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内的生活の為の第2の手段「天主に関する知識」と「自分自身に関する知識」、第3の手段「天主の御旨に自分の意思を適合させる」について

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

2019年5月2日 秋田巡礼 サマース神父様霊的講話【3】

内的生活の為の第2の手段「天主に関する知識」と「自分自身に関する知識」、第3の手段「天主の御旨に自分の意思を適合させる」について

同時通訳:小野田圭志神父

講話の前に、1つだけお知らせがあります。

今日私は、総長様と電話でお話をしなければなりません。今、秋田の巡礼に来ているという事をご存知だったので、総長様から皆さんに「ぜひ秋田のマリア様に、召命の為に、修道召命の為にマリア様にお祈りをして下さい。それから聖ピオ十世会の為にお祈りをお願いします」と依頼されました。

マリア様の元で、召命の為にたくさん、それから日本に修道院が創立される為にもたくさんお祈りをお願いします。

昨日から、私たちは「霊的生活の大切さ、その必要性、重要さ」について黙想して、そして「それに到達する為の手段がある」と「手段には4つの内的な手段と、4つの外的手段がある」という事を見ました。

内的な手段というにはまず第1に、「霊的生活を望む」という大きな聖なる望みが必要だ、という事を見ました。

【内的生活の為の第2の手段】
次に今日は、内的生活の為の第2の手段、あるいは道具として、「天主に関する知識」と「自分自身に関する知識」についてお話し致します。

昨日は、「私たちがもしも何かを愛する為に、望む為には、それについてよく知らなければならない。それを知れば知るほど、良さを知れば知るほど、ますますそれを望むようになる」という事を見ました。ですから私たちは、天主様との一致の為に、愛する為に、ますます天主の事をよく知らなければなりません。

【天主に関する知識】
では、天主様についてどうやったら知る事ができるでしょうか?顕微鏡で見て分析する事もできませんし。

私たちは理性を使って、被造物を見る事によって、それを創った創造主、原因にまで到達する事ができます。

そういうそれは、自然的な天主に関する知識で、それも良いものです。天主の単純性、あるいは天主が不変である事、変わらない事など、私たちはそれの自然の知識を以て知る事ができます。

しかし最も確かな天主に関する知識は、「啓示」によって私たちに与えられます。

例えば、「天主は、この全地を創造された」事、また「人間を聖なる者として創られた」事として啓示されました。

また、「私たちの主の御託身を通して、人間を回復させた、人間の目的を回復させた」という事も啓示によって知らされました。

「御自分の創られた教会と、その秘蹟を通して、私たちに聖寵を与える」という事も啓示によって知らされます。

また、私たちの究極の目的と永遠の幸せについても知らされました。これは、私たちは「聖書と聖伝」を通して、人類に与えられた知識として知る事ができます。

聖伝と聖書は、天主に関する最も重要な知識の伝宣です。天主の創造という事について、私たちは例えばですね、非常に多くの事を知る事ができます、聖書によって知る事ができます。

この全宇宙を在らしめて創造した最高の存在、一体何の為に創造されたのか?全く完成されていて、永遠に幸せの至福の天主が、一体なぜこの被造物を創造する必要があったのか?その目的は一体何だったのか?

その答えは、「善は、自分の善を周囲に分かち合う、という原理から来る」と答えています。天主の完全性と良さ、善性によって、私たちに御自分の幸せを分かち合いたい、と思われました。

そして天主に仕える者は、被造物であっても、最高の名誉が与えられます。天主の善、良さを知れば知るほど、私たちはますます、「天主の事を知りたい、愛したい」と思うようになります。

例えば、「何千何億という多くの霊魂の中から、私は選ばれて、この恵みを与えられ、信仰と洗礼まで導かれた。」例えば。どれほど感謝しなければならないのか。「そして多くの人々の間から私は天主の子供となる事を、そして限りのない善を私は受ける事ができるようになった。」

では、天主様の「本性」とか、その「特性」などは、どうやって知る事ができるでしょうか?

これは「神学」で勉強する事ができます。天主に関する学問を通して知る事ができます。この2019年に生きている私たちは、歴史上これほど恵まれた時はないほど、神学の知識を得る事ができます。というのは、ほとんど世界中にどこにいても、ほぼ無料で色んな素晴らしい神学上の本とか、あるいは御説教とか、御話というものを読み、聞いたりする事ができるようになっているからです。例えば1000年前、一体どれほどの人たちが聖書を、自分の自由時間に、読みたい時に読む事ができたでしょうか。

もちろん、読んだり勉強したりする事だけが天主様に関する知識を得る唯一の手段ではありません。なぜかというと、勉強と霊的読書と共に、「祈り」も、あるいは「黙想」も必要だからです。私たちのこの知識として得たものを、天主への愛として内部化させる、内的な自分なものとする為には、祈りと黙想が必要です。

例えば聖トマス・アクィナスは、「自分の今まで読んだ何百冊の本よりも、十字架の前で黙想する方が、より多くの事を学んだ」と言います。読んだり、そして祈ったりする事は、両方とも必要です。

その中でも聖人たちの言うには、「天主様から直接聞くのが一番の手段である」と言います。これはどういう事かというと、「天主様の現存に身を置く」という事です。天主様は遍在、この世の中のどこにでも在し給うので、御自分のこの創造の御業に、そしてこの創造の御業によるのみならず、霊的に私たちの父として在し給うのです。この天主の現存に身を置いて、その天主の現存の内に生きるという事は、天主の知識を深める最も確実な方法です。

被造物を見るだけでも、私たちは天主の現存に身を置く事ができます。この美しい被造物を見る事によって、天主御自身の完全さ、あるいは天主御自身の良さが理解できます。また霊魂のない動かないもののみならず、天主の似姿である人間、霊魂と肉体を持った人間を見ても、天主の現存に身を置く、天主の事を知る事ができます。

また、天主様の教えによりますが、「私に呼び求める者に、私はそこに居る。」そして天主の現存を知る事ができます。

祈りのみならず、私たちが「成聖の恩寵」にいる事によって、天主が私たちの霊魂に在す事も知っています。その天主の現存を、霊魂の現存を知れば知るほど、これは霊的な親密な関係を、そして多くの利益を得る事ができます。

まず、罪と誘惑に対して打ち勝つ、その戦いにおいて利益を得ます。もしも私たちが、最も高貴な天主の現存を霊魂に持っているという事を知れば、誘惑に対してどれほど大きな力となるでしょうか。

天主の現存を私たちが知れば知るほど、ますます完徳への望みに駆られます。もしも目上の方が、上司が自分の目の前にいるならば、一生懸命仕事をして、「よくやっている」という事で上司を喜ばせようとします。天主様の現存されているのが理解できれば、ますます一生懸命になります。

天主の現存に身を置く事によって、私たちはますます信頼して、主に依頼する事ができます。もしも私たちの不安や、危機や、あるいは危険などに身を置かれる時があっても、天主が私の傍に、そこにいらっしゃるという事を知れば、全くそのような不安など、危険など、何でもなくなります。「私を強める方と共にいる」という聖パウロの言葉によれば、もしも天主がおられるなら、私たちは何を恐れる必要があるでしょうか。

自然の知識、あるいは啓示された知識、あるいは祈り、あるいは天主の現存に身を置く事によって、私たちはますます天主を深く知る事になり、私たちの愛はますます大きくなり、感謝の念に駆られます。

【自分自身を知る】
次に、今度はちょっと辛い部分ですけれども、天主の事のみならず、私たち自身の事を知らなければなりません。天主の事を知れば知るほど、私たちの愛は掻き立てられますけれども、しかしもしも私たち自身の事を知らなければ、自分がどこを直さなければならないのか、あるいは自分のどこが足りないのかを知る事ができません。

もちろん私たちは極端を避けなければなりません。天主を知るという事だけで自分の事を知らないと、自分はこれほど大切なもので、偉いものだ、とういう事で思い上がってしまいます。そしてもう一つの反対の極端は、自分の事だけを知って天主の事を知らないという事は、自分はどれほど汚くて、欠点だらけで、もうどうしようもなくて、絶望と不安で、もう自分をどうする事もできなくなってしまいます。2つを知らなければなりません。

もしも私たち自身の事を知らないと、私たちは本当に楽観的になってしまって、「私には全然問題がない。私は全て完璧で、もしかしたらほんのちょっとまずいところがあるかもしれないけれども、他は大丈夫だ」と思い上がってしまいます。

私たちは、自分の持っている「善」と、「欠点」と、2つをよく知る事にしましょう。そしてそうする事によって、天主に近付く事ができます。

もしも私たちに良い点があるという事を認める事ができれば、それは天主様からの御恵みとして感謝しなければなりません。そしてそれを天主の為によく使おうと努力しなければなりません。

もしも私たちに欠点があるならば、天主様の助けが必要であって、御恵みが必要であって、そして私たちはそれを直す為に努力しなければならない、という事を知る事ができます。この欠点に向き合って、そしてそれによって、「私は天主の助けが必要だ。しかし天主の助けを以て、私はこれを全力を以て直そう」とする事ができます。

聖アウグスチヌスも回心の前に、「自分の力だけではどうしても罪の生活から抜け出す事ができないけれども、聖書を読む事を以て、天主の全能の助けを以てであれば、全てができる」と知る事ができました。

では、どうしたら私たち自身の事を知る事ができるでしょうか?

これは、自分の事を知る事は容易ではありません。原罪を持っている私たちは、ほぼ全て、自分が一体どのような者であるかという事をよく調べる事をしたくありません。ですから私たちは、大体こう気晴らしや、喧騒や、あるいは他の人の欠点を見る事はしますけれども、それは自分の欠点を、自分自身を内省する事を避ける為です。ですからこの世は沈黙を嫌って、騒音雑音を好みます。なぜかというと沈黙は、自分自身へと目を注ぐように私たちを導くからです。

【自分自身を知るため:毎日の良心の究明】

確かに大変ですけれども、まずこの第1の段階としては、毎日の「罪の、良心の究明」です。

良心の究明によってまず最初に、今まで、この日まで与えられた全ての御恵みを感謝する事から始まります。

次に、私の目のうろこを取り外して、そして私たちが一体どのような者であるのか、という事を知る特別の御恵みを乞い願います。

そして朝起きた時から今に至るまで、毎時毎時、一体私の行動がどうであったか、天主の御前でどうであったか、という事を反省します、究明します。

そして第4に、もしも至らないところがあれば、天主に御赦しを乞い願います。

今度が最後ですけれども第5番目に、遷善の決心を立てましょう。「今まで私はこの過失があったけれども、これを私は直す。これを今後犯さないようにする。その為に私の取るべき具体的な手段はこうである。私はこうする事によって、今後、今まで犯した罪を犯さないように努める」という決心を立てます。

ちょうどイエズス様がその例えでお話になったように、「会計を出せ、と言う」と言ったように、1日の会計をイエズス様の前に提出する事です。


天主への知識が深まれば深まるほど、そして自分に関する本当の知識が深まれば深まるほど、私たちの天主との一致が深まります。天主がどれほど素晴らしい方で、良い方で、私がどれほど足らないか、という事を知れば、その天主に対する感謝に満たされます。


【内的生活の為の第3の手段】
第3の内的な手段は、「天主の御旨に自分の意思を適合させる、合わせる」という事です。

第2番目の手段には、「知識」について、「知性」の能力について語りましたけれども、今からは「意志」の能力について語ります。

ここでは、「天主の御旨」という非常に神秘的なものを取り扱います。

時々人々は、「これは天主の御旨だ」と言いますけれども、一体どういう事なのでしょうか?よく人々は誤解をしてしまう危険があります。

天主様は仰いました、「もしも私を愛するなら、私の掟を守りなさい。」
天主様の「積極的な、肯定的な御旨」というものがあります。天主の御旨は私たちに、明確に、「掟」という形で表れます。

「天主の御旨」という言葉の第2の意味は、「天主はそれが起こってしまう事を許される」という意味で使われます。例えば、津波で多くの街が水没してしまって、多くの人々の命が人命が失われてしまった、天主がそういう事を許されてしまった、これも天主様の御旨だった、と言う事ができます。例えば、あるいは個人的に誰かとても親しい人が裏切ってしまった、あるいはとても親しい愛する人が亡くなってしまった、という事を天主を許された、これも天主の御旨だ、と言う事ができます。

だからと言って、天主様がそれをですね、積極的に肯定的にそれが起こるようになる事を、何か悪が生じる事を、私たちに害が起こる事を望んだ、という意味ではありません。しかし、私たちが「天主の御旨だ」と言う時に、「ある出来事が、別の事の為に生じてしまう事を許された」という事です。

この世の全ての事は、天主の御旨によって行われますが、その意味には違いがあります。あるものについては、積極的に肯定的に、それが起こる事を「望まれて」起こりますけれども、あるものは、それが起こる事が「許されて」起こります。そしてもしも天主が何かの事が起こる事を許されたとしたら、それはそれの為にこの悪の為ではなくて、「それをはるかに勝る善」があるので、それが故にその事を許されたのです。そのはるかに勝る善というのは、私たちの霊魂、あるいは私たちに関わる多くの霊魂の善の為です。

そのような時に私たちは、「天主の御摂理」と言います。そのような時に私たちは、私たちを聖化する為に、天主の御摂理を愛を込めて受け入れる事が必要です。

聖パウロは、「天主を愛する者にとっては、全ては善の為に働く」と言います。しかし私たちの挑戦というか難しいところは、「天主が一体なぜ、一体何の為にこの悪が起こる事を許されたのか」という、その来たるべき偉大なる善の事を知らないから、それがまだ理解できないので、それを受け入れるのが難しい時があります。

例えば、マリア様が私たちに秋田で、あるいはその他の所で、私たちの母なる教会における大きな危機、司教様や、司祭や、教皇様における危機などを話されました。もちろん私たちは、「あぁ、天主様の御摂理だからOKだ」と「大丈夫だ」と言う事もできるかもしれません。でも私たちはこの事も考えます、「では一体、その天主がもしもそれを許されるなら、一体その何の善の為に、その事が許されたのか?」

もちろん私たちは、例えばこの危機からどのような善が起こるか、という事を推測する事もできたり、こう考えたりする事もできますけれども、でも全体的な全体像、全部のこの天主様の御計画、御摂理というのは、私たちにとって神秘的です、知り尽くす事ができません。

例えば、多くの国で多くの霊魂たちが、信仰から離れています、離教しています。「一体これからどんな善が起こるのだろうか?」と私たちは自問する事ができます。私たちは例えばこんな推測をする事ができるかもしれません、例えば「ますます多くの霊魂が背教しているけれども、それはまだ背教せずに残った選ばれた霊魂たちが、ますます天主にその御恵みを感謝して、その信仰を大切にして、そしてそれを利用して多くの救霊の為にますます熱心に働くようになる。その為だ」と。あるいはもしかしたら、全て教会が上手くいった時には無かったような、偉大な聖人たちが多く生まれる為だったのかもしれません。

しかし私たちは、天主の御摂理の奥深い理由を知り尽くす事ができないので、そして天主は全知全能であって、私は最も愚かな者であるので、私たちが言う事は「天主の御摂理は全く正しく、それは讃美されよかし!」です。

最も愚かな考えはこれです、「私の方が、天主の御摂理よりももっと素晴らしい。私のやり方をするべきであった。天主のやり方は間違っている」という考えです。

本当の霊魂の平安を得る為には、私たちは天主の御摂理を、謙遜に愛を込めて受け入れる事です。もしも私たちに辛い事、困難な事、悪が起こった場合には、今日の悪は今日で足りる、という事で今日その事を、そのような辛い事を悪を謙遜に耐え忍んで、そして今日それを耐え忍ぶ御恵みを求める事です。同じ、私たちにそのような事が起こる事を許したその同じ天主は、その助けを求める人には、その助けを与えるからです。

またそのようなものを積極的に天主の御手から受け入れる霊魂には、多くの功徳があります。例えば私たちのこの霊魂の悲しみから、多くの事を私たちに教える事ができます。例えば悲しみが起こった時には、「あぁ、この世は涙の谷であって、一時的なものにすぎないのだ」という事を思い出させて、「天国こそに行かなければならない」と思わせます。あるいは、この悲しみを受けた時には、この私の悲しみを、イエズス様の悲しみと合わせて、そして功徳を積んで、天国に宝を積む事ができます。

こうする事が、「天主の御旨と私たちの意思を一致させる」事であって、それが必要であって、そしてそうする事だけが合理的な、理に適う生き方です。なぜかというと、天主は私たちを越えてはるかに賢い方であって、賢明な方であって、全ての事をお見通しであって、全ての善の為に取り計らって下さる方であるからです。

こうやって私たちの意思を天主の御旨に従わせる事こそ、最も安全な、そして唯一の聖化の道です。もちろん私たちは完徳の道を歩みたいと思っていますけれども、でも自分だけで自分の思う道を行くと、それは多くの場合、完成には行きません。なぜかというと、私たちは非常にしばしば間違いを犯し、そしてあまりよくものを知らないからです。天主こそが私たちの霊魂を一番よく知っている方であるので、天主こそが私たちの聖化を望み、それの最高の最善のプランを計画を持っています。

ですからその天主のプランに従わせる事こそ、最善の道なのです。良い事が起こっても、悪い事が起こっても、幸運も不運も全て、天主の御旨の積極的な意思か、あるいはそれを許されたのか、全て天主の御旨として私たちが受け入れる事です。

では次の講話に移る前に、5分間休憩を入れます。

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