天の元后喜び給え、アレルヤ!
Regina Caeli, laetare, alleluia!
2019年4月21日(主日)御復活祭のミサ
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年4月21日、私たちの主の御復活の主日です。
今日ミサの前に洗礼を受けられた方々に、心からお祝いの言葉を申し上げます。
今日、この御復活の喜びを皆さんと一緒に黙想する事を提案したいと思っています。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
親愛なる愛する兄弟の皆さん、
では一体何故、私たちは今日これほど喜んでいるのでしょうか?
なぜかというと、私たちの主が復活なさったからです。
イエズス様が復活したというのは、遠い昔にイエズス・キリストという方が復活された、それを今、2000年前の事を今思い出しているのだ、そういう話ではありません。
「イエズス様が復活なさった」という事は、今、今日、ここで、皆さんに、深い関係がある事です。
イエズス様が復活されたという事は、今ここにいる皆さんと私の為に復活なさった事です。「イエズス様の勝利」というのは実は、「私たちの勝利」なのです。
もしも、お相撲で誰か応援している力士が勝ったとすると、自分も嬉しいような気もします。自分の卒業した高校が甲子園で優勝した、嬉しい気がします。日本でのサッカーがワールドカップで1位になった。オリンピックでメダルをとった。でもその国民中が熱狂してワーッ!!と叫びます。
喜んで、「お祝いだ!」「優勝した!」「勝った!」「日本が一番だ!」というその喜びも、イエズス様の復活と比べれば何でもありません。
イエズス様の勝利は、私たち一人一人の永遠の命の勝利であるからです。悪と罪と闇に打ち勝った。しかもイエズス様は、「私たちの為に」なさったという事です。教会はその事を深く、典礼を以て私たちに教えようとしてきました。聖なる3日間、聖木曜日・聖金曜日・聖土曜日、特に復活の徹夜祭は、このイエズス様の愛の最高潮を私たちに教えてくれました。
聖木曜日には、イエズス様は、「私たちを終わりまで愛して、極みなく愛して」そして御聖体を制定されました。聖ヨハネはそう言っています。「すぎこし祭の前に、イエズスは、この世から父のもとにうつる時が来たのを知り、この世にいるご自分の人々を愛し、かれらに限りなく愛をお示しになった。」
イエズス様は私たちに何も制限を付けずに、無条件で全てを、御自分の御体、御血を全て御聖体として与え、世の終わりまで留まろうとされました。私たちを御自分の体で養おうと思われました。昔、旧約の時代では、モーゼが天から降るマンナで養われましたけれども、新約の私たちは、イエズス様御自身の御体で養われます。
聖金曜日には、「イエズス様は私たちをどれほど愛されているか」という事を、御血潮を流される事によって、苦しみを甘受する事によって、耐え忍ぶ事によって、屈辱と、暴力と、不正義を甘んじ受くる事によって、どれほど私たちの事を、私たちの為に全てを身に負われたか、という事を教えて下さいました。
全ては、私たちを愛するが為でした。永遠の昔から、この事を考えていました。全ての預言者と律法は、この事を預言していました、「天主は私たちを愛している。全ての苦しみを味わって、死に至るまで愛されている。私たちはそれほどまで愛されている。」
話はここで終わりませんでした。
復活の徹夜祭、そして今日、私たちは、イエズス様が私たちの為に、私たちに永遠の命を与える為に、天国の門を開く為に、復活された、という事を教えています。唯一の動機は、その理由は、「私たちを愛されたが為」です。
これほどの愛を受けている民が、一体世界でどこにいるでしょうか。そしてこの愛を理解している人々が一体どこにいるでしょうか。そこで私たちはこのイエズス様の大勝利を、私たちの勝利を、そして天使たちの勝利を、今日は喜んでいます。
聖トマス・アクィナスによると、「この復活のこの喜び、その理由は5つある」と言います。
まず第1に、天主は、御自分の正義を皆に見せる為であった。
これも私たちの為です。なぜかというと、イエズス様は不正義を以て、罪が無いにもかかわらず、十字架の死を受けました。天主に聖父に従順でありました。ですから聖父はイエズス様を、全てに勝る名を与えました、復活を与えました。イエズス様はその天主の正義を証する為に、御自分の力で復活されました。
これと同じ事が、皆さんと私にも起こります。もしも私たちが善を行なうならば、イエズス・キリストを愛するならば、私たちは報いを受けます。しかし悪を行なったり、イエズス・キリストを裏切ったり、正義を行なわなければ、私たちはそれ相当の罰を受けなければなりません。たとえこの世でどのように見えているか、どのように人が言っているか、称讃を受けているか、というのは全く関係ありません。「天主が、最後に裁く。天主が、全ての真理を知っている。最後に私たちに勝利を与えるのは、天主である」という事を教えています。
私たちにとって何という喜びでしょうか。ロビー活動をする必要もありませんし、人民を策動したり、動かしたりする必要もありません。「天主様が正義に従って裁き、この儚い人生の後には、それに従った永遠が待っている」という事だからです。
第2に、イエズス様は復活されたのは、私たちに喜びを与える為です、真理の喜びを与える為です。
イエズス様こそ、真の天主である、皆さんが信じている宗教、私たちの宗教こそが、真の宗教であって、正しい宗教であって、本物である、という事を、イエズス様が御復活を以て証明されたのです。「もしもイエズス様が復活されなかったならば、私たちの信仰は全く空しいものだ」とパウロは言います。しかし本当に実際に復活されて、今生きておられて、天国で私たちの事を愛して待っておられる、それが故に、私たちの宗教がどれほど正しいか、真理であるか、真実であるか、という事を訴えています。この証拠はあまりにもたくさんあります。
第3は、イエズス様は私たちに、私たちを愛するが為に、私たちが落胆する事のないように、希望を与えようと思っていました。とてつもない希望です、「私たちは永遠の命に辿る事ができる。私たちは勝つ。どのような事があっても勝利する」という事です。
見かけがどのようであったとしても、私たちは遂には、喜びと幸せを持つ、という事をイエズス様が保証する為です。私たちには復活へと招かれていて、復活が約束されています。
その為に私たちがしなければならない事は、ほんの僅かです。なぜかというと、イエズス様はほぼ、その事業をやり遂げて下さったからです。私たちがやるのは、水で罪を赦される、洗われる、イエズス様の教えて下さった祈りを唱える、私たちの苦しみをイエズス様と共に捧げる、などです。
第4には、イエズス様は私たちに、私たちを愛するがあまり、私たちからの愛も求めています。それが第4の理由です。
それが今日聖パウロの、今日ミサで言った内容です。復活の徹夜祭でもパウロは別の、しかし同じ内容の事を言います、「私たちは、復活されたイエズス・キリストがおられる天の事を愛そう。天の事をいつも仰ぎ見よう。この地上の事に愛着をするのではなく、イエズス・キリストを愛そう。もう嘘や悪や偽善の種をではなく、綺麗な種なしパンのように、悪意も嘘もない、真実と誠実の生活をしよう。私たちはイエズス・キリストと共に葬られた。」
ちょうど私たちは、ローマ典礼では額を水で流すだけですけれども、しかし洗礼の時に全身、身体全身が水の中に入って受ける洗礼もあります。聖パウロはその事に言及して、「私たちは洗礼を受けた時に、キリストが土の中に入ったように、私たちも葬られた。しかしまたキリストと共に復活した。新しい命を生き始めた。イエズス・キリストを愛そう。」
第5番目には最後には、これはイエズス様が私たちを愛するがあまり、その救霊の業を完成させる為でした。
イエズス様が来られる前に偉大な聖人・太祖たちがたくさんいました。アブラハム、モーゼ、ダヴィド、洗者聖ヨハネ、聖ヨゼフ、その他諸々の大聖人たち、太祖、預言者たち、エリア、その人たちは、イエズス様が復活するまで天国に入る事ができませんでした。イエズス様の復活を待っていたのです。そして復活を以て、天の門を開く事ができるようになりました。これは一体、何だったのでしょうか?
全て、皆さんと私を愛するがあまりの事でした。イエズス様の考えはただ一つでした、「私たちを幸せにしたい。永遠の命を与えたい。自分と一緒に天主の命を分かち合いたい。」それです。その為に今日、イエズス様は、大勝利を以て、私たちに喜びを分かち合えるようにと願っています。私たちはもう自分の事をすっかり忘れなければなりません。イエズス様の喜びの中に入って下さい。イエズス様は私たちに喜びと幸せとを与える事だけを願っているからです。その為に全てをしました。
私たちは最後に今日、どんな遷善の決心を、どんな事を考えなければならないのでしょうか?
「あぁイエズス様、私は毎年復活祭の時に、『イエズス様は復活した!イエズス様こそ真の天主だ!』と言いながら、しかし100%ではありませんでした。イエズス様、私は『イエズス様が天主である』と思いながら、口先では言いながら、しかしイエズス様の御旨を果たすよりは自分の事を、自分のやりたいように、イエズス様の掟を、イエズス様の御旨を蔑ろにしてしまいました。イエズス様がこれをする事を望んでいたのに、私はそれを嫌がりました。」
「イエズス様、イエズス様が勝つ、勝利する穴馬だという事を知りながら、全財産をそこに尽くすのではなくて、ほんの少ししかイエズス様に与えませんでした。他のものは別のものに取っておきました。ですからイエズス様、イエズス様が勝利したとしても、その勝利の喜びは、配当金は、あまりにも僅かです。」
「今年こそ、この復活祭こそ、私にとって新しい命が始まります。イエズス様、どうぞ全てをイエズス様にかける事ができますように、イエズス様に100%愛を注ぐ事ができるようにして下さい。イエズス様はこれほど私の事を愛して下さっているのに、私がそれに応えずにいる事ができるでしょうか。」
「イエズス様、イエズス様の復活の命を、私も共に歩く事ができるように助けて下さい。」
「マリア様、マリア様は聖金曜日に決して十字架の元を離れませんでした。イエズス様の復活の道に行くにはただ一つしか王道がありません。たった一つしか道はありません。イエズス様は言いました、『私は道・生命・真理である。私は復活である』イエズス様の道しかありません。イエズス様の道、すなわち十字架の道、御聖体の道しかありません。ミサ聖祭の道しかありません。マリア様、私がこの道を通って復活に至る事ができますように、助けて下さい。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
Regina Caeli, laetare, alleluia!
2019年4月21日(主日)御復活祭のミサ
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年4月21日、私たちの主の御復活の主日です。
今日ミサの前に洗礼を受けられた方々に、心からお祝いの言葉を申し上げます。
今日、この御復活の喜びを皆さんと一緒に黙想する事を提案したいと思っています。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
親愛なる愛する兄弟の皆さん、
では一体何故、私たちは今日これほど喜んでいるのでしょうか?
なぜかというと、私たちの主が復活なさったからです。
イエズス様が復活したというのは、遠い昔にイエズス・キリストという方が復活された、それを今、2000年前の事を今思い出しているのだ、そういう話ではありません。
「イエズス様が復活なさった」という事は、今、今日、ここで、皆さんに、深い関係がある事です。
イエズス様が復活されたという事は、今ここにいる皆さんと私の為に復活なさった事です。「イエズス様の勝利」というのは実は、「私たちの勝利」なのです。
もしも、お相撲で誰か応援している力士が勝ったとすると、自分も嬉しいような気もします。自分の卒業した高校が甲子園で優勝した、嬉しい気がします。日本でのサッカーがワールドカップで1位になった。オリンピックでメダルをとった。でもその国民中が熱狂してワーッ!!と叫びます。
喜んで、「お祝いだ!」「優勝した!」「勝った!」「日本が一番だ!」というその喜びも、イエズス様の復活と比べれば何でもありません。
イエズス様の勝利は、私たち一人一人の永遠の命の勝利であるからです。悪と罪と闇に打ち勝った。しかもイエズス様は、「私たちの為に」なさったという事です。教会はその事を深く、典礼を以て私たちに教えようとしてきました。聖なる3日間、聖木曜日・聖金曜日・聖土曜日、特に復活の徹夜祭は、このイエズス様の愛の最高潮を私たちに教えてくれました。
聖木曜日には、イエズス様は、「私たちを終わりまで愛して、極みなく愛して」そして御聖体を制定されました。聖ヨハネはそう言っています。「すぎこし祭の前に、イエズスは、この世から父のもとにうつる時が来たのを知り、この世にいるご自分の人々を愛し、かれらに限りなく愛をお示しになった。」
イエズス様は私たちに何も制限を付けずに、無条件で全てを、御自分の御体、御血を全て御聖体として与え、世の終わりまで留まろうとされました。私たちを御自分の体で養おうと思われました。昔、旧約の時代では、モーゼが天から降るマンナで養われましたけれども、新約の私たちは、イエズス様御自身の御体で養われます。
聖金曜日には、「イエズス様は私たちをどれほど愛されているか」という事を、御血潮を流される事によって、苦しみを甘受する事によって、耐え忍ぶ事によって、屈辱と、暴力と、不正義を甘んじ受くる事によって、どれほど私たちの事を、私たちの為に全てを身に負われたか、という事を教えて下さいました。
全ては、私たちを愛するが為でした。永遠の昔から、この事を考えていました。全ての預言者と律法は、この事を預言していました、「天主は私たちを愛している。全ての苦しみを味わって、死に至るまで愛されている。私たちはそれほどまで愛されている。」
話はここで終わりませんでした。
復活の徹夜祭、そして今日、私たちは、イエズス様が私たちの為に、私たちに永遠の命を与える為に、天国の門を開く為に、復活された、という事を教えています。唯一の動機は、その理由は、「私たちを愛されたが為」です。
これほどの愛を受けている民が、一体世界でどこにいるでしょうか。そしてこの愛を理解している人々が一体どこにいるでしょうか。そこで私たちはこのイエズス様の大勝利を、私たちの勝利を、そして天使たちの勝利を、今日は喜んでいます。
聖トマス・アクィナスによると、「この復活のこの喜び、その理由は5つある」と言います。
まず第1に、天主は、御自分の正義を皆に見せる為であった。
これも私たちの為です。なぜかというと、イエズス様は不正義を以て、罪が無いにもかかわらず、十字架の死を受けました。天主に聖父に従順でありました。ですから聖父はイエズス様を、全てに勝る名を与えました、復活を与えました。イエズス様はその天主の正義を証する為に、御自分の力で復活されました。
これと同じ事が、皆さんと私にも起こります。もしも私たちが善を行なうならば、イエズス・キリストを愛するならば、私たちは報いを受けます。しかし悪を行なったり、イエズス・キリストを裏切ったり、正義を行なわなければ、私たちはそれ相当の罰を受けなければなりません。たとえこの世でどのように見えているか、どのように人が言っているか、称讃を受けているか、というのは全く関係ありません。「天主が、最後に裁く。天主が、全ての真理を知っている。最後に私たちに勝利を与えるのは、天主である」という事を教えています。
私たちにとって何という喜びでしょうか。ロビー活動をする必要もありませんし、人民を策動したり、動かしたりする必要もありません。「天主様が正義に従って裁き、この儚い人生の後には、それに従った永遠が待っている」という事だからです。
第2に、イエズス様は復活されたのは、私たちに喜びを与える為です、真理の喜びを与える為です。
イエズス様こそ、真の天主である、皆さんが信じている宗教、私たちの宗教こそが、真の宗教であって、正しい宗教であって、本物である、という事を、イエズス様が御復活を以て証明されたのです。「もしもイエズス様が復活されなかったならば、私たちの信仰は全く空しいものだ」とパウロは言います。しかし本当に実際に復活されて、今生きておられて、天国で私たちの事を愛して待っておられる、それが故に、私たちの宗教がどれほど正しいか、真理であるか、真実であるか、という事を訴えています。この証拠はあまりにもたくさんあります。
第3は、イエズス様は私たちに、私たちを愛するが為に、私たちが落胆する事のないように、希望を与えようと思っていました。とてつもない希望です、「私たちは永遠の命に辿る事ができる。私たちは勝つ。どのような事があっても勝利する」という事です。
見かけがどのようであったとしても、私たちは遂には、喜びと幸せを持つ、という事をイエズス様が保証する為です。私たちには復活へと招かれていて、復活が約束されています。
その為に私たちがしなければならない事は、ほんの僅かです。なぜかというと、イエズス様はほぼ、その事業をやり遂げて下さったからです。私たちがやるのは、水で罪を赦される、洗われる、イエズス様の教えて下さった祈りを唱える、私たちの苦しみをイエズス様と共に捧げる、などです。
第4には、イエズス様は私たちに、私たちを愛するがあまり、私たちからの愛も求めています。それが第4の理由です。
それが今日聖パウロの、今日ミサで言った内容です。復活の徹夜祭でもパウロは別の、しかし同じ内容の事を言います、「私たちは、復活されたイエズス・キリストがおられる天の事を愛そう。天の事をいつも仰ぎ見よう。この地上の事に愛着をするのではなく、イエズス・キリストを愛そう。もう嘘や悪や偽善の種をではなく、綺麗な種なしパンのように、悪意も嘘もない、真実と誠実の生活をしよう。私たちはイエズス・キリストと共に葬られた。」
ちょうど私たちは、ローマ典礼では額を水で流すだけですけれども、しかし洗礼の時に全身、身体全身が水の中に入って受ける洗礼もあります。聖パウロはその事に言及して、「私たちは洗礼を受けた時に、キリストが土の中に入ったように、私たちも葬られた。しかしまたキリストと共に復活した。新しい命を生き始めた。イエズス・キリストを愛そう。」
第5番目には最後には、これはイエズス様が私たちを愛するがあまり、その救霊の業を完成させる為でした。
イエズス様が来られる前に偉大な聖人・太祖たちがたくさんいました。アブラハム、モーゼ、ダヴィド、洗者聖ヨハネ、聖ヨゼフ、その他諸々の大聖人たち、太祖、預言者たち、エリア、その人たちは、イエズス様が復活するまで天国に入る事ができませんでした。イエズス様の復活を待っていたのです。そして復活を以て、天の門を開く事ができるようになりました。これは一体、何だったのでしょうか?
全て、皆さんと私を愛するがあまりの事でした。イエズス様の考えはただ一つでした、「私たちを幸せにしたい。永遠の命を与えたい。自分と一緒に天主の命を分かち合いたい。」それです。その為に今日、イエズス様は、大勝利を以て、私たちに喜びを分かち合えるようにと願っています。私たちはもう自分の事をすっかり忘れなければなりません。イエズス様の喜びの中に入って下さい。イエズス様は私たちに喜びと幸せとを与える事だけを願っているからです。その為に全てをしました。
私たちは最後に今日、どんな遷善の決心を、どんな事を考えなければならないのでしょうか?
「あぁイエズス様、私は毎年復活祭の時に、『イエズス様は復活した!イエズス様こそ真の天主だ!』と言いながら、しかし100%ではありませんでした。イエズス様、私は『イエズス様が天主である』と思いながら、口先では言いながら、しかしイエズス様の御旨を果たすよりは自分の事を、自分のやりたいように、イエズス様の掟を、イエズス様の御旨を蔑ろにしてしまいました。イエズス様がこれをする事を望んでいたのに、私はそれを嫌がりました。」
「イエズス様、イエズス様が勝つ、勝利する穴馬だという事を知りながら、全財産をそこに尽くすのではなくて、ほんの少ししかイエズス様に与えませんでした。他のものは別のものに取っておきました。ですからイエズス様、イエズス様が勝利したとしても、その勝利の喜びは、配当金は、あまりにも僅かです。」
「今年こそ、この復活祭こそ、私にとって新しい命が始まります。イエズス様、どうぞ全てをイエズス様にかける事ができますように、イエズス様に100%愛を注ぐ事ができるようにして下さい。イエズス様はこれほど私の事を愛して下さっているのに、私がそれに応えずにいる事ができるでしょうか。」
「イエズス様、イエズス様の復活の命を、私も共に歩く事ができるように助けて下さい。」
「マリア様、マリア様は聖金曜日に決して十字架の元を離れませんでした。イエズス様の復活の道に行くにはただ一つしか王道がありません。たった一つしか道はありません。イエズス様は言いました、『私は道・生命・真理である。私は復活である』イエズス様の道しかありません。イエズス様の道、すなわち十字架の道、御聖体の道しかありません。ミサ聖祭の道しかありません。マリア様、私がこの道を通って復活に至る事ができますように、助けて下さい。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。