2019年9月8日(主日)聖霊降臨後第13主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父様御説教
日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2019年9月8日、聖霊降臨後第13主日のミサをしています。
今日は第1主日ですので、このミサの後で、御聖体降福式をお捧げしたいと思います。
特に11月は教皇様が日本に訪問されますので、教皇様の訪問によって、日本の多くの方がカトリックの信仰に導かれますように、特別の御恵みを、その教皇様の訪問の実りが、霊的な実りがありますように、お祈り致しましょう。
明日も朝7時からミサがあります。
次のミサは少しイレギュラーになっておりまして、9月29日に予定されております。
9月29日の大天使聖ミカエルの祝日で、主日です。どうぞお間違えのないようになさって下さい。特にこの日には、フォルティン神父様がいらっしゃる予定です。
いくつかお願いがあります。
フォルティン神父様はマニラで学校を経営しておられます。もしも神父様がいらした時に、第2献金をして、この学校の援助の為に、もしも皆さん寛大な心をお示し下さる事ができれば非常に嬉しく思います。きっとフォルティン神父様も日本に来る事を楽しみにしていらっしゃると思います。どうぞよろしくお願い致します。
次はお祈りのお願いです。
先ほど申しましたように、教皇様が来日されるという事で、この実りが多いこの訪問となりますように、私たちはそれをお祈りしたいと思っています。カトリック信徒として当然と言えば当然ですけれども、皆様から、もしもできましたら、祈りの励みとなる為にも、霊的花束を頂戴したいと思っています。
その11月までたくさんのお祈りを教皇様の為にお願いします。
もう1つの祈りのお願いですけれども、今日、今回休暇で帰っておられる私たちのアグネスさんが、天主様からの御恵みによって、来年フランスで、復活祭の後の白衣の主日に着衣式をなさる予定です。
皆さんからの寛大なたくさんの熱いお祈りをお願いしたいと思っています。良き、聖なる、天主様に奉献された霊魂となりますように、天主様の御旨が果たされますように、皆さんのお祈りを、今日からお願いしたいと思います。
「すると、引き戻して、大きな声で天主を讃美して、顔を地面に平伏して付けて、平伏して、そして感謝した。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日、有名な「10人の癩病」の描写が、「イエズス様に謙遜な祈りをした事によって、癒された」という歴史的な事実を、私たちにミサで思い出させてくれます。
今日その典礼の精神に従って、
⑴この「癩病の10人が癒された」この事について、教父たちは一体何を言っているか?をまず簡単に黙想します。
⑵でも特に、今日私が是非強調したい点は、この最後のサマリア人が、感謝しに帰って来た、「感謝」と、そしてそれに反対する「忘恩」について、一体何なのか?を見て、
⑶そして最後に、私たちもこの典礼の精神に従って、遷善の決心を立てる事に致しましょう。
⑴簡単に今日の、この「10人の癩病の患者が癒された事が、なぜ出てくるのか」、「教父たちは何を言ってるのか」を、簡単におさらいしてみます。
これについては皆さん毎年聞かれた話です。
教会は、私たちの聖母の被昇天を境に、私たちに霊魂の準備を、死の準備を、世の終わりの、裁きの日の準備をしようとしています。そしてそれと同時に、イエズス様の憐れみの業を強調しようとしています。私たちがイエズス様に信頼するように。
先々週は、目の見えない人と口のきけない人が癒された話を見ますが、その時に「エフェタ」という言葉が出た事から、「洗礼」の事が象徴されました。
あるいは良きサマリア人が、傷付けられた半死半生の人に、ブドウ酒を与え、油を捧げて、教会に連れて行って、「治してほしい」と言ったところから、「御聖体」の秘跡の事が暗示されました。
今日は、10人の癩病人が、「司祭に、その病気の事を見せに行きなさい」といった事によって治った、「告解の秘跡」の事を暗示しています。
特に教父たちは、「この『癩病』というのが、『罪』のシンボルであって、恐るべき伝染病であって、不治の、もうどうしても隔離する事しか身を守る事ができない病気であった、その恐るべき体の癩病よりも、更に重い病が、罪である。」
しかし人々は、この罪に対して、天主に対する公然の反乱について、あるいは感覚と霊魂を全てを総動員しての、全面戦争に対して、至高の天主に対する反逆に対して、裏切りに対して、あまりにも無関心であって、霊魂の癩病については、何の注意も払おうとしていない。そして罪は、罪を呼び、悪い模範を呼び、そして多くの人々を汚染して、そして罪が広がっている、という事を教父たちは教えています。
あるいは、この10人の癩病たちが癒されるその為に、イエズス様に謙遜に願った、その「謙遜」、「イエズス様に対する信頼」、その「祈り」を指摘する教父たちもたくさんいます。
あるいは、「イエズス様が治す為に、自分はその場ですぐに瞬間的に治す事ができるのに、『綺麗になれ』と言う事ができたにもかかわらず、あえて『司祭の元に行け。』、そして行っている間に治した、この意味は何か?」「罪の場所から離れるべきだ」とか、あるいは「司祭に見せに行くという事で、『悔悛の秘跡』の前兆である」とか、と言われています。
あるいは、「旧約の司祭たちも、『イエズス様によって治された』という事が認識できるように、『イエズス様こそがメシアである』という事が分かるように、という事を示す為に」と指摘しています。
しかしこの10人の内、きれいに癩病が癒されて、きれいになった事に気付いて、そのおそらく10人は喜んだ、喜びに満ち溢れたに違いません。
しかしその内に、道を引き返して、イエズスの元に帰って来て、大きな声で讃美して、感謝して、そして平伏して、「ありがとう」と言いに来たのは、たった一人のサマリア人でした。
教父たちはこれによって、これを取って、イスラエルの聖なる民族が、天主に対してお礼もしなかった、イエズス様に対してお礼もしなかったけれども、この異教徒は外国人は、イエズス様に感謝した。
そして、徳の進歩を妨げるものは、『忘恩』である。私たちがもしも聖徳に進もうと思うならば思うほど、受けた御恵みを感謝しなければならない、ということも言います。
これが、教父たちがこの10人の癩病たちの癒しについて言っている事ですけれども、特に私たちは、徳に対してますます前進したいと願っています。このサマリア人に倣いたいと思っています。
⑵ですから第2のポイントは、今日是非、このサマリア人のやった事を、もう一度分析してみる事を提案します。
聖トマス・アクィナスによると、「『謝恩』あるいは『感謝』というのには、3つの段階がある」と言います。
「まず最初は、頭の中で。認識で。」
「第2は、口で。あるいは注意で。」
「最後には、行動で現れる」と言います。
まず、聖トマス・アクィナスによれば、「まず、受けた御恵みを認識する事」から始まります。
次に、それを口に出して讃美したり、「あぁ、素晴らしい御恵みだ。」あるいは「感謝します」と、表現する事によって、第2の段階に行きます。
第3の段階は、自分の持っているものを、何かそのお礼を、恩をして下さる方に与えて、返礼をする、お礼をする。
「これが謝恩であり、感謝だ」と言います。
では、この私たちも、もしもサマリア人になろうとするならば、一体どのように恩を返答したら良いでしょうか?
もちろん、「感謝」というのには、相手によって名前が付いています。色々段階があります。
「天主」に対する感謝は、もちろん「宗教」の徳であります。
「親」に対する感謝は、これは「忠孝」の「敬愛」の徳です。
「目上」や、あるいはこの立派な方々に対する感謝は、これは「尊敬」の徳に入ります。
そして「友情」関係の間でも感謝があります。
しかし全ては、まず「受けた恵みを認識する事」から始まります。私たちは特に今日、天主様に対して、天主様から受けた御恵みを認識致しましょう。
洗礼の恵み。罪をきれいに赦された恵み。罪という腐敗の伝染病、癩病を、霊的な癩病から癒された恵み。あるいは御聖体の恵み。イエズス・キリストの流された御血。そのイエズス様が、私たちの霊魂を救う為に命を捨てられた事。私たちに命を与えられた事。十字架で命を私たちに下さった事。その燃え尽きるような、燃え盛る愛。死をも恐れない愛。全てを私たちに与えようというその寛大な愛。
私たちはそれを、何度も何度も認識しようと黙想してきました。
まず「御恵みを知る」事から、そして「それを受けたという事を認める」事から始まります。
次に、口で、あるいは態度で、その受けた恵みに対して感謝をします。
このサマリア人は、大きな声で天主を讃美しました。
そして額突いて、礼拝して、そして態度で表しました。
私たちも、天主から受けた御恵みを、礼拝や、あるいは讃美を行なう事によって、それを認めます。私たちが今日ミサに来たという事も、今日サマリア人の真似をしたと同じです。私たちがイエズス様の前でこうやって、イエズス様の前にやって来て、そして跪いて礼拝する、大きな声で讃美する、感謝する。これはまさしくサマリア人の真似です。
更に、私たちの持っているものを使って、何かできる事を与えます。聖トマス・アクィナスによれば、「対象によって、もちろん私たちの与える物が大切な時もあれば、あるいは私たちの持っている愛情を以てお礼をするのが大切な時もある」と、その場所、機会を区別しています。
私たちは天主に対して、その恩を返し尽くす事ができないので、少なくとも私たちの愛を以て、償いを捧げます、私たちの犠牲を捧げます。
私たちはミサにやって来て、そしてミサの中のカリスの中に、司祭が一滴の水を入れるのは、皆さんの日々の犠牲と、そして祈りと、そのイエズス様の贖いの業への一致のシンボルです。
私たちもただ単に、「ありがとう」感謝するのみならず、一歩進んで、私たちの持てる苦しみや辛い事、あるいは十字架、あるいは暑さ、寒さ、あるいは人に対する許し、人に対する寛大な心、愛徳を以て、イエズス様のカリスの中に、イエズス様の御血に、私たちの一滴を入れて、お礼をします、「私たちの犠牲も、祈りも、使って下さい。」ファチマの子供たちもこれを学びました。
では、もしも私たちがお礼をしない、謝恩しないという事は、何と言われるでしょうか?「忘恩」と言われます。「恩知らず」と言います。
聖トマス・アクィナスによると、「忘恩には2つの方法がある」と言います。「やり方がある。そしてその2つのやり方にも、程度がある。
1つは、『感謝をゼロにして、何もしない』というやり方。
もう1つは、『受けた御恵みを否定する』やり方だ」と言います。
「0のやり方は、まず一番程度の軽いのが、頭では認識したとしても、態度でお礼をしない、行動でお礼をしない。0の態度。」
「次に」聖トマス・アクィナスによれば、「受けた御恵みを讃美しない、賞賛しない、あるいは口に出して感謝しない。0の態度。」
「そして更にその酷いのが、受けた御恵みを忘れる、あるいは認識しない、あるいは認知しない。『そんなもの受けたか?』」
しかし更に悪い態度は、受けた御恵みを否定する事です。
聖トマス・アクィナスによると、「まず行動で、受けた善を、悪で返す。」
「第2の段階は、受けた御恵みを非難する。」
「あるいは第3の一番悪いのが、受けた御恵みを、『害である』と思う。『彼は加害者で、私は被害者だ!』」
天主様に対する忘恩も、あるいはここまで悪魔的になってしまう危険もあります。
私たちは是非、このサマリア人に倣って、感謝の念を持とうと願います。おそらく私の思うには、この10人の癩病者は、受けた御恵みを認識して、喜んだに違いありません。ただおそらく、戻って来るのがあまりにも面倒くさかったり、あるいは冷淡であったのかもしれません。
もしかしたら主日のミサに来ないという方々も、あるいは正当な理由がある、あるいはもしかしたら冷淡な、そしてあるいは御恵みを感謝するのをサボってしまっている霊魂なのかもしれません。私たちは是非、そのような霊魂たちの為にも、代わりに、彼らに代わって、感謝をしたいと思っています。
⑶では今日は、どんな決心を取れば良いでしょうか?
3つ提案したいと思います。
それは、主日のミサが、復活のミサのミニチュア版だという事から、私たちはこの霊的な復活を受けた、御聖体と洗礼の御恵みをこのミサで感謝して、サマリア人のように跪いて礼拝し、そして感謝致しましょう。
そして私たちの御聖体拝領を、また今日のミサの後の御聖体降福式を、イエズス様に感謝しない人々に代わって、感謝致しましょう。
第3に最後に、この10人の癩病者が癒しを受けるようになったその最初は、謙遜に、自分の事を、自分の卑しさを、イエズス様に言う事でした。そのそれによって、この癒しを受けられ、そしてサマリア人は感謝しました。
ところでマリア様は、その自分のご謙遜を、マニフィカトでこう言っています。
「主は、私の卑しさを見られたので、私は主を讃美する。」
マリア様はご自分の卑しさを感謝しています。
ですから最後に、マリア様に、私たちにもその感謝の気持ちをいつも持つ事ができますように、お祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
Photo Credit
聖ピオ十世会司祭 小野田神父様御説教
日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2019年9月8日、聖霊降臨後第13主日のミサをしています。
今日は第1主日ですので、このミサの後で、御聖体降福式をお捧げしたいと思います。
特に11月は教皇様が日本に訪問されますので、教皇様の訪問によって、日本の多くの方がカトリックの信仰に導かれますように、特別の御恵みを、その教皇様の訪問の実りが、霊的な実りがありますように、お祈り致しましょう。
明日も朝7時からミサがあります。
次のミサは少しイレギュラーになっておりまして、9月29日に予定されております。
9月29日の大天使聖ミカエルの祝日で、主日です。どうぞお間違えのないようになさって下さい。特にこの日には、フォルティン神父様がいらっしゃる予定です。
いくつかお願いがあります。
フォルティン神父様はマニラで学校を経営しておられます。もしも神父様がいらした時に、第2献金をして、この学校の援助の為に、もしも皆さん寛大な心をお示し下さる事ができれば非常に嬉しく思います。きっとフォルティン神父様も日本に来る事を楽しみにしていらっしゃると思います。どうぞよろしくお願い致します。
次はお祈りのお願いです。
先ほど申しましたように、教皇様が来日されるという事で、この実りが多いこの訪問となりますように、私たちはそれをお祈りしたいと思っています。カトリック信徒として当然と言えば当然ですけれども、皆様から、もしもできましたら、祈りの励みとなる為にも、霊的花束を頂戴したいと思っています。
その11月までたくさんのお祈りを教皇様の為にお願いします。
もう1つの祈りのお願いですけれども、今日、今回休暇で帰っておられる私たちのアグネスさんが、天主様からの御恵みによって、来年フランスで、復活祭の後の白衣の主日に着衣式をなさる予定です。
皆さんからの寛大なたくさんの熱いお祈りをお願いしたいと思っています。良き、聖なる、天主様に奉献された霊魂となりますように、天主様の御旨が果たされますように、皆さんのお祈りを、今日からお願いしたいと思います。
「すると、引き戻して、大きな声で天主を讃美して、顔を地面に平伏して付けて、平伏して、そして感謝した。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日、有名な「10人の癩病」の描写が、「イエズス様に謙遜な祈りをした事によって、癒された」という歴史的な事実を、私たちにミサで思い出させてくれます。
今日その典礼の精神に従って、
⑴この「癩病の10人が癒された」この事について、教父たちは一体何を言っているか?をまず簡単に黙想します。
⑵でも特に、今日私が是非強調したい点は、この最後のサマリア人が、感謝しに帰って来た、「感謝」と、そしてそれに反対する「忘恩」について、一体何なのか?を見て、
⑶そして最後に、私たちもこの典礼の精神に従って、遷善の決心を立てる事に致しましょう。
⑴簡単に今日の、この「10人の癩病の患者が癒された事が、なぜ出てくるのか」、「教父たちは何を言ってるのか」を、簡単におさらいしてみます。
これについては皆さん毎年聞かれた話です。
教会は、私たちの聖母の被昇天を境に、私たちに霊魂の準備を、死の準備を、世の終わりの、裁きの日の準備をしようとしています。そしてそれと同時に、イエズス様の憐れみの業を強調しようとしています。私たちがイエズス様に信頼するように。
先々週は、目の見えない人と口のきけない人が癒された話を見ますが、その時に「エフェタ」という言葉が出た事から、「洗礼」の事が象徴されました。
あるいは良きサマリア人が、傷付けられた半死半生の人に、ブドウ酒を与え、油を捧げて、教会に連れて行って、「治してほしい」と言ったところから、「御聖体」の秘跡の事が暗示されました。
今日は、10人の癩病人が、「司祭に、その病気の事を見せに行きなさい」といった事によって治った、「告解の秘跡」の事を暗示しています。
特に教父たちは、「この『癩病』というのが、『罪』のシンボルであって、恐るべき伝染病であって、不治の、もうどうしても隔離する事しか身を守る事ができない病気であった、その恐るべき体の癩病よりも、更に重い病が、罪である。」
しかし人々は、この罪に対して、天主に対する公然の反乱について、あるいは感覚と霊魂を全てを総動員しての、全面戦争に対して、至高の天主に対する反逆に対して、裏切りに対して、あまりにも無関心であって、霊魂の癩病については、何の注意も払おうとしていない。そして罪は、罪を呼び、悪い模範を呼び、そして多くの人々を汚染して、そして罪が広がっている、という事を教父たちは教えています。
あるいは、この10人の癩病たちが癒されるその為に、イエズス様に謙遜に願った、その「謙遜」、「イエズス様に対する信頼」、その「祈り」を指摘する教父たちもたくさんいます。
あるいは、「イエズス様が治す為に、自分はその場ですぐに瞬間的に治す事ができるのに、『綺麗になれ』と言う事ができたにもかかわらず、あえて『司祭の元に行け。』、そして行っている間に治した、この意味は何か?」「罪の場所から離れるべきだ」とか、あるいは「司祭に見せに行くという事で、『悔悛の秘跡』の前兆である」とか、と言われています。
あるいは、「旧約の司祭たちも、『イエズス様によって治された』という事が認識できるように、『イエズス様こそがメシアである』という事が分かるように、という事を示す為に」と指摘しています。
しかしこの10人の内、きれいに癩病が癒されて、きれいになった事に気付いて、そのおそらく10人は喜んだ、喜びに満ち溢れたに違いません。
しかしその内に、道を引き返して、イエズスの元に帰って来て、大きな声で讃美して、感謝して、そして平伏して、「ありがとう」と言いに来たのは、たった一人のサマリア人でした。
教父たちはこれによって、これを取って、イスラエルの聖なる民族が、天主に対してお礼もしなかった、イエズス様に対してお礼もしなかったけれども、この異教徒は外国人は、イエズス様に感謝した。
そして、徳の進歩を妨げるものは、『忘恩』である。私たちがもしも聖徳に進もうと思うならば思うほど、受けた御恵みを感謝しなければならない、ということも言います。
これが、教父たちがこの10人の癩病たちの癒しについて言っている事ですけれども、特に私たちは、徳に対してますます前進したいと願っています。このサマリア人に倣いたいと思っています。
⑵ですから第2のポイントは、今日是非、このサマリア人のやった事を、もう一度分析してみる事を提案します。
聖トマス・アクィナスによると、「『謝恩』あるいは『感謝』というのには、3つの段階がある」と言います。
「まず最初は、頭の中で。認識で。」
「第2は、口で。あるいは注意で。」
「最後には、行動で現れる」と言います。
まず、聖トマス・アクィナスによれば、「まず、受けた御恵みを認識する事」から始まります。
次に、それを口に出して讃美したり、「あぁ、素晴らしい御恵みだ。」あるいは「感謝します」と、表現する事によって、第2の段階に行きます。
第3の段階は、自分の持っているものを、何かそのお礼を、恩をして下さる方に与えて、返礼をする、お礼をする。
「これが謝恩であり、感謝だ」と言います。
では、この私たちも、もしもサマリア人になろうとするならば、一体どのように恩を返答したら良いでしょうか?
もちろん、「感謝」というのには、相手によって名前が付いています。色々段階があります。
「天主」に対する感謝は、もちろん「宗教」の徳であります。
「親」に対する感謝は、これは「忠孝」の「敬愛」の徳です。
「目上」や、あるいはこの立派な方々に対する感謝は、これは「尊敬」の徳に入ります。
そして「友情」関係の間でも感謝があります。
しかし全ては、まず「受けた恵みを認識する事」から始まります。私たちは特に今日、天主様に対して、天主様から受けた御恵みを認識致しましょう。
洗礼の恵み。罪をきれいに赦された恵み。罪という腐敗の伝染病、癩病を、霊的な癩病から癒された恵み。あるいは御聖体の恵み。イエズス・キリストの流された御血。そのイエズス様が、私たちの霊魂を救う為に命を捨てられた事。私たちに命を与えられた事。十字架で命を私たちに下さった事。その燃え尽きるような、燃え盛る愛。死をも恐れない愛。全てを私たちに与えようというその寛大な愛。
私たちはそれを、何度も何度も認識しようと黙想してきました。
まず「御恵みを知る」事から、そして「それを受けたという事を認める」事から始まります。
次に、口で、あるいは態度で、その受けた恵みに対して感謝をします。
このサマリア人は、大きな声で天主を讃美しました。
そして額突いて、礼拝して、そして態度で表しました。
私たちも、天主から受けた御恵みを、礼拝や、あるいは讃美を行なう事によって、それを認めます。私たちが今日ミサに来たという事も、今日サマリア人の真似をしたと同じです。私たちがイエズス様の前でこうやって、イエズス様の前にやって来て、そして跪いて礼拝する、大きな声で讃美する、感謝する。これはまさしくサマリア人の真似です。
更に、私たちの持っているものを使って、何かできる事を与えます。聖トマス・アクィナスによれば、「対象によって、もちろん私たちの与える物が大切な時もあれば、あるいは私たちの持っている愛情を以てお礼をするのが大切な時もある」と、その場所、機会を区別しています。
私たちは天主に対して、その恩を返し尽くす事ができないので、少なくとも私たちの愛を以て、償いを捧げます、私たちの犠牲を捧げます。
私たちはミサにやって来て、そしてミサの中のカリスの中に、司祭が一滴の水を入れるのは、皆さんの日々の犠牲と、そして祈りと、そのイエズス様の贖いの業への一致のシンボルです。
私たちもただ単に、「ありがとう」感謝するのみならず、一歩進んで、私たちの持てる苦しみや辛い事、あるいは十字架、あるいは暑さ、寒さ、あるいは人に対する許し、人に対する寛大な心、愛徳を以て、イエズス様のカリスの中に、イエズス様の御血に、私たちの一滴を入れて、お礼をします、「私たちの犠牲も、祈りも、使って下さい。」ファチマの子供たちもこれを学びました。
では、もしも私たちがお礼をしない、謝恩しないという事は、何と言われるでしょうか?「忘恩」と言われます。「恩知らず」と言います。
聖トマス・アクィナスによると、「忘恩には2つの方法がある」と言います。「やり方がある。そしてその2つのやり方にも、程度がある。
1つは、『感謝をゼロにして、何もしない』というやり方。
もう1つは、『受けた御恵みを否定する』やり方だ」と言います。
「0のやり方は、まず一番程度の軽いのが、頭では認識したとしても、態度でお礼をしない、行動でお礼をしない。0の態度。」
「次に」聖トマス・アクィナスによれば、「受けた御恵みを讃美しない、賞賛しない、あるいは口に出して感謝しない。0の態度。」
「そして更にその酷いのが、受けた御恵みを忘れる、あるいは認識しない、あるいは認知しない。『そんなもの受けたか?』」
しかし更に悪い態度は、受けた御恵みを否定する事です。
聖トマス・アクィナスによると、「まず行動で、受けた善を、悪で返す。」
「第2の段階は、受けた御恵みを非難する。」
「あるいは第3の一番悪いのが、受けた御恵みを、『害である』と思う。『彼は加害者で、私は被害者だ!』」
天主様に対する忘恩も、あるいはここまで悪魔的になってしまう危険もあります。
私たちは是非、このサマリア人に倣って、感謝の念を持とうと願います。おそらく私の思うには、この10人の癩病者は、受けた御恵みを認識して、喜んだに違いありません。ただおそらく、戻って来るのがあまりにも面倒くさかったり、あるいは冷淡であったのかもしれません。
もしかしたら主日のミサに来ないという方々も、あるいは正当な理由がある、あるいはもしかしたら冷淡な、そしてあるいは御恵みを感謝するのをサボってしまっている霊魂なのかもしれません。私たちは是非、そのような霊魂たちの為にも、代わりに、彼らに代わって、感謝をしたいと思っています。
⑶では今日は、どんな決心を取れば良いでしょうか?
3つ提案したいと思います。
それは、主日のミサが、復活のミサのミニチュア版だという事から、私たちはこの霊的な復活を受けた、御聖体と洗礼の御恵みをこのミサで感謝して、サマリア人のように跪いて礼拝し、そして感謝致しましょう。
そして私たちの御聖体拝領を、また今日のミサの後の御聖体降福式を、イエズス様に感謝しない人々に代わって、感謝致しましょう。
第3に最後に、この10人の癩病者が癒しを受けるようになったその最初は、謙遜に、自分の事を、自分の卑しさを、イエズス様に言う事でした。そのそれによって、この癒しを受けられ、そしてサマリア人は感謝しました。
ところでマリア様は、その自分のご謙遜を、マニフィカトでこう言っています。
「主は、私の卑しさを見られたので、私は主を讃美する。」
マリア様はご自分の卑しさを感謝しています。
ですから最後に、マリア様に、私たちにもその感謝の気持ちをいつも持つ事ができますように、お祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
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