2019年10月20日(主日)聖ピオ十世会司祭 ワリエ神父様霊的講話
第一部「アマゾン・シノドスについて」
同時通訳:東京信徒会長
今日ちょっとお話をする用意をしてきたのですけれども、今、教会で色々な事が起こっています。特にローマで今、シノドスというのが起こっていますので、ひょっとしてそれに関してご質問をされたいのではないかという風に思っています。
このシノドスの事ですとか、今の状況については英語では色々情報があります。インターネットにも載っています。アメリカのジャーナリストが色々詳しいレポートを書いています。けれども、日本語でそれがどのくらいあるのかはちょっとよく存じておりません。
もし何か最初にご質問があるのであればそれにお答えしますが、もしなければお話を先にさせて頂きたいと思います。
まず、非常に疑わしいと誰でも思うのは、ドイツ人の、ドイツの司教団がどうして、この「アマゾン」という国の所の話に注目して、入って来ているのだろうか?それは何か、ドイツの方からやりたい事があって、秘めた目的があってやっているのではないか?というような疑いがまずあります。
ドイツ人がアマゾンの事に興味があるというのは、別に植民地にしようとか、植民的な事でやっているのではありません。そしてこのドイツの司教団の方々が言われているのは、その「アマゾンというのは、世界では非常に例外的な所である」と、ですから「世界中どこでもその司祭というのがいたのだけれども、ここの人だけは、その独身の司祭というのでは足りないのだ」と、「結婚した男性が司祭にならなきゃいけないんだ」という事を、ドイツの方が、アマゾンについて言っている、というのが状況です。
「司祭が独身である」という事ですけれども、司祭が独身であるという事は、これはキリスト教的な事なのです。
ですからアマゾンについて、このドイツの方々が、「いや、ここはそのキリスト教的ではないので、独身の人ではなくて、結婚した男が司祭にならなければいけない」というのは、何を言っているかというと、例えば、「教会がじゃあアフリカに行った時はどうしたか?」と、そして「アフリカに行った時に、アフリカの人は、そのキリスト教が伝わる前には、一人が何人もの女の人と結婚していた。じゃあ司祭はそうすれば良かったのか?」というのと同じ理論になってしまいます。非常におかしな事を言っています。
そして今ドイツの司教の方々とか、教皇様もその一部かもしれませんけれども、やっていらっしゃるのは、このアマゾンの人たちをローマに呼んできて、そしてその人たちに、「ちゃんと自分の民族衣装だとか、こんな羽を付けるのだとか持って来て、やって下さい」と、そして「この人たちを連れて来ると、私たちのやりたい変更が教会で出来るのだ」という事を言っているようです。
そして過去にもこういう事がありましたが、例えばこういう、その「結婚をしている人が司祭になる」という事をアマゾンで例外的に許したというと、次に何が起こるかというと、「いや、実験的にも他の所でも許してみよう」という事が起こります。そしてこの方たちが仰るのは、「アマゾンという所では、その『司祭』という男の人が独身であるという事が分からない。アマゾンの人たちには、それが分からない」と言うのですけれども、まさに分からないからこそ、キリスト教の福音を伝えなければいけない。それは反対の事であると思います。
この司祭が独身であるという事は、非常にキリスト教的な考えです。例えばその前のユダヤ人が旧約の時に何をしていたかというと、ユダヤ教の司祭というのは、儀式をする時に一週間、神殿に籠もるという事がありました。その一週間を独身と言えるかどうか分かりませんが、独身になりたかったのかもしれませんが、奥さんの所から一週間神殿に籠もって、儀式をして、奥さんの所に帰る、という事をしていました。それからそういう時代でしたから、イエズス様がこの世にいらっしゃって、「結婚しなかった」というのが初めての事です。
そして使徒たちの数多くは結婚していませんでしたし、例えば聖ペトロは結婚していましたけれども、奥さんの元を去って、イエズスに従うという事をしました。
そしてこのアマゾンのシノドスという所で、そのそれを促進しようという方がやっていらっしゃるのは、「結婚している人を司祭にしよう」という事と、それから「もっと女性に、その典礼の何か位置を与えよう」と、例えば助祭というのでしょうか、いわゆる「女性の助祭というものを作ろう」と。それはなぜかというと、「召命が足りないからだ」という事で、そういう風に言っているのですけれども、これはもう実際、その場では何か起こっていて、女性がミサのような、まぁ真似事ですけれども、ミサのような事をやっている、という事が実際やられているそうです。アマゾンでは。
それから典礼については、この人たちが言っているのは、「もっと(いわゆる日本でも起こりましたが)、インカルチュレーション、その地元の文化を典礼に入れる」という事を望んでいる、そしてそれを実行しようとしています。
皆さんひょっとして写真を見られたかもしれませんけれども、このシノドスの最初の頃に、写真を見ると、そのバチカンの宮殿で何かピクニックをしているような写真がありまして、そのアマゾンの方がいらっしゃっている傍に、司教様とか教皇様も座っていて、何か儀式のようなものをしていて、なんとその後に、偶像の像を持って、サンピエトロのバジリカの中まで行進しているという、こういうとてつもない事をやっています。
ですから私たちが予想しますのは、通常こうシノドスというものがありますと、その後その議論をまとめた書類を誰かが作りまして、そしてその書類を見て、教皇様が何かをその結論を出す、何かを認可するような書類を出される。ですからおそらく1年後ぐらいに、教皇様から何か書類が出て、これは「アマゾンというのは非常に特別な所なので、ここだけに結婚した司祭を許す」というような書類が出るのではないかと思います。そして私たちは、これは完全にやりすぎだと思います。
それから、いわゆる保守的な方で、「聖ピオ十世会はやりすぎだ」と言っていた方も、これを見て、「いや、やっぱり今の教皇はやりすぎだ」と、意見を変えていらっしゃる方も多いと聞いています。
ですから、「教皇フランシスコ、教皇になって頂いてありがとうございます」と言う人がいます(^^;)。ですから、非常に変な意味なのですけれども、フランシスコ教皇のやっていらっしゃる事によって、「聖伝というのが逆にいかに重要だったか」と、そして「今起こっている事がいかにおかしいか」という事で、目覚める人がいるので、教皇様ありがとうございます、という変な感情になる事もあります。
教会というのは民主主義ではなくて、階級があるものですから、教皇様というのはそのトップにいらっしゃる方なので、もちろん御自分でお決めになる事ができるのですけれども、こういう会議とか、何かの形を取りながら、結局自分でやりたい事をやっていらっしゃる、そして個人的に思われた「これが良い」と思う事を、勝手にやっていらっしゃるようです。
このフランシスコ教皇様というのは、選ばれた次の日の朝にお話になった時に既に、カスパー枢機卿、近代主義的な方ですけれども、その方の神学が、「非常に素晴らしい」という風に仰っていたので、そこからその「誤った憐れみ」に繋がって、「離婚して同棲している方に、じゃあ御聖体を」というような話に繋がっていくのが非常に最初から明らかでした。
教会というのは民主主義ではなく階級がありますので、では私たち下にいる者は、一体何ができるのでしょうか?あなた、私、皆さんは、私たちは、別に教会のどこか高い階級にいる者ではありませんから、やれる事は本当にありません、限られています。
今日最初に申しましたけれども、これは別に聖ピオ十世会の方ではないですけれども、アメリカのジャーナリストのような方は、このローマに行って、「このシノドスが何が起こっているのか」という事を詳しく報道されていますし、そのシノドスをやっている人たちに対して、「一体何をしているんですか?」と、「これはおかしいんじゃないですか?」という事を明らかにして、それを全て逐一インターネットに載せて下さっているので、それはそれで非常に良い仕事をされていると思います。
この日本語でそういうのがどれくらいあるか分かりませんけれども、追ってこういう内容が少しでも日本語に翻訳されて、日本の方も読めるようになると非常に良いと思います。
また、お祈りをするのを忘れてはいけません。教会というのは超自然的なものですから、この悪い人、おかしい人がそれを一生懸命変えようと思っていても、教会というのは、イエズス・キリストのものですから、イエズス・キリストがどうしていらっしゃるのか、寝ていらっしゃるのか知りませんが、ある日起きて、この酷い事を全部止めて、綺麗になさる日が来ます。
この教会に起こっている事で、あまりガッカリしないで下さい。急にお酒を飲みすぎるような事はしないで下さい。
私たちのできる事は限られていますけれども、でもその限られた事を、私たちはちゃんとしなくてはなりません。そのガッカリしょんぼりしてはいけないというのは、ガッカリしょんぼりするというのは、カトリック的ではありません。「しょんぼりしてしまう」というのは、「イエズス・キリストが、これは負けている人だ」と思う事です。
そうではありません。イエズス・キリスト様が、そのこれからどうする、というのを私たちに伝える義務があるわけではありません。私たちには分かりません。けれども、イエズス・キリスト様は、必ずその為すべき事を為さいますので、私たちも自分の為すべき事を為さなくてはいけません。
フランシスコ教皇様というのは不死身ではありませんから、いつかお亡くなりになると思いますので、次の教皇様もどういう方か全然分かりません。ですから、ちょっとはそれでマシになるかしれません。
この後ちょっと全然違う事をお話しするので、この件についてもしご質問があれば、今何かして頂きたいと思いますけれども、ご質問はありますでしょうか?
質問者Aさん:ギリシャ正教のビザンチン典礼をやっている所で、カトリックに戻ったところがありますね?そこは司祭が妻帯しているのだと思うのですが、それはどうなのでしょうか?
ワリエ神父様:まず古い教会、初期の教会では何が起こったかといいますと、初期の教会の頃は、神学校というのがあったわけではないので、どういう風に司祭とか司教が選ばれたかというと、市民の中でその学を持って、司祭・司教にふさわしい人というのが選ばれて、そしてその中には結婚した人も選ばれて、司祭とか司教になった事がありました。そしてその初代の教会では何が起こったかというと、その司祭とか司教に選ばれた方は結婚していたのですけれども、その家を離れて、まぁいわば独身の司祭・司教としての職務を果たされる、という事がありました。それが初期の教会のお話です。
その後教会はどうしたかと言いますと、教会の形が出来てきた時に、若い男性の中から司祭の候補を選んで、その人を司祭にするという事を始めました。
それで確か6世紀から7世紀の頃だったと思いますけれども、東の方で公会議がありまして、この結婚している司祭を認める、という決定がなされました。それにローマは強く反対したのですけれども、それによってそこの東の方が全部離教するという事を恐れたので、ローマはその「場所を限って、それを一応許す」という事を始めました。その「場所を限って」という場所が、今の言葉で言うと、「東方典礼をやっている所」です。
ですから、ローマがこれを積極的にやったわけではなくて、「そこの地区が全部離教してしまうのを防ぐ為に、しょうがなくて許した」というのも、それも、「非常に限定した地域で許した」という歴史があります。
しかし私たちは、このギリシャ典礼のそのカトリックの方も、「独身」というのを非常に大事だと思っている事が分かります。なぜかというと、このギリシャとかその東方典礼のカトリックの方がやっている事というのは、司祭がまず結婚するのではありません。結婚した人が司祭になる事があるという事で、ただ結婚した司祭は、決して司教にはなれません。司教は、その結婚していない独身の司祭の中から選ばれます。
そして西方の教会でも、11世紀頃に大変酷い問題がありました。司祭の中には、女性と一緒に住んでいるような人がいっぱい現れました。そしてそれを見て教会は、いやぁ、じゃあしょうがない、じゃあ結婚しても良いか、とは言わずに、教会はやはりそこで、そういう司祭がいなくなっても、「独身を守らなければならないのだ」という風に、西方のローマの教会は、そういう決定をしてきました。
それからずっと後の事になりますけれども、第二次世界対戦後以降だと思いますが、ローマの教会で唯一この例外を認めたというのは、英国国教会、アングリカンの方ですとか、ルター派の人がカトリックに改宗する時に、ほんの少ない例外を認めた事があります。例えばピオ十二世教皇様がなさった事は、アングリカンの英国国教会の、結婚しているあそこは牧師さんと言うのですかね、牧師さんとその信者が何千人いらっしゃる、そしてこの牧師さんが、「カトリックになりたい」というケースがありました。そしてその牧師の方が訓練を受けて、カトリックの司祭に叙階される、と。奥さんがいらっしゃったのですけれども、それを認めると、その「何千人のそこの信者の方も、一緒にカトリックになります」というケースがあって、それで教皇様はその何千人の為に、「ではこれを、例外を認めましょう」という事を仰いました。
ですから大事な事は、教会というのは、こういう事は確かにありましたが、結婚した人が司祭になるというのは、いつも「例外」でした。ですから例外というのは、いつも例外であるべきであって、それを一般化してはなりません。
ですから、今そのドイツの司教団の方がやろうとされているのは、ドイツの本当に一部で、いや例外だ、と言って、実は「ドイツ中でやろう」という事を狙われている、というのが明らかです。
質問者Bさん:日本にはあまりカトリック教徒がたくさんいない、少ししかいないというのは皆知っているのですけれども、教皇様が何でそのわざわざ遠い日本までいらっしゃるのでしょうか?その何か近代主義的な狙いがあっていらっしゃるのでしょうか?
ワリエ神父様:教皇様がいらっしゃるのは、主な訪問地は広島・長崎だと聞いていますので、この教皇様というのは、いつもそういうその近代主義的な何か狙いがある事を、どこに行っても年中喋る方ではありません。その場所を選んで喋る方なので、おそらく来月になってみないと分かりませんが、日本では核兵器反対だとか、環境を守ろうとか、そういう事を中心にお話しされるのかと思います。
こういう事を聞いてガッカリするというのは先ほど違うと言いました。私たちが死んでしまった時に、イエズス様は私たちに聞かれるのは、その教会でどういう問題があったんだ、という話ではなくて、「私たちが、カトリックとしてどういう生活をしてきたんだ?」と、「家族と世界の中でどうしたんだ?」と、「カトリックとしてどうしたんだ?」という事を聞かれますので、そっちに注力しなくてはいけません。
ですから、こういう事が起こっているというのをある程度分かっている事は重要ですけれども、毎日毎日、「こんな問題がある」「あんな問題がある」「スキャンダルがある」というのを探し回る事はしないで下さい。
第一部「アマゾン・シノドスについて」
同時通訳:東京信徒会長
今日ちょっとお話をする用意をしてきたのですけれども、今、教会で色々な事が起こっています。特にローマで今、シノドスというのが起こっていますので、ひょっとしてそれに関してご質問をされたいのではないかという風に思っています。
このシノドスの事ですとか、今の状況については英語では色々情報があります。インターネットにも載っています。アメリカのジャーナリストが色々詳しいレポートを書いています。けれども、日本語でそれがどのくらいあるのかはちょっとよく存じておりません。
もし何か最初にご質問があるのであればそれにお答えしますが、もしなければお話を先にさせて頂きたいと思います。
まず、非常に疑わしいと誰でも思うのは、ドイツ人の、ドイツの司教団がどうして、この「アマゾン」という国の所の話に注目して、入って来ているのだろうか?それは何か、ドイツの方からやりたい事があって、秘めた目的があってやっているのではないか?というような疑いがまずあります。
ドイツ人がアマゾンの事に興味があるというのは、別に植民地にしようとか、植民的な事でやっているのではありません。そしてこのドイツの司教団の方々が言われているのは、その「アマゾンというのは、世界では非常に例外的な所である」と、ですから「世界中どこでもその司祭というのがいたのだけれども、ここの人だけは、その独身の司祭というのでは足りないのだ」と、「結婚した男性が司祭にならなきゃいけないんだ」という事を、ドイツの方が、アマゾンについて言っている、というのが状況です。
「司祭が独身である」という事ですけれども、司祭が独身であるという事は、これはキリスト教的な事なのです。
ですからアマゾンについて、このドイツの方々が、「いや、ここはそのキリスト教的ではないので、独身の人ではなくて、結婚した男が司祭にならなければいけない」というのは、何を言っているかというと、例えば、「教会がじゃあアフリカに行った時はどうしたか?」と、そして「アフリカに行った時に、アフリカの人は、そのキリスト教が伝わる前には、一人が何人もの女の人と結婚していた。じゃあ司祭はそうすれば良かったのか?」というのと同じ理論になってしまいます。非常におかしな事を言っています。
そして今ドイツの司教の方々とか、教皇様もその一部かもしれませんけれども、やっていらっしゃるのは、このアマゾンの人たちをローマに呼んできて、そしてその人たちに、「ちゃんと自分の民族衣装だとか、こんな羽を付けるのだとか持って来て、やって下さい」と、そして「この人たちを連れて来ると、私たちのやりたい変更が教会で出来るのだ」という事を言っているようです。
そして過去にもこういう事がありましたが、例えばこういう、その「結婚をしている人が司祭になる」という事をアマゾンで例外的に許したというと、次に何が起こるかというと、「いや、実験的にも他の所でも許してみよう」という事が起こります。そしてこの方たちが仰るのは、「アマゾンという所では、その『司祭』という男の人が独身であるという事が分からない。アマゾンの人たちには、それが分からない」と言うのですけれども、まさに分からないからこそ、キリスト教の福音を伝えなければいけない。それは反対の事であると思います。
この司祭が独身であるという事は、非常にキリスト教的な考えです。例えばその前のユダヤ人が旧約の時に何をしていたかというと、ユダヤ教の司祭というのは、儀式をする時に一週間、神殿に籠もるという事がありました。その一週間を独身と言えるかどうか分かりませんが、独身になりたかったのかもしれませんが、奥さんの所から一週間神殿に籠もって、儀式をして、奥さんの所に帰る、という事をしていました。それからそういう時代でしたから、イエズス様がこの世にいらっしゃって、「結婚しなかった」というのが初めての事です。
そして使徒たちの数多くは結婚していませんでしたし、例えば聖ペトロは結婚していましたけれども、奥さんの元を去って、イエズスに従うという事をしました。
そしてこのアマゾンのシノドスという所で、そのそれを促進しようという方がやっていらっしゃるのは、「結婚している人を司祭にしよう」という事と、それから「もっと女性に、その典礼の何か位置を与えよう」と、例えば助祭というのでしょうか、いわゆる「女性の助祭というものを作ろう」と。それはなぜかというと、「召命が足りないからだ」という事で、そういう風に言っているのですけれども、これはもう実際、その場では何か起こっていて、女性がミサのような、まぁ真似事ですけれども、ミサのような事をやっている、という事が実際やられているそうです。アマゾンでは。
それから典礼については、この人たちが言っているのは、「もっと(いわゆる日本でも起こりましたが)、インカルチュレーション、その地元の文化を典礼に入れる」という事を望んでいる、そしてそれを実行しようとしています。
皆さんひょっとして写真を見られたかもしれませんけれども、このシノドスの最初の頃に、写真を見ると、そのバチカンの宮殿で何かピクニックをしているような写真がありまして、そのアマゾンの方がいらっしゃっている傍に、司教様とか教皇様も座っていて、何か儀式のようなものをしていて、なんとその後に、偶像の像を持って、サンピエトロのバジリカの中まで行進しているという、こういうとてつもない事をやっています。
ですから私たちが予想しますのは、通常こうシノドスというものがありますと、その後その議論をまとめた書類を誰かが作りまして、そしてその書類を見て、教皇様が何かをその結論を出す、何かを認可するような書類を出される。ですからおそらく1年後ぐらいに、教皇様から何か書類が出て、これは「アマゾンというのは非常に特別な所なので、ここだけに結婚した司祭を許す」というような書類が出るのではないかと思います。そして私たちは、これは完全にやりすぎだと思います。
それから、いわゆる保守的な方で、「聖ピオ十世会はやりすぎだ」と言っていた方も、これを見て、「いや、やっぱり今の教皇はやりすぎだ」と、意見を変えていらっしゃる方も多いと聞いています。
ですから、「教皇フランシスコ、教皇になって頂いてありがとうございます」と言う人がいます(^^;)。ですから、非常に変な意味なのですけれども、フランシスコ教皇のやっていらっしゃる事によって、「聖伝というのが逆にいかに重要だったか」と、そして「今起こっている事がいかにおかしいか」という事で、目覚める人がいるので、教皇様ありがとうございます、という変な感情になる事もあります。
教会というのは民主主義ではなくて、階級があるものですから、教皇様というのはそのトップにいらっしゃる方なので、もちろん御自分でお決めになる事ができるのですけれども、こういう会議とか、何かの形を取りながら、結局自分でやりたい事をやっていらっしゃる、そして個人的に思われた「これが良い」と思う事を、勝手にやっていらっしゃるようです。
このフランシスコ教皇様というのは、選ばれた次の日の朝にお話になった時に既に、カスパー枢機卿、近代主義的な方ですけれども、その方の神学が、「非常に素晴らしい」という風に仰っていたので、そこからその「誤った憐れみ」に繋がって、「離婚して同棲している方に、じゃあ御聖体を」というような話に繋がっていくのが非常に最初から明らかでした。
教会というのは民主主義ではなく階級がありますので、では私たち下にいる者は、一体何ができるのでしょうか?あなた、私、皆さんは、私たちは、別に教会のどこか高い階級にいる者ではありませんから、やれる事は本当にありません、限られています。
今日最初に申しましたけれども、これは別に聖ピオ十世会の方ではないですけれども、アメリカのジャーナリストのような方は、このローマに行って、「このシノドスが何が起こっているのか」という事を詳しく報道されていますし、そのシノドスをやっている人たちに対して、「一体何をしているんですか?」と、「これはおかしいんじゃないですか?」という事を明らかにして、それを全て逐一インターネットに載せて下さっているので、それはそれで非常に良い仕事をされていると思います。
この日本語でそういうのがどれくらいあるか分かりませんけれども、追ってこういう内容が少しでも日本語に翻訳されて、日本の方も読めるようになると非常に良いと思います。
また、お祈りをするのを忘れてはいけません。教会というのは超自然的なものですから、この悪い人、おかしい人がそれを一生懸命変えようと思っていても、教会というのは、イエズス・キリストのものですから、イエズス・キリストがどうしていらっしゃるのか、寝ていらっしゃるのか知りませんが、ある日起きて、この酷い事を全部止めて、綺麗になさる日が来ます。
この教会に起こっている事で、あまりガッカリしないで下さい。急にお酒を飲みすぎるような事はしないで下さい。
私たちのできる事は限られていますけれども、でもその限られた事を、私たちはちゃんとしなくてはなりません。そのガッカリしょんぼりしてはいけないというのは、ガッカリしょんぼりするというのは、カトリック的ではありません。「しょんぼりしてしまう」というのは、「イエズス・キリストが、これは負けている人だ」と思う事です。
そうではありません。イエズス・キリスト様が、そのこれからどうする、というのを私たちに伝える義務があるわけではありません。私たちには分かりません。けれども、イエズス・キリスト様は、必ずその為すべき事を為さいますので、私たちも自分の為すべき事を為さなくてはいけません。
フランシスコ教皇様というのは不死身ではありませんから、いつかお亡くなりになると思いますので、次の教皇様もどういう方か全然分かりません。ですから、ちょっとはそれでマシになるかしれません。
この後ちょっと全然違う事をお話しするので、この件についてもしご質問があれば、今何かして頂きたいと思いますけれども、ご質問はありますでしょうか?
質問者Aさん:ギリシャ正教のビザンチン典礼をやっている所で、カトリックに戻ったところがありますね?そこは司祭が妻帯しているのだと思うのですが、それはどうなのでしょうか?
ワリエ神父様:まず古い教会、初期の教会では何が起こったかといいますと、初期の教会の頃は、神学校というのがあったわけではないので、どういう風に司祭とか司教が選ばれたかというと、市民の中でその学を持って、司祭・司教にふさわしい人というのが選ばれて、そしてその中には結婚した人も選ばれて、司祭とか司教になった事がありました。そしてその初代の教会では何が起こったかというと、その司祭とか司教に選ばれた方は結婚していたのですけれども、その家を離れて、まぁいわば独身の司祭・司教としての職務を果たされる、という事がありました。それが初期の教会のお話です。
その後教会はどうしたかと言いますと、教会の形が出来てきた時に、若い男性の中から司祭の候補を選んで、その人を司祭にするという事を始めました。
それで確か6世紀から7世紀の頃だったと思いますけれども、東の方で公会議がありまして、この結婚している司祭を認める、という決定がなされました。それにローマは強く反対したのですけれども、それによってそこの東の方が全部離教するという事を恐れたので、ローマはその「場所を限って、それを一応許す」という事を始めました。その「場所を限って」という場所が、今の言葉で言うと、「東方典礼をやっている所」です。
ですから、ローマがこれを積極的にやったわけではなくて、「そこの地区が全部離教してしまうのを防ぐ為に、しょうがなくて許した」というのも、それも、「非常に限定した地域で許した」という歴史があります。
しかし私たちは、このギリシャ典礼のそのカトリックの方も、「独身」というのを非常に大事だと思っている事が分かります。なぜかというと、このギリシャとかその東方典礼のカトリックの方がやっている事というのは、司祭がまず結婚するのではありません。結婚した人が司祭になる事があるという事で、ただ結婚した司祭は、決して司教にはなれません。司教は、その結婚していない独身の司祭の中から選ばれます。
そして西方の教会でも、11世紀頃に大変酷い問題がありました。司祭の中には、女性と一緒に住んでいるような人がいっぱい現れました。そしてそれを見て教会は、いやぁ、じゃあしょうがない、じゃあ結婚しても良いか、とは言わずに、教会はやはりそこで、そういう司祭がいなくなっても、「独身を守らなければならないのだ」という風に、西方のローマの教会は、そういう決定をしてきました。
それからずっと後の事になりますけれども、第二次世界対戦後以降だと思いますが、ローマの教会で唯一この例外を認めたというのは、英国国教会、アングリカンの方ですとか、ルター派の人がカトリックに改宗する時に、ほんの少ない例外を認めた事があります。例えばピオ十二世教皇様がなさった事は、アングリカンの英国国教会の、結婚しているあそこは牧師さんと言うのですかね、牧師さんとその信者が何千人いらっしゃる、そしてこの牧師さんが、「カトリックになりたい」というケースがありました。そしてその牧師の方が訓練を受けて、カトリックの司祭に叙階される、と。奥さんがいらっしゃったのですけれども、それを認めると、その「何千人のそこの信者の方も、一緒にカトリックになります」というケースがあって、それで教皇様はその何千人の為に、「ではこれを、例外を認めましょう」という事を仰いました。
ですから大事な事は、教会というのは、こういう事は確かにありましたが、結婚した人が司祭になるというのは、いつも「例外」でした。ですから例外というのは、いつも例外であるべきであって、それを一般化してはなりません。
ですから、今そのドイツの司教団の方がやろうとされているのは、ドイツの本当に一部で、いや例外だ、と言って、実は「ドイツ中でやろう」という事を狙われている、というのが明らかです。
質問者Bさん:日本にはあまりカトリック教徒がたくさんいない、少ししかいないというのは皆知っているのですけれども、教皇様が何でそのわざわざ遠い日本までいらっしゃるのでしょうか?その何か近代主義的な狙いがあっていらっしゃるのでしょうか?
ワリエ神父様:教皇様がいらっしゃるのは、主な訪問地は広島・長崎だと聞いていますので、この教皇様というのは、いつもそういうその近代主義的な何か狙いがある事を、どこに行っても年中喋る方ではありません。その場所を選んで喋る方なので、おそらく来月になってみないと分かりませんが、日本では核兵器反対だとか、環境を守ろうとか、そういう事を中心にお話しされるのかと思います。
こういう事を聞いてガッカリするというのは先ほど違うと言いました。私たちが死んでしまった時に、イエズス様は私たちに聞かれるのは、その教会でどういう問題があったんだ、という話ではなくて、「私たちが、カトリックとしてどういう生活をしてきたんだ?」と、「家族と世界の中でどうしたんだ?」と、「カトリックとしてどうしたんだ?」という事を聞かれますので、そっちに注力しなくてはいけません。
ですから、こういう事が起こっているというのをある程度分かっている事は重要ですけれども、毎日毎日、「こんな問題がある」「あんな問題がある」「スキャンダルがある」というのを探し回る事はしないで下さい。