2019年5月1日 秋田巡礼 サマーズ神父様霊的講話【2】
同時通訳:小野田圭志神父
先ほど私たちは、霊的生活の重要さ、そしてそれの必要性、そしてそれの義務について黙想しましたが、今からはそれに、霊的生活を成長させる為の「手段」について見てみます。
ではまず霊的な、この霊魂について、霊魂において内的な、「内的な手段」、「外的な手段」、2つを見てみます。
まず「内的な手段」です。
まず、健全な「完徳を求める」という望みです、願いです。もしも「良いものを求めたい、求める」という心がなければ、決してこれを得る事はできません。
第2の手段は道具は、「天主について知る事」、そして「自分自身を知る事」です。霊的生活というのは、天主と霊魂の一致ですから、「天主が何か」、「霊魂が何か」、この2つを知らなければなりません。
聖アウグスティヌスは、「私があなたを知り、自分自身を知る事ができますように」と祈っていました。
内的な手段というのは、まず「大きな強い意志、望み」と、「天主と自分に対する知識」です。
第3に内的な手段として、「私たちの意志を、天主の御旨に一致させる為に放棄する、自分の意志を捨てる」という事です。
「御旨のままに、御言葉の通り我になれかし。」マリア様のそのお言葉です。
第4に、「祈り」です。公的な祈り、あるいは私的な祈り、あるいはその他色々な口祷、念祷などです。
この内的な4つの手段の他に、「外的な手段」もあります。
まず外的な手段として、「霊的指導者に霊的な指導を受ける」という事です。
普通によくある事は、「告解を受ける」あるいは告解の外でも、「霊的に質問をして、こう指導を受ける」という事があります。なぜかというと、なぜこの指導が必要かというと、私たちはよく自分自身について間違いを犯すからです。
第2の手段は、「霊的な生活の計画表、時間割」です。一日の使い方あるいは、一週間の使い方、あるいは一ヶ月の使い方は、何が一番重要なのか、一体どんなものを優先的にするのか、という事で秩序立てて、時間割があって計画されていなければなりません。
ですから修道院でも、あるいは神学校でも、そのような時間割というのでしょうか、そういう規律があります。
第3には、「霊的読書、あるいは霊的講話、あるいは御説教などを読む」事です。
そして第4に、これは一番難しい事かもしれませんが、「隣人に対しての私たちの関係」です。私たちは社会的な動物、存在ですから、私たちの友人、あるいは家族、あるいは同僚、あるいは隣組などの人々との生活を、どのように聖化しているかにかかっています。
これは、私が先ほど「難しい」と言ったのはなぜかといういうと、一人でこのお祈りするのはとてもお祈りができて、とても長い時間お祈りする事ができるかもしれませんけれども、隣人と接するとすぐ怒りっぽくなったり、忍耐を欠いたり、あるいは悪口を言ったり、汚い言葉を言って罵ったりするかもしれないからです。ですから隣人に対してどのような態度で接するかというのも、私たちの霊的な生活を高める手段となります。
今日、今回の黙想会・巡礼で、どのようなこの霊的生活を高める手段があるかという事を、「4つの内的な手段」、「4つの外的な手段」をこれから見ていきましょう。
はい、霊的な生活をするのはとても必要で、この地上でする唯一その価値のある大事業です。その大事な事に到達する為に、どんな段階が、どんな手段があるのか、という事を今から見ていきます。
では早速、「天主との一致を求める」という熱烈な望みについて、話を進めていきます。
これは、私たちが「選択」する事です。自由に選んで、「私たちの持っていない善を持とう」と、「得たい」と思う事です。
何かの物が欲しい、あれが欲しいという、「物を欲しい」という感傷的な感情的な望みと、「私たちが天主との一致を求める望み」とは、同じではありません。
感覚的な、私たちが五感で得る事ができるものを望む事は、これはずっと続くものでもなく、一時的なものにすぎません。例えばちょっと歩いていると、良い匂いがしてきて、「あぁ、お好み焼きが、たこ焼きがある。あぁ食べたいなぁ」と思う、その「食べたいなぁ」という思いは、一時的なものに過ぎません。あるいは女性が百貨店に入って、スーパーマーケットに行って、「あぁ、これが欲しいわ」という事は、一時的なものです。
今、私たちの言っているのは、自由意志を以って、理性的に、「私が持っていないこれは、私は求める価値がある。これを求めなければならない。そうする事が良いのだ」という事を知って、私たちの意志を動かして、それを選択する事です。
またこれは、「天主様の御恵み」によって、「助力の聖寵」によって、この助けられて、そしてこれを求める事ができる望みです。
ですから、「自由意志」と、「天主様の御恵み」によって助力の聖寵の助けによって、この二つが重なって初めて成立するものです。
永遠の昔から、まだ私たちが存在していなかった昔から、天主は私たちを御愛しになって、そして、私たちの心にその望みを与えてくれます。
聖アウグスティヌスはその『告白』という本の中で、こう書いています、「天主様、あなたは私無しに私を創造されました。そして私の霊魂は、あなたを見つけてあなたの中に憩うまで、安息を知りません」と。
しかし、この「天主を求める」という熱烈な望みも、原罪の傷によって弱くなったり、あるいは揺れ動いたり簡単にしてしまいます。肉の欲、目の欲、あるいは生活の奢りなど、私たちの持っている情欲によって、天主との一致が妨げられたり、あるいは弱められたりしてしまいます。あるいは私たちの恐れ、あるいは不安などによって、「天主との一致」という事に努力をする事から身を引いてしまったりもします。
私たちが常にこの望みを保ち、それを大きくする為に、養っていかなければなりません。常に養わなければなりません。
私はまずここに最初に第1にこれを言ったのは、この「望み」がなければ、結局受ける事がないからです、得る事がないからです。
皆さんもよくご存知のように、「欲しい、これをやりたい」と思わなければ、何もする事を起こしません、行動を起こしません。皆さんがここにいらっしゃるのも、魔法で来たのではなくて、「来たい」と思って、来たいと思ったのでチケットも買ったり、ここまで来る為に努力されました。
「霊的な天主との一致」という所に、巡礼地に到達する為にも、私たちは大きな望みを持たなければなりません。まず霊的生活の旅路の最初に、「私は何を欲しいのか、何を望んでいるのか」という事を知る、という事にあります。
洗礼を受けた全ての霊魂たちは、天主との一致を望む気持ちを持ち続けなければなりません。そしてこれを養っていかなければ、これは死んで枯れてしまいます。そして私たちの生活には色々な望み、「これをやりたい」「あれをやりたい」という事がありますけれども、この「天主との一致」という望みは、最高の望みであって、これをトップに、最高レベルに置かなければなりません。
じゃあ、この望みを一番の最上位に持って行って養う為には、どうしたら良いでしょうか?
第1に、「黙想と祈り」によって、この力を得ます。
霊的生活の利点、あるいはその価値、その偉大さ、という事を黙想しなければなりません。天主が私たちと共に分かち合っているこの霊的な命の偉大さを考察すべきです。この霊魂の天主と分かち合うその命の美しさ、その富、それの偉大さをよく知るべきです。それを考えれば考えるほど、そしてそれを(?)ように祈れば祈るほど、私たちはそれが強められます。
この世の生活を離れて、望みから離れて、毎年一回、あるいは2年に一度、数日間、黙想会あるいはその沈黙の内に、祈りの時間を持つ事が大切です。数日、3日とかあるいは5日とかこの間、この天主との一致の望みをもう一度高める時を作って、私たちはそれを保ちます。この秋田の巡礼も、これの為のとても良い機会です。
もちろんその他の手段もあります。それは摂理的な選択、摂理的に私たちに与えられた試練なのです。突然の事故、あるいは病気、あるいは愛する隣人の死亡・死別などは、私たちにそのような特別の祈りの機会を与えます。聖イグナチオは兵士であった時に足を怪我をしました。そしてその為にベッドで寝たきりになって、それのおかげで回心しました。
あるいは私たちがある人から裏切られた、あるいは害を受けた、あるいはこの私たちは打ちのめされてしまった、等という事も、私たちの霊魂が天主へと向けられる為の機会となります。あるいは誰かから裏切られた、あるいは愛する人が亡くなった、という事も、私たちが天主へと心を上げる機会となり得ます。
まとめて申し上げますと、この天主への望み、「天主へと一致したい」という望みがまず、天主へとの一致に至る為の第1のステップで、これがなければ、土台になければなりません。
第2に、私たちはその手段として、「天主への知識と自分自身についての知識」を見ましょう。もしも私たちがそれは何か知らなければ、それを愛する事ができません、望む事ができません。
皆さん、クロケットは好きですか?
「好きでも嫌いでも分かりません。なぜかというと、クロケットとは何か分からないからです。」
クロケットがどれほど健康に良いか、どれほど美味しいか、どこで作っているのか、という事を知れば、「あぁ、好きか、好きでないか」となりますから、まず知らなければなりません。
大阪の人に聞けばあれですけれども、フランス人に「たこ焼き好きですか?」と言っても、「え?たこ焼き?何か聞いた事もなければ、よく分からない。好きとも嫌いとも言う事ができない」と答える事でしょう。
よくある事ですけれども、金祝の結婚式に行くと、よくその夫婦が、「50年前よりも、今の方がより深く愛し合っている。なぜかというと、50年前はよくそのお互いの良いところやその徳について知らなかったけれども、今より良く知ったので、より良くその善、どのような人か分かるようになったので、より深く愛している。最高に愛している」と。
天主についてよく知れば知るほど、深く知れば知るほど、私たちもより多く天主を愛する事ができるようになり、またより深く一致する事ができるようになります。
その反対に、「自分自身についての知識」があります。
もしも私たちに良い所があれば、全て天主から頂いたものです。ですからますます、このようなものを頂いて感謝と、その天主に対する恩義の念が起こります。
もしも私たちに欠点や、落ち度や、弱さなど小ささを見出すならば、もっと私たちは天主に依存して、天主に委ねて、天主に依存するようになります。そして謙遜になります。もしも私たちの小ささ、惨めさ、あるいは弱さ、この欠点などを知れば知るほど、私たちは自分自身の愛、自己愛というものが無くなってしまって、その上に天主への愛を建てる事ができます。
霊的生活の失敗の一つは、原因の一つは、私たち自身がどれほどのものを天主から受けたのかを理解できず、あるいはどれほどの小さい惨めなものかを理解できないところがあります。
「まず、」イエズス様も、「自分自身の目の梁を取ってから、隣人の目の中にある小さな埃を取れ」と。私たちの主はよく知っていました、私たちは自分自身の欠点や悪を認めるのが非常に嫌で、しかし隣人の欠点や悪を認めるのは非常に簡単で好きだ、という事です。
この次の機会に、天主への知識と、自分自身の知識をもっと深める事に致しましょう。
では、今から10分休憩を入れます。お祈りをして、休憩に入って下さい。
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【まとめ】
内的な手段:
【第1】健全な「完徳を求める」という望み、願い。「良いものを求めたい、求める」という心。「天主との一致を求める」という熱烈な望み
【第2】「天主について知る」そして「自分自身を知る事」。
【第3】「私たちの意志を、天主の御旨に一致させる為に放棄する、自分の意志を捨てる」。「御旨のままに、御言葉の通り我になれかし。」
【第4】「祈り」。
外的な手段:
【第1】霊的指導者に霊的な指導を受ける
【第2】霊的な生活の計画表、時間割
【第3】霊的読書、霊的講話、御説教
【第4】隣人、友人、家族、同僚、隣組などの人々との生活を聖化する
同時通訳:小野田圭志神父
先ほど私たちは、霊的生活の重要さ、そしてそれの必要性、そしてそれの義務について黙想しましたが、今からはそれに、霊的生活を成長させる為の「手段」について見てみます。
ではまず霊的な、この霊魂について、霊魂において内的な、「内的な手段」、「外的な手段」、2つを見てみます。
まず「内的な手段」です。
まず、健全な「完徳を求める」という望みです、願いです。もしも「良いものを求めたい、求める」という心がなければ、決してこれを得る事はできません。
第2の手段は道具は、「天主について知る事」、そして「自分自身を知る事」です。霊的生活というのは、天主と霊魂の一致ですから、「天主が何か」、「霊魂が何か」、この2つを知らなければなりません。
聖アウグスティヌスは、「私があなたを知り、自分自身を知る事ができますように」と祈っていました。
内的な手段というのは、まず「大きな強い意志、望み」と、「天主と自分に対する知識」です。
第3に内的な手段として、「私たちの意志を、天主の御旨に一致させる為に放棄する、自分の意志を捨てる」という事です。
「御旨のままに、御言葉の通り我になれかし。」マリア様のそのお言葉です。
第4に、「祈り」です。公的な祈り、あるいは私的な祈り、あるいはその他色々な口祷、念祷などです。
この内的な4つの手段の他に、「外的な手段」もあります。
まず外的な手段として、「霊的指導者に霊的な指導を受ける」という事です。
普通によくある事は、「告解を受ける」あるいは告解の外でも、「霊的に質問をして、こう指導を受ける」という事があります。なぜかというと、なぜこの指導が必要かというと、私たちはよく自分自身について間違いを犯すからです。
第2の手段は、「霊的な生活の計画表、時間割」です。一日の使い方あるいは、一週間の使い方、あるいは一ヶ月の使い方は、何が一番重要なのか、一体どんなものを優先的にするのか、という事で秩序立てて、時間割があって計画されていなければなりません。
ですから修道院でも、あるいは神学校でも、そのような時間割というのでしょうか、そういう規律があります。
第3には、「霊的読書、あるいは霊的講話、あるいは御説教などを読む」事です。
そして第4に、これは一番難しい事かもしれませんが、「隣人に対しての私たちの関係」です。私たちは社会的な動物、存在ですから、私たちの友人、あるいは家族、あるいは同僚、あるいは隣組などの人々との生活を、どのように聖化しているかにかかっています。
これは、私が先ほど「難しい」と言ったのはなぜかといういうと、一人でこのお祈りするのはとてもお祈りができて、とても長い時間お祈りする事ができるかもしれませんけれども、隣人と接するとすぐ怒りっぽくなったり、忍耐を欠いたり、あるいは悪口を言ったり、汚い言葉を言って罵ったりするかもしれないからです。ですから隣人に対してどのような態度で接するかというのも、私たちの霊的な生活を高める手段となります。
今日、今回の黙想会・巡礼で、どのようなこの霊的生活を高める手段があるかという事を、「4つの内的な手段」、「4つの外的な手段」をこれから見ていきましょう。
はい、霊的な生活をするのはとても必要で、この地上でする唯一その価値のある大事業です。その大事な事に到達する為に、どんな段階が、どんな手段があるのか、という事を今から見ていきます。
では早速、「天主との一致を求める」という熱烈な望みについて、話を進めていきます。
これは、私たちが「選択」する事です。自由に選んで、「私たちの持っていない善を持とう」と、「得たい」と思う事です。
何かの物が欲しい、あれが欲しいという、「物を欲しい」という感傷的な感情的な望みと、「私たちが天主との一致を求める望み」とは、同じではありません。
感覚的な、私たちが五感で得る事ができるものを望む事は、これはずっと続くものでもなく、一時的なものにすぎません。例えばちょっと歩いていると、良い匂いがしてきて、「あぁ、お好み焼きが、たこ焼きがある。あぁ食べたいなぁ」と思う、その「食べたいなぁ」という思いは、一時的なものに過ぎません。あるいは女性が百貨店に入って、スーパーマーケットに行って、「あぁ、これが欲しいわ」という事は、一時的なものです。
今、私たちの言っているのは、自由意志を以って、理性的に、「私が持っていないこれは、私は求める価値がある。これを求めなければならない。そうする事が良いのだ」という事を知って、私たちの意志を動かして、それを選択する事です。
またこれは、「天主様の御恵み」によって、「助力の聖寵」によって、この助けられて、そしてこれを求める事ができる望みです。
ですから、「自由意志」と、「天主様の御恵み」によって助力の聖寵の助けによって、この二つが重なって初めて成立するものです。
永遠の昔から、まだ私たちが存在していなかった昔から、天主は私たちを御愛しになって、そして、私たちの心にその望みを与えてくれます。
聖アウグスティヌスはその『告白』という本の中で、こう書いています、「天主様、あなたは私無しに私を創造されました。そして私の霊魂は、あなたを見つけてあなたの中に憩うまで、安息を知りません」と。
しかし、この「天主を求める」という熱烈な望みも、原罪の傷によって弱くなったり、あるいは揺れ動いたり簡単にしてしまいます。肉の欲、目の欲、あるいは生活の奢りなど、私たちの持っている情欲によって、天主との一致が妨げられたり、あるいは弱められたりしてしまいます。あるいは私たちの恐れ、あるいは不安などによって、「天主との一致」という事に努力をする事から身を引いてしまったりもします。
私たちが常にこの望みを保ち、それを大きくする為に、養っていかなければなりません。常に養わなければなりません。
私はまずここに最初に第1にこれを言ったのは、この「望み」がなければ、結局受ける事がないからです、得る事がないからです。
皆さんもよくご存知のように、「欲しい、これをやりたい」と思わなければ、何もする事を起こしません、行動を起こしません。皆さんがここにいらっしゃるのも、魔法で来たのではなくて、「来たい」と思って、来たいと思ったのでチケットも買ったり、ここまで来る為に努力されました。
「霊的な天主との一致」という所に、巡礼地に到達する為にも、私たちは大きな望みを持たなければなりません。まず霊的生活の旅路の最初に、「私は何を欲しいのか、何を望んでいるのか」という事を知る、という事にあります。
洗礼を受けた全ての霊魂たちは、天主との一致を望む気持ちを持ち続けなければなりません。そしてこれを養っていかなければ、これは死んで枯れてしまいます。そして私たちの生活には色々な望み、「これをやりたい」「あれをやりたい」という事がありますけれども、この「天主との一致」という望みは、最高の望みであって、これをトップに、最高レベルに置かなければなりません。
じゃあ、この望みを一番の最上位に持って行って養う為には、どうしたら良いでしょうか?
第1に、「黙想と祈り」によって、この力を得ます。
霊的生活の利点、あるいはその価値、その偉大さ、という事を黙想しなければなりません。天主が私たちと共に分かち合っているこの霊的な命の偉大さを考察すべきです。この霊魂の天主と分かち合うその命の美しさ、その富、それの偉大さをよく知るべきです。それを考えれば考えるほど、そしてそれを(?)ように祈れば祈るほど、私たちはそれが強められます。
この世の生活を離れて、望みから離れて、毎年一回、あるいは2年に一度、数日間、黙想会あるいはその沈黙の内に、祈りの時間を持つ事が大切です。数日、3日とかあるいは5日とかこの間、この天主との一致の望みをもう一度高める時を作って、私たちはそれを保ちます。この秋田の巡礼も、これの為のとても良い機会です。
もちろんその他の手段もあります。それは摂理的な選択、摂理的に私たちに与えられた試練なのです。突然の事故、あるいは病気、あるいは愛する隣人の死亡・死別などは、私たちにそのような特別の祈りの機会を与えます。聖イグナチオは兵士であった時に足を怪我をしました。そしてその為にベッドで寝たきりになって、それのおかげで回心しました。
あるいは私たちがある人から裏切られた、あるいは害を受けた、あるいはこの私たちは打ちのめされてしまった、等という事も、私たちの霊魂が天主へと向けられる為の機会となります。あるいは誰かから裏切られた、あるいは愛する人が亡くなった、という事も、私たちが天主へと心を上げる機会となり得ます。
まとめて申し上げますと、この天主への望み、「天主へと一致したい」という望みがまず、天主へとの一致に至る為の第1のステップで、これがなければ、土台になければなりません。
第2に、私たちはその手段として、「天主への知識と自分自身についての知識」を見ましょう。もしも私たちがそれは何か知らなければ、それを愛する事ができません、望む事ができません。
皆さん、クロケットは好きですか?
「好きでも嫌いでも分かりません。なぜかというと、クロケットとは何か分からないからです。」
クロケットがどれほど健康に良いか、どれほど美味しいか、どこで作っているのか、という事を知れば、「あぁ、好きか、好きでないか」となりますから、まず知らなければなりません。
大阪の人に聞けばあれですけれども、フランス人に「たこ焼き好きですか?」と言っても、「え?たこ焼き?何か聞いた事もなければ、よく分からない。好きとも嫌いとも言う事ができない」と答える事でしょう。
よくある事ですけれども、金祝の結婚式に行くと、よくその夫婦が、「50年前よりも、今の方がより深く愛し合っている。なぜかというと、50年前はよくそのお互いの良いところやその徳について知らなかったけれども、今より良く知ったので、より良くその善、どのような人か分かるようになったので、より深く愛している。最高に愛している」と。
天主についてよく知れば知るほど、深く知れば知るほど、私たちもより多く天主を愛する事ができるようになり、またより深く一致する事ができるようになります。
その反対に、「自分自身についての知識」があります。
もしも私たちに良い所があれば、全て天主から頂いたものです。ですからますます、このようなものを頂いて感謝と、その天主に対する恩義の念が起こります。
もしも私たちに欠点や、落ち度や、弱さなど小ささを見出すならば、もっと私たちは天主に依存して、天主に委ねて、天主に依存するようになります。そして謙遜になります。もしも私たちの小ささ、惨めさ、あるいは弱さ、この欠点などを知れば知るほど、私たちは自分自身の愛、自己愛というものが無くなってしまって、その上に天主への愛を建てる事ができます。
霊的生活の失敗の一つは、原因の一つは、私たち自身がどれほどのものを天主から受けたのかを理解できず、あるいはどれほどの小さい惨めなものかを理解できないところがあります。
「まず、」イエズス様も、「自分自身の目の梁を取ってから、隣人の目の中にある小さな埃を取れ」と。私たちの主はよく知っていました、私たちは自分自身の欠点や悪を認めるのが非常に嫌で、しかし隣人の欠点や悪を認めるのは非常に簡単で好きだ、という事です。
この次の機会に、天主への知識と、自分自身の知識をもっと深める事に致しましょう。
では、今から10分休憩を入れます。お祈りをして、休憩に入って下さい。
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【まとめ】
内的な手段:
【第1】健全な「完徳を求める」という望み、願い。「良いものを求めたい、求める」という心。「天主との一致を求める」という熱烈な望み
【第2】「天主について知る」そして「自分自身を知る事」。
【第3】「私たちの意志を、天主の御旨に一致させる為に放棄する、自分の意志を捨てる」。「御旨のままに、御言葉の通り我になれかし。」
【第4】「祈り」。
外的な手段:
【第1】霊的指導者に霊的な指導を受ける
【第2】霊的な生活の計画表、時間割
【第3】霊的読書、霊的講話、御説教
【第4】隣人、友人、家族、同僚、隣組などの人々との生活を聖化する