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ロザリオの祈りの偉大さと素晴らしさ:何故「めでたし」を繰り返すのか?何を黙想するのか?

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2019年10月5日(初土)ローザさんの追悼ミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年10月5日、10月の土曜日で、9月15日の真夜中に突然亡くなってしまった、ローザさんの追悼ミサを行なっております。

追悼ミサの後に、赦祷式という特別のお祈りがあります。それは、ご遺体が教会の中に持ち込まれた、その遺体の上でお祈りする儀式です。
祈りは時間と空間を超えるものでありますから、このお祈りも付け加えましょう。

今日は初土曜日でもありますので、この赦祷式が終わった後で、簡単な聖体降福式もあります。もし良かったらこれも与っていっていらして下さい。

特にこの初土の信心は、今度来日される教皇様の来日が実り豊かなものとなりますように、第二の聖フランシスコ・ザヴェリオが訪問したとも言えるような、日本にとって大きな御恵みとなりますように、という意向を込めて、短い聖体降福式を捧げたいと思っています。

この御聖体降福式が終わりましたら、少し休憩をした後に、いつもありますように、お約束していた短い公教要理の時間もあります。公教要理では今回は特に、ルターの教えとカトリックの教えは一体どう違うのか?その違いについて、特に短いお話をしたいと思っています。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は私たちの姉妹ローザさんの追悼ミサを行なっています。簡単にローザさんと私との出会いと、思い出話をするのを許して下さい。そしてローザさんがとても熱心に唱えていたお祈りがあります。それは自分の名前に似たお祈りで、「ロザリオ」でした。それでそれなので、ロザリオのお祈りについても少し話すのを許して下さい。

私がローザさんと出会ったのは、今から26年前の事でした。ローザさんの息子さんが上智大学に入学されて、彼が若い1年生の時に、私がちょうどその年に叙階を受けて司祭となって、初ミサを東京でする事になりました。その時に息子さんも呼ばれて、友達から「こういうミサがあるから」という事を教えられて、私の初ミサに与ってくれました。その事をすぐにお母さんに伝えて、そしてその時から、お母様も私が大阪でミサをする時に与ってくれるようになりました。

その時から一生懸命ロザリオを唱えて、そしてミサが本当に好きで、マリア様が大好きで、その方、ローザさんと出会う事ができました。特にマリア様に対する信心は熱心で、この緑のスカプラリオとか特別の信心で色々な神父様の助けをしていた、という事も伺いました。

特別の御恵みで、私はご自宅にも招かれて、家の祝別や、色々な楽しい思い出も一緒にする事が許されました。とても懐かしく思います。

また話は飛びますけれども、この新しいこの御聖堂に来るようになった時に、いつも仰っていたのが、「あぁ、ここはほんま天国のような所やね。いつもここに来るのがとても嬉しい。本当に天国のようだ。ここにいるのは本当に得も言われない喜びがある。幸せだ」という事を、いつも言っていました。

そして亡くなる直前に、その数年繰り返して仰っていたのが、きっとこう言う事を許して下さると思いますけれども、「自分はとても恵まれている」という事でした。そして「特に、最近発見した事がある。自分は、このような素晴らしい主人に出会って、本当に御恵みだ。私は知らなかった。毎日その素晴らしさを発見している」という事を、何度も何度も繰り返していました。

そこで、ローザさんがいつもよく愛して唱えていた、ロザリオの話をする事を許して下さい。

いつもローザさんはロザリオを唱えるのが好きだったのですけれども、ある人はロザリオの事をこうやって批判します、「ロザリオというのは、何度も繰り返して唱えるから、同じ言葉を繰り返すから、これは本当じゃない。」

しかし私のこの思い出す限り、ローザさんは特に晩年、「自分の主人はすごい。」「すごい人だ。」何度も何度も、同じ事を私に繰り返していました。それで「その素晴らしいところをいつも発見している。」「知らなかった。それを今分かった」と言うのです。「今まで分からなかったけども、分かった。」そして私に会う度に、その事を繰り返すのです。

これは、ローザさんは私に嘘を言っていたのでしょうか?
いや、本当の事をいつも言っていたのです。いつも新しい発見があって、新しいその所を、素晴らしい所を見出したので、「そうだ」と仰っていたのです。

それと同じようにロザリオも、私たちは、天使がマリア様に仰った、「めでたし、聖寵充ち満てる御方、主御身と共に在す。」あるいは聖エリザベトの、「あなたは女の内にて祝せられ、御胎内の御子も祝せられ給う。」

これは同じ言葉ですけれども、しかし同じではないのです。

私たちは、その天主から人類に、あるいはマリア様を通して私たちに、どれほどの愛を受けているか、救いの業がどれほど為されているか、という事を日々、新しい発見や、新しい出会いがあって、新しい気付きがあって、私たちの言っている言葉は、意味がますます深くなっているからです。

ですから単なる同じ事の退屈な繰り返しではなくて、深い叫びとなっています。

イエズス様が、全能の天主が、この世を創った、目に見えない永遠の至福の方が、私たちを天国に連れて行く為に、全くゴミのような、本当にたわいもない私たちの為に、人間となって下さった。マリア様にその事を、「人となる」という事を告げられた。そしてベトレヘムにお生まれになった。ナザレト、ベトレヘム、そして貧しい所でお生まれになった。そして神殿に、エルサレムの神殿に奉献された。そして隠れた生活をされて、そして12歳の時には、神殿で見失られた。3日間、マリア様はイエズス様を失った。

あるいはゲッセマニ。イエズス様は、私たちの罪を全て、私たちの代わりに担って下さった。私たちの代わりに、この肉体において鞭を打たれた。血を流された。あるいは辱めを受けられた。茨の冠を押し付けられた。本当の王であったにもかかわらず、信じられずに、嘲笑された、馬鹿にされ、足蹴にされ、唾きせられた。そして極悪人として、死刑を受けた、十字架を狙われた。私たちの為に。私たちを愛するが為に。そして十字架の上に付けられて、息を引き取られた。「聖父よ、彼らを赦し給え。彼らはその為すところを知らざるが故なり。」「見よ、女よ、汝の子、ここにあり。」「汝の母、ここにあり。」「我、渇く。」イエズス様のその最後の言葉。その十字架の苦しみ。

そして天国。御復活。永遠の喜び。私たちに与えるべきその永遠の命。天に昇られて、天主聖父の右に座して、そして私たちの為にいつもお祈りして下さる。私たちを助けようと、世の終わりまで聖霊を送って下さる。カトリック教会を導いて下さる。「地獄の門も勝たない。私はお前たちと共に、世の終わりまでいる。」そしてマリア様の被昇天。私たちの為に取り次いで下さる方を天に上げられた。マリア様がその栄光の座に着けられた。

など、私たちの救いのドラマを、私たちに見せてくれます。

ちょうどラジオで、あるいはテレビで、ナレーターが、あるいは劇が進められている時に、そのただ劇があるだけではなくて、バックグラウンドミュージックがあったり、ダラララ~ンなどという効果音があって、その劇が進められるように、その私たちの救いの神秘も、「めでたし聖寵充ち満てるマリア…」というバックグラウンドミュージックのような祈りが一緒に付けられて、そして私たちがどれほど天主から愛されているか、どれほど大切に思われているか、私たちの救いの為にどれほどなさっているか、私たちの人生の命がどれほど大切であるか、私たちはイエズス様に何をする事が求められているのか、私たちにとって最も大切なものは何なのか、この地上とは一体、意味は何なのか、私たちにとってどこに心を向けるべきなのか、私たちにとって愛する方は一体どこにいるのか、という事を教えてくれます。

ちょうどこのステンドグラスが、私たちに信心についての、イエズス様の私たちに対する愛を一つ一つが訴えるように、ロザリオの珠の一つ一つも私たちに、「どれほど天主から愛されているか」という事を教えてくれています。

ちょうどオーケストラの音楽シンフォニーが、色んなバイオリンや色んな楽器からなっているように、手ではロザリオの珠を、口ではめでたしを、あるいは頭では玄義を黙想して、そして救いの玄義を、私たちに対する愛を黙想しつつ、そして感謝と讃美のお祈りを捧げる、礼拝を捧げる、という最高の交響曲を、私たちが祈りで奏でているかのようです。

このロザリオを、私たちの姉妹のローザさんもとても好んでいましたし、私たちもとても大切に思っています。このロザリオというのは本当に、謙遜な者が唱える事ができる信仰の極み、信仰の延長線にあります。

イエズス様が馬草桶で生まれた時に、東の博士たちも謙遜に、この貧しい赤ちゃんを、「真の天主だ」として手に抱いて、礼拝しました。

そして2000年間、キリストの言葉を信じる信者たちは、イエズス様が仰った通り、このパンを、イエズス様の御体として、礼拝して、跪いて、そして心から愛を以て、拝領してきました。

そしてそれと同じように、謙遜な、キリストを信じる私たちは、救いの始めとなった天使の言葉を唱えて、何度も何度も唱えて、ロザリオの珠を手に握って、そして救いの玄義を黙想します。

聖ドミニコに特にマリア様は現れて、「このロザリオを唱えなさい」と言いました。
そしてこのロザリオを唱える事によって、聖ドミニコは多くの人々を、真のイエズス・キリストに対する信仰へと導きました。多くの人は異端を打ち捨てました。カタリ派という異端をやめて、真の信仰に戻りました。

あるいはつい最近では、ファチマでマリア様が現れて、「ロザリオを唱えなさい。」毎回、御出現になる度に、仰いました。

最後に10月に、10月13日には、「私はロザリオの元后です。ロザリオの女王です。ロザリオを唱えなさい。そうすれば世界に平和が起こるでしょう。多くの霊魂は救われる。」

そして6月13日には、ロザリオを唱えるその一連の終わりには、特別のお祈りを唱えなさい、『あぁイエズスよ、我らの罪を赦し給え、我らを地獄の火より守り給え。また全ての霊魂、ことに主の御憐れみを最も必要とする霊魂を天国に導き給え。』」

マリア様がどれほどロザリオを大切にしてるか、このお祈りがどれほど大切かを教えています。

つい最近読んだ中に、フルトン・シーンという司教様の本があるのですけども、そのフルトン・シーン司教様は、「ロザリオで、色んな奇跡が起こったのを私は知っている」という話をします。その内の一つにこんなものがありました。

第1次世界大戦の時に、ユダヤ人が西部戦線に、オーストリアの人たちと一緒にいたのです。西部戦線というのは非常に激烈な戦いで、多くの人が亡くなりました。そして穴に隠れていたこのユダヤ人たちは、4名の別のオーストリア人と一緒にいたのですけれども、大砲が来て、そしてその4名が亡くなりました。同僚が亡くなりました。自分一人が残ったのですけれども、その4人が持っていた内の1つのロザリオを、自分ももらったのです。そしてロザリオを唱えました。なぜかというと、ユダヤ人だったのですけれども、一緒によく彼らとロザリオを唱えた事があったからです。ですからお祈りをよく知っていました。
そしてロザリオを唱えながら、穴に隠れていると、「ここでは危ない」という気がしたのだそうです。そこで、そしてそこの穴を逃れて、別の穴に隠れると、その直後にこの穴が爆撃されて、もしも残っていたら死んでいた、という事が分かりました。そしてロザリオ唱える内に、同じような事が4回起こったそうです。4回とも場所を変えると、その直後にその穴が爆撃を受けていました。4回とも命が助かりました。
そして遂に生き延びて、カトリックとして、フルトン・シーン司教様から洗礼を受けたのです、アメリカで。

そしてこのフルトン・シン司教様が本を書いた時には、「今、彼は神学校で勉強している」と「司祭になろうとしている。」「ロザリオによって助かったという実話がある。」

おそらくこういう話は、皆さんもおありだと思います。たくさんあると思います。このロザリオを、ローザさんは非常に大好きで唱えていました。私たちもこれを大切に、この唱えたいと思っています。

ローザさんの霊魂の為にたくさんお祈り致しましょう。イエズス様は私たち一人一人の霊魂を非常に愛して、何でもない本当につまらない私たちでも、これをマリア様にそうしたように、綺麗に浄めて下さって、そして私たちをピカピカの状態にして、真っ白な状態にして、そして天国に迎え入れて、至福直観、永遠の命の喜びを与えて下さろうとしています。それこそが人生の究極の目的です。

私たちが死ぬと、もしもその浄めに達していないならば、煉獄でその浄められなければなりません。「ミサ」と「ロザリオ」は、私たちの浄めに非常に役に立ちます。この霊魂の為にたくさん、ミサで、またロザリオでお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


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