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霊魂らの救いは最高の法(新教会法典1752条)Salus animarum suprema lex. 「違法」とはどういうことか

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

「違法」とはどういうことかを考えてみます。

●法に従うということは、もちろん、カトリック信徒にとって大切なことです。人間の定めた法であっても、正当な長上が定めた法は、天主の代理者として定めたものだからです。

ところで「違法」というのは「法」に反していることですが、天主の法と、人間の規定(長上の命令・禁止・指示・手続きなど)とが、矛盾していた場合、どちらに従わないと「違法」となるのでしょうか?

例を挙げて考えてみます。

中国では現在子供を二人より多く産むことが禁止されています。もしも中国人のカトリック信徒が天主の掟に従い、3人目以降こどもを生むことは「違法」でしょうか?
もちろん違います。それは善いことで、合法です。

もしも、中国のカトリック信徒が、国法に従うために堕胎をしたら、あるいは人工的に産児制限をしたら、これは「合法」でしょうか? いえ、罪であり、違法です。

天主の法と、人間の規定(長上の命令・禁止・指示・手続きなど)とが、矛盾していた場合、私たちは天主の法に従う義務があります。

●イエズス・キリストも、法とは人間の善のためにあることを教えています。たとえ天主の法であってもそうです。

「安息日に、イエズスは麦畑をお通りになった。弟子たちは空腹だったので、麦の穂をつんで食べはじめた。すると、ファリザイ人がこれを見て、「あなたのお弟子は、安息日にしてはいけないことをしています」といったので、イユズスは、「ダヴィドが、供のものといっしょに、空腹だったときにしたことを、あなたたちは読んだことがないのか。かれは、天主の家にはいって、司祭たち以外の人は、かれもまた供のものも食べてはならない供えのパンを食べた。また安息日に司祭たちが神殿で安息を破っても罪にはならないと律法にしるしてあるのも、読んだことはないのか。私はいう。神殿よりも偉大な者がここにいる。"私がのぞむのは、あわれみであって、いけにえではない"とはどういう意味かをあなたたちが知っていたなら、罪のない人を咎めることはしなかったであろう。じつに、人の子は安息日の主である」とお答えになった。」(マテオ12章)

「イエズスがここを去って、かれらの会堂におはいりになると、片手のなえた人がいた。そして人々は、イエズスを訴えようとして、「安息日に病気を治してもいいのですか?」とたずねた。イエズスはかれらにむかって、「あなたたちの中に、一匹の羊をもっている人がいて、羊が安息日に穴におちたら、ひき上げないでおくだろうか?人間は羊よりもはるかにすぐれたものである。だから、安息日に善を行なうのはよいことだ」とおおせられ、そしてその人にむかって「手をのばせ」とおおせられた。その人が手をのばすと、治って、もう一方の手と同じようになった。」(同)

イエズスのなさったことは、一見、外見上は「違法」でした。しかし、中身は善であり、「合法」でした。

●日本でも、おなじようなことがありました。福知山線尼崎脱線事故が起こったとき、道路交通法を「違反」してまでも、大型トラックの荷台に乗せて病院へ搬送する手段が取られました。

しかし、事故を起こした列車にJR西日本の社員2名が乗車していたのですが、この社員らが職場に連絡をしたところ、上司から出勤命令が出たため、この社員は救助活動をせずに出勤していました!

救助活動をしたら「違法」「規則違反」となるのでしょうか?「命よりも規則が大事」なのでしょうか?!

上司から禁止されたとしても命を大切にするのが、法の精神です!

命の危険を見ながら助けないものは、犯罪に問われます。たとえば自殺をしようとしている人を見て止めなければ、自殺幇助罪に問われます。あるいは、自動車事故を起こしたにもかかわらず、負傷者を救護せずその場を去ることは、救護措置義務違反の罪に問われます。

●もちろん、自分の司教区の司教や教区の司祭の命令や指示に従うことは当然良いことであり、カトリック信者はそうすべきことです。

しかし、自分の司教区の司教、教区の司祭の命じられることが、教皇の命じられることと矛盾していたら、どちらに従うべきでしょうか?

具体的に言えば、例えば引退教皇ベネディクト十六世は、すべてのカトリック司祭は聖伝のミサ(トリエント・ミサ)を捧げることが自由にできる、一度も禁止されたことがない、とされましたが、ある司教がそれは今でも禁止されているとおっしゃって事実上禁止する場合、カトリック信者はどちらの「法」に従うべきでしょうか? 

もしもベネディクト十六世に従ったがために、ある司祭が自分の司教様から処罰を受けたら、それは司祭が「違法」ミサをしたからでしょうか?

また或る司祭が、ベネディクト十六世に従って聖伝のミサを捧げたが為に、自分の司教様からミサを捧げることが禁止されたとしたら、これに従わなければならないのでしょうか、それともベネディクト十六世に従い続けることが出来るのでしょうか?

聖ピオ十世会は、聖ピオ五世の勅令「クォー・プリームム」に従って、すべての司祭が義務的に捧げるべきであり、捧げる自由を永久に持つ聖伝のミサを捧げ続けていたが為に、非難されるようになりました。法的に一度も禁止されたことがなかったにもかかわらず、聖伝のミサが事実上禁止されたとされたからです。

●あるいは、もしも、教皇様の発言がイエズス・キリストの教えと矛盾している場合、私たちはどうしたらよいのでしょうか?

たとえばある日、ある教皇がイスラム教にもなかなか良いところがあるのでイスラム教徒はカトリック信者に改宗する必要はない、とおっしゃったとします。

私たちの主が使徒たちにおっしゃったことは聖書にもありますのでご存知のことと思います。
「あなたたちは、全世界に行って、すべての人々に福音をのべ伝えよ。信じて洗礼をうける人は救われ、信じない人は亡ぼされる。」(マルコ16章)
「まことにまことに、私はいう。水と霊とによって生まれない人は、天の一国には、はいれない。」(ヨハネ3章)
初代教皇の聖ペトロも言います。
「救いは主以外の者によっては得られません。全世界に、私たちが救われるこれ以外の名は、人間にあたえられませんでした。」(使徒行録4章)

この場合、カトリック信者はどちらの「法」に従うべきでしょうか。
もちろん、天主に従わなければなりません。

●新しいミサの時、カトリック信仰と反することが実践され、教えられている。

日本では、ミサ中は「立つ」「座る」を基本的な姿勢とする、日本ではパンとぶどう酒の聖別の時「立ったまま手を合わせる」、と規定されています。

御聖体には、あたかもイエズス・キリストが現存していないかのように、突っ立っていることが要求されています。跪くことは事実上禁止されています。

エキュメニズムの名目で、諸宗教の行事を取り入れることが勧められています。禅もあるし、プロテスタントとの合同礼拝も可です。「あっちこっちのミサ」もあります。

インカルチュレーションの名目で、カトリックとは全然関係の無いことがミサにおいて行われています。

大阪ではサンダルが祭壇に奉献されておかれたし、バンブーダンスもあります。

これは「合法」ミサなのでしょうか? 

司教様がしても良いと言ったことは、カトリック信仰に反しても全て「合法」なのでしょうか?

しかし、教会法は、私たちのカトリック信仰を守らせるためにあり、信仰のための奉仕のためにあります。

教会法にはこうあります。
「霊魂らの救いは最高の法である」(新教会法典1752条)
Salus animarum suprema lex. CIC (1983), can. 1752

●だれかがカトリック信仰に違反することを行わせるなら、私たちにはそれに従ってはなりません。

聖パウロはこう言っています。
「私たち自身であるにせよ、天からの天使であるにせよ、私たちがあなたたちに伝えたのとはちがう福音を告げる者にはのろいあれ。」(ガラチア1:8)

倹邪聖省のオッタヴィアーニ枢機卿はパウロ六世教皇にこう報告しています。
「新しいミサの式次第はその全体といいまたその詳細といい、トレント公会議の第22総会で宣言されたミサに関するカトリック神学から目を見張るばかりに逸脱しています。」

ベネディクト十六世が言ったように、今のカトリック教会は「沈没しつつある船」のようです。「全ては順調ではありません!」

カトリック信仰を守るためにすることは「合法」であり、これに反することは「違法」です。

永遠の救霊のためにすることは「合法」であり、これに反することは「違法」です。

「天主をおいて、あなたたちに従うことが、天主のみ前に正しいことかどうかは、あなたたちが判断しなさい。私たちとしては、見たこと聞いたことを黙っているわけにはいきません」(使徒行録4章)


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