アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
Working Document for the Synod on the Amazon: In the Critics’ Spotlight (1)の日本語訳をご紹介します。
アマゾン周辺地域のための特別シノドスの討議要綱
様々な批判を受けて(1)
2019年8月14日 FSSPX.NEWSサイト
ヴァルター・ブラントミュラー枢機卿(Cardinal Walter Brandmüller)が、近く行われる予定のアマゾン周辺地域のための特別シノドスの討議要綱(Instrumentum laboris)に関して批判をなしたのち、7月には新たに三つの批判が出されました。その第一の批判は、前教理省長官ゲルハルト・ミュラー枢機卿(Cardinal Gerhard Ludwig Müller)からのものです。
ミュラー枢機卿は、7月16日付のドイツの新聞「ディー・ターゲスポストDie Tagespost」紙の中で、意見のコラム欄に、このローマの文書に対する批判を発表しました。この発表の仕方は、現在ローマを支配している雰囲気を明らかにしています。つまり、枢機卿たちは発言しないという条件の下でのみ、その意見が聞き届けられる、ということです…。
宇宙と自然と生物多様性のエコロジーとの神聖化
このドイツのミュラー枢機卿は、アマゾン地域という特別なケースに、世界への模範となる価値を与えているこの討議要綱「インストゥルメントゥム・ラボーリス」(IL)を告発しました。
「アマゾン地域は、教会にとって、そして世界にとって、『全体のための一部 pars pro toto として、一つのパラダイムとして、全世界のための希望として』奉仕するべきである(IL 37)。すでに、まさにこの達成すべき役割が定められていること自体が、地球という一つの家の中ですべての人間の『完全なintégral』発展という思想を示しており、教会がそれに対して自らに責任があると宣言しているのです。この思想は、何度も何度も討議要綱に見られます。」
枢機卿は、使われている諸表現の不正確さを強調しました。
「鍵となる諸用語(キーワード)が明確に定義されておらず、また過度に使われています。例えば『シノドスの道』とは何でしょうか?『完全なintégral発展』とは何でしょうか?『サマリア人的・宣教師的・シノドス的・開かれた教会une Eglise samaritaine, missionnaire, synodale et ouverte』とは何を意味するのでしょうか?あるいは『手を差し伸べる教会』とは?『貧しい者の教会』は?『アマゾンの教会』などなどは?」
ミュラー枢機卿はまた、以前の教導職への参照がほとんどないことも指摘しました。
「思考の道筋全体は、確かにほんの少しヨハネ・パウロ二世とベネディクト十六世を参照しつつ、フランシスコ教皇の最新の複数の文書の周りを、自己参照しながらぐるぐる回っています。聖書はほとんど引用されておらず、教父たちもほとんどなく、あるのはそれらの挿絵的な方法によるものだけで、他の理由のために既に持っている確信を補強するためです。
おそらく、これによって現教皇に対する特別な忠誠を示したいと望んでいるか、あるいはこうすることで、教皇のよく知られ、かつ繰り返されているキーワード(これを討議要綱の著者たちは ― 混乱した言い方で ― 『彼の呪文(マントラ)』(IL 25)と呼んでいますが)を常に参照するなら、神学的著作の挑戦を避けることができると信じているからです。
討議要綱の作者らが、『インカルチュレーションの活動的主体は、先住民たち自身である』(IL 122)と書いた後、次のような奇妙な定式、すなわち『教皇フランシスコが確認したように、“恩寵は文化を前提とする”la grâce suppose la culture』と付け加えるなどする時、彼らの追従(ついしょう)はその頂点に達するのです。まるで教皇自身がこの原理を発見したかのようにです。もちろん、これはカトリック教会自身の基本的な原理です。もともとは、ちょうど信仰が理性を前提としているように、恩寵は、自然を前提とする、です(トマス・アクィナス「神学大全」第1部第1問第8項参照)」。
Photo Credit
この枢機卿はまた、アマゾン地域が「神学的場所」【訳注】として提示されていることにも驚きます。
【訳注】「神学的場所」というのは、Loci Theologiciという神学専門用語の日本語直訳である。Locus(場所)は、ギリシャ語のトポス(場所)[トポスは、例えばトピック(話題)の語源] から由来し、カトリックでは、神学の基礎的原理や源泉についで「神学的場所」という用語が使われる。
「一方で、教導職の役割、他方で聖書の役割、これら両者の混乱の次に、討議要綱は新しい啓示の源泉があるとまで主張しています。討議要綱19は、こう述べます。
『さらに、私たちは、アマゾン地域は、または別の先住民地域あるいは共有地域は、ubiすなわち「どこ」(地理的な場所)のみならず、quidすなわち「何か」であり、すなわち "信仰にとって意味を持つ場所" または "歴史の中での天主についての経験"である、と言うことができる。従って地域は、信仰を生きた神学的な地であり、また天主の啓示の特定の源泉でもある。つまり、いのちの保存とこの惑星のための知恵、天主について語るいのちと知恵が明らかにされる啓示的な地である。』
ここで、もしある地域が『天主の啓示の特定の源泉』と宣言されるのなら、これは、誤った教えだと言わねばなりません。何故なら、2000年の間、カトリック教会は、聖書と使徒的聖伝が啓示の唯一の源泉であって、歴史の流れの中で他の啓示は付け加えられ得ない、と不可謬的に教えてきたのですから。」
―これは正しいことですが、彼ら【ミュラー枢機卿を含む教会の指導者たち】は、第二バチカン公会議以降、対話と「出会いの文化」を通して、現代人の願望と世界の必要性に耳を傾けることによって、教会は「時のしるし」を調べねばならない、とは言ってきたのではないでしょうか?
【この項続く】
愛する兄弟姉妹の皆様、
Working Document for the Synod on the Amazon: In the Critics’ Spotlight (1)の日本語訳をご紹介します。
アマゾン周辺地域のための特別シノドスの討議要綱
様々な批判を受けて(1)
2019年8月14日 FSSPX.NEWSサイト
ヴァルター・ブラントミュラー枢機卿(Cardinal Walter Brandmüller)が、近く行われる予定のアマゾン周辺地域のための特別シノドスの討議要綱(Instrumentum laboris)に関して批判をなしたのち、7月には新たに三つの批判が出されました。その第一の批判は、前教理省長官ゲルハルト・ミュラー枢機卿(Cardinal Gerhard Ludwig Müller)からのものです。
ミュラー枢機卿は、7月16日付のドイツの新聞「ディー・ターゲスポストDie Tagespost」紙の中で、意見のコラム欄に、このローマの文書に対する批判を発表しました。この発表の仕方は、現在ローマを支配している雰囲気を明らかにしています。つまり、枢機卿たちは発言しないという条件の下でのみ、その意見が聞き届けられる、ということです…。
宇宙と自然と生物多様性のエコロジーとの神聖化
このドイツのミュラー枢機卿は、アマゾン地域という特別なケースに、世界への模範となる価値を与えているこの討議要綱「インストゥルメントゥム・ラボーリス」(IL)を告発しました。
「アマゾン地域は、教会にとって、そして世界にとって、『全体のための一部 pars pro toto として、一つのパラダイムとして、全世界のための希望として』奉仕するべきである(IL 37)。すでに、まさにこの達成すべき役割が定められていること自体が、地球という一つの家の中ですべての人間の『完全なintégral』発展という思想を示しており、教会がそれに対して自らに責任があると宣言しているのです。この思想は、何度も何度も討議要綱に見られます。」
枢機卿は、使われている諸表現の不正確さを強調しました。
「鍵となる諸用語(キーワード)が明確に定義されておらず、また過度に使われています。例えば『シノドスの道』とは何でしょうか?『完全なintégral発展』とは何でしょうか?『サマリア人的・宣教師的・シノドス的・開かれた教会une Eglise samaritaine, missionnaire, synodale et ouverte』とは何を意味するのでしょうか?あるいは『手を差し伸べる教会』とは?『貧しい者の教会』は?『アマゾンの教会』などなどは?」
ミュラー枢機卿はまた、以前の教導職への参照がほとんどないことも指摘しました。
「思考の道筋全体は、確かにほんの少しヨハネ・パウロ二世とベネディクト十六世を参照しつつ、フランシスコ教皇の最新の複数の文書の周りを、自己参照しながらぐるぐる回っています。聖書はほとんど引用されておらず、教父たちもほとんどなく、あるのはそれらの挿絵的な方法によるものだけで、他の理由のために既に持っている確信を補強するためです。
おそらく、これによって現教皇に対する特別な忠誠を示したいと望んでいるか、あるいはこうすることで、教皇のよく知られ、かつ繰り返されているキーワード(これを討議要綱の著者たちは ― 混乱した言い方で ― 『彼の呪文(マントラ)』(IL 25)と呼んでいますが)を常に参照するなら、神学的著作の挑戦を避けることができると信じているからです。
討議要綱の作者らが、『インカルチュレーションの活動的主体は、先住民たち自身である』(IL 122)と書いた後、次のような奇妙な定式、すなわち『教皇フランシスコが確認したように、“恩寵は文化を前提とする”la grâce suppose la culture』と付け加えるなどする時、彼らの追従(ついしょう)はその頂点に達するのです。まるで教皇自身がこの原理を発見したかのようにです。もちろん、これはカトリック教会自身の基本的な原理です。もともとは、ちょうど信仰が理性を前提としているように、恩寵は、自然を前提とする、です(トマス・アクィナス「神学大全」第1部第1問第8項参照)」。
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この枢機卿はまた、アマゾン地域が「神学的場所」【訳注】として提示されていることにも驚きます。
【訳注】「神学的場所」というのは、Loci Theologiciという神学専門用語の日本語直訳である。Locus(場所)は、ギリシャ語のトポス(場所)[トポスは、例えばトピック(話題)の語源] から由来し、カトリックでは、神学の基礎的原理や源泉についで「神学的場所」という用語が使われる。
「一方で、教導職の役割、他方で聖書の役割、これら両者の混乱の次に、討議要綱は新しい啓示の源泉があるとまで主張しています。討議要綱19は、こう述べます。
『さらに、私たちは、アマゾン地域は、または別の先住民地域あるいは共有地域は、ubiすなわち「どこ」(地理的な場所)のみならず、quidすなわち「何か」であり、すなわち "信仰にとって意味を持つ場所" または "歴史の中での天主についての経験"である、と言うことができる。従って地域は、信仰を生きた神学的な地であり、また天主の啓示の特定の源泉でもある。つまり、いのちの保存とこの惑星のための知恵、天主について語るいのちと知恵が明らかにされる啓示的な地である。』
ここで、もしある地域が『天主の啓示の特定の源泉』と宣言されるのなら、これは、誤った教えだと言わねばなりません。何故なら、2000年の間、カトリック教会は、聖書と使徒的聖伝が啓示の唯一の源泉であって、歴史の流れの中で他の啓示は付け加えられ得ない、と不可謬的に教えてきたのですから。」
―これは正しいことですが、彼ら【ミュラー枢機卿を含む教会の指導者たち】は、第二バチカン公会議以降、対話と「出会いの文化」を通して、現代人の願望と世界の必要性に耳を傾けることによって、教会は「時のしるし」を調べねばならない、とは言ってきたのではないでしょうか?
【この項続く】