アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
8月18日(主日)には、兄弟姉妹の皆様のしもべはマニラでミサを捧げておりました。私の代わりに、毎月一回、マニラからフォルティン神父様が日本に行って下さることになり、老司祭のしもべにとっては肩の荷が少し軽くなった感じがしております。(^^;)
大阪では Our Lady of Victories Catholic School のための第二献金を行ってくださり、八万五千円の寄付金が学校のために集まりました。大変感謝しております。
聖霊降臨後第十主日の福音に出てくる二人について、兄弟姉妹の皆様のしもべもマニラで黙想しました。
税吏は、とても軽蔑されている「非国民」とでも言われているような人でした。現代日本でも、それに相当する人がいるのかもしれません。でも口に出すのがタブーにされるようなレッテルを張られた人でしょう。私たちの主はそのような人を敢えて取り上げた、すごいなぁと思います。
税吏の態度は、謙遜です。
私たちの主と共に十字架に付けられた「良き盗賊」の態度を思い起こさせました。「主よ、御国に至らん時、私を思い出して下さい。」
税吏の言った「天主よ、罪人である私を憐れみください。」この謙遜な一言で、彼は赦されます。謙遜な心からの痛悔の念は、天主になされて、天主が嘉納します。
税吏が、一言、天主に憐れみを乞うている、たったそれだけです。その謙遜な一言で、聖化され、高められて家に帰っていきます。
税吏は、他の人々のことは眼中になかったかのようです。
謙遜は、真実で、真理を真理として認め、受け入れます。ありのままの現実をそうであるとします。
ファリザイ人は、掟を守っていた人々でした。不法なことはしなかった人々です。外の態度では立派でした。
ファリザイ人は、天主に感謝すると言います。何故なら、他の人々のように罪人(つみびと)ではないから、と。ファリザイ人には、他の人々のことだけが眼中にあったようです。自分を肯定して自慢して偉ぶるために、他人をおとしめようとします。
自分の力で自分はこんなにも素晴らしいが、他人は腐っている、と。
もしかしたら、他人が自分に対してやることは全て悪意だ、私は他人の犠牲者だ、他人は私から後で搾取するために善をしているのだ、と言い出すかもしれません。
ファリザイ人の態度は、主と共に十字架に付けられた「悪しき盗賊」の態度を思い起こさせました。
「あなたはキリストではないか。では、自分とわれわれを救え」(つまり、オレは正しい、オレが苦しむのはおまえが無能だからだ。)
あるいは、アダムとエワを思い出します。
ヤーウェから何故食べてはいけない木の実を食べたのかと尋ねられると、アダムは答えます。
「あなたがくださった女が、私に食べろと言いました。」(つまり、自分は正しい、あなたがよこした女のせいだ、つまりあなたのせいだ。)
今度はエワに尋ねると、エワはこう答えます。
「蛇が私に食べろと言いました。」(つまり、自分は正しい、あなたが創った蛇せいだ、つまりあなたのせいだ。)
フランス革命の時も、革命家らは、王や貴族など他人を非難しました。
共産革命の時も、いわゆる人民裁判は、社会正義の名の下に他者を非難しました。
私たちは、ともすると、他者を軽蔑・批判したり自己正当化したりするように流されがちです。「自分を義人と信じ、他人をさげすむ」傾向です。
では、どうしたら良いでしょうか?
書簡では、聖パウロが聖霊の働きがなければ「イエズスが主である」とも言うことが出来ない、とあるので、聖霊の働きを祈りましょう。
聖霊の浄配である謙遜なマリア様にお願いします。
そして、税吏の真似をして、ひたすら「天主よ、罪人である私を憐れみください。」と祈ろうと思います。
愛する兄弟姉妹の皆様にレポートをご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
【報告】
Dear Fr Onoda:
今日は予定通り、マニラからピーター・フォルティン神父が来て聖霊降臨後第10主日のミサを挙げてくださいました。
御説教では、今日の聖福音にあった高慢な男と税吏の男のたとえ話を採り上げて、謙遜の徳についてお話しいただきました。サタンの国では高慢しかないが、天主の国を支配するのは謙遜であること、誰よりもイエズス・キリストが謙遜の模範を示してくださったこと、謙遜は他のあらゆる徳の基礎であること、そして私たちと天主の関係、隣人との関係、また自分自身のためにも謙遜の徳が必要であること、などを教えていただきました。さらに、謙遜を学ぶ良い方法は、ミサのいろいろな箇所に現れる謙遜の例を学び、それを倣うようにすることであるということについても、ミサ中の典礼の例を挙げて説明していただきました。
今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。
男: 26人(内、子供4人)
女: 31人(内、子供4人)
計: 57人(内、子供8人)
【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
今日8月19日は、102年前の8月19日にValinhosヴァリーニョスで、聖母が、「償いをしなさい、罪人のために祈りなさい、ひらひらと地獄に落ちる霊魂は誰も祈る人がいないから、」と三人の子どもたちに話された日ですね。二年前に見てきた御出現のそこのヒイラギの樹もまだ青々として立派な樹のままでした。
数日前のSSPXのニュースでその記事を読んでから、私はファチマの子どもたちのそのお話をまた思い出していました。そして、ルルドで御出現になられた聖母も、少女の聖ベルナデッタに同じことを話されたことを思い出しました。
光かがやくお姿であられましたことは、聖母マリア様が被昇天の勝利の栄光をいただいたことを思いました。
102年後の日本の地でまだ御聖体訪問もままならぬ少しも若くない私ですが、8月18日の御ミサには与る御恵みをいただいているので、この貴重な機会をとても大切にしなければと思いながら聖母の言葉を心に留めて御ミサに与りました。
罪人である自分が罪人のために祈ることがどれだけできるのかわからなくても、償わなければならない罪がどれほどたくさんあるかわからない自分に清めの場にいる霊魂や償いの必要がある霊魂のために何ができるかわからなくても、聖母の言葉をよく噛み締めて御ミサでお祈りしたいという望みを持ちました。(もしかしたらこれは前回のお説教のお話のこととつながることかなとふと思いました。)
取り分けてこの世的になにもできないのですが、できるだけどの瞬間も精神と霊魂の注意を内側に向けるよう努めて聖母の御勧めに少しでも適うことができますようにと願うしかありません。望んでも惨めさの極みの自分にはできないことも、ただお恵みによってなんでもできる御方が思いのままにしてくださいますように、と祈りました。
この世の中は悪魔が支配しているのでそれに心を奪われないようにしなければと思いました。たとえ短い時間でもそれができますなら幸いなことと思います。
聖霊降臨後第十主日のミサは、マニラからフォルテン神父さまが来てくださり、御ミサを立ててくださいました。お説教で謙遜のことを詳しくお話しくださいました。カトリック教会の礎はイエズス様ですがそのイエズス様が謙遜そのものの御方でいらっしゃいますことをお話しくださいました。たとえカトリック教会の今の見た目のようすが混乱に陥っている様子に見えてとてもこの舟に乗車するのをためらうという方でも、イエズス様のご謙遜をよく学びたいがためにこの舟に乗るなら、けっしてこの舟が座礁することはないことを発見するでしょうと思いました。そして一番よくイエズス様のご謙遜に学べる機会がこの御ミサですというお話を心に刻みました。
謙遜の練習はどうしたらよいかのことをお話しいただき、小さな子供たちになるようにということ、奴隷の仕事をするほどに他の人に仕えるということを、イエズス様が教えてくださったのですというお話も、心に刻まれました。
ルルドやファチマで小さな子供に言われたことを守ることが、小さな子供のようになることだと思いました。そういえばベルナデッタもヤシンタもフランシスコもルシアもロザリオをたくさん祈っていたそうです。都心の駅の雑踏の中でも、電車の中でもあまりにも多くの霊魂が滅びようとしていますという言葉が思い出され、そのためにもいま教皇様のためロザリオをお祈りしようと思います。
ご謙遜であられるイエズス様と同じくご謙遜であられるマリア様に倣って、この世での生が与えられている限り、その御勧めに従っていつも償いの精神と罪人のために祈ることを忘れないで過ごすことができますようにと思いました。
聖母の汚れなき御心、われらのために祈り給え
聖マリアの汚れなき御心のうちに
【報告】【大阪】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
8月18日 聖霊降臨後第10主日のミサには23人が、
8月19日 聖ヨハネ・ユードの祝日の早朝ミサには、10人が御ミサに与るお恵みをいただきました。デオグラチアス!
主日のお説教では謙遜について黙想しました。
高い徳の塔を立てたいのならば、その基礎になる謙遜がなければ塔は決して立たないと神父様が仰った事を考えながら、自分の聖徳への進歩があまりにも遅いのは、土台がしっかりしていないからだ、謙遜が足らないからだ、とハッキリとわかりました。
つい最近フランスのシスター会の修練女の方から頂いたお便りで、ルフェーブル大司教様が残されたシスター会の会則に「謙遜を身に付けない修道者は生きる矛盾である」という言葉がある事を伺いました。お説教を聞きながらこの言葉を思い出し、自分も修道者に残されたこの言葉を、(もちろん修道者の方々の様に立派ではないですが)自分にも当てはめて、生活したいと思いました。
神父様の仰る様に謙遜の最高の見本であるマリア様に、お助けとお取次を願いたいとおもいます。
至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え
愛する兄弟姉妹の皆様、
8月18日(主日)には、兄弟姉妹の皆様のしもべはマニラでミサを捧げておりました。私の代わりに、毎月一回、マニラからフォルティン神父様が日本に行って下さることになり、老司祭のしもべにとっては肩の荷が少し軽くなった感じがしております。(^^;)
大阪では Our Lady of Victories Catholic School のための第二献金を行ってくださり、八万五千円の寄付金が学校のために集まりました。大変感謝しております。
聖霊降臨後第十主日の福音に出てくる二人について、兄弟姉妹の皆様のしもべもマニラで黙想しました。
税吏は、とても軽蔑されている「非国民」とでも言われているような人でした。現代日本でも、それに相当する人がいるのかもしれません。でも口に出すのがタブーにされるようなレッテルを張られた人でしょう。私たちの主はそのような人を敢えて取り上げた、すごいなぁと思います。
税吏の態度は、謙遜です。
私たちの主と共に十字架に付けられた「良き盗賊」の態度を思い起こさせました。「主よ、御国に至らん時、私を思い出して下さい。」
税吏の言った「天主よ、罪人である私を憐れみください。」この謙遜な一言で、彼は赦されます。謙遜な心からの痛悔の念は、天主になされて、天主が嘉納します。
税吏が、一言、天主に憐れみを乞うている、たったそれだけです。その謙遜な一言で、聖化され、高められて家に帰っていきます。
税吏は、他の人々のことは眼中になかったかのようです。
謙遜は、真実で、真理を真理として認め、受け入れます。ありのままの現実をそうであるとします。
ファリザイ人は、掟を守っていた人々でした。不法なことはしなかった人々です。外の態度では立派でした。
ファリザイ人は、天主に感謝すると言います。何故なら、他の人々のように罪人(つみびと)ではないから、と。ファリザイ人には、他の人々のことだけが眼中にあったようです。自分を肯定して自慢して偉ぶるために、他人をおとしめようとします。
自分の力で自分はこんなにも素晴らしいが、他人は腐っている、と。
もしかしたら、他人が自分に対してやることは全て悪意だ、私は他人の犠牲者だ、他人は私から後で搾取するために善をしているのだ、と言い出すかもしれません。
ファリザイ人の態度は、主と共に十字架に付けられた「悪しき盗賊」の態度を思い起こさせました。
「あなたはキリストではないか。では、自分とわれわれを救え」(つまり、オレは正しい、オレが苦しむのはおまえが無能だからだ。)
あるいは、アダムとエワを思い出します。
ヤーウェから何故食べてはいけない木の実を食べたのかと尋ねられると、アダムは答えます。
「あなたがくださった女が、私に食べろと言いました。」(つまり、自分は正しい、あなたがよこした女のせいだ、つまりあなたのせいだ。)
今度はエワに尋ねると、エワはこう答えます。
「蛇が私に食べろと言いました。」(つまり、自分は正しい、あなたが創った蛇せいだ、つまりあなたのせいだ。)
フランス革命の時も、革命家らは、王や貴族など他人を非難しました。
共産革命の時も、いわゆる人民裁判は、社会正義の名の下に他者を非難しました。
私たちは、ともすると、他者を軽蔑・批判したり自己正当化したりするように流されがちです。「自分を義人と信じ、他人をさげすむ」傾向です。
では、どうしたら良いでしょうか?
書簡では、聖パウロが聖霊の働きがなければ「イエズスが主である」とも言うことが出来ない、とあるので、聖霊の働きを祈りましょう。
聖霊の浄配である謙遜なマリア様にお願いします。
そして、税吏の真似をして、ひたすら「天主よ、罪人である私を憐れみください。」と祈ろうと思います。
愛する兄弟姉妹の皆様にレポートをご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
【報告】
Dear Fr Onoda:
今日は予定通り、マニラからピーター・フォルティン神父が来て聖霊降臨後第10主日のミサを挙げてくださいました。
御説教では、今日の聖福音にあった高慢な男と税吏の男のたとえ話を採り上げて、謙遜の徳についてお話しいただきました。サタンの国では高慢しかないが、天主の国を支配するのは謙遜であること、誰よりもイエズス・キリストが謙遜の模範を示してくださったこと、謙遜は他のあらゆる徳の基礎であること、そして私たちと天主の関係、隣人との関係、また自分自身のためにも謙遜の徳が必要であること、などを教えていただきました。さらに、謙遜を学ぶ良い方法は、ミサのいろいろな箇所に現れる謙遜の例を学び、それを倣うようにすることであるということについても、ミサ中の典礼の例を挙げて説明していただきました。
今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。
男: 26人(内、子供4人)
女: 31人(内、子供4人)
計: 57人(内、子供8人)
【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
今日8月19日は、102年前の8月19日にValinhosヴァリーニョスで、聖母が、「償いをしなさい、罪人のために祈りなさい、ひらひらと地獄に落ちる霊魂は誰も祈る人がいないから、」と三人の子どもたちに話された日ですね。二年前に見てきた御出現のそこのヒイラギの樹もまだ青々として立派な樹のままでした。
数日前のSSPXのニュースでその記事を読んでから、私はファチマの子どもたちのそのお話をまた思い出していました。そして、ルルドで御出現になられた聖母も、少女の聖ベルナデッタに同じことを話されたことを思い出しました。
光かがやくお姿であられましたことは、聖母マリア様が被昇天の勝利の栄光をいただいたことを思いました。
102年後の日本の地でまだ御聖体訪問もままならぬ少しも若くない私ですが、8月18日の御ミサには与る御恵みをいただいているので、この貴重な機会をとても大切にしなければと思いながら聖母の言葉を心に留めて御ミサに与りました。
罪人である自分が罪人のために祈ることがどれだけできるのかわからなくても、償わなければならない罪がどれほどたくさんあるかわからない自分に清めの場にいる霊魂や償いの必要がある霊魂のために何ができるかわからなくても、聖母の言葉をよく噛み締めて御ミサでお祈りしたいという望みを持ちました。(もしかしたらこれは前回のお説教のお話のこととつながることかなとふと思いました。)
取り分けてこの世的になにもできないのですが、できるだけどの瞬間も精神と霊魂の注意を内側に向けるよう努めて聖母の御勧めに少しでも適うことができますようにと願うしかありません。望んでも惨めさの極みの自分にはできないことも、ただお恵みによってなんでもできる御方が思いのままにしてくださいますように、と祈りました。
この世の中は悪魔が支配しているのでそれに心を奪われないようにしなければと思いました。たとえ短い時間でもそれができますなら幸いなことと思います。
聖霊降臨後第十主日のミサは、マニラからフォルテン神父さまが来てくださり、御ミサを立ててくださいました。お説教で謙遜のことを詳しくお話しくださいました。カトリック教会の礎はイエズス様ですがそのイエズス様が謙遜そのものの御方でいらっしゃいますことをお話しくださいました。たとえカトリック教会の今の見た目のようすが混乱に陥っている様子に見えてとてもこの舟に乗車するのをためらうという方でも、イエズス様のご謙遜をよく学びたいがためにこの舟に乗るなら、けっしてこの舟が座礁することはないことを発見するでしょうと思いました。そして一番よくイエズス様のご謙遜に学べる機会がこの御ミサですというお話を心に刻みました。
謙遜の練習はどうしたらよいかのことをお話しいただき、小さな子供たちになるようにということ、奴隷の仕事をするほどに他の人に仕えるということを、イエズス様が教えてくださったのですというお話も、心に刻まれました。
ルルドやファチマで小さな子供に言われたことを守ることが、小さな子供のようになることだと思いました。そういえばベルナデッタもヤシンタもフランシスコもルシアもロザリオをたくさん祈っていたそうです。都心の駅の雑踏の中でも、電車の中でもあまりにも多くの霊魂が滅びようとしていますという言葉が思い出され、そのためにもいま教皇様のためロザリオをお祈りしようと思います。
ご謙遜であられるイエズス様と同じくご謙遜であられるマリア様に倣って、この世での生が与えられている限り、その御勧めに従っていつも償いの精神と罪人のために祈ることを忘れないで過ごすことができますようにと思いました。
聖母の汚れなき御心、われらのために祈り給え
聖マリアの汚れなき御心のうちに
【報告】【大阪】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
8月18日 聖霊降臨後第10主日のミサには23人が、
8月19日 聖ヨハネ・ユードの祝日の早朝ミサには、10人が御ミサに与るお恵みをいただきました。デオグラチアス!
主日のお説教では謙遜について黙想しました。
高い徳の塔を立てたいのならば、その基礎になる謙遜がなければ塔は決して立たないと神父様が仰った事を考えながら、自分の聖徳への進歩があまりにも遅いのは、土台がしっかりしていないからだ、謙遜が足らないからだ、とハッキリとわかりました。
つい最近フランスのシスター会の修練女の方から頂いたお便りで、ルフェーブル大司教様が残されたシスター会の会則に「謙遜を身に付けない修道者は生きる矛盾である」という言葉がある事を伺いました。お説教を聞きながらこの言葉を思い出し、自分も修道者に残されたこの言葉を、(もちろん修道者の方々の様に立派ではないですが)自分にも当てはめて、生活したいと思いました。
神父様の仰る様に謙遜の最高の見本であるマリア様に、お助けとお取次を願いたいとおもいます。
至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え