「めでたし」の祈りについての説教
聖ピオ十世会 エティエンヌ・ドモルネ神父
はじめに
私たちカトリック信者は、非常に頻繁に「めでたし」の祈りを唱えます。これは大変素晴らしい祈りですが、これを頻繁に繰り返しますから、私たちがこの祈りをただ機械的に唱えるならば、私たちの主がユダヤ人に対して「この民は口先で私を敬うが、その心は私から遠く離れている」(マテオ15章8節)と非難なさったことが私たちにも当てはまってしまうかもしれません。「めでたし」を唱えるときに私たちの信心を保つ助けとなるように、私は、霊性の大家であるシトー会士ジェローム神父(1907-1985年)のコメントをもとにして、この祈りの意味についてお話ししようと思います。
第一部:大天使ガブリエルのマリアへの言葉
この祈りの第一部は、大天使ガブリエルが御告げの日に使った言葉で作られています。「めでたし、マリア」。私たちは、この童貞聖マリアに対する祈りを、マリアへのあいさつで始めます。このあいさつのあと、私たちが一人で祈る場合は、わずかの間を置くべきです[日本語では、『聖寵充ち満てるマリア』のあと]。それは、自分自身がマリアに注意を向ける時間と、マリアが私たちに注意を向けてくださる時間を取るためです。実際、この祈りには、二人の人物がかかわっています。マリアと私です。しかし、私たちが誰かに会って、その人と話をしたいと思う場合は、私たちは何をしますか? 私たちはその人にあいさつして、それから話を続ける前に、その人が私たちに注意を向けてくれるのを待ちます。祝せられし童貞に対しても同じです。
「聖寵充ち満てる」。これについて、聖ベルナルドは言います。「天主はマリアに、その全善の充満をお置きになった。そういう訳で、私たちが受けるすべての恩寵は、マリアの御手を通して私たちにやって来るのである」。マリアの恩寵の充満とは、あらゆる霊的な豊かさのみならず、あらゆる希望と喜びと力が祝されし童貞にあるということを意味しています。集会書にある次の一節は、童貞聖マリアに当てはめられています。「私は、清い愛、恐れの母であり、知識、尊い希望の母である。私には、道、真理の恩寵のすべてがあり、私には、いのち、聖徳の希望のすべてがある」(集会書24章24節[18節])。私たちがマリアに祈る場合、私たちはマリアの恩寵の充満に触れるのであり、その恩寵の充満から私たちが必要とするどんな恩寵も受けることができるのです。
「主御身と共にまします」。この言葉の意味は、相互関係によって「御身主と共にまします」ともなります。主がマリアと共におられるということは、マリアも主と共におられるということです。ですから、私たちがマリアと共にいるとき、私たちは必ずイエズスと共にいるのであり、マリアは[私たちとイエズスとを]つなぐきずななのです! イエズスのところに行くのにあたかもマリアが障害物になるかのごとく、祝されし童貞を自分たちの祈りから排除したがっているプロテスタントの教えが、いかに馬鹿げていて、聖書に反しているかを見てください! 私たちの天主なる主と一致する最も良い方法は、まさに童貞聖マリアとの一致に留まることなのです。
第二部:聖エリザベトのマリアへの言葉
この簡潔ながら意味の深い大天使ガブリエルの言葉のあと、私たちは、聖エリザベトが聖霊の霊感を受けて述べた言葉「御身は女のうちにて祝せられ」を使って、私たちの祈りを続けます。すべての人間およびすべての天使の中で、童貞聖マリアは、天主によって特別に祝福され、愛されてきました。この特別に愛されたという理由によって、天主はマリアを、すべてに超える尊厳の状態で創造されました。しかし具体的には、私たちは、マリアは女のうちにて祝せられた、と言います。マリアは本当の女性です。では、女性の主な特徴とは何でしょうか? 家庭において家族を愛する存在であること、すべてを見守っていること、人々をくつろがせること、そしてそのお返しとしてただ自分が奉仕したり愛されたりする権利のみを求めることです。マリアは他の人と異なることなく、すべての女性を超えており、理解しがたいところのない、素晴らしい女性です。マリアは、私たちを永遠の家に到達させるため、私たちを優しく愛してくださり、私たち一人一人に完璧な思いやりを向けてくださっているのです。そのお返しに、マリアはただ、私たちから子としての愛を求めておられるだけなのです。
「御胎内の[実、]御子イエズスも祝せられ給う」。子どもというものは、通常はその母親にとってのすべてです。母親は、子どもへの愛のためなら、すべてを、夫のことさえも、忘れることができます。私たちは、この母親の子どもだけを思いやる気持ちを理解することができます。しかしマリアにおいては、全く違っています。マリアのイエズスに対する母性は、私たちに対する母性の土台です。マリアの母としての思いやりは、イエズスから私たち全員に拡げられました。実際、十字架上において、私たちの主は、御母と聖ヨハネに対する次の言葉によって、驚くべき交換を実現されました。「女よ、汝の子を見よ」「汝の母を見よ」。この瞬間、私たちはマリアの子、御胎内の実となり、今やイエズスが祝せられているのみならず、私たちも、自分がマリアの子であると認める限りにおいて、祝せられているのです。
第三部:教会のマリアへの言葉
さて、マリアに対する大天使ガブリエルと聖エリザベトのあいさつと讃美を繰り返したのち、教会は「めでたし」の祈りを続け、祝せられし童貞のすべての特権の土台である偉大なる称号を挙げます。「天主の御母聖マリア」。あらゆるマリア学、すなわち祝せられし童貞の特権についての学問は、「天主の御母」というこの称号のうちにあります。天主がマリアを原罪なしに宿らせ給い、いかなる自罪も免れさせ給い、イエズスのご誕生の前もご誕生のときもご誕生の後も童貞のまま保ち給い、贖いのわざにおいて私たちの主イエズスと密接な関係を持たせ給い、死による腐敗を免れさせ給い、天国へ昇天させ給い、今やすべての恩寵を与える者とさせ給うたのは、聖母がこの天主の尊厳ある御母となられることになっていたためです。天主の御母であるということによって、マリアは天主との境目にまで達しておられます。マリアより天主に近い者は誰もいません。
皆さんお分かりのように、ここまでの「めでたし」の祈りにおいて、私たちは祝せられし童貞への賛辞を続けて言い、その偉大なる力の理由を述べました。主は常にマリアと共にまします。マリアは女のうちにて祝せられ給う。救い主なるイエズスはマリアの子にまします。マリアは天主の御母にまします。これらの称号のゆえに、マリアは私たちにどのような恩寵も必ず取り成すことがおできになります。ですから、願いを聞いていただけるという完全な信頼をもって、私たちはけんそんなお願いをマリアにお示しすることができます。「罪人なるわれらのために祈り給え」。ここで、私たちは驚くかもしれません。この私たちのお願いは、少し短すぎ、単純すぎるのではないかと! 例えば、長い祈りを唱えるのが好きなカリスマ運動の人々と比べてみましょう。本当のところ、このマリアへの単純な祈り「われらのために祈り給え」には、すべてが含まれているのです。実際、祝せられし童貞が私たちのために祈ってくださるとき、それは、マリアが天主のご意志を礼拝し、マリアがお願いになるだけでイエズスがお与えになることを既に予定なさっていた恩寵を与えてくださるよう、イエズスの功徳によって、マリアが天主にお願いされる、という意味なのです。マリアが私たちのために祈ってくださるとき、マリアは常に私たちのために最も良いことお願いし、取り成してくださっているのです。ですから、こういう訳で、「われらのために祈り給え」と唱えるだけで十分なのです。私たちに必要なものはすべて、これに含まれているのです。
「今も[われらのために祈り給え]」。ここで再び、皆さんがロザリオを一人で祈るとき、少し間を置きましょう。なぜなら、祝せられし童貞は、皆さんが今、天主をお喜ばせするのに必要な、信仰・希望・愛において成長するのに必要な、義務を十分に果たすのに必要な、あれやこれやの誘惑に抵抗するのに必要な、あれやこれやの試練に勇敢に立ち向かうのに必要な、すべての恩寵を、皆さんのために獲得しようとして、皆さんのために今祈ってくださっているのですから。皆さんは、まさにこの瞬間、マリアの母としての思いやりとご保護のもとにあるのです。ですから、急ぎすぎないようにして続けてください。
「臨終のときも」。私たちは、何度も何度も、童貞聖マリアに良き死の恩寵を、すなわち成聖の恩寵の状態で死ぬことを、お願いしています。この恩寵こそが、私たちの一生のすべての功徳を意味あるものにする恩寵、私たちに対する悪魔の敗北を保証する恩寵、私たちに対して永遠のいのちを開いてくれる恩寵です。これは、私たちの全存在に関して最も重要な恩寵です。誰であっても、たとえ最も偉大な聖人であったとしても、この恩寵を得る権利は持っていません。これは天主からの純粋な賜物なのです。では、この恩寵を手に入れるのを確実にするために、私たちに何ができるでしょうか? 天主の御母にして私たちの母であるお方にお願いすることに勝る方法はありません。ですから、ここ地上で私たちが生きている間、私たちがマリアの近くに留まるならば、私たちの臨終のとき、つまり私たちの存在に決定的に重要なときに、マリアが私たちを決してお見捨てになることはないということを私たちは確信しなければなりません。
ジェローム神父はマリアのご保護への信頼を次のように表現しています。「この世でのわが長き旅路におけるわが母にして、わが最後の息のときのわが母よ、願わくは、この短き瞬間に御身の外套のふちでわれを隠し給い、そののちわれが、扉を確実に通過し、突然に現れいでたとき、御身がわが笑いを、母の思いやりによってすべてを成就したがゆえに笑いに笑う子としての笑いを、聞き給わんことを」。
結論
この「めでたし」の祈りは、その言葉においてはごく単純ですが、その意味においては非常に深く、非常に力強いものです。「めでたし」の祈りを繰り返すことに、特にロザリオの祈りにおいて、決して飽きることのないようにしましょう。しかし、私たちの心に飽きが襲ってくると感じるときは、「めでたし」の祈りの一つ一つの文の意味を黙想しましょう。そうすれば、私たちが自分の信心をよみがえらせ、自分の祈りを真の祈り、つまり、現実で、生きていて、私たちのことを深く思ってくださるお方である童貞聖マリアとの、真実で、確信に満ちた、愛すべき会話とする助けとなるでしょう。
聖ピオ十世会 エティエンヌ・ドモルネ神父
はじめに
私たちカトリック信者は、非常に頻繁に「めでたし」の祈りを唱えます。これは大変素晴らしい祈りですが、これを頻繁に繰り返しますから、私たちがこの祈りをただ機械的に唱えるならば、私たちの主がユダヤ人に対して「この民は口先で私を敬うが、その心は私から遠く離れている」(マテオ15章8節)と非難なさったことが私たちにも当てはまってしまうかもしれません。「めでたし」を唱えるときに私たちの信心を保つ助けとなるように、私は、霊性の大家であるシトー会士ジェローム神父(1907-1985年)のコメントをもとにして、この祈りの意味についてお話ししようと思います。
第一部:大天使ガブリエルのマリアへの言葉
この祈りの第一部は、大天使ガブリエルが御告げの日に使った言葉で作られています。「めでたし、マリア」。私たちは、この童貞聖マリアに対する祈りを、マリアへのあいさつで始めます。このあいさつのあと、私たちが一人で祈る場合は、わずかの間を置くべきです[日本語では、『聖寵充ち満てるマリア』のあと]。それは、自分自身がマリアに注意を向ける時間と、マリアが私たちに注意を向けてくださる時間を取るためです。実際、この祈りには、二人の人物がかかわっています。マリアと私です。しかし、私たちが誰かに会って、その人と話をしたいと思う場合は、私たちは何をしますか? 私たちはその人にあいさつして、それから話を続ける前に、その人が私たちに注意を向けてくれるのを待ちます。祝せられし童貞に対しても同じです。
「聖寵充ち満てる」。これについて、聖ベルナルドは言います。「天主はマリアに、その全善の充満をお置きになった。そういう訳で、私たちが受けるすべての恩寵は、マリアの御手を通して私たちにやって来るのである」。マリアの恩寵の充満とは、あらゆる霊的な豊かさのみならず、あらゆる希望と喜びと力が祝されし童貞にあるということを意味しています。集会書にある次の一節は、童貞聖マリアに当てはめられています。「私は、清い愛、恐れの母であり、知識、尊い希望の母である。私には、道、真理の恩寵のすべてがあり、私には、いのち、聖徳の希望のすべてがある」(集会書24章24節[18節])。私たちがマリアに祈る場合、私たちはマリアの恩寵の充満に触れるのであり、その恩寵の充満から私たちが必要とするどんな恩寵も受けることができるのです。
「主御身と共にまします」。この言葉の意味は、相互関係によって「御身主と共にまします」ともなります。主がマリアと共におられるということは、マリアも主と共におられるということです。ですから、私たちがマリアと共にいるとき、私たちは必ずイエズスと共にいるのであり、マリアは[私たちとイエズスとを]つなぐきずななのです! イエズスのところに行くのにあたかもマリアが障害物になるかのごとく、祝されし童貞を自分たちの祈りから排除したがっているプロテスタントの教えが、いかに馬鹿げていて、聖書に反しているかを見てください! 私たちの天主なる主と一致する最も良い方法は、まさに童貞聖マリアとの一致に留まることなのです。
第二部:聖エリザベトのマリアへの言葉
この簡潔ながら意味の深い大天使ガブリエルの言葉のあと、私たちは、聖エリザベトが聖霊の霊感を受けて述べた言葉「御身は女のうちにて祝せられ」を使って、私たちの祈りを続けます。すべての人間およびすべての天使の中で、童貞聖マリアは、天主によって特別に祝福され、愛されてきました。この特別に愛されたという理由によって、天主はマリアを、すべてに超える尊厳の状態で創造されました。しかし具体的には、私たちは、マリアは女のうちにて祝せられた、と言います。マリアは本当の女性です。では、女性の主な特徴とは何でしょうか? 家庭において家族を愛する存在であること、すべてを見守っていること、人々をくつろがせること、そしてそのお返しとしてただ自分が奉仕したり愛されたりする権利のみを求めることです。マリアは他の人と異なることなく、すべての女性を超えており、理解しがたいところのない、素晴らしい女性です。マリアは、私たちを永遠の家に到達させるため、私たちを優しく愛してくださり、私たち一人一人に完璧な思いやりを向けてくださっているのです。そのお返しに、マリアはただ、私たちから子としての愛を求めておられるだけなのです。
「御胎内の[実、]御子イエズスも祝せられ給う」。子どもというものは、通常はその母親にとってのすべてです。母親は、子どもへの愛のためなら、すべてを、夫のことさえも、忘れることができます。私たちは、この母親の子どもだけを思いやる気持ちを理解することができます。しかしマリアにおいては、全く違っています。マリアのイエズスに対する母性は、私たちに対する母性の土台です。マリアの母としての思いやりは、イエズスから私たち全員に拡げられました。実際、十字架上において、私たちの主は、御母と聖ヨハネに対する次の言葉によって、驚くべき交換を実現されました。「女よ、汝の子を見よ」「汝の母を見よ」。この瞬間、私たちはマリアの子、御胎内の実となり、今やイエズスが祝せられているのみならず、私たちも、自分がマリアの子であると認める限りにおいて、祝せられているのです。
第三部:教会のマリアへの言葉
さて、マリアに対する大天使ガブリエルと聖エリザベトのあいさつと讃美を繰り返したのち、教会は「めでたし」の祈りを続け、祝せられし童貞のすべての特権の土台である偉大なる称号を挙げます。「天主の御母聖マリア」。あらゆるマリア学、すなわち祝せられし童貞の特権についての学問は、「天主の御母」というこの称号のうちにあります。天主がマリアを原罪なしに宿らせ給い、いかなる自罪も免れさせ給い、イエズスのご誕生の前もご誕生のときもご誕生の後も童貞のまま保ち給い、贖いのわざにおいて私たちの主イエズスと密接な関係を持たせ給い、死による腐敗を免れさせ給い、天国へ昇天させ給い、今やすべての恩寵を与える者とさせ給うたのは、聖母がこの天主の尊厳ある御母となられることになっていたためです。天主の御母であるということによって、マリアは天主との境目にまで達しておられます。マリアより天主に近い者は誰もいません。
皆さんお分かりのように、ここまでの「めでたし」の祈りにおいて、私たちは祝せられし童貞への賛辞を続けて言い、その偉大なる力の理由を述べました。主は常にマリアと共にまします。マリアは女のうちにて祝せられ給う。救い主なるイエズスはマリアの子にまします。マリアは天主の御母にまします。これらの称号のゆえに、マリアは私たちにどのような恩寵も必ず取り成すことがおできになります。ですから、願いを聞いていただけるという完全な信頼をもって、私たちはけんそんなお願いをマリアにお示しすることができます。「罪人なるわれらのために祈り給え」。ここで、私たちは驚くかもしれません。この私たちのお願いは、少し短すぎ、単純すぎるのではないかと! 例えば、長い祈りを唱えるのが好きなカリスマ運動の人々と比べてみましょう。本当のところ、このマリアへの単純な祈り「われらのために祈り給え」には、すべてが含まれているのです。実際、祝せられし童貞が私たちのために祈ってくださるとき、それは、マリアが天主のご意志を礼拝し、マリアがお願いになるだけでイエズスがお与えになることを既に予定なさっていた恩寵を与えてくださるよう、イエズスの功徳によって、マリアが天主にお願いされる、という意味なのです。マリアが私たちのために祈ってくださるとき、マリアは常に私たちのために最も良いことお願いし、取り成してくださっているのです。ですから、こういう訳で、「われらのために祈り給え」と唱えるだけで十分なのです。私たちに必要なものはすべて、これに含まれているのです。
「今も[われらのために祈り給え]」。ここで再び、皆さんがロザリオを一人で祈るとき、少し間を置きましょう。なぜなら、祝せられし童貞は、皆さんが今、天主をお喜ばせするのに必要な、信仰・希望・愛において成長するのに必要な、義務を十分に果たすのに必要な、あれやこれやの誘惑に抵抗するのに必要な、あれやこれやの試練に勇敢に立ち向かうのに必要な、すべての恩寵を、皆さんのために獲得しようとして、皆さんのために今祈ってくださっているのですから。皆さんは、まさにこの瞬間、マリアの母としての思いやりとご保護のもとにあるのです。ですから、急ぎすぎないようにして続けてください。
「臨終のときも」。私たちは、何度も何度も、童貞聖マリアに良き死の恩寵を、すなわち成聖の恩寵の状態で死ぬことを、お願いしています。この恩寵こそが、私たちの一生のすべての功徳を意味あるものにする恩寵、私たちに対する悪魔の敗北を保証する恩寵、私たちに対して永遠のいのちを開いてくれる恩寵です。これは、私たちの全存在に関して最も重要な恩寵です。誰であっても、たとえ最も偉大な聖人であったとしても、この恩寵を得る権利は持っていません。これは天主からの純粋な賜物なのです。では、この恩寵を手に入れるのを確実にするために、私たちに何ができるでしょうか? 天主の御母にして私たちの母であるお方にお願いすることに勝る方法はありません。ですから、ここ地上で私たちが生きている間、私たちがマリアの近くに留まるならば、私たちの臨終のとき、つまり私たちの存在に決定的に重要なときに、マリアが私たちを決してお見捨てになることはないということを私たちは確信しなければなりません。
ジェローム神父はマリアのご保護への信頼を次のように表現しています。「この世でのわが長き旅路におけるわが母にして、わが最後の息のときのわが母よ、願わくは、この短き瞬間に御身の外套のふちでわれを隠し給い、そののちわれが、扉を確実に通過し、突然に現れいでたとき、御身がわが笑いを、母の思いやりによってすべてを成就したがゆえに笑いに笑う子としての笑いを、聞き給わんことを」。
結論
この「めでたし」の祈りは、その言葉においてはごく単純ですが、その意味においては非常に深く、非常に力強いものです。「めでたし」の祈りを繰り返すことに、特にロザリオの祈りにおいて、決して飽きることのないようにしましょう。しかし、私たちの心に飽きが襲ってくると感じるときは、「めでたし」の祈りの一つ一つの文の意味を黙想しましょう。そうすれば、私たちが自分の信心をよみがえらせ、自分の祈りを真の祈り、つまり、現実で、生きていて、私たちのことを深く思ってくださるお方である童貞聖マリアとの、真実で、確信に満ちた、愛すべき会話とする助けとなるでしょう。