2019年11月2日(初土)全ての死せる信徒の記念のミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年11月2日、死せる信者の記念の日です。
今日は公教会の意向に従って、3回ミサを捧げています。今日は同時に初土でもありますので、このミサが終わった後、感謝の祈りの後に、初土の信心も行ないましょう。
御聖体拝領も、初土の信心の意向で、「マリア様の汚れなき御心に対して犯される罪を償う」という意向で、御聖体拝領なさって下さい。
明日は東京で10時半から、また月曜日にも名古屋の駅前で10時半からミサがあります。皆様のお越しを歓迎致します。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は諸聖人の祝日の翌日、全ての死せる信者の霊魂の記念を行なっています。
天国での栄光ある凱旋教会、数を数える事ができないほどの無数の霊魂たちの勝利の姿を見た、栄光を見た後に、そしてこの聖人たちが、マリア様を筆頭に、天使たちと共に、声高らかに主を讃美して、感謝して、永遠に喜びの中に入っているのを見て、教会は母親の眼差しで、信仰を持ち、そして成聖の状態において亡くなった全ての義人の霊魂、しかしまだ浄めが終わっていない煉獄の霊魂たちに、眼差しを注ぎます。
「煉獄で浄めを受けている、清い聖なる霊魂たちが、一刻も早く、その浄めを終わり、天国に行く事ができるように、至福直観を味わう事ができるように。そして最高の喜びに入る、目的を、創造の目的を達する事ができますように。そうする事によって天主にますますの栄光を、御稜威に栄光がありますように」と、教会は私たちに、「煉獄の霊魂たちの為に祈れ」と励ましています。
特にこの今日は、「天国で早く霊魂が生まれる事ができるように、3つのミサを捧げるように」と、「11月を特に死者の月として捧げて、煉獄の霊魂たちの為に祈るように」、また「11月1日から10日は、墓地を訪問する事によって、煉獄の霊魂の為に全贖宥を受ける事ができる」と、特別の計らいをしています。
そこで私たちは今日、2つの事を黙想して、つまり、
⑴この煉獄の霊魂たちの為に、私たちは一体何ができるのか?
⑵そして私たちはまた、この死者の月からどんな事を黙想するべきか?
最後に、
⑶遷善の決心を立てる事に致しましょう。
⑴では、煉獄の霊魂たちの為に、一体何ができるのでしょうか?
なぜ、煉獄の霊魂は、罪の償いをしなければならないのでしょうか?
私たちは、罪を犯すと、罪とそれと同時に、それにふさわしい「罰」を受けなければならなくなります。そして例え天主の御憐れみによって罪を赦されたとしても、しかし当然受ける罰は、まだ償わなければなりません。
例えば誰かが、(これは全く自然の事なので、罪とか罰とかいう概念には当てはまらないのですが、まぁ例えて言えば) 誰かが重力に逆らって、物を上に上げたとすると、その上げた事自体は、「まぁ仕方がない、まぁそれは勘弁しよう」とされたとしても、その上に上げられたものは、当然下に落ちなければなりません。元の位置に戻らなければなりません。そのまま、「上げる事は許された、だからそのまま上に止まっている」という事はできません。
それと似たように、もしも私たちが、天主に従うべき秩序に従わずに、その秩序を壊してしまったとしたら、その「壊した」というその行為自体は赦されたとしても、しかしその秩序を回復しなければなりません。その義務が残ります。そして私たちが罪を犯すと、その天主の御稜威に対して逆らった、その秩序を回復する為に、「償い」が残ります。
つまり煉獄の霊魂たちは私たちに、非常に深い、核心的な真理を教えています、「罪を犯すという事は、何よりもまず、私たちは『天主』に対して罪を犯すのだ」という事です。罪を犯す事によって天主は、天主の御稜威は傷付けられます。
もちろん天主は、永遠の昔から永遠の未来に向かって、全く変わる事のない、普遍の変わる事のない、そして永遠最高の幸せの方でありますけれども、しかし天主の当然あるべき秩序が壊された事によって、その回復を要求されます。つまり、天主の「正義」が、私たちにそれを、罪の償いを当然要求します。天主御自身は変化がないのですけれども、天主の正義が私たちに償いを要求して、天主の犯された当然の権利を要求なさいます。私たちはそれを償う義務が生じます。
これがカトリックの教えです。
では一体誰が、この罪を償う事ができるでしょうか?天使たちでしょうか?あるいは人間でしょうか?私たち罪人でしょうか?
私たちがその天主の傷付けられた御稜威を償う事ができる唯一の方法、唯一の可能性、唯一のチャンス、たった一つだけの手段しかありません。それは、天主でありながら私たちの罪の償いの為に人となった、イエズス・キリストです。「イエズス・キリストの流された、いと尊き御血」です。
これ以外、私たちの罪を償う赦しの手段はありません。そしてもしも、私たちがイエズス・キリストのその御血の功徳に繋がっていなければ、私たちの行動はいかなるものも、全く価値がありません。
日本で何か物を買う時には、日本銀行が発行した紙幣でなければ買う事ができません。いくら私たちがその銀行券よりも綺麗なお札を印刷したとしても、私たちが何をしたとしても、それは全くミッキーマウスのお札で、何の価値もありません。偽札です。
イエズス・キリストの御血、イエズス・キリストに繋がっていない事は、生贄は、祈りは、やはり同じように、永遠の救いの為に価値は無いのです。
これこそカトリックの、永遠の教える真理であって、ですからこそ私たちは何とかして、イエズス・キリストと一致していなければなりません。
その一致する手段というのは、どうやったら一致する事ができるでしょうか?
2つあります、2つ必要です。
1つは、「信仰」。イエズス・キリストを救い主として、イエズス・キリストを、私たちの為に人となった天主として、信じる事です。
「永遠の命とはすなわち、真の天主である御身と、あなたが送ったイエズス・キリストを知る事にあります」とイエズス様は仰いました。
信仰の他にもう1つ必要です。それは「愛徳」です、「成聖の恩寵」です、「天主の本性に参与する事」、「成聖の恩寵の中に生きている事」です。
罪を、大罪を犯す事によって、これは失われてしまいます。
しかしこの2つが必要です。煉獄の霊魂たちは、この2つを持っています。
ただ、私たちが罪を償う事ができるのは、この「生きている間だけ」の事なのです。もしもイエズス・キリストを信じ、そして愛において、この地上で償いを果たし終えなければ、その償いは煉獄で果たさなければなりません。煉獄での償いは、この地上よりもはるかに厳しいものです。
もしもこの「愛徳」がなければ、成聖の恩寵がなければ、私たちの償い、私たちの行ないは、価値がありません。永遠の救いの為に価値がありません。
「天国の救いの為の目方、計り」というのと、「私たちが、この地上で目に見える評価の仕方」とは、全く違います。
私たちはこの地上では、「知恵があれば、山を動かすほどの深い信仰があれば、それで良いんじゃないか」とか、あるいは「神学の深い知識があれば、天主の言葉さえも話すような深い知識があれば、それで良いんじゃないか」、「色々なカリスマを持って、死者を復活させたり、あるいは預言の賜物で、将来の事を預言するような事を、あるいは死者を復活させる等のような奇跡を行なえば、良いんじゃないか」、あるいは「私の持っている財産を全て、貧しい人の為に施し、そしてこの例え、殉教をしようとして、信仰の為に私のこの体が焼かれても、そしたら良いんじゃないか」と思うかもしれません。
聖パウロは、「それでは足りない」と言います。「成聖の恩寵がなければ、愛徳がなければ、天主への命に生きていなければ、それは永遠の為に全く虚しい。価値が無い」と。
これは私たちに、非常に大切な真理を教えています。
では一番、イエズス・キリストと一致する最高の手段は何なのでしょうか?イエズス・キリストの御血を受けるべき、最も良い手段は何なのでしょうか?
「イエズス・キリストの、十字架のいけにえの再現」です。つまり、十字架の祈りであり、十字架に一致する事であり、十字架の道を歩む事です。この地上で最高の手段は、「ミサ聖祭」であり、そして私たちの、イエズス・キリストの為になされる償いの犠牲、あるいはイエズス・キリストの御名においてなされる祈り、秘蹟などです。
これ以外には、本当の意味で私たちに、永遠の命の為に、そして煉獄の霊魂たちの為に、役に立つものはありません。
私たちは何という宝を今、手にしている事でしょうか。そしてこの宝を知らない人々は、どれほど残念ながら多くいるでしょうか。この私たちの最も必要な「救霊」という事を忘れて、その他の事に夢中になっている方々がどれほど多いでしょうか。
⑵では第2に、私たちはどのように今日、この死者の記念、全ての死せる信者のこの日に、何を考えなければならないのでしょうか?
私たちも、遂にはその日を迎える、という事です。
私たちは、それが「いつ」かは分かりません。また「どのように」かは分かりません。「どこで」かも分かりません。しかし必ず、皆さん、私も、全て、私たちは全て、ある日、どこかで、ある方法によって、この地上の全てに、さようなら、さらば、別れを告げる日がやって来ます。
そしてその時には2つの、「信仰」と「成聖の恩寵」において、この地上を去らなければなりません。できれば、もしもその時に罪の償いを果たし終えていれば、天国に。しかし償いを果たし終えていなければ、煉獄に行って、罪の償いを果たさなければなりません。
その時に私たちは、「あぁ、もう天国に宝を積む時間は終わった。あっという間の人生だった。」「あぁ、人生で最も大切なのは、イエズス様と一致している事だった。十字架と一致している事だった。」「私たちの最も価値のあるものというものは、この世で全く軽蔑されているものだった」という事を、その時理解し、はっきりと理解する事です。
私たちはその時に、良い死を遂げるようにしなければなりません。泥棒のように、盗人のように突然やって来る、この「死」を準備しなければなりません。
⑶最後に、私たちは一体何を、どのような遷善の決心を取らなければならないでしょうか?
まず、煉獄の霊魂たちの為に、そして私たちの良い死を迎える為にも、いつもイエズス様と一致する事できますように、信仰と愛徳において一致する事ができますように。
その為には、一番良い手段があります。もちろん、「マリア様の汚れなき御心」です。
マリア様に是非お祈り致しましょう、「今も、臨終の時も、我らの為に祈り給え。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
Photo Credit
聖ピオ十世会司祭 小野田神父説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年11月2日、死せる信者の記念の日です。
今日は公教会の意向に従って、3回ミサを捧げています。今日は同時に初土でもありますので、このミサが終わった後、感謝の祈りの後に、初土の信心も行ないましょう。
御聖体拝領も、初土の信心の意向で、「マリア様の汚れなき御心に対して犯される罪を償う」という意向で、御聖体拝領なさって下さい。
明日は東京で10時半から、また月曜日にも名古屋の駅前で10時半からミサがあります。皆様のお越しを歓迎致します。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は諸聖人の祝日の翌日、全ての死せる信者の霊魂の記念を行なっています。
天国での栄光ある凱旋教会、数を数える事ができないほどの無数の霊魂たちの勝利の姿を見た、栄光を見た後に、そしてこの聖人たちが、マリア様を筆頭に、天使たちと共に、声高らかに主を讃美して、感謝して、永遠に喜びの中に入っているのを見て、教会は母親の眼差しで、信仰を持ち、そして成聖の状態において亡くなった全ての義人の霊魂、しかしまだ浄めが終わっていない煉獄の霊魂たちに、眼差しを注ぎます。
「煉獄で浄めを受けている、清い聖なる霊魂たちが、一刻も早く、その浄めを終わり、天国に行く事ができるように、至福直観を味わう事ができるように。そして最高の喜びに入る、目的を、創造の目的を達する事ができますように。そうする事によって天主にますますの栄光を、御稜威に栄光がありますように」と、教会は私たちに、「煉獄の霊魂たちの為に祈れ」と励ましています。
特にこの今日は、「天国で早く霊魂が生まれる事ができるように、3つのミサを捧げるように」と、「11月を特に死者の月として捧げて、煉獄の霊魂たちの為に祈るように」、また「11月1日から10日は、墓地を訪問する事によって、煉獄の霊魂の為に全贖宥を受ける事ができる」と、特別の計らいをしています。
そこで私たちは今日、2つの事を黙想して、つまり、
⑴この煉獄の霊魂たちの為に、私たちは一体何ができるのか?
⑵そして私たちはまた、この死者の月からどんな事を黙想するべきか?
最後に、
⑶遷善の決心を立てる事に致しましょう。
⑴では、煉獄の霊魂たちの為に、一体何ができるのでしょうか?
なぜ、煉獄の霊魂は、罪の償いをしなければならないのでしょうか?
私たちは、罪を犯すと、罪とそれと同時に、それにふさわしい「罰」を受けなければならなくなります。そして例え天主の御憐れみによって罪を赦されたとしても、しかし当然受ける罰は、まだ償わなければなりません。
例えば誰かが、(これは全く自然の事なので、罪とか罰とかいう概念には当てはまらないのですが、まぁ例えて言えば) 誰かが重力に逆らって、物を上に上げたとすると、その上げた事自体は、「まぁ仕方がない、まぁそれは勘弁しよう」とされたとしても、その上に上げられたものは、当然下に落ちなければなりません。元の位置に戻らなければなりません。そのまま、「上げる事は許された、だからそのまま上に止まっている」という事はできません。
それと似たように、もしも私たちが、天主に従うべき秩序に従わずに、その秩序を壊してしまったとしたら、その「壊した」というその行為自体は赦されたとしても、しかしその秩序を回復しなければなりません。その義務が残ります。そして私たちが罪を犯すと、その天主の御稜威に対して逆らった、その秩序を回復する為に、「償い」が残ります。
つまり煉獄の霊魂たちは私たちに、非常に深い、核心的な真理を教えています、「罪を犯すという事は、何よりもまず、私たちは『天主』に対して罪を犯すのだ」という事です。罪を犯す事によって天主は、天主の御稜威は傷付けられます。
もちろん天主は、永遠の昔から永遠の未来に向かって、全く変わる事のない、普遍の変わる事のない、そして永遠最高の幸せの方でありますけれども、しかし天主の当然あるべき秩序が壊された事によって、その回復を要求されます。つまり、天主の「正義」が、私たちにそれを、罪の償いを当然要求します。天主御自身は変化がないのですけれども、天主の正義が私たちに償いを要求して、天主の犯された当然の権利を要求なさいます。私たちはそれを償う義務が生じます。
これがカトリックの教えです。
では一体誰が、この罪を償う事ができるでしょうか?天使たちでしょうか?あるいは人間でしょうか?私たち罪人でしょうか?
私たちがその天主の傷付けられた御稜威を償う事ができる唯一の方法、唯一の可能性、唯一のチャンス、たった一つだけの手段しかありません。それは、天主でありながら私たちの罪の償いの為に人となった、イエズス・キリストです。「イエズス・キリストの流された、いと尊き御血」です。
これ以外、私たちの罪を償う赦しの手段はありません。そしてもしも、私たちがイエズス・キリストのその御血の功徳に繋がっていなければ、私たちの行動はいかなるものも、全く価値がありません。
日本で何か物を買う時には、日本銀行が発行した紙幣でなければ買う事ができません。いくら私たちがその銀行券よりも綺麗なお札を印刷したとしても、私たちが何をしたとしても、それは全くミッキーマウスのお札で、何の価値もありません。偽札です。
イエズス・キリストの御血、イエズス・キリストに繋がっていない事は、生贄は、祈りは、やはり同じように、永遠の救いの為に価値は無いのです。
これこそカトリックの、永遠の教える真理であって、ですからこそ私たちは何とかして、イエズス・キリストと一致していなければなりません。
その一致する手段というのは、どうやったら一致する事ができるでしょうか?
2つあります、2つ必要です。
1つは、「信仰」。イエズス・キリストを救い主として、イエズス・キリストを、私たちの為に人となった天主として、信じる事です。
「永遠の命とはすなわち、真の天主である御身と、あなたが送ったイエズス・キリストを知る事にあります」とイエズス様は仰いました。
信仰の他にもう1つ必要です。それは「愛徳」です、「成聖の恩寵」です、「天主の本性に参与する事」、「成聖の恩寵の中に生きている事」です。
罪を、大罪を犯す事によって、これは失われてしまいます。
しかしこの2つが必要です。煉獄の霊魂たちは、この2つを持っています。
ただ、私たちが罪を償う事ができるのは、この「生きている間だけ」の事なのです。もしもイエズス・キリストを信じ、そして愛において、この地上で償いを果たし終えなければ、その償いは煉獄で果たさなければなりません。煉獄での償いは、この地上よりもはるかに厳しいものです。
もしもこの「愛徳」がなければ、成聖の恩寵がなければ、私たちの償い、私たちの行ないは、価値がありません。永遠の救いの為に価値がありません。
「天国の救いの為の目方、計り」というのと、「私たちが、この地上で目に見える評価の仕方」とは、全く違います。
私たちはこの地上では、「知恵があれば、山を動かすほどの深い信仰があれば、それで良いんじゃないか」とか、あるいは「神学の深い知識があれば、天主の言葉さえも話すような深い知識があれば、それで良いんじゃないか」、「色々なカリスマを持って、死者を復活させたり、あるいは預言の賜物で、将来の事を預言するような事を、あるいは死者を復活させる等のような奇跡を行なえば、良いんじゃないか」、あるいは「私の持っている財産を全て、貧しい人の為に施し、そしてこの例え、殉教をしようとして、信仰の為に私のこの体が焼かれても、そしたら良いんじゃないか」と思うかもしれません。
聖パウロは、「それでは足りない」と言います。「成聖の恩寵がなければ、愛徳がなければ、天主への命に生きていなければ、それは永遠の為に全く虚しい。価値が無い」と。
これは私たちに、非常に大切な真理を教えています。
では一番、イエズス・キリストと一致する最高の手段は何なのでしょうか?イエズス・キリストの御血を受けるべき、最も良い手段は何なのでしょうか?
「イエズス・キリストの、十字架のいけにえの再現」です。つまり、十字架の祈りであり、十字架に一致する事であり、十字架の道を歩む事です。この地上で最高の手段は、「ミサ聖祭」であり、そして私たちの、イエズス・キリストの為になされる償いの犠牲、あるいはイエズス・キリストの御名においてなされる祈り、秘蹟などです。
これ以外には、本当の意味で私たちに、永遠の命の為に、そして煉獄の霊魂たちの為に、役に立つものはありません。
私たちは何という宝を今、手にしている事でしょうか。そしてこの宝を知らない人々は、どれほど残念ながら多くいるでしょうか。この私たちの最も必要な「救霊」という事を忘れて、その他の事に夢中になっている方々がどれほど多いでしょうか。
⑵では第2に、私たちはどのように今日、この死者の記念、全ての死せる信者のこの日に、何を考えなければならないのでしょうか?
私たちも、遂にはその日を迎える、という事です。
私たちは、それが「いつ」かは分かりません。また「どのように」かは分かりません。「どこで」かも分かりません。しかし必ず、皆さん、私も、全て、私たちは全て、ある日、どこかで、ある方法によって、この地上の全てに、さようなら、さらば、別れを告げる日がやって来ます。
そしてその時には2つの、「信仰」と「成聖の恩寵」において、この地上を去らなければなりません。できれば、もしもその時に罪の償いを果たし終えていれば、天国に。しかし償いを果たし終えていなければ、煉獄に行って、罪の償いを果たさなければなりません。
その時に私たちは、「あぁ、もう天国に宝を積む時間は終わった。あっという間の人生だった。」「あぁ、人生で最も大切なのは、イエズス様と一致している事だった。十字架と一致している事だった。」「私たちの最も価値のあるものというものは、この世で全く軽蔑されているものだった」という事を、その時理解し、はっきりと理解する事です。
私たちはその時に、良い死を遂げるようにしなければなりません。泥棒のように、盗人のように突然やって来る、この「死」を準備しなければなりません。
⑶最後に、私たちは一体何を、どのような遷善の決心を取らなければならないでしょうか?
まず、煉獄の霊魂たちの為に、そして私たちの良い死を迎える為にも、いつもイエズス様と一致する事できますように、信仰と愛徳において一致する事ができますように。
その為には、一番良い手段があります。もちろん、「マリア様の汚れなき御心」です。
マリア様に是非お祈り致しましょう、「今も、臨終の時も、我らの為に祈り給え。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
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