アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
以前、巡礼者の小道さんは、
信仰に反すること・信仰が禁止することを信じてはならない・行ってはならないと客観的に訴えている自分の良心の声を否定して、信仰に反すること・信仰が禁止することを「良いことだ」と教会の権威に従属させることが、天主の主権に従順であることなのか?
従順のために「黒」を「白」だと言う時、「個」としての私は、天主の御前で無罪なのか?責任は問われないのか?
ということを問うていました。
====引用開始====
仮に「黒」が「黒」であった場合、上への恭順心からそれを「白」であると捉えようとした私の過ちの咎及び責任は、自分個人に帰されるのであろうか。それとも、それは組織の中の権威側の責任とされ、私は一切の倫理責任から解放されるのだろうか。
====引用終了====
私はそれについて兄弟的矯正について記事を書きました。
では、今回は、もしも従順から「黒」を「白」だと言う時、私の責任は問われないのか?全ては権威側の責任とされ、私は一切の倫理責任から解放されるのだろうか?という問いに答えたいと思います。
教皇様が「黒」を「白」と間違っても、盲目的にそれに従うべきで、従う限り私には責任はないのでしょうか?
否です。天主よりも人間に従った場合、私にはその責任があります。
確かに教皇はカトリック教会において重要な権威です。
しかし、
例えば、教皇様が「黒」を「白」と間違って言っても、盲目的にそれに従うべきで、従う限り私には責任はないのでしょうか?
いえ、私たちには責任があります。
では、「教皇に反して正しいよりも、教皇と共に間違うことを選ぶ」
「もしも教皇様が間違うなら、私は教皇様と一緒に間違いたい」
「教皇に反対して真理のうちにいるよりも、教皇と一緒に間違う方が良い」
などと言うことはできるのでしょうか?
いえ、出来ません。
何故なら、これはつまり、
「教皇と共に私たちの主イエズス・キリストに反している方が、教皇に反して私たちの主イエズス・キリストと共にいるよりも良い」
と言っていることだからです。
教皇は、イエズス・キリストではありません、イエズス・キリストの代理者です。
教皇の権力は絶対ではありません。この意味は、教皇はこの地上で最高の権威ですが、その権力と権威は、天主に服従していなければならないという条件があるので、絶対ではない、ということです。
天主の教えと権威と力は、聖伝と聖書と過去の不可謬の教導権による定義とのうちに表明されています。教皇といえども、不可謬の教えを変えることは出来ません。教皇は天主からの啓示に奉仕するために存在しています。
最後の使徒の死を持って、啓示は閉じられました。その死を持って、もはや預言者はいなくなりました。予言の時代は終了しました。その死から、ドグマの時代に入りました。今、私たちはドグマの時代に生きています。
私たちの主イエズス・キリストが最後の最大の預言者で、啓示を私たちに与え、それを使徒たちが私たちに伝えました。最後の使徒の死で、この啓示は閉じられたのです。この死を持って、新しい聖書もありません。
ドグマの時代において、歴代の教皇や歴代の公会議の役割は、何が啓示に含まれるのかを定義することです。
教皇や公会議の役割は、いきなり「現代は、現代人の考え方に合わせなければならない」などと言うことではありません。そんなことは、過去の歴代教皇らが啓示について定義したことに反しています。
教皇がカトリック教会を新しい道に引き入れようとするとき、啓示に基礎をおかない道に教会を導こうとするとき、教皇は教皇としての役割を果たしていないことになります。
課長の命令が部長の命令と矛盾するとき、私たちは部長の命令を行わなければなりません。
課長と部長の命令が社長の命令と矛盾するとき、私たちは社長の命令を行わなければなりません。
教皇様のお言葉も、もしも歴代の教皇や歴代の公会議の不可謬の教え(つまり天主の教え)と矛盾しているのなら、私たちは天主に従わなければなりません。
これについて、巡礼者の小道さんが、シュナイダー司教の論文を紹介しつつ次の話を引用しています。
ある日、一人のカトリック教徒が、年老いた聖者であり賢人に助言をもらうべく修道院を訪れました。教会の不穏な状況に不安を覚えていたのです。
彼は隠遁士に訊ねました。「自分の教区の司祭が異端者である場合、私はどうすればいいのでしょうか?」
「司教の元に行きなさい。」隠遁士は答えました。
「はい。ですが、、その司教もまた異端者であった場合、どうすればいいのでしょうか?」
「教皇の元に行きなさい。」隠遁士は答えました。
「そして、、その教皇も異端者であった場合は?」とりすがるように男は訊ねました。
「その時には、カトリック教徒がこれまで常に行なってきたことを知り、それを行ないなさい。」
カトリック教会が常に信じ行い続けてきたこと、これを私たちは忠実に行い信じ続けなければなりません。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
愛する兄弟姉妹の皆様、
以前、巡礼者の小道さんは、
信仰に反すること・信仰が禁止することを信じてはならない・行ってはならないと客観的に訴えている自分の良心の声を否定して、信仰に反すること・信仰が禁止することを「良いことだ」と教会の権威に従属させることが、天主の主権に従順であることなのか?
従順のために「黒」を「白」だと言う時、「個」としての私は、天主の御前で無罪なのか?責任は問われないのか?
ということを問うていました。
====引用開始====
仮に「黒」が「黒」であった場合、上への恭順心からそれを「白」であると捉えようとした私の過ちの咎及び責任は、自分個人に帰されるのであろうか。それとも、それは組織の中の権威側の責任とされ、私は一切の倫理責任から解放されるのだろうか。
====引用終了====
私はそれについて兄弟的矯正について記事を書きました。
では、今回は、もしも従順から「黒」を「白」だと言う時、私の責任は問われないのか?全ては権威側の責任とされ、私は一切の倫理責任から解放されるのだろうか?という問いに答えたいと思います。
教皇様が「黒」を「白」と間違っても、盲目的にそれに従うべきで、従う限り私には責任はないのでしょうか?
否です。天主よりも人間に従った場合、私にはその責任があります。
確かに教皇はカトリック教会において重要な権威です。
しかし、
例えば、教皇様が「黒」を「白」と間違って言っても、盲目的にそれに従うべきで、従う限り私には責任はないのでしょうか?
いえ、私たちには責任があります。
では、「教皇に反して正しいよりも、教皇と共に間違うことを選ぶ」
「もしも教皇様が間違うなら、私は教皇様と一緒に間違いたい」
「教皇に反対して真理のうちにいるよりも、教皇と一緒に間違う方が良い」
などと言うことはできるのでしょうか?
いえ、出来ません。
何故なら、これはつまり、
「教皇と共に私たちの主イエズス・キリストに反している方が、教皇に反して私たちの主イエズス・キリストと共にいるよりも良い」
と言っていることだからです。
教皇は、イエズス・キリストではありません、イエズス・キリストの代理者です。
教皇の権力は絶対ではありません。この意味は、教皇はこの地上で最高の権威ですが、その権力と権威は、天主に服従していなければならないという条件があるので、絶対ではない、ということです。
天主の教えと権威と力は、聖伝と聖書と過去の不可謬の教導権による定義とのうちに表明されています。教皇といえども、不可謬の教えを変えることは出来ません。教皇は天主からの啓示に奉仕するために存在しています。
最後の使徒の死を持って、啓示は閉じられました。その死を持って、もはや預言者はいなくなりました。予言の時代は終了しました。その死から、ドグマの時代に入りました。今、私たちはドグマの時代に生きています。
私たちの主イエズス・キリストが最後の最大の預言者で、啓示を私たちに与え、それを使徒たちが私たちに伝えました。最後の使徒の死で、この啓示は閉じられたのです。この死を持って、新しい聖書もありません。
ドグマの時代において、歴代の教皇や歴代の公会議の役割は、何が啓示に含まれるのかを定義することです。
教皇や公会議の役割は、いきなり「現代は、現代人の考え方に合わせなければならない」などと言うことではありません。そんなことは、過去の歴代教皇らが啓示について定義したことに反しています。
教皇がカトリック教会を新しい道に引き入れようとするとき、啓示に基礎をおかない道に教会を導こうとするとき、教皇は教皇としての役割を果たしていないことになります。
課長の命令が部長の命令と矛盾するとき、私たちは部長の命令を行わなければなりません。
課長と部長の命令が社長の命令と矛盾するとき、私たちは社長の命令を行わなければなりません。
教皇様のお言葉も、もしも歴代の教皇や歴代の公会議の不可謬の教え(つまり天主の教え)と矛盾しているのなら、私たちは天主に従わなければなりません。
これについて、巡礼者の小道さんが、シュナイダー司教の論文を紹介しつつ次の話を引用しています。
ある日、一人のカトリック教徒が、年老いた聖者であり賢人に助言をもらうべく修道院を訪れました。教会の不穏な状況に不安を覚えていたのです。
彼は隠遁士に訊ねました。「自分の教区の司祭が異端者である場合、私はどうすればいいのでしょうか?」
「司教の元に行きなさい。」隠遁士は答えました。
「はい。ですが、、その司教もまた異端者であった場合、どうすればいいのでしょうか?」
「教皇の元に行きなさい。」隠遁士は答えました。
「そして、、その教皇も異端者であった場合は?」とりすがるように男は訊ねました。
「その時には、カトリック教徒がこれまで常に行なってきたことを知り、それを行ないなさい。」
カトリック教会が常に信じ行い続けてきたこと、これを私たちは忠実に行い信じ続けなければなりません。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)