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謙遜について : ピーター・フォルティン神父様 2019年8月18日聖霊降臨後第十主日の説教 

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2019年8月18日(主)聖霊降臨後第十主日の説教 
聖ピオ十世会司祭  ピーター・フォルティン神父様

本日の福音において、私たちの主は、私たちにけんそんについての美しい教訓を与えてくださっています。このメッセージは、このあわれな罪びと、すなわち税吏(みつぎとり)にとって喜ばしいものですが、この高慢な男、すなわち自分のことを実際よりも良い人間だと思っているファリザイ人にとっては警告を与えるものです。このたとえにおいて、私たちの主は、けんそんな罪びとの方が、自分のことを聖にして義であると思っている高慢な男よりも嘉せられるということを明確になさっています。これらの二人の男を見ることで、教会はけんそんの徳の重要性を強調したいと望んでいるのです。

福音にでてくるこの二人の男を比べると、例えば、天主に対する敬意や寛大さのような他の聖徳においては似ているところがあります。しかし、違いのポイントはけんそんであり、けんそんがその差を作り出しているようです。高慢な男はけんそんの徳を、弱いもの、不合理なもの、あるいは誤りと考えています。私たちには、一人が天主の国に属しており、もう一人がサタンの国に属していることがはっきり分かります。サタンの国では高慢とうぬぼれだけしかなく、天主の国ではけんそんが支配しているのです。



サタンは天主に対して反乱を起こすことによって自分の国を造りました。「Non serviam. 私は仕えない」とは、サタンが天主に対して言っていることです。これがサタンの国の標語です。サタンは、高慢とうぬぼれを通して人間を誘惑します。この世は悪魔の支配地であって、天主に対するけんそんも敬意も従順もまったく知らないのです。

他方、天主の国の創立者は、私たちの主イエズス・キリストです。創造においても、その完全さにおいても限りを知らない天主の御子です。それにもかかわらず、主は、人間の本性を、奴隷の本性をお取りになって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまでけんそんに御自らを低くされます(フィリッピ2章7-8節参照)。主は、「私は柔和で心のけんそんな者であるから、私に習え」(マテオ11章29節)と言うことがおできになりました。主は人間に仕えられるためではなく、人間に仕えるために来られました(マテオ20章28節、マルコ10章45節参照)。それは、主がご自分の命令に従う何百万もの天使をお持ちであるにもかかわらずです。私たちには、この二つの国に大きな違いがあるのが分かります。一つには高慢とうぬぼれ、不従順という特徴があり、もう一つにはけんそんと素直、従順という特徴があるのです。

けんそんのことを正しく理解することは最も重要です。これを誤った慎み深さと間違える人たちがいるかもしれません。けんそんは、他のすべての聖徳の基礎です。けんそんとは、簡単に言えば、私たちが自分をありのままに見ることです。私たちは無であり、弱いものでありながら、しかしまた私たちには様々な能力、強み、その他数多くの恩寵が与えられているということを認めることです。けんそんな人は、自分が達成するあらゆる業績があろうとも、そのすべての業績が天主のみから来ることを知っています。聖母の例を挙げるなら、聖母は被造物としてのご自分の卑しさを知っておられましたが、また天主の御母になるためにご自分に授けられた大いなる栄光も知っておられました。聖母はご自分のけんそんを、「主は、はしための卑しきを顧み給えり」(ルカ1章48節)と表現され、それからご自分へのお恵みを、「今よりよろず世に至るまで、人われを幸いなる者ととなえん」(同)と表現されました。この聖母の祈りの最初の部分は、けんそんの祈りです。

けんそんは、力強いキリスト教的生活のための基礎です。私たちが、私たちの主イエズス・キリストの聖徳に倣うことによって天主にもっと近づくために聖徳の塔を打ち立てたいと望むなら、私たちはけんそんという力強い基礎を持たなければなりません。私たちは、天主に対する態度、隣人に対する態度、自分に対する態度において、けんそんでなければなりません。

第一に、私たちの天主に対する関係においてです。天主は創造主であり、私たちは被造物です。天主は父であり、私たちは子どもです。けんそんは、私たちが天主と接触を持つために必要です。私たちが天主に従順であることができ、天主のご意志を遂行することができるのは、けんそんによってです。けんそんによって、私たちは天主に奉献され、私たちは天主を敬い、私たちは自分の意志と知性を服従させることによって天主を信じるのです。高慢な人は信仰を持つことができません。なぜなら、より高い意志に服従することができないからです。これが、私たちの主とファリザイ人の間にあった大きな困難だったのです。祈りはそれ自体、天主とのけんそんな会話です。私たちには、秘蹟を受けるために、特に悔悛の秘蹟を受けるためにけんそんが必要であり、この秘蹟によって、私たちはみじめな罪びとであって天主の御あわれみを必要とすることを認めるのです。

次に、私たちには、私たちの仲間との関係のために、けんそんが必要です。誰も、うぬぼれの強い高慢で自慢したがる人と一緒にいたくはありません。そのような人は自分のことしか考えていません。けんそんな人は、気立てがよく、権威と他人を尊重し、仲間のことを良く思います。隣人愛の基礎はけんそんです。聖パウロが愛について書くとき、その主な特徴は、けんそんであると言っています。「愛は寛容で、愛は慈悲に富む。愛はねたまず、誇らず、高ぶらぬ。非礼をせず、自分の利を求めず、憤らず、悪を気にせず、不正を喜ばず、…」(コリント前書13章4-5節)。

最後に、私たちには、自分自身のためにけんそんが必要です。高慢は、人の性格を駄目にします。高慢な人は、自分のことを知らず、限度を知らず、自分の過ちを認めません。高慢のすぐ先には人間の堕落が待っていますが、けんそんは他の聖徳に到達するのにまず必要なものなのです。


けんそんは、救いに大変必要な聖徳ですから、それを得るにはどのようにすればいいのでしょうか? 他の聖徳のように実践を必要としますが、聖なるミサに参列し、聖なるミサの五つの部において、キリストのけんそんに、じかに接して学ぶことによって、それを得ることができます。

聖なるミサの始まりには、司祭の登壇の前に、大いなる敬意をもって祭壇の下で祈りが唱えられます。すぐに、司祭はおじぎをして、コンフィテオールの祈りを唱えて自分が罪びとであると告白し、そのあと、キリエで天主の御あわれみを願い、グローリアで天主への特別な敬意を表します。書簡と福音からの教えでは大いなるけんそんの意識が必要とされます。それは、天主の知恵という、私たちが持っていないものを受けるからです。書簡のときに座り、聖福音のときに立つのは、私たちがキリストのみ言葉を最高の注意を払って聞くという、このけんそんのしるしです。



聖なるミサの奉献誦においては、私たちは、自分を奉献されるパンとぶどう酒に一致させ、自分を奉献して自分を完全に明け渡すのです。この祈りは、「けんそんの精神によって、痛悔の心をもって捧げ奉るわれらが御前に受け入れられ、われらのいけにえが御身に嘉せられるものとならんことを」というものです。

そのあと、聖なるミサの最も聖なる部である聖変化においては、私たちの主が祭壇の上に現存されますから、私たちには最高の敬意が要求されます。この聖なる神秘を告知するために、「天使らは、御身の天主なる御稜威をほめたたえ、主天使は礼拝し、能天使はふるえおののく」。これは、典文の間、私たちがとるべき態度を表しているのです。



そして、私たちが私たちの主を受けるとき、「Domine non sum dignus!」。主よ、われふさわしからず! 非常に直接的なけんそんの表現です。私たちは、まったくふさわしくないにもかかわらず、私たちの主は非常に良きお方でいらっしゃるので、私たちのところに来てくださるのです。

締めくくりに当たって、私たちの主の生涯における二つの事例を引用することにしましょう。
1)使徒たちは一度、第一の座すなわち名誉ある座[に誰が着くのか]について議論していました。私たちの主は小さな子どもを呼んで彼らの真ん中に立たせ、こう言われます。「まことに私は言う。あなたたちが悔い改めて、小さな子どものようにならないなら、天の国には入れぬ。誰でも、この小さな子どものようにけんそんである人が、天の国でいちばん偉い人である」(マテオ18章3-4節)。

2)第二の事例は最後の晩餐のとき、私たちの主が使徒たちの足を洗うことによって、御自ら奴隷の仕事をなさることです。私たちの主はこう説明されます。「あなたがたは私を先生または主と言う。それは正しい、そのとおりである。私は主または先生であるのに、あなたがたの足を洗ったのであるから、あなたたちも互いに足を洗い合わねばならぬ。私のしたとおりするようにと私は模範を示した」(ヨハネ13章13-15節)。これが、主がご受難を始められる前に教えられた、主の偉大なる掟です。

私たちは、すべての聖徳において主にもっと近づくためには、聖なる典礼および私たちの主の生涯から、主のけんそんにおいて主に倣うことが第一に必要だということを知るのです。私たちの主イエズス・キリストのこの偉大なるけんそんによって、主は私たちに触れることがおできになり、私たちのけんそんによって、私たちは主の方へと高められていくことができるのです。

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