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「頭」と「心」の乖離をどうしたらいいのか?兄弟的矯正 fraternal correction と本当の従順について

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様

巡礼者の小道さんの「 「頭」と「心」の乖離をどうしたらいいのだろう?ーーデイブ・アームストロング師とテーラー・マーシャル師の論争を概観して」という記事を拝見して、
先日「「頭」と「心」の乖離をどうしたらいいのか?「教皇の不可謬の特権」についてどう考えるべきか?」という記事を書きました。

巡礼者の小道さんは、この乖離の問題を「有限性と弱さを抱えつつもやはり私の良心は、自分の眼に「黒」に映っているものを「白」と言うことはできない。」という論考で、現実に目をつぶることはできない、とその悩みを打ち明けています。

つまり、

信仰に反すること・信仰が禁止することを信じてはならない・行ってはならないと客観的に訴えている自分の良心の声を否定して、信仰に反すること・信仰が禁止することを「良いことだ」と教会の権威に従属させることが、天主の主権に従順であることなのか?

従順のために「黒」を「白」だと言う時、「個」としての私は、天主の御前で無罪なのか?責任は問われないのか?

あるいは「これは黒だ」と言うことが出来るのか?

==引用開始==

「これは『黒』だ」と叫んでやまない私の良心の声はどうなるのだろう。良心の声を、教導権や教区の教会権威の声の下に従属させることが即、教会を通して働く神の主権に恭順であるということなのだろうか。

「黒」は犯罪であり、隠蔽罪であり、組織的闇である。神が教会の教導権を通し主権的に働かれるという理念ゆえに、そして教区権威への恭順ゆえに、私が、この「黒」を「白」だと宣言するとき、「個」としての私は、正義なる神の前にはたして無罪なのだろうか、それとも有罪なのだろうか。恭順ゆえに、強いて自分自身を情報鎖国状態、霊的「北朝鮮」状態に置くことは、正義なる神の前に称賛されるべき行為なのだろうか、それとも糾弾されるべき誤った行為なのだろうか。

仮に「黒」が「黒」であった場合、上への恭順心からそれを「白」であると捉えようとした私の過ちの咎及び責任は、自分個人に帰されるのであろうか。それとも、それは組織の中の権威側の責任とされ、私は一切の倫理責任から解放されるのだろうか。

==引用終わり==

この問題の解決のために、先日「「頭」と「心」の乖離をどうしたらいいのか?「教皇の不可謬の特権」についてどう考えるべきか?」という記事では、ジョン・サルザとロバート・シスコウ共著の『教皇は本物か偽物か?』を推薦しました。

TRUE OR FALSE POPE?
Refuting Sedevacantism and Other Modern Errors
By John Salza and Robert Siscoe



まず、ひとつ区別しなければならないことは、何についてか?ということです。
何が自分の眼に「黒」に映っているものなのか?
何を「白」と言うことはできないのか?
ということです。

私たちが問題としている対象は、隣人の隠れた過失・隣人の行った行為の意図などのことではありません。
隣人が寝坊したのは、もしかしたら、私たちの知らない重大な理由があったかもしれません。お母さんが寝ずに子供の看病をして、朝起きられなかったのかもしれません。

そうではなく、
私たちがここでいう「黒」とは「信仰に反すること」「信仰が禁止すること」であり、
客観的に判断できることです。

私たちが問題としているのは、明らかに客観的に「信仰に反すること・信仰が禁止すること」を「良いことだ」とすることができるのか?ということです。

聖パウロは聖ペトロに、愛徳の一つである「兄弟的矯正 correctio fraterna」を行いました。

「ケファがアンティオキアに来たとき、私は面と向かってかれに反対した。かれに非難するところがあったからである。というのは、かれはある人々がヤコボのほうから来るまでは、異邦人といっしょに食事していたのに、その人たちが来ると、退いて、割礼を受けた人々をはばかって異邦人を避けたからである。他のユダヤ人もかれにならって、いつわりの態度をとり、バルナバもそのいつわりにさそわれたほどであった。しかし私は、かれらが福音の真理にしたがって正しく歩んでいないのを見て、皆の前でケファにいった。「あなたはユダヤ人であるのに、ユダヤ人のようにせず、異邦人のように生活している。それなら、どうして異邦人にユダヤ人のようにせよと強いるのか」と。」
(ガラツィア2章)

もしも教皇様に、愛徳に押されて、尊敬を込めて、真理を語ったなら、「一致の敵」となるのでしょうか?真理を語ると「非国民」「非信徒」となるのでしょうか?

もしも私たちが、愛徳の故に、客観的な理由を説明しながら、毒を「毒だ」というと、敵になるのでしょうか?

「私があなたたちに真理を話したから、敵になったのか?」(ガラツィア4:16)

もちろん、私たちは、隣人の罪について判断したり宣伝したりする義務も権利もありません。

しかし、隣人が、或いは、長上が私たちに罪を犯すことを求めて来た場合、「信仰に反すること」「信仰が禁止すること」が求められてきたとき、私たちは従わなければならないのか、ということです。

親が子供に「銀行に強盗に行って稼いでこい」と言ったら、はい、といって素直にその通りをしなければならないのか?ということです。親がやれと行ったからやっただけだ、自分には責任がない、ということは言えるのか?です。

もしかしたら、11歳の子供であれば、親に指示されて悪事を手伝うことになったとしても、刑事上の責任は負わされないかもしれません。しかし、大人が、成人が、指示されたからと言って悪事を行うことができるのでしょうか?

いえ、私たちは、自分の行った行為の責任を問われます。「従順」のために悪事を行うことは本物の従順ではありません。聖トマス・アクィナスは「信仰に関わることである時、長上たちに対して兄弟的矯正を行使することが出来る」と教えています。

兄弟的矯正 fraternal correction について、本当の従順について、ルフェーブル大司教は、こう言っています。

「読者の皆さんはこんなことを言う誘惑に駆られているかもしれません。"では私たちにいったい何が出来るというのか? 私たちにこれをしろ、あれをしろ、というのは司教様なのだ。ほら、この公文書は(司教様公認の)要理委員会が、または別の公式委員会が発表したものだ。(公式の司教様の権威に抵抗しろというのか?)" では、信仰を失う以外に何も残っていないと言うのでしょうか? そのような対応をする権利はありません。聖パウロは私たちにこう警告しました。「私たち自身であるにせよ、天からの天使であるにせよ、私たちがあなたたちに伝えたのとはちがう福音を告げる者にはのろいあれ。」(ガラチア1:8)これが真の従順の秘訣です。」

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

追記:
このことに関して、歴史家であるロベルト・デ・マテイ教授は『教会史における教皇制度に対する愛と教皇に対する抵抗』Love for the Papacy and Filial Resistance to the Pope in the History of the Church, By Roberto de Matteiという本を出版しています。

Love for the Papacy and Filial Resistance to the Pope in the History of the Church
著者 Roberto De Mattei
寄与者 Raymond Leo Cardinal Burke
出版社 Angelico Press, 2019
ISBN 162138456X, 9781621384564
ページ数 232 ページ

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