2019年7月5日(初金)至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
小野田神父 説教
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
「そして、これを見た者がその証言をする。そしてこの証言は真実である。」
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愛する兄弟の皆さん、聖母の汚れなき聖心聖堂にようこそ。
今日は2019年7月5日、7月の初金曜日のミサを捧げています。
今日この御ミサの後に、初金曜日の聖時間を設けて、御聖体の前でイエズス様の聖心を礼拝致しましょう。
今日初金曜日ですので、イエズス様の聖心の黙想を致しましょう。聖ヨハネ・ユードの黙想を皆さんにご紹介したいと思っています。
カトリックの信仰というのは、「自分の思う、自分が思うから、自分がこうあると都合が良いから、だからそうだ」というのではありません。
「自分がこうであるに違いないと思っている、だからそれが正しい」のではありません。
「カトリックの信仰」というのは、「それが現実だから、それが本当だから、それが真理だから、それが実際、現実の事なので、本当なので」それを「正しい、真理だ」と、私たちはそれに同意しています。
イエズス様の聖心の信仰もまさにこれです。私たちが、イエズス様の聖心が、想像で、私たちの思い、勝手な作り話で、それを思うと確かに自分の気持ちが、気持ち良くなるから信じている、のではありません。これを信心しているのではありません。
全宇宙を創ったこの創造主が、「御自分がどれほど人類を愛しているか」という事を、本当に歴史の事実として私たちに教えて下さったので、それを「確かに、本当だ」として受け止めています。
ではこの全宇宙を創って、この私たちを今在らしめて下さっている唯一の創造主、天主が一体、何を私たちに啓示して下さったのでしょうか?
聖ヨハネ・ユードはこう言います、「イエズス様の聖心は一つだけれども、しかし三つの事を考える事ができる。天主としてのイエズス様。人間としてのイエズス様。そしてそれが二つが、天主との本性と人間の本性が合体して、肉となって、私たちの為に鼓動している、イエズスの聖心。」
現実の、私たちが、この「前に壁がある」というのを、どうしても「本当だ」と言わなければならない、私たちがこう肉を以て、ご飯を食べて、「それが本物だ」というのと同じ程度の、その同じ現実に、今ここに蚊がいれば、「蚊が!嫌だ!」、車が来たら、「車だ!危ない!そうしなければ轢かれてしまう!」
それと同じ現実で、私たちを今生かして下さる天主が、その永遠の昔から聖子を愛していた、天主聖父は聖子を愛して、「この、これこそ我が子である。これに私は喜びを置く」と啓示された、その天主聖父。
そしてその聖子も、「私の喜びは、」旧約聖書の啓示によると、「私の喜びは、人の子らと共にある事である。」
その天主の愛を以て、人間をこの世を、聖子を与えるまで愛されたその聖父。そしてその同じ愛を以て、聖子は私たちを愛しておられる。その天主の永遠の愛。
「私の考えは、代々永遠に、その愛を以て私たちを愛して下さる」というその愛の事を、ヨハネ・ユードは「まず考えよ」と言います。
第2に、人間として天主イエズス・キリストは、天主聖父の命令を、その御旨を果たそうとします。
「聖父よ、もしもできる事ならば、この杯を私から遠ざけて下さい。しかし私の願いではなく、御旨が果たされますように。」
なぜかというと、イエズス様は私たちの救いを求めていたので、私たちの永遠の救いの為に、「自分の苦しみを捧げたい」と言うよりは、「聖父天主の御旨を果たしたい」と、私たちの救霊を望みました。
イエズス様が私たちの永遠の喜びの為に、自分の事を全く捨てようと、苦しみを喜んで受けようと思ったその愛、人間としての愛を、聖ヨハネ・ユードは「考えよう」と「黙想しよう」と。
どれほど私たちは、イエズス様の為に自分の苦しみを喜んで受けようとした事でしょうか?
あぁ、それともどれほど多く、自分のちょっとした楽しみの為に、都合の為に、イエズス様を悲しめてしまったり、あるいは聖心に背いたり、あるいはその御旨に逆らって来てしまった事でしょうか。
第3に、聖ヨハネ・ユードは、「この二つの、『天主の愛』と、この『人間としてのイエズス様の愛』が、この聖心において合体している」と。
イエズス様は私たちに言います、「恐れるな、小さな群れよ。お前たちに天の御国を与える事は、聖父の御旨だ。おまえたちの髪の毛一本さえも、ちゃんと数えられている。」
そして聖父に願ったのは、「御身が私に与えて下さったこの彼らが、常に永遠に、私と共にいますように。永遠の命とは、御身と、御身の遣わし給うたイエズス・キリストを知る事にあります。彼らが共にありますように。」
私たちの救いと、永遠の事だけを思っておられました。
愛に燃え、そして遂に、この聖心で鼓動をしていた御血は、流れ尽くしました。兵士によって、槍によって貫かされた時に、その聖心は開いて私たちを、あたかも新しい救いの箱舟であるかのようにその脇が開いて、残っていた、聖心に残っていた御血は、水と共に流れ出てしまいました。「もうこれ以上、お前たちに流すべき血は無い」と言わんばかりに。
この私たちは、イエズス様の愛、現実の愛、私たちの勝手な想像ではなく、「本当に、天主が、私たちをその永遠の愛で、天主として、人間として、そしてこの二つが合体した聖心として、愛しておられる」という事を黙想致しましょう。
今日ミサの後に御聖体降福式があります。イエズス様の聖心は、この御聖体の中にも在し給い、私たちを愛して、報いて下さろうと、恵んで下さろうと、私たちの祈りと、愛を、待っておられます。
「人類を、かくも愛した聖心」
私たちはそれに対して、何もせずにいる事ができるでしょうか?
この聖心は、私たちを愛したにも関わらず、私たちに恵みを与えようとしているにも関わらず、それが本物であるにも関わらず、人々は却ってこれを拒否しようとします。それを、「都合が悪いから」あるいは「理解できない」「何の事か分からない」聞こうともしません。そして自分の主張だけを、あたかも自分が全てを決定しなければならないかのように、天主の座に立とうとしています。
イエズス様の聖心は愛されていません。認められていません。軽蔑と、冷淡と、侮辱と、無関心を以て、無理解を以て、答えられています。
今日ミサに与った愛する兄弟の皆さん、私たちは少なくともイエズス様をお愛し申し上げましょう。私たちの愛を以て、無関心を償う事に致しましょう。
マリア様に、その事ができますように、お祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
小野田神父 説教
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
「そして、これを見た者がその証言をする。そしてこの証言は真実である。」
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愛する兄弟の皆さん、聖母の汚れなき聖心聖堂にようこそ。
今日は2019年7月5日、7月の初金曜日のミサを捧げています。
今日この御ミサの後に、初金曜日の聖時間を設けて、御聖体の前でイエズス様の聖心を礼拝致しましょう。
今日初金曜日ですので、イエズス様の聖心の黙想を致しましょう。聖ヨハネ・ユードの黙想を皆さんにご紹介したいと思っています。
カトリックの信仰というのは、「自分の思う、自分が思うから、自分がこうあると都合が良いから、だからそうだ」というのではありません。
「自分がこうであるに違いないと思っている、だからそれが正しい」のではありません。
「カトリックの信仰」というのは、「それが現実だから、それが本当だから、それが真理だから、それが実際、現実の事なので、本当なので」それを「正しい、真理だ」と、私たちはそれに同意しています。
イエズス様の聖心の信仰もまさにこれです。私たちが、イエズス様の聖心が、想像で、私たちの思い、勝手な作り話で、それを思うと確かに自分の気持ちが、気持ち良くなるから信じている、のではありません。これを信心しているのではありません。
全宇宙を創ったこの創造主が、「御自分がどれほど人類を愛しているか」という事を、本当に歴史の事実として私たちに教えて下さったので、それを「確かに、本当だ」として受け止めています。
ではこの全宇宙を創って、この私たちを今在らしめて下さっている唯一の創造主、天主が一体、何を私たちに啓示して下さったのでしょうか?
聖ヨハネ・ユードはこう言います、「イエズス様の聖心は一つだけれども、しかし三つの事を考える事ができる。天主としてのイエズス様。人間としてのイエズス様。そしてそれが二つが、天主との本性と人間の本性が合体して、肉となって、私たちの為に鼓動している、イエズスの聖心。」
現実の、私たちが、この「前に壁がある」というのを、どうしても「本当だ」と言わなければならない、私たちがこう肉を以て、ご飯を食べて、「それが本物だ」というのと同じ程度の、その同じ現実に、今ここに蚊がいれば、「蚊が!嫌だ!」、車が来たら、「車だ!危ない!そうしなければ轢かれてしまう!」
それと同じ現実で、私たちを今生かして下さる天主が、その永遠の昔から聖子を愛していた、天主聖父は聖子を愛して、「この、これこそ我が子である。これに私は喜びを置く」と啓示された、その天主聖父。
そしてその聖子も、「私の喜びは、」旧約聖書の啓示によると、「私の喜びは、人の子らと共にある事である。」
その天主の愛を以て、人間をこの世を、聖子を与えるまで愛されたその聖父。そしてその同じ愛を以て、聖子は私たちを愛しておられる。その天主の永遠の愛。
「私の考えは、代々永遠に、その愛を以て私たちを愛して下さる」というその愛の事を、ヨハネ・ユードは「まず考えよ」と言います。
第2に、人間として天主イエズス・キリストは、天主聖父の命令を、その御旨を果たそうとします。
「聖父よ、もしもできる事ならば、この杯を私から遠ざけて下さい。しかし私の願いではなく、御旨が果たされますように。」
なぜかというと、イエズス様は私たちの救いを求めていたので、私たちの永遠の救いの為に、「自分の苦しみを捧げたい」と言うよりは、「聖父天主の御旨を果たしたい」と、私たちの救霊を望みました。
イエズス様が私たちの永遠の喜びの為に、自分の事を全く捨てようと、苦しみを喜んで受けようと思ったその愛、人間としての愛を、聖ヨハネ・ユードは「考えよう」と「黙想しよう」と。
どれほど私たちは、イエズス様の為に自分の苦しみを喜んで受けようとした事でしょうか?
あぁ、それともどれほど多く、自分のちょっとした楽しみの為に、都合の為に、イエズス様を悲しめてしまったり、あるいは聖心に背いたり、あるいはその御旨に逆らって来てしまった事でしょうか。
第3に、聖ヨハネ・ユードは、「この二つの、『天主の愛』と、この『人間としてのイエズス様の愛』が、この聖心において合体している」と。
イエズス様は私たちに言います、「恐れるな、小さな群れよ。お前たちに天の御国を与える事は、聖父の御旨だ。おまえたちの髪の毛一本さえも、ちゃんと数えられている。」
そして聖父に願ったのは、「御身が私に与えて下さったこの彼らが、常に永遠に、私と共にいますように。永遠の命とは、御身と、御身の遣わし給うたイエズス・キリストを知る事にあります。彼らが共にありますように。」
私たちの救いと、永遠の事だけを思っておられました。
愛に燃え、そして遂に、この聖心で鼓動をしていた御血は、流れ尽くしました。兵士によって、槍によって貫かされた時に、その聖心は開いて私たちを、あたかも新しい救いの箱舟であるかのようにその脇が開いて、残っていた、聖心に残っていた御血は、水と共に流れ出てしまいました。「もうこれ以上、お前たちに流すべき血は無い」と言わんばかりに。
この私たちは、イエズス様の愛、現実の愛、私たちの勝手な想像ではなく、「本当に、天主が、私たちをその永遠の愛で、天主として、人間として、そしてこの二つが合体した聖心として、愛しておられる」という事を黙想致しましょう。
今日ミサの後に御聖体降福式があります。イエズス様の聖心は、この御聖体の中にも在し給い、私たちを愛して、報いて下さろうと、恵んで下さろうと、私たちの祈りと、愛を、待っておられます。
「人類を、かくも愛した聖心」
私たちはそれに対して、何もせずにいる事ができるでしょうか?
この聖心は、私たちを愛したにも関わらず、私たちに恵みを与えようとしているにも関わらず、それが本物であるにも関わらず、人々は却ってこれを拒否しようとします。それを、「都合が悪いから」あるいは「理解できない」「何の事か分からない」聞こうともしません。そして自分の主張だけを、あたかも自分が全てを決定しなければならないかのように、天主の座に立とうとしています。
イエズス様の聖心は愛されていません。認められていません。軽蔑と、冷淡と、侮辱と、無関心を以て、無理解を以て、答えられています。
今日ミサに与った愛する兄弟の皆さん、私たちは少なくともイエズス様をお愛し申し上げましょう。私たちの愛を以て、無関心を償う事に致しましょう。
マリア様に、その事ができますように、お祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。