アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
9月17日付で聖ピオ十世会総長のインタビューが公開されました。英語訳は次です。
Transmitting What We Have Received: An Interview with the SSPX Superior General
フランス語
Une Eglise qui marche sur la tête: Entretien avec l’abbé Davide Pagliarani, Supérieur général de la Fraternité Saint-Pie X
これの日本語訳は準備中です。しかし、その要点をご紹介いたします。
*第二バチカン公会議は、公会議開催直前の教会を苦しめていた規律の弛緩の結果にすぎなかった。一部においてもはや既成事実となっていた違反状況に、承認の判を押したにすぎない。典礼改革も、多くの聖職者たちに浸透していた実験的発展の頂点にすぎない。
*それと同様に、アモーリス・レティチアは、不幸なことに既に教会に存在している違反状況を合法化しようとする試みにすぎない。現代の状況は、さらなる改革を承認するに熟している。
*アモーリス・レティチアは、原子爆弾のようにカトリック教会に計り知れない損害を与えるだろう。しかしこれが、現教皇の奇抜で挑発的な人柄から由来する仕業だというのは間違った捉え方だ。教皇フランシスコだけに、これを帰するのは正しくない。
*教皇が誰であろうと、第二バチカン公会議によって敷かれた原理に従う結果として遅かれ早かれ、起こるべくして起こったことの一つが、アモーリス・レティチアだ。ヴァルター・カスパー枢機卿は、第二バチカン公会議の新しい教会論には、キリスト教家族の新しい概念が対応すると既に認めている。
*第二バチカン公会議は、教会に関する新しい概念を提示している。公会議によれば、私たちの主が創立した教会イコール、カトリック教会ではない。それよりも広い。すなわち正教徒やプロテスタントの共同体を含む。公会議の新しい教会論によると、キリストの建てた教会に色々なやり方で所属することが出来ることになる。
*キリストの教会に所属する新しい仕方は、伸縮性があり多様性がある。すべてのキリスト者がキリストの同じ教会において一つとなることを許している。これが現代のエキュメニズムの混乱の原因だ。
*教会に関する間違った教えは、遅かれ早かれ、キリスト者の家庭にも影響を及ぼす。何故なら、キリスト者の婚姻は、キリストとその教会との一致にかたどりだからだ。従って、婚姻の契りによる家庭は、伸縮性のある別の絆によって変わられようとしている。
*カトリック教会の一致の外にある「汎キリスト教」に、公会議が肯定的要素を与えたように、秘蹟による婚姻の一致の外にある、どのような結合においても、肯定的要素を与えるようになるだろう。エキュメニズムによって、真の教会と偽りの教会との区別が無くなった(カトリック以外の教会も、完全ではないが良い教会とされるから)ように、すべての結合は、愛があるなら、いつも良いものがあるとされるだろう。
*今までカトリック教会では、良い行為と悪い行為、聖寵の生活と罪、という言い方をしてきた。これからは、良い行為とより少なく良い行為だけになる。
*エキュメニカルな教会は、エキュメニカルな家庭である。人間の必要と感受性に従って再構成されうる家庭である。
*アモーリス・レティチアは、第二バチカン公会議の教会憲章による新しい教会論と、現代世界憲章による世界に開かれた教会との不可避的な結論だ。教皇フランシスコの教えは、第二バチカン公会議に敷かれた原理の論理的結論にすぎない。
*第二バチカン公会議後、「キリストの神秘体」という概念は「天主の民」という概念に代わった。これによって解放の神学や共産主義へと流されることが可能になった。また、「まじわり・コムニオ」という概念によっても代わられた。それによってエキュメニカルな対話は、バベルの塔での会話のようになった。
*アマゾンのシノドスにおいても、教会に関する誤った概念が影響を及ぼしている。「聞く教会」「シノドスの教会」「人々の文化、期待、要望に注意を払う教会」など。信仰も典礼も教会統治機構も、これに適応させるべきである、と。
*現在では、異教主義と戦うかわりに、この異教を自分の一部に取り入れようとしている。第二バチカン公会議の教会論による、ローマ・クリア(バチカンの行政機構)の現代化(アジョルナメント)、「健全な非中央集権化」「管理でも決定のためでもない交わりのプラットフォーム」が議論されている。しかしこれは、私たちの主の建てた教会の崩壊である。イエズス・キリストは情報交換のためのフォールムを開いたのでもなければ、意見交換のためのプラットフォームを作ったのでもない。主は、ペトロと使徒たちに、自分の群れを委託し、真理と聖徳との柱となることを求めた。
*新しいミサの構造は、民主主義的な教会に対応している。シノドス的教会は民主主義的だ。逆さまになったピラミッド型だ。頭が底辺に来る教会だ。しかしこれは実りであって、この種は第二バチカン公会議に蒔かれている。
*多くの信徒の方々や一部の高位聖職者らが、カトリック教会の直面しつつある劇的な状況に気が付きつつある。彼らは、これらの誤謬はキリストの教えでも、教会の教導職による教えでもありえないと反応している。
*しかしこれらの反応は、体系的に壁にぶつかっている。アモーリス・レティチアに反対して4名の枢機卿が声を上げたが、返事はなかった。アモーリス・レティチアに対する戦いは忘れられ、事実上これは受け入れられた。教皇は沈黙を守った。第二バチカン公会議後の教会は、多元的だからだ。もはや永遠の啓示された真理に基礎をおく教会ではないからだ。権威によって上から教えられる教会ではないからだ。
*民主主義的な教会においては、誤謬は自由に教えられうるべきであり、構造的に真理が誤謬に取って代わるということが出来なくなっている。教会が多元的教会となったその根源は、第二バチカン公会議である。
*第二バチカン公会議後の教皇らの教えは、第二バチカン公会議の結果でありその続きである。だから、教皇フランシスコの教えに反対するために、ヨハネ・パウロ二世の教導権を使うのは、結局失敗に終わる試みである。傷を直すためには、傷の中の毒を消毒しなければならない。病症だけではなく、その原因まで突き止めなければならない。
*聖ピオ十世会は、オープンに発言する自由を持っている。聖ピオ十世会は、とりわけカトリック教会への愛と霊魂への愛に燃えている。現代教会は、神学校が閉校し、教会は空になり、秘蹟は尊重されていなくなっている。私たちはただ傍観者でいることが出来ない。
*守られた信仰の原理にかなう司牧的・霊的・典礼的生活が伴っていないのなら、健全な教義的に立場だけでは足りない。何故なら、第二バチカン公会議は新しい教えにマッチした新しいキリスト教生活を開始したからだ。
*カトリック信仰宣言に、本物のカトリック生活が伴わないなら、この宣言はマスメディアのイベントに終わる。数週間後には忘れ去られる。具体的に言うなら、聖伝のミサだけを捧げなければならない。そしてそこから帰結するすべてを受け入れなければならない。つまり、非エキュメニカルなミサだけを捧げなければならない。永遠のミサだけを。ただ聖伝のミサを捧げるだけではなく、それを生きること、これを殉教までも守ること、何故なら私たちの主の十字架だけが教会を救うことが出来るからだ。
詳しくは、日本語の全訳をお待ち下さい。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
愛する兄弟姉妹の皆様、
9月17日付で聖ピオ十世会総長のインタビューが公開されました。英語訳は次です。
Transmitting What We Have Received: An Interview with the SSPX Superior General
フランス語
Une Eglise qui marche sur la tête: Entretien avec l’abbé Davide Pagliarani, Supérieur général de la Fraternité Saint-Pie X
これの日本語訳は準備中です。しかし、その要点をご紹介いたします。
*第二バチカン公会議は、公会議開催直前の教会を苦しめていた規律の弛緩の結果にすぎなかった。一部においてもはや既成事実となっていた違反状況に、承認の判を押したにすぎない。典礼改革も、多くの聖職者たちに浸透していた実験的発展の頂点にすぎない。
*それと同様に、アモーリス・レティチアは、不幸なことに既に教会に存在している違反状況を合法化しようとする試みにすぎない。現代の状況は、さらなる改革を承認するに熟している。
*アモーリス・レティチアは、原子爆弾のようにカトリック教会に計り知れない損害を与えるだろう。しかしこれが、現教皇の奇抜で挑発的な人柄から由来する仕業だというのは間違った捉え方だ。教皇フランシスコだけに、これを帰するのは正しくない。
*教皇が誰であろうと、第二バチカン公会議によって敷かれた原理に従う結果として遅かれ早かれ、起こるべくして起こったことの一つが、アモーリス・レティチアだ。ヴァルター・カスパー枢機卿は、第二バチカン公会議の新しい教会論には、キリスト教家族の新しい概念が対応すると既に認めている。
*第二バチカン公会議は、教会に関する新しい概念を提示している。公会議によれば、私たちの主が創立した教会イコール、カトリック教会ではない。それよりも広い。すなわち正教徒やプロテスタントの共同体を含む。公会議の新しい教会論によると、キリストの建てた教会に色々なやり方で所属することが出来ることになる。
*キリストの教会に所属する新しい仕方は、伸縮性があり多様性がある。すべてのキリスト者がキリストの同じ教会において一つとなることを許している。これが現代のエキュメニズムの混乱の原因だ。
*教会に関する間違った教えは、遅かれ早かれ、キリスト者の家庭にも影響を及ぼす。何故なら、キリスト者の婚姻は、キリストとその教会との一致にかたどりだからだ。従って、婚姻の契りによる家庭は、伸縮性のある別の絆によって変わられようとしている。
*カトリック教会の一致の外にある「汎キリスト教」に、公会議が肯定的要素を与えたように、秘蹟による婚姻の一致の外にある、どのような結合においても、肯定的要素を与えるようになるだろう。エキュメニズムによって、真の教会と偽りの教会との区別が無くなった(カトリック以外の教会も、完全ではないが良い教会とされるから)ように、すべての結合は、愛があるなら、いつも良いものがあるとされるだろう。
*今までカトリック教会では、良い行為と悪い行為、聖寵の生活と罪、という言い方をしてきた。これからは、良い行為とより少なく良い行為だけになる。
*エキュメニカルな教会は、エキュメニカルな家庭である。人間の必要と感受性に従って再構成されうる家庭である。
*アモーリス・レティチアは、第二バチカン公会議の教会憲章による新しい教会論と、現代世界憲章による世界に開かれた教会との不可避的な結論だ。教皇フランシスコの教えは、第二バチカン公会議に敷かれた原理の論理的結論にすぎない。
*第二バチカン公会議後、「キリストの神秘体」という概念は「天主の民」という概念に代わった。これによって解放の神学や共産主義へと流されることが可能になった。また、「まじわり・コムニオ」という概念によっても代わられた。それによってエキュメニカルな対話は、バベルの塔での会話のようになった。
*アマゾンのシノドスにおいても、教会に関する誤った概念が影響を及ぼしている。「聞く教会」「シノドスの教会」「人々の文化、期待、要望に注意を払う教会」など。信仰も典礼も教会統治機構も、これに適応させるべきである、と。
*現在では、異教主義と戦うかわりに、この異教を自分の一部に取り入れようとしている。第二バチカン公会議の教会論による、ローマ・クリア(バチカンの行政機構)の現代化(アジョルナメント)、「健全な非中央集権化」「管理でも決定のためでもない交わりのプラットフォーム」が議論されている。しかしこれは、私たちの主の建てた教会の崩壊である。イエズス・キリストは情報交換のためのフォールムを開いたのでもなければ、意見交換のためのプラットフォームを作ったのでもない。主は、ペトロと使徒たちに、自分の群れを委託し、真理と聖徳との柱となることを求めた。
*新しいミサの構造は、民主主義的な教会に対応している。シノドス的教会は民主主義的だ。逆さまになったピラミッド型だ。頭が底辺に来る教会だ。しかしこれは実りであって、この種は第二バチカン公会議に蒔かれている。
*多くの信徒の方々や一部の高位聖職者らが、カトリック教会の直面しつつある劇的な状況に気が付きつつある。彼らは、これらの誤謬はキリストの教えでも、教会の教導職による教えでもありえないと反応している。
*しかしこれらの反応は、体系的に壁にぶつかっている。アモーリス・レティチアに反対して4名の枢機卿が声を上げたが、返事はなかった。アモーリス・レティチアに対する戦いは忘れられ、事実上これは受け入れられた。教皇は沈黙を守った。第二バチカン公会議後の教会は、多元的だからだ。もはや永遠の啓示された真理に基礎をおく教会ではないからだ。権威によって上から教えられる教会ではないからだ。
*民主主義的な教会においては、誤謬は自由に教えられうるべきであり、構造的に真理が誤謬に取って代わるということが出来なくなっている。教会が多元的教会となったその根源は、第二バチカン公会議である。
*第二バチカン公会議後の教皇らの教えは、第二バチカン公会議の結果でありその続きである。だから、教皇フランシスコの教えに反対するために、ヨハネ・パウロ二世の教導権を使うのは、結局失敗に終わる試みである。傷を直すためには、傷の中の毒を消毒しなければならない。病症だけではなく、その原因まで突き止めなければならない。
*聖ピオ十世会は、オープンに発言する自由を持っている。聖ピオ十世会は、とりわけカトリック教会への愛と霊魂への愛に燃えている。現代教会は、神学校が閉校し、教会は空になり、秘蹟は尊重されていなくなっている。私たちはただ傍観者でいることが出来ない。
*守られた信仰の原理にかなう司牧的・霊的・典礼的生活が伴っていないのなら、健全な教義的に立場だけでは足りない。何故なら、第二バチカン公会議は新しい教えにマッチした新しいキリスト教生活を開始したからだ。
*カトリック信仰宣言に、本物のカトリック生活が伴わないなら、この宣言はマスメディアのイベントに終わる。数週間後には忘れ去られる。具体的に言うなら、聖伝のミサだけを捧げなければならない。そしてそこから帰結するすべてを受け入れなければならない。つまり、非エキュメニカルなミサだけを捧げなければならない。永遠のミサだけを。ただ聖伝のミサを捧げるだけではなく、それを生きること、これを殉教までも守ること、何故なら私たちの主の十字架だけが教会を救うことが出来るからだ。
詳しくは、日本語の全訳をお待ち下さい。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)