2019年10月4日(初金)至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父説教
聖母の汚れなき聖心聖堂にようこそ。
今日は2019年10月4日、アシジの聖フランシスコの祝日ですが、10月の初金曜日で、イエズス様の聖心の随意ミサをしております。
初金曜日はいつも、私たちはここで、イエズス様の聖心の御願いに従って、聖時間を行なっています。このミサの直後に1時間、イエズス様の御聖体の前で、お祈りを致しましょう。
明日は10時半からミサがありますが、突然亡くなってしまった姉妹のローザさんの追悼ミサを行ないたいと思っています。
“Consolantem me quaesivi.”
「私は、私を慰める者を探した。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、イエズス様の聖心の御望みになる事を黙想し続けましょう。
イエズス様の聖心は私たちに、たった1つの事を求めています。それは、「イエズス様が私たちをどれほど愛しているか、という事を理解して、私たちがその愛を、愛で以て返す」という事です。
今日はその「イエズス様に、私たちを創って下さった創造主に、愛を愛で以て返す」という事について黙想する事に致しましょう。
天主は、1つの事を私たちに求めました、「全てを尽くし、力を尽くし、心を尽くし、礼を尽くし、汝の創り主なる主を愛せよ。これが最高の、最大の掟である。」「そして天主を愛するが為に、隣人を己の如く愛せよ。」
イエズス様は、私たちを創った創造主は、ここまでして、「私たちが主を愛する」という事を求めています。
この全宇宙を創った天主にとって、私たちの愛がどれほど必要だったのでしょうか?
全く必要ではありませんでした。私たちが愛そうが愛さまいが、無限に、永遠に、幸せな御方であり、永遠の至福、終わりのない、限りのない至福を楽しんでおられる方であるので、私たちがいくら何をしようと、その幸せには、無限の幸せには、全く変わりがありませんでしたが、あまりにも善い方であったので、あまりにも善に満ちた、愛に溢れた方であったので、その御自分の無限の幸せと喜びを、私たちにも与えたいと、私たちがその愛の団居の中に入る事を、私たちが天主のようになって、天主のような永遠の無限の喜びの中に入る事を、純粋に、あまりにも善い方だったので、それを御望みになりました。
特に私たちがそれに相応しい何かをしたとか、それに相応しかったという事は無く、全く憐みによって、それを御望みになりました。
ただ、天主は私たちをロボットとして、あるいは恐怖で、あるいは仕方なくそうする事を御望みなのではなくて、知性を以て、自由意志を以て、はっきりと真理を認識しながら、事実を認識しながら、自分で選んで、この最高の善を、最高の真理を愛する、という事を御望みになりました。
なぜ天主を愛するかというと、天主が愛に相応しい方であって、全ての愛を受けるに当然の方であって、私たちがそれを、「喜んでしたい」と思うように望まれました。
ここに天主の創造の自由と、聖寵の御恵みと、私たちの協力の神秘があります。
私たちは一週間前に、大天使聖ミカエルの祝日に、悪魔の反乱と、良い天使たちが大天使聖ミカエルに率いられて、天主を自由に選んだ、その愛と、御恵みと、その自由の神秘を黙想しました。
同様に私たちにとっても、天主は、全く自由に愛する事を御望みになって、あたかも私たちが天主を愛する事によって、天主様が幸せになるかのようなほど、御謙遜に御求めになっています。
旧約聖書のあるいは新約聖書の色々な所に、それが現れます。“Praebe fili mi cor tuum mihi.”「我が子よ、汝の心を私に与えよ。」あたかも天主は私たちから、乞食であるかのように、私たちから愛を乞い求めています。
天主は、「私たちが天主を愛する事ができるように」という特別の能力と、特別の御恵みを下さいました。私たちに知性と自由を与え、そしてそれが機能するようにできています。
それはどういう事かというと、私たちは、天主に対してたとえ罪を犯したとしても、天主はそれを本当に赦し、イエズス様の御血が本当にそれを綺麗に赦して、そして全く赦された、愛する事ができる者として、天主を愛し始めます。それによって私たちは、成聖の状態において、功徳を積む事ができます。
「天国での救いの状態は既に、この地上から始まっている」と、カトリック教会は2000年前から教えています。たとえ私たちが原罪の傷を負ったとしても、誘惑を受けたとしても、そして私たちの弱さを持っていたとしても、それにもかかわらず、天主を愛する事ができるように、そして功徳を積む事ができるように、そして愛に成長する事ができるようになっています。
私たちのカトリックの信仰生活というのは、この成聖の状態を、この愛の状態をますます大きくする事にあります。そして天国というのは、その愛を完成させる事に他なりません。
幼きイエズスの聖テレジアによれば、昨日私たちはそれを、この祝日を祝いましたけれども、「私たちは人生の終わりに、愛によって測られる、裁かれる。愛によってだけ裁かれる」と教えています。
黙示録にも同じくあります、「天のエルサレムを測るものは、1つの単位しかない」と。
聖トマス・アクィナスによれば、「天使についても、人間についても、全て『愛』という測りで、物差しで測られる。」
そしてイエズス様の聖心は私たちに、「愛するように」それだけを求めておられます。「愛する」という事はつまり、「イエズス様の掟を守る」という事であり、「イエズス様の御旨を果たす」という事です。「イエズス様の御望みの通りにする」という事です。
一体誰が天主のようでありましょうか、一体誰がイエズス様のようでありましょうか、誰が私たちが主に代わって、私たちの意思を押し付ける事ができるでしょうか。
私たちはイエズス様のしもべであって、その御旨を果たすべき者です。
そこでこのイエズス様の聖心は、私たちの愛を乞い願って、乞食のように、聖マルガリタ・マリア・アラコックにこうも訴えられました、「見よ、この人類をかくも愛する私の心を。私はこれほど人類を愛しているにもかかわらず、全てを与えたにもかかわらず、この聖心は愛されていない。」
そこで今日この御ミサを捧げながら、もう一度イエズス様に対する愛をいや増して下さいますように、お祈り致しましょう。
マリア様にぜひお祈りなさって下さい。「私たちがイエズス様を愛する事ができる」というその教えを、そしてこの「成聖の恩寵をますます大きくする事ができる」というこの教えを、私たちがいつも自覚していますように、そして「イエズス様を愛する」という唯一の、「イエズス様の愛を知り、それを愛で返す」というこの私たちの喜びを、いつも満たす事が、果たす事ができるその御恵みを乞い求めましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
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聖ピオ十世会司祭 小野田神父説教
聖母の汚れなき聖心聖堂にようこそ。
今日は2019年10月4日、アシジの聖フランシスコの祝日ですが、10月の初金曜日で、イエズス様の聖心の随意ミサをしております。
初金曜日はいつも、私たちはここで、イエズス様の聖心の御願いに従って、聖時間を行なっています。このミサの直後に1時間、イエズス様の御聖体の前で、お祈りを致しましょう。
明日は10時半からミサがありますが、突然亡くなってしまった姉妹のローザさんの追悼ミサを行ないたいと思っています。
“Consolantem me quaesivi.”
「私は、私を慰める者を探した。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、イエズス様の聖心の御望みになる事を黙想し続けましょう。
イエズス様の聖心は私たちに、たった1つの事を求めています。それは、「イエズス様が私たちをどれほど愛しているか、という事を理解して、私たちがその愛を、愛で以て返す」という事です。
今日はその「イエズス様に、私たちを創って下さった創造主に、愛を愛で以て返す」という事について黙想する事に致しましょう。
天主は、1つの事を私たちに求めました、「全てを尽くし、力を尽くし、心を尽くし、礼を尽くし、汝の創り主なる主を愛せよ。これが最高の、最大の掟である。」「そして天主を愛するが為に、隣人を己の如く愛せよ。」
イエズス様は、私たちを創った創造主は、ここまでして、「私たちが主を愛する」という事を求めています。
この全宇宙を創った天主にとって、私たちの愛がどれほど必要だったのでしょうか?
全く必要ではありませんでした。私たちが愛そうが愛さまいが、無限に、永遠に、幸せな御方であり、永遠の至福、終わりのない、限りのない至福を楽しんでおられる方であるので、私たちがいくら何をしようと、その幸せには、無限の幸せには、全く変わりがありませんでしたが、あまりにも善い方であったので、あまりにも善に満ちた、愛に溢れた方であったので、その御自分の無限の幸せと喜びを、私たちにも与えたいと、私たちがその愛の団居の中に入る事を、私たちが天主のようになって、天主のような永遠の無限の喜びの中に入る事を、純粋に、あまりにも善い方だったので、それを御望みになりました。
特に私たちがそれに相応しい何かをしたとか、それに相応しかったという事は無く、全く憐みによって、それを御望みになりました。
ただ、天主は私たちをロボットとして、あるいは恐怖で、あるいは仕方なくそうする事を御望みなのではなくて、知性を以て、自由意志を以て、はっきりと真理を認識しながら、事実を認識しながら、自分で選んで、この最高の善を、最高の真理を愛する、という事を御望みになりました。
なぜ天主を愛するかというと、天主が愛に相応しい方であって、全ての愛を受けるに当然の方であって、私たちがそれを、「喜んでしたい」と思うように望まれました。
ここに天主の創造の自由と、聖寵の御恵みと、私たちの協力の神秘があります。
私たちは一週間前に、大天使聖ミカエルの祝日に、悪魔の反乱と、良い天使たちが大天使聖ミカエルに率いられて、天主を自由に選んだ、その愛と、御恵みと、その自由の神秘を黙想しました。
同様に私たちにとっても、天主は、全く自由に愛する事を御望みになって、あたかも私たちが天主を愛する事によって、天主様が幸せになるかのようなほど、御謙遜に御求めになっています。
旧約聖書のあるいは新約聖書の色々な所に、それが現れます。“Praebe fili mi cor tuum mihi.”「我が子よ、汝の心を私に与えよ。」あたかも天主は私たちから、乞食であるかのように、私たちから愛を乞い求めています。
天主は、「私たちが天主を愛する事ができるように」という特別の能力と、特別の御恵みを下さいました。私たちに知性と自由を与え、そしてそれが機能するようにできています。
それはどういう事かというと、私たちは、天主に対してたとえ罪を犯したとしても、天主はそれを本当に赦し、イエズス様の御血が本当にそれを綺麗に赦して、そして全く赦された、愛する事ができる者として、天主を愛し始めます。それによって私たちは、成聖の状態において、功徳を積む事ができます。
「天国での救いの状態は既に、この地上から始まっている」と、カトリック教会は2000年前から教えています。たとえ私たちが原罪の傷を負ったとしても、誘惑を受けたとしても、そして私たちの弱さを持っていたとしても、それにもかかわらず、天主を愛する事ができるように、そして功徳を積む事ができるように、そして愛に成長する事ができるようになっています。
私たちのカトリックの信仰生活というのは、この成聖の状態を、この愛の状態をますます大きくする事にあります。そして天国というのは、その愛を完成させる事に他なりません。
幼きイエズスの聖テレジアによれば、昨日私たちはそれを、この祝日を祝いましたけれども、「私たちは人生の終わりに、愛によって測られる、裁かれる。愛によってだけ裁かれる」と教えています。
黙示録にも同じくあります、「天のエルサレムを測るものは、1つの単位しかない」と。
聖トマス・アクィナスによれば、「天使についても、人間についても、全て『愛』という測りで、物差しで測られる。」
そしてイエズス様の聖心は私たちに、「愛するように」それだけを求めておられます。「愛する」という事はつまり、「イエズス様の掟を守る」という事であり、「イエズス様の御旨を果たす」という事です。「イエズス様の御望みの通りにする」という事です。
一体誰が天主のようでありましょうか、一体誰がイエズス様のようでありましょうか、誰が私たちが主に代わって、私たちの意思を押し付ける事ができるでしょうか。
私たちはイエズス様のしもべであって、その御旨を果たすべき者です。
そこでこのイエズス様の聖心は、私たちの愛を乞い願って、乞食のように、聖マルガリタ・マリア・アラコックにこうも訴えられました、「見よ、この人類をかくも愛する私の心を。私はこれほど人類を愛しているにもかかわらず、全てを与えたにもかかわらず、この聖心は愛されていない。」
そこで今日この御ミサを捧げながら、もう一度イエズス様に対する愛をいや増して下さいますように、お祈り致しましょう。
マリア様にぜひお祈りなさって下さい。「私たちがイエズス様を愛する事ができる」というその教えを、そしてこの「成聖の恩寵をますます大きくする事ができる」というこの教えを、私たちがいつも自覚していますように、そして「イエズス様を愛する」という唯一の、「イエズス様の愛を知り、それを愛で返す」というこの私たちの喜びを、いつも満たす事が、果たす事ができるその御恵みを乞い求めましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
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