天の星々のようになるだろう。海の砂浜の、砂の粒よりももっと大きな子孫をお前は持つだろう。大きな民族になるだろう」と言われました。
そしてところが、それにもかかわらず、子供が無かったのです。お祈りをして、お祈りをして、お祈りをすると、アブラハムが100歳ぐらいになった時に、90歳ぐらいの奥さんからサラという人から、子供が生まれます。最初は「こんなに年を取ったのでもう、きっともう無理だ」と思ったくらいです。しかし子供が生まれました。その唯一の一人息子が、そのアブラハムの、「まさにこの子供が、この子から大きな民族が出る」と言われるその子供が、大きくなって、とても良い子になって、そしていつもお父さんの言う事を聞いている時に、ある時天主に、「この子供を、生贄にして屠れ」と言われた。
「屠る」というのは、生贄として動物を屠殺する事です、そして祭壇に捧げる時に「屠る」と言います。「お前の一番大切な子供を、生贄として屠れ。山に登って、生贄を捧げろ。」
「えっ、え?一体どうして!?」と私たちでしたらこう言うかもしれませんが、アブラハムは、「はい、分かりました。御旨のままになりますように。」
子供を連れて山に登ります。
「さぁ、この木を担いで行きなさい。これは祭壇だ。」
「あぁお父さん、今から何をするのですか?」
「山に、今から山に行って生贄を捧げるんだよ。」
「あぁ、はい分かりました。」
「じゃあこれを。」
「この木は何ですか?」
「この木は祭壇の為に作るのだ。」
「はい、担いで行きます。」
アブラハムがお父さんが、イサアクを頂上に、山の上に着くと縛ります。
「お父さん、木で祭壇を作って、生贄はどこにあるんですか?」
「生贄はお前だ。」
「はい。」
その上に乗せられて、「さぁ、」いざ、アブラハムは刀を持って、イサアク、子供を、一人っ子を屠ろうとする時に、天主が、「ストップ!生贄は、そこの藪にある。角がかかってある子ヤギを使いなさい。「あぁ、はい!」イサアクを降ろして、その子ヤギを生贄を捧げます。
これは、イエズス様が十字架を担いで、十字架の木を担いで、聖父の命令に従って、自分がいけにえになる、というその前兆でした。子ヤギの頭がかかって動けなくなったというのも、十字架の、茨の冠を被せられたというイエズス様の象りでした。イサアクはそのまま救われましたけれども、イエズス様はそのまま屠られました。
あるいはモーゼが、エジプトの元にいた、奴隷生活をしていたユダヤ民族をエジプトから解放した時があります。その時には子羊を屠って、夜中に食べて、そして紅海という紅い海というものを渡って行きます、逃げ出します。
そしてある時そのモーゼは、この癩病や病気の人たちがいるのを見て、その紅海を渡る時に海を真っ二つに分けて、壁のような水の中をユダヤ人たちが通ったその時に使った奇跡の杖を使って、それをそれに蛇を、青銅という特別の金属で蛇を作って、それを掲げると、それを見た人は癩病が治りました。何か不思議な話ですけれども、そういう事が起こりました。
なぜモーゼが「蛇」の青銅を杖に掲げる事によって癩病が治ったのでしょうか?蛇というのはサタンを表わす事によく使われているのに?何故 (?_?) 聖パウロはこう言います。「天主は罪を知らなかったお方を、私たちのために罪となされた。それは、私たちを、かれにおいて天主の正義とするためである。」(コリント後書5:21)
十字架に付けられたイエズス・キリストは、私たちのために「罪」となった(!)と。あたかも「蛇」であるかのようになって、上げられたのです。それは私たちをキリストにおいて、癩病(罪)を赦し、清くするためでした。
これも、イエズス様の前兆でした。イエズス様は復活祭の聖金曜日の時に、十字架に付けられた子羊です。イエズス様の流した真っ赤な血の海を私たちは通って、洗礼の水を通って、そして罪から解放されます。そして癩病のように、もう私たちの力では治癒ができないというものすごい病気でも、木に付けられた蛇を見たように、イエズス様を見る事によって、私たちは癒される、という前兆でした。
今こう言ったのは、ほんのちょっとした事ですけれども、そのような前兆がそれ以外にもたくさんあります。何時間も話しても話しても話し尽くせないほど、そのような旧約聖書の中にあったそれは全て、救い主の御受難をあらかじめ予告する出来事でした、そのようなものを通して私たちに、この深い神秘の中に入るように、「天主は人となって、私たちをあまりにも愛してるが為に、自ら苦しんで、そして私たちを罪から解放させるのだ。その為に人となって、十字架に付けられた」という事を教えています。「どれほど私たちを愛されているか」という事を知って下さい。
もしも辛い事があったり、悲しい事があったり、嫌な事があったら、イエズス様のこの十字架の事を思い出して下さい。友達から悪口を言われた、友達が、これやってと言ったのにやってくれなかった、友達から変な事をされた、殴られた、馬鹿にされた。
「あぁ、」イエズス様も、天主であったにもかかわらず、とても私たちをはるかに超えた高貴な方であったにもかかわらず、私たちの為に屈辱を受けて、嫌がらせをされて、そして暴力をされて、命さえも失ってしまいました。しかしそれをみな、私たちを愛するが為に受けてくれました。
ですから、小さなお友達も是非、イエズス様の為にお捧げして下さい。もしも「宿題をするのが嫌だなぁ」あるいは何か「良い事をするのが辛いなぁ」と思ったら、イエズス様の事を思い出して下さい。「あぁ、イエズス様はどれほど私たちを愛して下さって、私たちの為にイエズス様はどれほど辛い事も捧げて下さっているのか」という事を思い出して、「じゃあ、この辛い事も、イエズス様の為にしよう」と思って下さい。
特に、もしも友達ができて、何か「悪い事をしよう、一緒に悪い事をしよう」と言われたら、「ダメ」と言って下さい。なぜかというと、私たちが悪い事をすると、罪を犯すと、イエズス様はとても悲しむからです。心が張り裂けるほど悲しむからです。なぜかというと、私たちが赦されるように、罪から赦されるようにこれほどまで苦しんだにもかかわらず、それを馬鹿にして、それをあたかも何でもなかったかのように悪を、悪を返すと、イエズス様はとても悲しむからです。
では今日は金曜日で、初金曜日ですから、イエズス様の愛がますます分かるように、マリア様にお祈り致しましょう。マリア様はイエズス様の心がよく分かっていました。イエズス様の辛い思いがよく分かりました。イエズス様の思いの一つ一つが、敏感に心で感じていました。私たちもマリア様のように、イエズス様の心を理解する事ができるように、お祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。