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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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天主の求める「正義」というのは、「私たちが隣人を許す事」にある、これこそが天主の求める正義であって、本当の平和だ

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2019年11月3日(主日)聖霊降臨後第21主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父説教

聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2019年11月3日、聖霊降臨後第21主日のミサをしております。

今日このミサは、アマゾンのシノドスにおいてなされた偶像崇拝の罪の償いとして、特別に捧げられております。

聖ピオ十世会では11月10日にそれを行いますが、私たちは一週間早めて、このミサをその意向で捧げています。

同じく聖ピオ十世会では一週間後に、諸聖人の連祷をこの罪の償いの為に捧げます。
私たちはこの初主日の今日のミサの直後に、御聖体降福式で、諸聖人の連祷を聖母の連祷の代わりに唱えて、罪の償いとして捧げたいと思っています。どうぞ皆さんご参加下さい。

今日午後の3時半頃から、晩課がここである予定です。どうぞいらして下さい。

「天の父も、お前たちに同じようにするだろう。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日私たちは、聖マテオの福音の中の非常に美しい、私も最も好きな箇所の一つを読みました。私たちの最も好きな箇所を読みました。「罪の赦し」という題材のものです。

そこで今日は、11月1日には、天の諸聖人たちが栄光に入ったその姿を見て、そして2日には、煉獄で苦しむ聖なる霊魂たちの姿を見て、苦しみの教会を見て、最後に、地上の教会、戦闘の教会私たちが一体どうしたら、この教会が私たちに伝えようとする事を理解する事ができるか?を黙想する事に致しましょう。

特にちょうどこの11月1日・2日・3日と、非常に論理的に私たちに道を、道標を教えているように思われます。そこでこの3つの、11月1日・2日・3日の主題を簡単に黙想致しましょう。

【その一】
諸聖人の祝日は私たちに、一体何の為にこの地上に私たちが生まれているのか?何でここに生活しているのか?という究極の目的を教えてくれます。

私たちはここにただ、この地上で美味しい物を食べたり、あるいは観光に行ったりする為だけに生きているのではなくて、究極の目的の為に、ある目的の為に、生を受けました。この地上に創造されて今、生きています。

一体私たちの究極の目的は何なのか?それが諸聖人の大祝日が、私たちにはっきりと示しています。

私たちはここに、偶然にいるのではなくて、「天国の永遠の命を享受する為」に、「永遠の天主の命を私たちも頂く為」に、「それに参与する為」に生まれてきました。

もしも私たちがこの大宇宙を、美しい大自然を頂いて、創造を受けて、そして私たちもその中に生きているとしたら、これは天主が私たちに、「この大自然を使って、道具として使って、天国に行くように」とされたからです。

もしもイエズス様が、天主の御言葉が人となって、私たちと同じ生活をされて、人間として生活をされて、そして十字架で血を流された、いけにえとなられたとしたら、これも罪の償いと、そして私たちを天国に導く為です。私たちに永遠の命を与える為です。たった一つの目的しかありません。「永遠の命」です。

つい最近、ある方から質問を受けました、「教皇様の来日の為に記事を書かなければならないけれども、神父様、日本にとって一番重要なイシューというのは何だと思いますか?」

私はこう答えたいと思います、「今、日本で、そして日本に住むすべての人々が最も大切な、重要なイシューというのは、『永遠の命』のものである。」

私たちが一体、この死の後に永遠の喜びを受けるのか、受けないか、天国に行けるか、行けないか、あるいは私たちが創造の目的を達成する事ができるか、できないか、永遠の喜びに入るか、入らないか、それがそれこそが最も大切な大事件であって、最も大切なイシューです。

東京でオリンピックのマラソンをするかしないかとか、あるいはリニアモーターカーが静岡県を通るか通らないか、全くそれらは手段でしかありません。この地上の全てのものは、被造物は、私たちが天国に行く為の手段としてのみ、与えられました。目的ではありません。

天国の今いる諸聖人たちは、この地上での全ての生活、境遇、誘惑、十字架、困難を、「手段」として、それをトランポリンとして、天国に行かれました。

【その二】
では私たちはどうやったら、どのような道を通ったら、その天国に行く事ができるのでしょうか?

道はたった一つしかありません。「十字架の道」です。私たちが天国に行く為には、罪を赦されなければなりません。私たちは全く罪を赦されて、清く浄められなければなりません。なぜかというと「罪」というのは、「天主の反対」であるからです。天主に「No!」と言う事であるからです。

罪の赦しの為の唯一の手段というのは、「イエズス・キリストが流された御血」です。

聖パウロは言います、「流血がなければ、罪の赦しはない」と。天主の御血が、イエズス・キリストの御血が一滴でも流されなければ、私たちには罪の赦しがありません。私たちにとってイエズス様と一致する事、イエズス・キリストの御血の功徳を受ける事が、天国への唯一の道です。それ以外のあらゆるものは、私たちはもしもそれが有効である事を、役に立つ事を望みますけれども、残念ながら、本当の真理は、本当の事は、それだけです。

なぜかというと、イエズス・キリスト様が、この全世界を創った本当の天主であって、私たちの為に人となって、罪の償いとして捧げられた唯一の、効果のある、力のあるいけにえであるからです。これ以外には道がないからです。

煉獄の霊魂たちは私たちに、非常に強いメッセージを送っています。一体なぜ煉獄の霊魂たちが今、煉獄にいるかというと、「罪の償い」をしています。なぜかというと、たとえ罪を赦されたとしても、罪によって当然生じる償いは残るからです。

でも「罪の償い」というのは、「天主」に対してまずなされなければなりません。なぜかというと、罪というのはまず第一に、そして最も、天主を犯すものであるからです。

知性のない、自由意志のないものは、そのまま自然の法則に従っています。物は自然に重力に従って落ちますし、火は法則に従って燃えます。花は法則に従って、自然の法則に従って咲きますが、これは天主がそのように命じて、自然は、大自然はそれに従う義務があるからです。

人間は天主の法則に教えられた掟に、それをよく知り、自由意志を以て、それに従う義務があります。もしもそれに、知りながら、自由意志を以て拒否するならば、私たちはそれの当然の罰を受けなければなりません。償いをしなければなりません。

言ってみれば例えば、これは必ずしも悪ではないのですけれども、非常に簡単な例えで言うと、もしも何かが重力に逆らって上げられたとしますが、たとえその上げたという事が許されたとしても、しかし天主の秩序は、そのそれがまた元に戻る事を要求します。それと似たように、もしも知性的な被造物が天主に逆らった時に、その壊された秩序を、私たちは何とかして償わなければなりません。


【その三】
では私たちは、その償いはどうしたら良いのでしょうか?

「イエズス・キリストの御血」によるしかありません。ところで、私たちがイエズス様の御血の功徳を得る為に、そしてこのそれを有効に得る為に、天主は非常に深い、愛の唯一の条件を与えました、「もしも私たちが赦されるならば、隣人をも許さなければならない」と。

その今日の、第3点のテーマがそれです。

第1は、私たちは、天国に行く為に生きている。

第2は、「罪」というのはまず、「天主」に対して犯される、天主に対して極めて大きな不正がなされる。

第3、私たちがその天主からの赦しを得る為に、罪の償いをする為に、隣人をも許さなければならない。こうして初めて、私たちは当然天主からの赦しを受ける事ができる。

一体なぜなのでしょうか?

なぜかというと、私たちが天主に対して犯したその罪の負債は、あまりにも巨大なものであるからです。私たちが到底支払い切る事ができないものであるからです。例えば今日の福音が、その私たちがどれほどの負債があるか、という事を理解する事ができる為に、今日の福音が例え話を出しています。

1万タレント。1タレントというのは、人が一生働いてようやく築き上げる財産だそうです。1万タレント。1万回生きて、一生懸命労働して、ようやく貯める事ができる事ができないかの額だそうです。

100デナリオ。デナリオというのは、人の1日の労働の給料だそうです。100日働いて得る事ができる。

1万回生きて稼いだお金を許された男が、100日分のお金を「返せ!」と、許さなかったという話です。

しかし本当の事を言うと、私たちが天主に対する罪の負債というのは、それよりももっと無限の差があります。

今日、私たちの主は、「主の祈り」の中でも同じような事を教えています、「もしも祈る時には、こう言いなさい、『我らが人に許す如く、我らの罪を赦し給え。』もしも私たちが許さないならば、私たちも赦されない。」

これは現代の考えと非常に、現代の人は違ったように言うかもしれません、「罪というのは、天主ではなくて人間を傷付けるものであって、人間と人間のものなので、天主は関係ない。だから正義と平和というのは、権利を要求するものであって、人間と人間との正義を回復しなければならない。」

天主の求める「正義」というのは、「私たちが隣人を許す事」にあります。これこそが天主の求める正義であって、本当の平和です。

ある方が私にポロリとこう言ったのを覚えています、「私は、日本の殉教者を素晴らしいと思う。殉教という栄光に憧れる。しかしでも、『人を許す』という事は、殉教よりも大変だと思う。」

ところで、日本の殉教者たちは、自分たちを殺して、迫害して、全財産を奪って、そして命さえも奪って、国外へ追放したような人々を、喜んで許して殉教していった、本当に素晴らしいと思います。

これこそが、イエズス様が教えた精神であります。なぜかというと、私たちは天国の為に生きているからです。この世はあまりにも儚いものであって、ほんのあっという間に過ぎてしまうものであるからです。この地上の事から天に目を上げるようにと招いているからです。

【最後に】
愛する兄弟の皆さん、11月は死者の月です。私たちもいつ天に召されるか、その事を黙想致しましょう。そして私たちはイエズス様から、「罪の赦し」という大きな御恵みを頂いたので、それを全うする為にも、隣人を喜んで許してあげる事に致しましょう。ここにこそ、真のカトリックの精神があります。ここにこそ、キリストの弟子の精神があります。そしてここにこそ、最も愛の深い表明があります。これほど美しい事があるでしょうか。

私たちにもこの精神が与えられますように、特にマリア様にお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


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