1896年9月13日:教皇レオ13世の使徒書簡アポストリチェ・クーレ(Apostolicae Curae)英国教会の叙階について
Litterae Apostolicae
APOSTOLICAE CURAE
De Ordinationibus Anglicanis
LEO EPISCOPVS
Servus Servorum Dei
photo credit
永遠の記念に
使徒的な気遣いと愛徳とを(Apostolicae Curae et Caritatis)、私は高貴なイギリスの国の福祉のために、少なからず捧げてきた。この気遣いと愛徳とを持って私は「羊の偉大なる牧者」である私達の主イエズス・キリストの任務を果たし、主の足跡に従おうと必死になっている。昨年、信仰の一致におけるキリストの王国を求めて私が英国の人々に送った手紙は、英国に対する私の善意の特別の証人である。その手紙の中で私は英国民の母なる公教会との古き一致の記憶を思い起こした。そして私は天主へ熱心な祈りを捧げることによって人々の心を揺り動かし、幸せな和解の日を急がせるようにと努力した。またもう一度つい最近、一般的な書簡の中で公教会の一致をもっと詳しく取り扱うのがよいと私に思われたとき、英国は私の心に於いて決して最後の位置を占めていたのではなかった。それは私の教えがカトリック信者を強めそれと同時に私達から離れていった人々に救いの光をもたらすことを望んでのことだった。私が熱心に、また口調を率直に言ったその寛大なやり方は、単なる人間的な動機付けによってなされたのではないのであり、そのやり方が英国民の評価を受けたことを認めるのが出来たとは、喜ばしいことである。このことは彼らの礼儀正しい態度と同時に彼らの永遠の救いのための多くの心配とを証明している。
これと同じ心と意向を持って私は非常に重要なことを今回考察しようと決意した。このことは同じ事柄と私の望みとに緊密に結びついている。
既に、教会の一度ならずの行動とその常なる実践とによって確認された有力な意見は、こう主張する。すなわち、イギリスがキリスト教の一致の中心から外れた少し後に聖なる叙階の秘蹟を授与する新しい典礼様式がエドワード6世のもとに公式に導入されたが、その時、キリストが制定したがままの本当の叙階の秘蹟は消滅し、それと共に教会位階秩序の継承も途絶えた、と。
しかし、ある時、また特に近年エドワード式叙階式に従って授与された聖なる叙位が、秘蹟としての本性と効果を持っているのではないかという議論がわき上がった。
その叙階の秘蹟が絶対的に有効である、或いは疑わしいが有効であるということに賛成する者たちが英国聖公会の著作者たちのみならず、主に英国人ではないカトリックにも少数だがいる。その様な英国聖公会の著者は、キリスト教の司祭職の素晴らしさを考察したために、彼らがかつてそうだったように、自国民たちはキリストの御体に対する2重の権能を欠如するべきではないと望んでいた。またカトリックの作家がそう言うのは、聖公会が聖なる一致に戻るようにと道を平らにすることを望んでいたからだった。実に、最近の研究の水準にまで引き上げられた学問の成果の見地と、忘れられた文書を新しく発掘した見地から、私の権威を持ってこの問題を再検討するのは相応しいことだろう。
私は以上のような望みと意見とを無視することなく、特に使徒職上の愛徳の命じるままに、霊魂の損害となることを遠ざけ、霊魂の有利になることを供給しようと尽くさなかった方法は何も残っていないほど、あらゆる方法を尽くした。
従ってこの新しい検討に於いて極度の注意を払い、将来にわたって如何なる疑いも、疑いの陰でさえすらも残らないように全て取り除かれるように、私はこの問題を再検討し直すことを喜んで寛大に許したのである。
教皇ユリウス3世とパウロ4世との権威を私は引用したが、それは3世紀以上も「エドワード式典礼様式に基づく叙階式は全く無効である」ということを継続的に実践し続けてきたことの起源を明らかに示している。
この実践はローマでさえも、数多くの再叙階式が[条件付きではなく]絶対的に数多くなされたことによって証明される。
聖公会の叙階の有効性を支持するために、その有効性の助けとして、同じ叙階式用儀式書の別の祈りから最近求められたが、無駄であった。このことが聖公階の典礼様式に於いて有効性のために不十分なことは、いろいろな理由があるがそれらを別にしても、次のことが全てを決定するのに十分である。
それらの祈りからかつてカトリック典礼様式にある司祭職の尊厳と役務に言及するものは全て故意的に取り除かれていた。この「形相」は従って、その秘蹟が本質的に意味するところのものを欠き、そのためその秘蹟を有効に授与するには相応しいか十分であると考えることは出来ない。
同じことは司教聖別についても言える。・・・
この内在的な「形相」の欠陥と共に、それを等しく重要な「意向」の欠陥がつながっている。教会は心と意向に関して、それがその本性上内的なものである限りに於いて、裁かない。しかし、それが外的に現れる限りに於いて教会はそれに関して裁かねばならない。
ある人が正確にそして真面目に必要な質料と形相とを使って、秘蹟を執行し授けようとしたなら、そのこと自体からして、彼は教会がしていることをしようとしていた(intendisse)と前提して良い。この原理の上に教会の次の教えが成り立っている。すなわち、異端者或いは洗礼を受けていない者が施したものでもカトリックの典礼様式を使っているなら、秘蹟は本当に授けられている、という教えである。
他方で、もし教会によって認可を受けていない別の典礼様式を導入し、教会のしていることを、そしてキリストの御制定によってそもそも秘蹟の本性に属していることを打ち捨てる、という明らかな意向を持って典礼様式が変えるなら、秘蹟に必要な意向が欠けているだけでなく、その意向がその秘蹟に対立し、秘蹟を破壊するものであることは明らかである。
従って、このことに関し、私の前任者である過去の教皇たちの教令を厳密に支持し、また、それらに全く一致し、そして私の権威によってそれらの教令をいわば更新し、私は自発的に確実な知識を持ってこう発表し宣言する。すなわち、英国聖公会の典礼様式に従ってなされた叙階は、かつて絶対的に無効であり、全く無意味であったし、今でも絶対的に無効であり、全く無意味である。
[Itaque omnibus Pontificum Decessorum in hac ipsa causa decretis usquequaque assentientes, eaque plenissime confirmantes ac veluti renovantes auctoritate Nostra, motu proprio certa scientia, pronunciamus et declaramus, ordinationes ritu anglicano actas, irritas prorsus fuisse et esse, omninoque nullas.]
(…)
私はそれらの手紙、そしてこれが含む全ての内容が、私の意向の深層やその他の考えがどのようなものであれ、追加、廃止、欠陥や欠落があるために攻撃や反対を受けることが出来ないことを勅令する。また、私はこれらの手紙が現在また将来にわたって常に有効で執行力を持つことを、さらに裁治権上またはその他[教義上]の両者にわたってどのような教会位階のものであれ、どのような高貴な位のものであれ全ての人々によって、不可侵に守られるべきことを勅令する。このことに関し、その反対のことが故意に或いは無意識のうちに、企てられたとしても、それが誰であれ、どのような権威を持つものであれ、如何なる口実のものでも、これに反対するものがあってはならない。
私は、この手紙の写しに、それが印刷されたものであったとしても、公証人の署名と教会の高位聖職者の印鑑とが打たれ、私の意志がこれらのものを見せることによって明らかに示されることを望む。
ローマ、聖ペトロの傍らで我らの主の御托身1896年9月13日、私の教皇在位第9年目に。
教皇レオ13世
Litterae Apostolicae
APOSTOLICAE CURAE
De Ordinationibus Anglicanis
LEO EPISCOPVS
Servus Servorum Dei
photo credit
永遠の記念に
使徒的な気遣いと愛徳とを(Apostolicae Curae et Caritatis)、私は高貴なイギリスの国の福祉のために、少なからず捧げてきた。この気遣いと愛徳とを持って私は「羊の偉大なる牧者」である私達の主イエズス・キリストの任務を果たし、主の足跡に従おうと必死になっている。昨年、信仰の一致におけるキリストの王国を求めて私が英国の人々に送った手紙は、英国に対する私の善意の特別の証人である。その手紙の中で私は英国民の母なる公教会との古き一致の記憶を思い起こした。そして私は天主へ熱心な祈りを捧げることによって人々の心を揺り動かし、幸せな和解の日を急がせるようにと努力した。またもう一度つい最近、一般的な書簡の中で公教会の一致をもっと詳しく取り扱うのがよいと私に思われたとき、英国は私の心に於いて決して最後の位置を占めていたのではなかった。それは私の教えがカトリック信者を強めそれと同時に私達から離れていった人々に救いの光をもたらすことを望んでのことだった。私が熱心に、また口調を率直に言ったその寛大なやり方は、単なる人間的な動機付けによってなされたのではないのであり、そのやり方が英国民の評価を受けたことを認めるのが出来たとは、喜ばしいことである。このことは彼らの礼儀正しい態度と同時に彼らの永遠の救いのための多くの心配とを証明している。
これと同じ心と意向を持って私は非常に重要なことを今回考察しようと決意した。このことは同じ事柄と私の望みとに緊密に結びついている。
既に、教会の一度ならずの行動とその常なる実践とによって確認された有力な意見は、こう主張する。すなわち、イギリスがキリスト教の一致の中心から外れた少し後に聖なる叙階の秘蹟を授与する新しい典礼様式がエドワード6世のもとに公式に導入されたが、その時、キリストが制定したがままの本当の叙階の秘蹟は消滅し、それと共に教会位階秩序の継承も途絶えた、と。
しかし、ある時、また特に近年エドワード式叙階式に従って授与された聖なる叙位が、秘蹟としての本性と効果を持っているのではないかという議論がわき上がった。
その叙階の秘蹟が絶対的に有効である、或いは疑わしいが有効であるということに賛成する者たちが英国聖公会の著作者たちのみならず、主に英国人ではないカトリックにも少数だがいる。その様な英国聖公会の著者は、キリスト教の司祭職の素晴らしさを考察したために、彼らがかつてそうだったように、自国民たちはキリストの御体に対する2重の権能を欠如するべきではないと望んでいた。またカトリックの作家がそう言うのは、聖公会が聖なる一致に戻るようにと道を平らにすることを望んでいたからだった。実に、最近の研究の水準にまで引き上げられた学問の成果の見地と、忘れられた文書を新しく発掘した見地から、私の権威を持ってこの問題を再検討するのは相応しいことだろう。
私は以上のような望みと意見とを無視することなく、特に使徒職上の愛徳の命じるままに、霊魂の損害となることを遠ざけ、霊魂の有利になることを供給しようと尽くさなかった方法は何も残っていないほど、あらゆる方法を尽くした。
従ってこの新しい検討に於いて極度の注意を払い、将来にわたって如何なる疑いも、疑いの陰でさえすらも残らないように全て取り除かれるように、私はこの問題を再検討し直すことを喜んで寛大に許したのである。
教皇ユリウス3世とパウロ4世との権威を私は引用したが、それは3世紀以上も「エドワード式典礼様式に基づく叙階式は全く無効である」ということを継続的に実践し続けてきたことの起源を明らかに示している。
この実践はローマでさえも、数多くの再叙階式が[条件付きではなく]絶対的に数多くなされたことによって証明される。
聖公会の叙階の有効性を支持するために、その有効性の助けとして、同じ叙階式用儀式書の別の祈りから最近求められたが、無駄であった。このことが聖公階の典礼様式に於いて有効性のために不十分なことは、いろいろな理由があるがそれらを別にしても、次のことが全てを決定するのに十分である。
それらの祈りからかつてカトリック典礼様式にある司祭職の尊厳と役務に言及するものは全て故意的に取り除かれていた。この「形相」は従って、その秘蹟が本質的に意味するところのものを欠き、そのためその秘蹟を有効に授与するには相応しいか十分であると考えることは出来ない。
同じことは司教聖別についても言える。・・・
この内在的な「形相」の欠陥と共に、それを等しく重要な「意向」の欠陥がつながっている。教会は心と意向に関して、それがその本性上内的なものである限りに於いて、裁かない。しかし、それが外的に現れる限りに於いて教会はそれに関して裁かねばならない。
ある人が正確にそして真面目に必要な質料と形相とを使って、秘蹟を執行し授けようとしたなら、そのこと自体からして、彼は教会がしていることをしようとしていた(intendisse)と前提して良い。この原理の上に教会の次の教えが成り立っている。すなわち、異端者或いは洗礼を受けていない者が施したものでもカトリックの典礼様式を使っているなら、秘蹟は本当に授けられている、という教えである。
他方で、もし教会によって認可を受けていない別の典礼様式を導入し、教会のしていることを、そしてキリストの御制定によってそもそも秘蹟の本性に属していることを打ち捨てる、という明らかな意向を持って典礼様式が変えるなら、秘蹟に必要な意向が欠けているだけでなく、その意向がその秘蹟に対立し、秘蹟を破壊するものであることは明らかである。
従って、このことに関し、私の前任者である過去の教皇たちの教令を厳密に支持し、また、それらに全く一致し、そして私の権威によってそれらの教令をいわば更新し、私は自発的に確実な知識を持ってこう発表し宣言する。すなわち、英国聖公会の典礼様式に従ってなされた叙階は、かつて絶対的に無効であり、全く無意味であったし、今でも絶対的に無効であり、全く無意味である。
[Itaque omnibus Pontificum Decessorum in hac ipsa causa decretis usquequaque assentientes, eaque plenissime confirmantes ac veluti renovantes auctoritate Nostra, motu proprio certa scientia, pronunciamus et declaramus, ordinationes ritu anglicano actas, irritas prorsus fuisse et esse, omninoque nullas.]
(…)
私はそれらの手紙、そしてこれが含む全ての内容が、私の意向の深層やその他の考えがどのようなものであれ、追加、廃止、欠陥や欠落があるために攻撃や反対を受けることが出来ないことを勅令する。また、私はこれらの手紙が現在また将来にわたって常に有効で執行力を持つことを、さらに裁治権上またはその他[教義上]の両者にわたってどのような教会位階のものであれ、どのような高貴な位のものであれ全ての人々によって、不可侵に守られるべきことを勅令する。このことに関し、その反対のことが故意に或いは無意識のうちに、企てられたとしても、それが誰であれ、どのような権威を持つものであれ、如何なる口実のものでも、これに反対するものがあってはならない。
私は、この手紙の写しに、それが印刷されたものであったとしても、公証人の署名と教会の高位聖職者の印鑑とが打たれ、私の意志がこれらのものを見せることによって明らかに示されることを望む。
ローマ、聖ペトロの傍らで我らの主の御托身1896年9月13日、私の教皇在位第9年目に。
教皇レオ13世