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「頭」と「心」の乖離をどうしたらいいのか?「教皇の不可謬の特権」についてどう考えるべきか?

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

巡礼者の小道さんの「 「頭」と「心」の乖離をどうしたらいいのだろう?ーーデイブ・アームストロング師とテーラー・マーシャル師の論争を概観して」という記事を拝見しました。

巡礼者の小道さんは、デイブ・アームストロング師とテーラー・マーシャル師の意見の対立を、「頭」と「心」の乖離と表現しています。

つまり、「現代カトリック教会のありのままの姿の現実」と「その現実から目を背けたくなるような心」との対立です。

「マキャリック」「ビガーノ大司教の証言」「中国・バチカン暫定合意」という醜い情報と、それらの情報は「フェイク・ニュース」「虚偽」であるに違いないとしたい心情との断絶です。

「教皇の不可謬の特権」に反しているように見える現実に目を向けることと、「教皇は不可謬であるから、すべてが正しいはずである、正しくなければならない」という心の思い・理論との対立・乖離です。

アタナシウス・シュナイダー司教やビガーノ大司教やマーシャル師等は現実に目をつぶることが出来ずに発言した。
しかしそのような発言は、聖霊が、教導権を通し、教皇を通し、教会を正しく導かれるという大原則とどのように両立できるのか?
アームストロング師やB神父様のように、教皇フランシスコが何をしようとも何を言おうとも、教皇の教説の言うこと為すことはいかなることであれ全て正しい、と強く擁護することが理論上、正道ではないのか?
この現実と理論の間の乖離・相剋は、どう説明できるのか?
私の理解が正しければ、これが巡礼者の小道さんの疑問です。

これは、巡礼者の小道さんだけの疑問ではなく、多くの方々の疑問でもあります。

【第一の陣営】

アームストロング師やB神父様のように「心」の側に立つ第一の陣営の「保守派」の方々は、次の前提の上に立って主張しています。

■「真正なるカトリック教徒」であるためには、教皇の不可謬性を信じなければならない。それがゆえに、信仰をもって教導権および教皇の全ての教説の正しさを信じ、「地獄の門も打ち勝てない」教会の不可崩壊性(indefectibility)を信じなければならない。
教皇は不可謬だから、真の教皇によって認可されたこと(教皇の発言・主張・行動)は、必ず真理であり良いものでなければならない。

ところで、
■第二バチカン公会議以後の全ての教えや改革や革新的なことは、教皇によって認可されたことだ。

■だから、
「第二バチカン公会議は神の御心のうちに開催された会議であり、過去の公会議との完全なる連続性の内にあり、信頼に値するものである」と信じなければならない。

従って、
第二バチカン公会議の教えと実践は、ヨハネ二十三世からフランシスコに至る教皇らによって認可を受けたものである限り、必ず真理であり善でなければならない。

もしも教えや改革に問題がありうるとすれば、それは第二バチカン公会議の教えの正しい理解をしていなかったか、或いは、正しい適用をされていなかったからだ。


【第二の陣営】

ところで、ある一部の人々は、いわば「頭」の側のことを直視し、現実を見つめようとします。第二の陣営としましょう。【しかしこれはアタナシウス・シュナイダー司教やビガーノ大司教やマーシャル師等の立ち位置ではありません。念のため。かれらは第二の陣営と別の立場を取っています。】


第二の陣営にいる人々は、アームストロング師やB神父様と同じ前提からスタートします。

■「真正なるカトリック教徒」であるために、教皇は不可謬性を信じるがゆえに、信仰をもって教導権および教皇の全ての教説の正しさを信じ、「地獄の門も打ち勝てない」教会の不可崩壊性(indefectibility)を信じなければならない。

教皇は不可謬だから、真の教皇によって認可されたこと(教皇の発言・主張・行動)は、全て必ず真理であり、全て必ず良いものでなければならない。

しかし、
■第二バチカン公会議以後の全ての教えや改革や革新的なことは、単なる「正しい理解をしていない」ことでもなく「正しい適用をされていない」ことでもない。第二バチカン公会議の教えのそれ自体に、必ずしも真理ではないこと・善ではないことが存在している。第二バチカン公会議の教えや改革には問題がある。

従って、
■間違っている第二バチカン公会議のようなものを認可した教皇らは、真の教皇ではあり得ない。

この陣営に属するような人々を、セデヴァカンティスト、教皇聖座空位主義者と呼んでいます。

教皇聖座空位主義者と呼ばれる人々によれば、真の教皇はピオ十二世が亡くなって(1958年)以降存在しない、とされます。つまり現在に至るまで、教皇聖座は空位だ、ということです。

【これら二つの陣営は、信仰に反する主張に陥っている】

しかし、この両者の結論は教会の危機に対する答えたろうとするものですが、両者とも信仰に反するものとなっています。

何故なら、「保守派」の結論は「第二バチカン公会議の教えそのものは良いものでなければならない」ですが、しかし実際は第二バチカン公会議の新しい教えや実践(たとえば、信教の自由、エキュメニズム、女性の侍者、諸宗教の共同の祈り)は、第二バチカン公会議以前には教導権によって排斥され、間違っていると断罪され続けてきたものだったからです。

何が「正統」か、何が「異端」か、どこまで「許される」か、どこまで「行き過ぎ」か、これらについてはカトリック教会が過去、不可謬の判断を下しています。私たちは、自分の意見ではなく、カトリック教会の不可謬の教えにそのまま従うまでです。

羊たちはみな、羊飼いを認めながら、羊飼いのやっている悪しきこと(教会が過去に断罪したこと)に従うことは出来ないのです。

また、「聖座空位論」の結論は「第二バチカン公会議以後の教皇らは真の教皇ではない」ですが、教会の本質的な特徴(教会の不可崩壊性(indefectibility)、使徒継承性、可視性など)を否定することになるからです。

【二つの陣営の誤りの原因】

この両者の立場における誤りの原因は、「教皇の不可謬性」のドグマを誤解しているところにあります。

教皇の不可謬性を正しく理解するなら、「真の教皇は、不可謬権を行使しようと特別に行動を起こす時、悪しき教えや実践を認可することが出来ない」となります。

何故なら、第一バチカン公会議によって規定された教皇の不可謬権の行使のためには条件が付けられていて、教皇の不可謬権とは教皇において恒常的に現実態において機能しているカリスマ(得能)ではないからです。

キリストが聖ペトロとその後継者らに与えた「誤りから守られるという」特権は、「地上でつなぐ、あるいは、地上で解く」時に機能するように与えられたからです。「地獄の門もこれに勝てないだろう。私は天の国の鍵をあなたに与えよう。あなたが地上でつなぐものはみな天でもつながれ、あなたが地上でとくものはみな、天でもとかれるだろう。」(マテオ16章)

アタナシウス・シュナイダー司教は、教皇の不可謬性を正しく理解されております。

ところで、いかなる教皇も過去50年にわたり不可謬権を行使しようとしませんでした。

第二バチカン公会議を開催し閉会した教皇らは、第二バチカン公会議を司牧公会議として、いかなる教義決定をもすることを避けました。従って、第二バチカン公会議は不可謬性を帯びることがない公会議となりました。

第二バチカン公会議のような公会議は以前にはありませんでした。つまり世界中の司教たちが教皇とともに集いながら、いかなる教義も定義しようとせず、誤謬を排斥しようともしなかった公会議です。

第二バチカン公会議の新しい教えや実践を含めて、教皇の全ての教えと実践とを、区別せずに、それら全てに不可謬性を拡張し延長しようとすることによって、二つの謬った態度が結果しました。

一方で、第二バチカン公会議の新しい教えと実践は悪であると考えることは出来ない、とする態度。

他方で、第二バチカン公会議の新しい教えと実践は、真の教皇に由来しない、とする立場です。

ところで、

(教皇が認可したことなので)第二バチカン公会議以後の新しい教え(エキュメニズム、プロテスタントと同じような典礼など)は全て正しく良いことに違いない、とする態度、あるいは

(第二バチカン公会議以後の新しい教え(エキュメニズム、プロテスタントと同じような典礼など)は間違っているので)それを認可するような教皇は本物の教皇ではない、とする態度、

それしかないのでしょうか?

私たちは、どう考えたら良いのでしょうか?

この問題の解決のために、ジョン・サルザとロバート・シスコウ共著の『教皇は本物か偽物か?』を推薦します。

TRUE OR FALSE POPE?
Refuting Sedevacantism and Other Modern Errors
By John Salza and Robert Siscoe



私たちは、教皇の不可謬性とは何かを正しく理解しなければなりません。

確かに、天主の御摂理が許可したことにより、天主の真の教会は今まで体験したことがなかったような苦しみを経験しています。キリストの神秘体の受難です。

ちょうど、聖金曜日に十字架の上で私たちの主イエズス・キリストが死の苦しみを受けたように、キリストの神秘体であるカトリック教会も流血の苦しみを受けその姿は変わり果ててしまいました。しかし、真の教会のまま残ります。

しかし、教皇座空位論を信奉する人々は、カトリック教会の傷を、癒やすために告発すると言うよりは、馬鹿にしあざ笑い不信を呼び起こさせるために告発します。

教皇座空位論者は「これが本当の教会ではあり得ない!」「天主が真の教会にこのようなことが起こることを許すわけがない!」と主張するために、告発します。


【いろいろある教皇座空位論】

教皇座空位論とは、1970年代に作られた新しい間違いです。しかし、教皇座空位論者らの間で、互いに理論がバラバラで(何故、いつ、どうやって教皇の職務を失うのか、など)、またその主張の内容(どの教皇から真の教皇ではないのか、など)もバラバラです。

ある教皇座空位論によると、公会議後の教皇らは、教皇となる前から異端者だったので、真の教皇ではない、とされます。

別の教皇座空位論は、公会議後の教皇らは、有効に教皇として選ばれて真の教皇たちだったけれども、公の異端を唱えることによって、教皇の職を失った、と主張します。

ある教皇座空位論によれば、異端の罪によって、教皇は自動的に教皇職を失う、とします。

他の教皇座空位論は、真の教皇は異端に陥ることがあり得ない、と言います。

ある教皇座空位論によると、公会議後の教皇らは「質料的に教皇」だった(法的に教皇職についているだけ)が「形相的な教皇」ではなかった(本物の実際の教皇ではなかった)とされます。

他方で、そうではなく、全く教皇でもなんでもなかった(「教皇コスプレ」)、と主張する教皇座空位論もあります。

ある教皇座空位論者は、パウロ六世は新しいミサを全世界に正式に公式に押しつけた、と主張しますが、そうではなかったと言う別の教皇座空位論者らもいます。

第二バチカン公会議後にできた新しい叙階の秘蹟、司祭叙階や司教聖別の典礼様式や形相は、無効だと主張する教皇座空位論者もいれば、それに同意しない論者もいます。

第二バチカン公会議を特別教導権による不可謬の行為だったと主張する教皇座空位論者もいれば、そうではなく、第二バチカン公会議は通常普遍教導権の力によって不可ビュうだった、とする教皇座空位論者もいます。

ある教皇座空位論者によると、最後の真の教皇はピオ十二世だったと信じています。別の教皇座空位論者は、1878年レオ十三世から「反教皇」が出た、と言います。

教会の不可崩壊性(indefectibility)を守るために、自分たちの「教皇」を「コンクラーベ」で選んだ教皇座空位論者らもいます。

【教皇座空位論者らの共通点】

互いに矛盾しているいろいろな教皇座空位論がありますが、教皇座空位論者らに共通していることは、だれが真の教皇でだれがそうでないかというのは、(教会の公式な判断に委ねるのではなく)カトリック信徒個人が自分で決めることだ、とする態度です。

何故このように違うのでしょうか?何故なら、教皇座空位論とは、プロテスタント主義(自由解釈・個人解釈)の誤りの基礎を持っているからです。

教皇座空位論には、主に3つの議論があります。

1)最近の教皇らは異端者だったので、真の教皇ではありえない。

2)第二バチカン公会議以降、教皇とされてきた人々は、真の教皇であればすることができないことを行ったので、真の教皇ではありえない。

3)パウロ六世によって認可された新しい司教聖別の典礼様式は無効である。従って、新しい典礼様式によって司教聖別された司教ら(ベネディクト十六世、フランシスコ)は、真の司教ではない。従って、彼らは真の教皇ではない、何故なら司教ではないものがローマ司教ではあり得ないからだ。

最初の「異端者なので」と、第三の「真の司教ではないので」という議論は、「何であるか」という存在の理由によって、教皇ではないと主張します。

第二の「真の教皇であればすることができないことを行ったので」という議論は、行動の理由によって真の教皇ではないと言います。

ジョン・サルザとロバート・シスコウ共著の『教皇は本物か偽物か?』TRUE OR FALSE POPE? Refuting Sedevacantism and Other Modern Errors by John Salza and Robert Siscoe は、この三つの議論に答えます。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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