アヴェ・マリア・インマクラータ!
2019年4月13日(土)御受難の第1主日の後の土曜日のミサ
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年4月13日、受難の主日の後の土曜日のミサを行なっています。
この前の初土曜日には、洗礼の準備の儀式があり御聖体降福式ができなかったので、今日それを行なおうと思っています。
もしもできれば、短い御聖体降福式ですのでぜひ与って下さい。そしてたくさん御恵みを受けて下さい。
明日も夕方18時から枝の主日のミサがあります。ワリエ神父様がいらして下さいます。
聖金曜日は、公教会の掟によると、大小斎の義務があります。21歳以上満59歳の方は義務があります。そして14歳以上の方は全て小斎を守らなければなりません。
復活の主日にも夕方の18時からミサがあります、いらして下さい。復活の月曜日もミサがあります。
「あなたは何故『人の子が上げられなければならない』と言うのか。一体、人の子とは誰か。」
Respóndit ei turba : quómodo tu dicis : Oportet exaltári Fílium hominis ? Quis est iste Fílius hominis ?
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、遂にあと一週間で聖金曜日、イエズス様が、私たちの救い主が、私たちの救いの為に十字架に付けられようとされます。今日教会は、その準備の為にミサを捧げています。
指定巡礼教会は、ラテン門の前の聖ヨハネ教会。使徒ヨハネがここで煮えたぎる油の中に入られたけれども、しかし無傷のままそこから出てきた。イエズス様の受難と復活を象徴するような出来事が起こった教会の所であります。
今日は、
⑴「イエズス様の御受難の前に一体どんな事があったのか」という事を福音に従って見る事にして、
⑵そしてこの福音、聖ヨハネの記述による、「人の子が上げられる。ラザロの復活によってユダヤが二つに分かれた。イエズス様を取るか、イエズス様に従うか、信じないか。ユダヤだけではなく、世界が二つに分かれた」という事を黙想したいと思います。
⑴第1の点は、聖ヨハネの福音書によると、ユダヤ人たちは、イエズス様が復活させた生き返らせたラザロを殺そうと、亡き者にしようとします。なぜかというと、「ラザロ」という大奇跡の生き証人が居るが為に、多くの人々がユダヤ人たちを去って、イエズス様の後に従おうとしていたからです。「邪魔者は消さなければならない。」
そしてユダヤ人たちはますます、イエズス様に対する憎しみと嫉妬を募らせ、何とかイエズス様の命を狙おうと、そしてイエズス様に付き従う為の証拠を消そうとします。
それと同時に、聖ヨハネによると、何と異教徒でさえも、「イエズス様に会いたい」と言って近寄って来た、とあります。何という、選ばれた民と、そしてユダヤ人以外の人たちがイエズス様を求める、というのは何という大きなコントラストでしょうか。
ユダヤ人の中にも、素直な子供たち、あるいは一般の人たちはイエズス様を歓迎します。「ダヴィドの子にホザンナ!」明日、教会ではこれを典礼として行ないます。今日その事が既にヨハネの福音で読まれました。イエズス様はそしてその事について文句を受けます、ユダヤ人から非難されるのですが、しかしイエズス様はその事を説明します、「人の子が、麦が死ねば多くの実を結ぶ。人の子は上げられて、そして上げられた時に、人々を引き寄せる。」
ユダヤ人たちはその事が分かりませんでした。
⑵第2のポイントは、今日この福音を黙想すると、イエズス様が「逆らいのしるし」となっている、イエズス様を信じるかイエズス様に従うか、従わないかによって、世の中は真っ二つに分かれる、というその事が分かります。つまりシメオンの預言がまさに成就している、という事が分かります。マリア様の心も剣で貫かれるという事です。私たちの黙想は自然とマリア様の方に行きます。
御謙遜の為に、イエズス様がエルサレムの入場、凱旋の時には、マリア様の事がありませんでした。おそらくマリア様はその時にいらっしゃらなかったかもしれません。しかしイエズス様の、人の子が上げられる時には、十字架の元に佇んで、背筋を伸ばして、眼をイエズス様の方にしっかりと向けて、ずっと立ち留まっておられました。
私たちは昨日、マリア様の悲しみを、イエズス様の十字架をご覧になるマリア様の悲しみを黙想しました。
自分の子供がその目の前で死ぬのを、残酷に取り扱われるのを見る母親の心は、どれほど悲しい事だったでしょうか。たとえその子供がどのような子供であれ、母親にとってはそうです。ましてやご自分を優しく愛し、そして尊敬され、特別の愛情を示したイエズス様であれば、マリア様の心はどれほど痛んだ事でしょうか。
イエズス様が天主であるという事を知り、罪の無い方であるという事を知り、イエズス様のその聖徳と愛を知っていれば深く知れば知るほど、世のこの憎しみを見て、マリア様はどれほど悲しんだ事でしょうか。
私たちの聖堂のステンドグラスには、このマリア様の十字架の元に佇む、聖ヨハネと共に佇む姿が描かれています。マリア様は、この世にとって逆らいのしるしとなるイエズス様の預言が成就した時に、さらに聖書の言葉が一つ一つ成就していった時に、どのような事を黙想されていた事でしょうか。
イエズス様が息を引き取られ、「全ては成就した。」首をかしげられて、背中を丸められて、息もこれで絶えてしまった、その時に、今まで明るかった太陽は、喪に服したかのように暗くなった、夜であるかのようになってしまった。その時に大地も、救い主の死を思って恐れのあまりに震い、地震が起こり、そして大きな岩盤も胸が裂けたかのように裂けてしまった。天変地異が起こった。多くの人々はユダヤ人たちは、恐れをなして家に帰って行きました。
マリア様はたとえ一人になったとしても、そこの十字架の足元で立ち留まっておられました。ヨハネもマリア様を見て立ち留まります。他の夫人たちも、マリア様を見てそこに留まります。
アリマタヤのヨゼフは、密かにイエズス様を信じていた弟子の一人でした。ポンシオ・ピラトの元に、イエズス様の亡骸を受ける許可を求めに行きます。ポンシオ・ピラトは、本来ならばこれに許可を与えないはずだったのですけれども、おそらくはマリア様のお祈りの為に心が変わったか、動かされたか、あるいはマリア様が祈っていたが為にそのお祈りの効果によって、ピラトの妻クラウディアがピラトにそれを許可するように言ったか、そしてピラトは「もう死んだのか」という事で、死んであるのならば、という許可を与えます。
ローマの兵士が三つの、三本の十字架の元に行き、まだ生きていた盗賊たちの脛を折ります。イエズス様の元に来ると、既に死んでいるのが分かりました。マリア様が仰ったのかもしれません、「軍人さん、既に息絶えております。脛は折らないで下さい。」これも聖書が実現する為でした。
すると、何を思ったのかこのローマ兵士は、自分の持っていた槍を取り出して、イエズス様の脇を貫きます。これはローマ人にとってあるいはユダヤ人にとって、死体をこのように扱うのは大きな侮辱でした、屈辱でもありました。マリア様にとってはおそらく、「何故そのような事をするの!」と思ったことでしょう。
「こんな事をしなくてもいいのに。もう死んでいるのに。」しかしこのこれは、人類がどれほどイエズス様に対して最後の最後まで残酷であったか、という事を示す証拠とさえなりました。
イエズス様はもはや息を引き取っていたので、その槍の痛みは感じませんでしたが、マリア様の胸にはこの痛みがズシリ、ズキッ、ズサリと刺し貫かされました。御心痛はどれほど大きかった事でしょうか。
「何故、ここまで。」
ロンジーノ(この兵士の名前ですが)が槍を、貫いた槍を取るや否や、イエズス様の聖心からは御血と水が溢れて流れました。噴水のように流れ出たかもしれません。マリア様の元にほとばしって、マリア様にたくさん流れ出たかもしれません。マリア様の服は、イエズス様の御血潮と御水で湿っていた事でしょう。
教父たちによると、「マリア様こそ、イエズス様の御血の分配者である」と。第2のアダムは死の眠りに就いた時に、その脇腹から第2のエヴァを生み出します。そしてその第2のエヴァは、カトリック教会であり、キリストの花嫁であり、そしてその代表はマリア様です。もしもイエズス様の御受難の報いである、実りである、功徳である洗礼の水、あるいは御聖体の御血潮を受けようとするならば、マリア様を通して、カトリック教会から受けなければなりません。
聖イシドロという教父の伝えたところによると、「イエズス様の脇腹からの水、あるいは御血の雫が水しぶきが、ロンジーノの目にあるいは顔に当たった。その時に、奇跡的に彼の目が開いた。見えなかった目が見えるようになった、その片目が見えるようになった」と言われています。その瞬間。ロンジーノはその後、イエズス様の光を受けて、信仰の光を受けて、洗礼を受けるようになります。イエズス様の洗礼の水をも受ける事になります。そして遂には御体も受けて、聖伝によると、カトリック信者となったばかりか司教となり、そして自分の血を流して殉教した、と言われています。
イエズス様の御血潮を、脇腹からの御血と水を受けたその効果です。「人の子が上げられた時に、私は多くを私の元に引き寄せる」と言われたまさにそれが成就しました。イエズス様の御体が聖心が貫かれた時に、シメオンの預言とそして旧約の預言が成就しました。「人々は私を見上げるだろう。」
マリア様はその後、イエズス様の御体が十字架から取られて、それをご自分の胸に膝元に受け取られます。イエズス様はかつてこう仰いました、「私は聖父の元から来て、そして十字架に付けられて、聖父の元に行く。」イエズス様は同時に、「私はマリア様から生まれて、十字架に付けられ、またマリア様の元に帰って行く。」
マリア様の御体は、イエズス様にとって第2の十字架のように、マリア様の御手、御腕は、イエズス様を抱きかかえる第2の十字架でした。マリア様の御心の上で、いけにえであるイエズス様が屠られているかのようです。息のない、命のないイエズス様をご覧になったマリア様は、どれほどお悲しみになった事でしょうか。
マリア様はそっと綺麗に、茨の冠を外されます。そして傷だらけの御頭と御顔を、綺麗な布で拭き、そして御体を綺麗にされたに違いありません。埋葬の準備をされたに違いありません。ユダヤのしきたりに従って、没薬を塗り、そしてイエズス様の御体を大切に布に巻いたに違いありません。お生まれになった時も産布で巻かれたマリア様は、御亡くなりになったイエズス様をも、聖骸布で巻かれます。
「麦が地に落ちれば、100倍の実を結ぶ。」イエズス・キリストは、私たちを養うパンとなる真の麦でありました。そして私たちを養うパンとなる為に、そしてマリア様の元において聖骸布に包まれます。
イエズス様の御受難の中に深く入る為に、マリア様に御取次ぎを乞い願いましょう。マリア様こそ、イエズス様の御受難を一番よくご存知の方であり、イエズス様の苦しみを一番よく分かっていた方でした。聖母の汚れなき御心に、この聖週間をよく過ごす御恵みを乞い願いましょう。
「あなたは何故『人の子が上げられなければならない』と言うのか。一体、人の子とは誰か。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
photo credit
2019年4月13日(土)御受難の第1主日の後の土曜日のミサ
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年4月13日、受難の主日の後の土曜日のミサを行なっています。
この前の初土曜日には、洗礼の準備の儀式があり御聖体降福式ができなかったので、今日それを行なおうと思っています。
もしもできれば、短い御聖体降福式ですのでぜひ与って下さい。そしてたくさん御恵みを受けて下さい。
明日も夕方18時から枝の主日のミサがあります。ワリエ神父様がいらして下さいます。
聖金曜日は、公教会の掟によると、大小斎の義務があります。21歳以上満59歳の方は義務があります。そして14歳以上の方は全て小斎を守らなければなりません。
復活の主日にも夕方の18時からミサがあります、いらして下さい。復活の月曜日もミサがあります。
「あなたは何故『人の子が上げられなければならない』と言うのか。一体、人の子とは誰か。」
Respóndit ei turba : quómodo tu dicis : Oportet exaltári Fílium hominis ? Quis est iste Fílius hominis ?
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、遂にあと一週間で聖金曜日、イエズス様が、私たちの救い主が、私たちの救いの為に十字架に付けられようとされます。今日教会は、その準備の為にミサを捧げています。
指定巡礼教会は、ラテン門の前の聖ヨハネ教会。使徒ヨハネがここで煮えたぎる油の中に入られたけれども、しかし無傷のままそこから出てきた。イエズス様の受難と復活を象徴するような出来事が起こった教会の所であります。
今日は、
⑴「イエズス様の御受難の前に一体どんな事があったのか」という事を福音に従って見る事にして、
⑵そしてこの福音、聖ヨハネの記述による、「人の子が上げられる。ラザロの復活によってユダヤが二つに分かれた。イエズス様を取るか、イエズス様に従うか、信じないか。ユダヤだけではなく、世界が二つに分かれた」という事を黙想したいと思います。
⑴第1の点は、聖ヨハネの福音書によると、ユダヤ人たちは、イエズス様が復活させた生き返らせたラザロを殺そうと、亡き者にしようとします。なぜかというと、「ラザロ」という大奇跡の生き証人が居るが為に、多くの人々がユダヤ人たちを去って、イエズス様の後に従おうとしていたからです。「邪魔者は消さなければならない。」
そしてユダヤ人たちはますます、イエズス様に対する憎しみと嫉妬を募らせ、何とかイエズス様の命を狙おうと、そしてイエズス様に付き従う為の証拠を消そうとします。
それと同時に、聖ヨハネによると、何と異教徒でさえも、「イエズス様に会いたい」と言って近寄って来た、とあります。何という、選ばれた民と、そしてユダヤ人以外の人たちがイエズス様を求める、というのは何という大きなコントラストでしょうか。
ユダヤ人の中にも、素直な子供たち、あるいは一般の人たちはイエズス様を歓迎します。「ダヴィドの子にホザンナ!」明日、教会ではこれを典礼として行ないます。今日その事が既にヨハネの福音で読まれました。イエズス様はそしてその事について文句を受けます、ユダヤ人から非難されるのですが、しかしイエズス様はその事を説明します、「人の子が、麦が死ねば多くの実を結ぶ。人の子は上げられて、そして上げられた時に、人々を引き寄せる。」
ユダヤ人たちはその事が分かりませんでした。
⑵第2のポイントは、今日この福音を黙想すると、イエズス様が「逆らいのしるし」となっている、イエズス様を信じるかイエズス様に従うか、従わないかによって、世の中は真っ二つに分かれる、というその事が分かります。つまりシメオンの預言がまさに成就している、という事が分かります。マリア様の心も剣で貫かれるという事です。私たちの黙想は自然とマリア様の方に行きます。
御謙遜の為に、イエズス様がエルサレムの入場、凱旋の時には、マリア様の事がありませんでした。おそらくマリア様はその時にいらっしゃらなかったかもしれません。しかしイエズス様の、人の子が上げられる時には、十字架の元に佇んで、背筋を伸ばして、眼をイエズス様の方にしっかりと向けて、ずっと立ち留まっておられました。
私たちは昨日、マリア様の悲しみを、イエズス様の十字架をご覧になるマリア様の悲しみを黙想しました。
自分の子供がその目の前で死ぬのを、残酷に取り扱われるのを見る母親の心は、どれほど悲しい事だったでしょうか。たとえその子供がどのような子供であれ、母親にとってはそうです。ましてやご自分を優しく愛し、そして尊敬され、特別の愛情を示したイエズス様であれば、マリア様の心はどれほど痛んだ事でしょうか。
イエズス様が天主であるという事を知り、罪の無い方であるという事を知り、イエズス様のその聖徳と愛を知っていれば深く知れば知るほど、世のこの憎しみを見て、マリア様はどれほど悲しんだ事でしょうか。
私たちの聖堂のステンドグラスには、このマリア様の十字架の元に佇む、聖ヨハネと共に佇む姿が描かれています。マリア様は、この世にとって逆らいのしるしとなるイエズス様の預言が成就した時に、さらに聖書の言葉が一つ一つ成就していった時に、どのような事を黙想されていた事でしょうか。
イエズス様が息を引き取られ、「全ては成就した。」首をかしげられて、背中を丸められて、息もこれで絶えてしまった、その時に、今まで明るかった太陽は、喪に服したかのように暗くなった、夜であるかのようになってしまった。その時に大地も、救い主の死を思って恐れのあまりに震い、地震が起こり、そして大きな岩盤も胸が裂けたかのように裂けてしまった。天変地異が起こった。多くの人々はユダヤ人たちは、恐れをなして家に帰って行きました。
マリア様はたとえ一人になったとしても、そこの十字架の足元で立ち留まっておられました。ヨハネもマリア様を見て立ち留まります。他の夫人たちも、マリア様を見てそこに留まります。
アリマタヤのヨゼフは、密かにイエズス様を信じていた弟子の一人でした。ポンシオ・ピラトの元に、イエズス様の亡骸を受ける許可を求めに行きます。ポンシオ・ピラトは、本来ならばこれに許可を与えないはずだったのですけれども、おそらくはマリア様のお祈りの為に心が変わったか、動かされたか、あるいはマリア様が祈っていたが為にそのお祈りの効果によって、ピラトの妻クラウディアがピラトにそれを許可するように言ったか、そしてピラトは「もう死んだのか」という事で、死んであるのならば、という許可を与えます。
ローマの兵士が三つの、三本の十字架の元に行き、まだ生きていた盗賊たちの脛を折ります。イエズス様の元に来ると、既に死んでいるのが分かりました。マリア様が仰ったのかもしれません、「軍人さん、既に息絶えております。脛は折らないで下さい。」これも聖書が実現する為でした。
すると、何を思ったのかこのローマ兵士は、自分の持っていた槍を取り出して、イエズス様の脇を貫きます。これはローマ人にとってあるいはユダヤ人にとって、死体をこのように扱うのは大きな侮辱でした、屈辱でもありました。マリア様にとってはおそらく、「何故そのような事をするの!」と思ったことでしょう。
「こんな事をしなくてもいいのに。もう死んでいるのに。」しかしこのこれは、人類がどれほどイエズス様に対して最後の最後まで残酷であったか、という事を示す証拠とさえなりました。
イエズス様はもはや息を引き取っていたので、その槍の痛みは感じませんでしたが、マリア様の胸にはこの痛みがズシリ、ズキッ、ズサリと刺し貫かされました。御心痛はどれほど大きかった事でしょうか。
「何故、ここまで。」
ロンジーノ(この兵士の名前ですが)が槍を、貫いた槍を取るや否や、イエズス様の聖心からは御血と水が溢れて流れました。噴水のように流れ出たかもしれません。マリア様の元にほとばしって、マリア様にたくさん流れ出たかもしれません。マリア様の服は、イエズス様の御血潮と御水で湿っていた事でしょう。
教父たちによると、「マリア様こそ、イエズス様の御血の分配者である」と。第2のアダムは死の眠りに就いた時に、その脇腹から第2のエヴァを生み出します。そしてその第2のエヴァは、カトリック教会であり、キリストの花嫁であり、そしてその代表はマリア様です。もしもイエズス様の御受難の報いである、実りである、功徳である洗礼の水、あるいは御聖体の御血潮を受けようとするならば、マリア様を通して、カトリック教会から受けなければなりません。
聖イシドロという教父の伝えたところによると、「イエズス様の脇腹からの水、あるいは御血の雫が水しぶきが、ロンジーノの目にあるいは顔に当たった。その時に、奇跡的に彼の目が開いた。見えなかった目が見えるようになった、その片目が見えるようになった」と言われています。その瞬間。ロンジーノはその後、イエズス様の光を受けて、信仰の光を受けて、洗礼を受けるようになります。イエズス様の洗礼の水をも受ける事になります。そして遂には御体も受けて、聖伝によると、カトリック信者となったばかりか司教となり、そして自分の血を流して殉教した、と言われています。
イエズス様の御血潮を、脇腹からの御血と水を受けたその効果です。「人の子が上げられた時に、私は多くを私の元に引き寄せる」と言われたまさにそれが成就しました。イエズス様の御体が聖心が貫かれた時に、シメオンの預言とそして旧約の預言が成就しました。「人々は私を見上げるだろう。」
マリア様はその後、イエズス様の御体が十字架から取られて、それをご自分の胸に膝元に受け取られます。イエズス様はかつてこう仰いました、「私は聖父の元から来て、そして十字架に付けられて、聖父の元に行く。」イエズス様は同時に、「私はマリア様から生まれて、十字架に付けられ、またマリア様の元に帰って行く。」
マリア様の御体は、イエズス様にとって第2の十字架のように、マリア様の御手、御腕は、イエズス様を抱きかかえる第2の十字架でした。マリア様の御心の上で、いけにえであるイエズス様が屠られているかのようです。息のない、命のないイエズス様をご覧になったマリア様は、どれほどお悲しみになった事でしょうか。
マリア様はそっと綺麗に、茨の冠を外されます。そして傷だらけの御頭と御顔を、綺麗な布で拭き、そして御体を綺麗にされたに違いありません。埋葬の準備をされたに違いありません。ユダヤのしきたりに従って、没薬を塗り、そしてイエズス様の御体を大切に布に巻いたに違いありません。お生まれになった時も産布で巻かれたマリア様は、御亡くなりになったイエズス様をも、聖骸布で巻かれます。
「麦が地に落ちれば、100倍の実を結ぶ。」イエズス・キリストは、私たちを養うパンとなる真の麦でありました。そして私たちを養うパンとなる為に、そしてマリア様の元において聖骸布に包まれます。
イエズス様の御受難の中に深く入る為に、マリア様に御取次ぎを乞い願いましょう。マリア様こそ、イエズス様の御受難を一番よくご存知の方であり、イエズス様の苦しみを一番よく分かっていた方でした。聖母の汚れなき御心に、この聖週間をよく過ごす御恵みを乞い願いましょう。
「あなたは何故『人の子が上げられなければならない』と言うのか。一体、人の子とは誰か。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
photo credit