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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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2019年5月5日 御復活後第2主日 サマーズ神父様「天主の御摂理」

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御復活後第2主日お説教 「天主の御摂理」
パトリック・サマーズ神父様(聖ピオ十世会アジア管区長)

「あなたたちの天の父は、あなたたちに、それらがみな必要なことをご存じである。だから、まず、天主の国とその正義とを求めよ。そうすれば、それらのものも加えて、みな、お与えくださる。」(マテオ6章32-33節)


今日、天主の御摂理についてお話しする機会を頂いています・・・この御摂理に関する事実を理解して、私たちがこの世において生きている間ずっとこれを頭においておくことは、真に必要なことです。

福音にはしばしば、私たちの主は全ての物事を治めておられ、全てのことはうまく行くと書かれているので、私たちはそれを見て安心します。私たちがただ、 主の教えを信じ、それに従えば、すべてのことが完璧にうまくいくのです。しかし、それはいったいどのようにしたらよいのでしょうか・・・ミサの後の感謝の祈りを終えた後、私たちが生きている現代のあらゆる困難や試練の中を生き、更には私たちの母なる教会の危機と、また同時に社会の恐ろしく狂った異教主義の中で生きるには、いったいどのようにすればよいのでしょうか?
人がこれに降参して、パニックになって、山に逃げようという誘惑に駆られるのも自然で人間的だといわざるを得ません!!居心地の良い洞窟か大きな森を見つけてこの世から離れる・・・本当にこれが私たちの出来る唯一の対策でしょうか?


しかし、もし私たちが今直面している酷い状況に対してこのようなことを考えているのなら・・・私たちは天主が何者であるかを誤解してしまったか、忘れてしまっているのです・・・天主の全能が何であるかを、究極的には、天主の御摂理というものが何であって、それが何を意味するのかを忘れてしまっているのです・・・
天主の御摂理がどのように働いて、私たちがその御摂理にどのように協力しなければ行けないかを・・・なぜなら、私たちの主が、「心配するな。あなたたちの天の父は、あなたたちに、それらがみな必要なことをご存じである」とお話しになるのは、天主の御摂理に対する信頼のことだからです。私たちはみな、恐らく、 言うは易く行うは難し、ということを認めなくてはいけないでしょう。


では、この天主の御摂理とは何でしょうか?

御摂理はラテン語ではProvidentia(英語ではProvidence)ですが、それはPro(「何々の前に」)とVidere(「見る」)から成っていて、前もって見ること、準備すること、すなわち永遠の全てを現在の一瞬としてご覧になる天主の洞察力を意味しています。

御摂理というのは、天主ご自身が、その知性において、被造物が造られた目的が実現されるよう、全宇宙の全てのものごとを司っておられることです。その目的というのは、全ての被造物が天主の栄光を表し、とりわけ人が天主に栄光を帰し、自然のうちに天主の御手の働きを認め、従順と愛徳において天主に仕え、永遠の幸福をもって報われることです。天主がお許しになった人の自由の濫用から生じた罪にも拘わらず、また罪の結果として生じた悪にもかからず、天主は全てのものごとを、悪や罪それ自体まで、この宇宙が創造された最終目的のために司られます。天主のなされるこれら全てのことが御摂理とされます。


私たちは、聖人の生涯においてこれを幾度となく見ることができるのではないでしょうか?例えば、

聖ヨゼフ — マリアを妻として娶りなさい、天主がマリアの奇蹟的な懐妊に手を下しておられるのをあなたが理解できなくとも。天主の御子を迫害からお守りするために、エジプトに行き、すべてのものを置いて逃げなさい。(そもそもどうして幼子イエズスをお守りする必要があるのでしょうか?)

いつも私たちが自らに問うことのできる大事な問いは、「私たちはどのようにしたら、この天主の御摂理を愛し、それに協力することができるのか」ということです。もしそうすることがそれほど必要なことであって、もし御摂理を愛することが霊魂の幸福と平安に繋がる唯一の道であるならば、もしそれが聖性と霊魂の救いに至る確実な道であるならば、私たちはいったいどのようにして御摂理に協力することができるのでしょうか?

天主の御摂理とは、どのようにすれば私たちが知ることができるのでしょうか — 聖人達が、私たちに例を示して、「各瞬間の義務こそが、天主の御摂理の働きが潜んでいる陰である」と教えてくださったので、私たちにとってこれが大変実行しやすいものとなりました。

実際、聖性というのは、天主によって与えられた義務への忠実というたった一つの行為に帰することができます。

この私たちの義務への忠実というのは、能動的な行為であっても、受動的な行為であっても、私たちひとりひとりが実行することができるものです。

能動的な忠実の行為というのは、天主の掟や教会の掟によって、または私たちが受け入れた自分の身分(例えば親、修道者、学生、子、独身者、既婚者、退職者、未亡人など)に従って定められた義務を果たすことです。

受動的な忠実の行為というのは、各瞬間に天主が私たちにお与えになる全てのことを、愛をもって受け入れることです。これは、私たちの生活において、私たち自身が思い通りにしたり影響を行使したりできないような全ての物事を受け入れることです・・・それは私たちに降りかかる状況であったり、十字架であったり、あるいは報いであったりさえしますが、私たちが正義あるいは愛徳において拒むことのできないものです。だれかの裏切りであっても、私たちの人生において望まない状況であっても、楽しくも面白くもない仕事であってもです・・・私たちの思い通りにならない、とても沢山の物事です・・・


天主はこれらの行為を、私たちの力以上にお求めになるのでしょうか?能動的な行為については、そのようなことは決してありません。その理由は、課された義務というものが、私たちがそれを実行する力をもう持っていない時には、義務ではなくなるからです。もしあなたの健康状態がすぐれないのでミサに行くことができないのであれば、ミサに行く義務はありません。定められた掟の全てについて、同じ規則が当てはまります。そうであるなら、これ以上に道理にかなったことがあるでしょうか?どんな言い訳ができるでしょうか?それでも、霊魂の聖化の行いとして天主が求められることはこれが全てです。天主は、自身の力を超えること、自分の適性を超えるようなことは決して誰にも強制されません。これ以上に正しいことがあり得るでしょうか?


私たちの生活における目上からの難しい命令についてはどうでしょうか?子どもたちが両親から命じられ、信者が教区司祭から命じられ、司祭は別の司祭から命じられる等の場合です。天主の御摂理を理解すれば、私たちの好みに反することや、私たち自身に適性が全く備わっていないと思われることであっても、それを拒否することができないことがわかります。

「私は天主に希望し、全てのことについて解決法がみつかることを知っています。私にあらゆる困難を克服させてくださる天主の御摂理を信頼しています。加えて、当然私がそのことで圧倒されてしまうものと思っていた数々の心配事の中でも、平安と静寂を持つことができます。」私たちが自分自身の能力の範囲内でできることを全て行って、あとは天主の御摂理の御手にお任せして、天主がお望みのままに成功、もしくは全くの失敗として・・・毎晩赤ん坊のように眠ることができるというのは、なんと大きな安心と慰めを与えられる思いでしょうか。


まことに、この大いなる平安をもたらす最も大きな要因は、天主が、天主の御摂理に従う霊魂から恐れを取り除かれ、その霊魂がこの短く惨めな生活からは何も望まない、ということです。ですから霊魂は、自分のできる全てのこと、あるいは天主の御前においてすべきであると感じた全てのことを行った後、あとは全て天主にお任せし、全てのものを全く、全きこころをもって天主に明け渡し、あらかじめ全てのことにおいて天主を祝福し、全てのことにおいて、とりわけ天主の御旨が行われることを望みます。

それは、私たちは信仰によって、全てのものが天主からくること、天主の御力は限りなく、また天主は善き父でおられるが故に、天主は全ての物事が親愛なる子供らのために栄えるようにしてくださることを確信しているからです。天主は私たちへの愛のためにご自分の命を犠牲にされることによって、命自体より私たちをもっと愛していらっしゃることをお示しになったのではないでしょうか?ですから、天主が私たちへの愛のためにそれほどのことをしてくださったのですから、天主が私たちをお忘れになることはない、と私たちは確信しているのではありませんか?
(これこそが私たちの主の御教えの本当の理解です。「信仰うすい人々よ。だから、何を食い、何を飲み、何を着ようかと心配するな。それらはみな、異邦人が切にのぞんでいることである。あなたたちの天の父は、あなたたちに、それらがみな必要なことをご存じである。だから、まず、天主の国とその正義とを求めよ。そうすれば、それらのものも加えて、みな、お与えくださる。」)


ですから、親愛なる信者のみなさん、私たちの日常の生活において、天主の御摂理に関するこの二つの原則を覚えておきましょう。

第一に、この世においては、霊的なことでも物理的なことでも、天主がお望みであるか、少なくともお許しになることでなければ、どんなことも起こらないことを深く確信することです。従って、私たちが望まないことが(たとえそれが最も重い十字架であったとしても)、天主によって許されたとき、天主の御旨に従わなくてはなりません。

第二に、天主がお望みになるかお許しになる全てのことは、限りない力と御父としての御摂理のご計画に従って、いつも、天主の御計画を愛し受け入れる者たちのためになる、ということを固く信じることです。

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