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2019年5月3日 秋田巡礼 サマース神父様霊的講話【5】完徳に至るための外的手段

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2019年5月3日 秋田巡礼 サマース神父様霊的講話【5】
「完徳に至るための外的手段:「生活の規則」と、「隣人との関係を聖化する」」
同時通訳:小野田圭志神父


完徳に至る手段の最後の部分です。

この前回と前々回で私たちは、内的な手段を見ました。今日は、残った4つの外的な手段について見てみましょう。ところが時間の関係で、4つのところを2つに集中して、絞ってお話し致します。

外的な手段の内の最初は、「霊的指導」、次に「生活の規則」です。第3に「霊的読書」、それから「隣人に対する関係を聖化する」それが第4です。

この内で一番説明が必要とされると思われるものは、「生活の規則」と、「隣人との関係を聖化する」という部分だと思うので、ここについて特に重点的にお話をします。


その規則、「生活の規則」というのは、言ってみれば時間割とか、あるいはどのように1日を過ごすかについてです。よくこうある人がですね、「このようなスケジュールを与えられたけれども、これはちょっときつすぎる、何かロボットのようだ」という不平を聞く時があります。

罪というのは、私たちの生活をカオスというか混乱に混沌に陥れて、無秩序にしますが、御恵みは私たちを秩序正しくして、規則正しくして、整理整頓させて、美しく秩序立たせます。

アダムとエヴァの最初の仕事は、そのエデンの園をきれいに秩序立てる事でした。ところが原罪が入って来た為に、更にその秩序が破壊されて、混乱されて、そして耕すのさえも難しくなりました。

ですからカトリックの考えでは、「秩序正しい、規則正しい」ものは、「御恵みのシンボル」であって、「無秩序で混乱している」ものは、「罪のシンボル」です。

「生活の規則」というのは、私たちの生活に規則を与えて、秩序を与えて、そしてそれに位階、段階を付ける事です。私たちに与えられた時間は限られているので、この限られた時間をどれほど有効に使って、自分を、そして他人を聖化するか、その為に一番大切なものは何か、という事を秩序立てます。

そこで修道院とか、あるいは神学校などでは、修練院などでは、どのような家でも時間割があって、何時に起きて、何時に何をして、何を、何を、という事が決められています。

ですから一般の家庭においても、生活の規則として時間割が与えられるのは、とても良い事です。もう既にそれが決まっていれば、「この時間はこれをする事に集中する時だ」「これはこの時だ」と既に分かっているので、その為に準備をする時間を作る事ができます。

イエズス会の若い聖ヨハネ・ベルクマは、この事をよく分かっていました。神学生であったヨハネ・ベルクマはある時、もちろんそのどこの教会でもある事ですけれども、ちょっと迷惑な人もいました。そしてこのちょっと迷惑な人は非常に敬虔な人で、「自分は信心家だ」と思っていたので、「レクリエーションをする時間などもったいない」と思っていました。そこでこの彼はですね、聖ヨハネ・ベルクマ神学生に、「ご飯を食べたら今リクリエーションで、他の神学生たちと遊んで、ゲラゲラ遊んでいるけれども、もしも今君がこの瞬間死ぬとしたら、そんなゲラゲラ笑ってリクリエーションなどしてても良いのか?」すると彼はですね、この聖ヨハネ・ベルクマは、「もちろん私は、天主が与えられた今はこのレクレーションの時間だから、レクリエーションをして、そしてこれがレクリエーションが終わったら勉強に入る。だからその天主様から命じられた事をしながら、遊びながら死ぬのは、私の本望だ」と答えたそうです。

仕事の時間、レクリエーションの時間、休息の時間など、ちゃんと決められていれば、私たちは時間を無駄にする事がありません。そうする事によって私たちは、この規則を付ける事によって私たちは、自分の気分で自分の何をするかを決める、という誘惑から守られる事ができます。例えば、「あぁ、今日はお祈りしたくないなぁ」とか、あるいは「今、仕事をしたくないなぁ」「今、他の人と一緒におしゃべりしたくないなぁ」という誘惑から守られて、「今はこれをする時間だ。だからする。」

既にこの時間割を作った時に、これは天主様に捧げられているので、朝起きた時から寝るその瞬間まで、全て、天主様に捧げられた超自然の価値を持つ事になります。もちろんこの最初からこれだと決めて不可能な計画を立てる事はできませんので、最初に大体の計画を立てて、それを機能するようにうまく調整していかなければなりません。例えばよくある事では、黙想会の時に生活のスケジュールを立てて、これを指導司祭に見せて、「この通りに生活しよう」と思っています。祝福を受ける、という事があります。

では、どのような生活の規則を立てるものが良い質のものなのでしょうか?

それはですね、「強い規則」であって、しかしそれと同時に「柔軟性」がなければなりません。というのはどういう事かというと、「私たちの力の限り、私たちの許されている限りそれを守る」という事です。そしてそれと柔軟性があるというのは、「私たちのコントロールを超えたところの出来事が起こった場合には、それに合わせて、そしてその翌日からは時間通りにする」等という事です。

例えば司祭は、日常の生活のスケジュールがあって、「今からこの時に御説教の準備、何とかかんとか」とするのですけれども、ところがある方は私たちの事を考えずに急に亡くなってしまったり、あるいは病気になってしまったりするので、私たちはそのスケジュールを置いて病人の元に行かなければなりません。ですからそのような時にはすぐにそちらに向かって、大切な方に向かって、そしてそれが終われば、また元の生活に戻ります。

それから、その質の高さというのは、まず重要なものを一番大切なものとして置いて、あまり重要でないものは下に置きます。したがって「お祈り」とか、「天主への礼拝」を最優先させなければなりません。といっても、その最優先させるから一番長いというわけではなくて、「一番良い時に、一番最高の時に、それをする」という事です。お祈りの時間が短くて、そして仕事の、例えばお料理とかお掃除の時間が6時間とかで長かったら、お祈りが蔑ろにされている、というわけではありません。

「一番良い時間」というのは、大体普通は「朝」です。朝、私たちは仕事が効率的にできますし、多くの事をたくさんできます。教会でもつい最近までは、ミサは夜する事は禁止されていました。朝、一番良い時に、一番最高の時に、ミサが行なわれます。なぜかというと、一番最優先のものだったからです。

まず天主、次に私たち、そして隣人に対して時間を使います。天主を愛して、天主を愛するが故に、隣人と私たちを愛するという事です。もしも私たちが例えば、司祭が15時間16時間隣人の為にこう走り回って、こう色々隣人の愛徳の為にこう力を尽くして、そしてお祈りの時間は15分しかない、自分自身の為には15分しかないとしたら、これは問題があります。ですから天主様に捧げるのは、まず「朝と夜」の、「最初と最後」、そしてその日常の各瞬間、時間に、ほんの短い間を、天主様に心を上げる時間があれば良いです。

そして時間割があるという事によって、無為な、何もしていない無駄な時間を防ぐ事ができます。子供たちをたくさん育てた両親たちは口を合わせて言うのは、「子供たちにいつも健全な、何をすべきかという事を時間割を作っていて、無為に時間を過ごさせる事がないようにする事だ」と言っています。

イエズス様も七つの悪魔についてお話をします。その人は自分の家をきれいにして、「きれいにする」つまり「自分の霊魂から悪魔たちを追い払う」という事です。ところがこの人は家をきれいにして、空っぽにしたままで、何もそこを飾る事をしませんでした。そこで「同じ悪魔が戻って来て、家の中がきれいに空っぽになっているのを見て、他のもっと悪い悪魔たちを連れて来て、状態を更に悪くした」とあります。

まず睡眠時間があって、そして起きている時間を、どのようにして、何を、仕事をどのように有効に生産的にするかを考えます。そしてこのような計画がスケジュールができたら、それを司祭に見せます。もしかしたら司祭は、「あぁ、ここはこうした方が良いのじゃないか」とアドバイスするかもしれません。そしてそのようなスケジュールが祝福を受けたら、それに従って下さい。そのスケジュールに従う事によって、従順の功徳が積まれます。「私たちが自分で好きで選んだ」というよりは、「従順で行なった」という事には、より多くの価値と、より多くの功徳が含まれています。

カトリックの信者さんはその同じ仕事をするにも、秩序立てて、そして従順の徳によってするので特別の価値がありますが、他のそうでない場合には、同じ仕事をするにも自分の気ままによってやるし、そして自分の好みによってやるので、たとえ結果は同じでも、その功徳と価値は違います。


では次の道具に手段に移ります、「隣人との関係はどのように聖化するか」。
家族の一員で家族の人々であったり、あるいは知人友人であったり、あるいは全く知らない人々であったりするかもしれません。

私たちにとって第1の原理があります。それは、「天主様は私たちを聖化する為に、別の人間を使う事を選んだ。人間がある別の人間を聖化する、という事を天主様がお望みになる」という、別の言葉で言うと、「天主様は例えば、教皇様や司教様や司祭、あるいは修道士、修道女などを使って、私たちを聖化する必要はなかった。やろうと思えば別の事もやる事もできた」という事です。

つまり、「天主様は、その無限の知恵によって、人間を聖化する為に、別の人間を使って、例えば教皇様、あるいは司祭、あるいは司祭ではなくても一般の別の普通の人々を使って、それがその司祭も他の人も、それが悪い、完璧な手段でなかったとしても、それらを使って、私たちを聖化する事を御望みになっている」という事です。別の言葉で言うと、「私たちの霊魂は、この私たちの周りにいる方々が、たとえその方々が良い方であろうと悪い方であろうと、天主様からの御恵みを私たちが受ける為の機会となる」という事です。

私たちには選択の余地が与えられていない隣人たちがいます。例えば家族、私たちはその家族の中で生まれてきます。あるいは仕事で、あるいは義務で接するべき方々、あるいは隣人などは、私たちは選ぶ事ができないものです。

例えば家族の中で、あるいは親戚、親族、一族、あるいはそういうような血族の中で、例えば私たちは超自然的な徳を実行する機会が与えられています。例えば「忍耐」、あるいは「許し」、あるいは「堅忍」などです。私たちの家族のメンバーはともすると、非常にこう簡単に対応してしまいがちですけれども、しかし永遠の霊魂を不死の霊魂を持った隣人ですので、私たちはできるだけの愛徳をもって接するように努力します。

ところが、もしもその親戚などで、私たちの信仰に反対するような、あるいは私たちの信仰を危険にするような人があれば、私たちは少し距離を置きます。

また、婚姻結婚しているから、あるいは家族であるからという事で、私たちはその枠組みの中で霊魂を聖化していかなければなりません。ですから特に天主様は、婚姻を「秘跡」にまで高めて、特別の恵みを与えようと望まれました。

家庭生活についてはまた別の重要な話がありますけれども、今回は深く話す事を避けて、別のグループの人々に、特に知人やあるいは一般的な友人について話しましょう。

よく、「私は友達と一緒にこんな悪い事をしました。」
でも正確に言うと、悪い事をするのならば、そのような人は私たちの友達ではありません。

本当の友人というのは、私たちの霊魂の善を求めるので、私たちの霊魂を殺すような事を一緒にする人ではありません。

ですからよく昔から言われた事は、「あなたの事はよく分かりませんけれども、初めて会ったし、でもあなたのお友達はどういう人ですか?あなたのお友達が分かれば、私はあなたがどういう人か分かります。」

本当の友人というのは、互いにより高いものへと、高いものへと励まし合ったり、模範を示し合ったりして、上がっていくものです。

その良い友情の他にも、一般的な友達付き合いや、近所付き合いがあります。もちろんこれらも霊魂を聖化する為の良い機会になります。

多くの人々は、別の方の良い模範によって回心します。どのような物質的に恵まれた人でも、「あぁ、この人々は非常に幸せに見える。このような人々の良い模範がある。あぁ、この人たちは私が持っていないものを持っている。この何か私もそういうような霊的なものを欲しい。」そして回心へと導かれます。

初代キリスト教もそうでした。異教徒たちは喜びの理由がありませんでした。本当の喜びの理由がなかったのですけれども、キリスト教徒たちは心から幸せで、喜んでいて、幸福でした。その為に、「一体なぜそのようなのだろう?」と「彼らのようになりたい」と思いました。

司祭が色んな所に街角に立って説教するというのも宣教の一つですけれども、それだけではありません。皆さんの毎日の生活によって、他の人々が皆さんの幸せや喜びを見て、それを不思議に思い、憧れて、回心する、というケースが多くあります。皆さんがこの友人や同僚たちにお説教したりとか、あるいは叱ったり、あるいは「こうしなさい」と言う事によって回心するというよりは、皆さんが日常生活で信仰を実践して、信仰生活の愛徳によって、多くの人々が信仰に導かれます。

2000年前、一体なぜ異教徒がカトリックになったのだろうか?という事を考えると、「良い模範によって」という事が分かります。ですからそれは今でも有効です。家族であれ、家族でなかれ、人々と接する時に私たちは、自己聖化の多くの良い機会に恵まれます。

例外的に、例えば特定の不道徳な人、あるいは特定の罪に導くような人がいる場合には、「私はこの罪の誘いに打ち勝つにそれほど強くない」あるいは「それほどの自信がない」という時に、その罪の誘いから避ける為に、その人を避けなければならない、という時が例外的にあるかもしれません。しかし一般的には、私たちの隣人たちは聖化の機会です。

もちろん隣人たちは私たちに、良い聖化の機会を与えてくれますが、しかしカトリックの私たちも時々、「このような隣人たちから逃避してしまいたい」という誘惑もあります。「そういう煩わしい事を避けて、この日本の山の中に、カトリックの、しかも良い洗練されたカトリックだけの小さなコミュニティを作って、そこで私たちだけで、カトリックだけで平和に、何の混乱もなくひっそりと生活したらどれほど良いだろうか」という誘惑もあります。例えばトランプの壁を作ってですね、カトリックのコミュニティを守るという誘惑もあるかもしれません。私たちは一般の人々から隣人から嫌な事をされたり、こんな悪口を言われたりとか、いじめられたりとか、あるいは色んな事があるので、辛い事があるので、それから逃避して、「どこかにひっそりと籠もりたい」と思うかもしれません。

イエズス様は、「大きな都市の中で聖霊降臨の日に行って、宣教をして、イエズス様の話をして、洗礼を授けるように」と「広がるように」とお話しましたけれども、砂漠の真ん中にポツンと籠って生活をしろとは仰いませんでした。イエズス様は私たちが「世の光として、山の上に燦然と輝いて、他の人々を照らし出すように」と求められました。


霊的な生活というのは、私たちの肉体の命よりももっと命に満ちたものです。私たちがこの霊的な命を養わなければ、それについて知らなければ、それを無視するならば、私たちの肉体も養われないと、あるいは無視されると、病気になったり死んでしまったりするように、霊的な命も障害を受けたり、あるいは霊的な命がなくなってしまったりします。

そして霊的な生活は、私たちをして天主の命へと与らせてくれます。ですから霊的生活というのは、嫌だなぁというものではなくて、おそらくそうではなくて、むしろ天主様からの特別の贈り物として、宝物として、それを感謝して受け取って、それを育てていかなければなりません。

内的な、その道具として養うものとしては、「霊的生活を送りたい、増やしたい」という熱烈な望み、それから「天主に対する知識と自分に対する知識」です。それから「天主の御旨に一致しよう」とする事、そして「天主の現存に、天主の御前に生活する事」、それから「祈りの生活をする事」です。

それから「霊的指導」を受けて、また「生活の規則」を立てて、「霊的な読書」をしたり、あるいは「霊的な御話」を聞いたり、それから最後に、「隣人たちに、社会生活を聖化する」という手段によって、私たちは霊的生活をますます高めていく事ができます。

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