2018年11月2日(初金)全ての死せる信徒の記念のミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父説教
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2018年11月2日、死せる信者の記念のミサを行なっています。
このミサの後に教会の習慣に従って赦祷式があります。
今日は同時に初金曜日でもあるので、赦祷式の後に聖時間を行ないましょう。
今日は死者の記念なので、私たちは死について黙想を致しましょう。
⑴一体「死」とは何なのか?一体、死によって何が終わって、どうなるのか?
⑵私たちは死についてどのように対面しなければ、死を取り扱わなければならないのか?私たちはこれを避ける事ができるのか?
⑶そして最後に、遷善の決心を立てましょう。
⑴では、「死」とは一体何なのでしょうか?
公教要理によると、「死というのは、私たちの肉体と霊魂が分離する事」です。
霊魂は、滅亡する事なく、不滅で、永遠に残ります。しかし肉体は腐敗を開始します。死というのはですから、私たちが私たちの霊魂が、この地上から「さらば」と飛び立って行く、その事です。
今まで生きている間、私たちはどれほど楽をしよう、美味しいものを食べよう、綺麗なもので身を飾ろう、健康であろう、名声を得よう、楽な簡単な生活をしよう、面白おかしく、他の人から良く思われて、名誉もあって、権力を持って、お金も貯めて、財産も貯めて、大きな土地を持って、家も建てて、自分の下にたくさんの召使いを抱えて、という事にあくせくしてきました。
そして例えほんのちょっとの利益の為なら、そのたった何円の為ならば、汗水垂らして、そして夜も寝ずに、どんな辛い事も耐え忍んで、「何か利益がないか」「何かこの財産を得る事ができないか」「何か楽をする事ができないか」としてきました。
「良いお医者さんがいる」と言えば私たちはそこまで行き、何㎞の旅もして、そして「良い、美味しい食べ物がある」と聞けば、その噂に従って地の果てまでも行き、外国旅行をして「こんな所も見てきた」と、自慢話もしてきました。
しかし、今までやってきたそのような全てに、「さらば」という日が、それが死の時です。もはやその時には、私たちの頭は頭痛がして、体は冷たくなり、手も足も麻痺して、感覚はなくなり、目も見えなく薄暗くなり、息をするのも苦しい、咳は出る、熱が出る、体は動かない、痛い、苦しい、その時に、「さぁ宝くじが当たりましたよ。」「さぁ皆があなたの事をこう褒めていますよ、こんなことを言っていますよ。」「さぁ、さぁ」と言ったところで、それが私たちにとって何の利益になるでしょうか。
これからそういうものに「さらば」と言って、この地上を出て行かなければならない時に、100万坪の土地も、何件もの高層ビルも、マンションも、ロールス・ロイスも、美味いお蕎麦も食べ物も、あるいは人が何と言おうと、「あぁ、今度は社長になりましたね。」「理事長になりましたね。」「あぁ、総理大臣だったんですか。」それらも、この地上を去ろうとしている時に、一体私たちにどんな価値があるのでしょうか。
その時に、本当に私たちにとって価値があるのは何なのでしょうか?
私たちは、この地上の事を得ようと一生懸命になるがあまり、どれほど天主の掟をないがしろにしてきた事でしょうか。その私たちの利益を得る為に、嘘はついた、盗みはした、人には意地悪をした、損害をかけた。しかしそれらが一体、永遠の為に何の役に立ったのでしょうか?今、天主の前に死を迎えて、これからそれらに「さらば」という時に、一体それらがどのような価値を持つのでしょうか?
その時に、祈りに費やした時間、イエズス様と共に過ごした時間、イエズス様の為に捧げた良い業、苦しみ、イエズス様の苦しみに同情して流したその熱い涙、マリア様に捧げた清い祈り、ミサに与ったその時間、黙想に費やしたその15分は、「あぁ、それをやっていて良かった。あぁ、何でもっとそういう時間の為に、その為に時間を費やさなかったのか?」
「何であの時にYouTubeを見なければならなかったのか?」
「何の為に、下らない事に神経を費やし、『あぁ、あそこのポイントカードが、あそこのお店で買っておけば何ポイント貯まったのに!』とか、何でそういう下らない事に、あっという間に過ぎる事に神経を使っていたのか。」
「何であんなものに時間を費やしたのか。もはやこれで全てにおさらばだ。もうイエズス様の為に、天国の為に、永遠の為に、準備する時間はもうない。」
「あぁ、もっと1日でも長く生きる事ができたら、その為に使いたかったのに。」
もう息も絶え絶え、永遠の世界に入らなければならない、それが死です。
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⑵第2の点には、では私たちは死の時に、一体何が起こるのでしょうか?この世に「さらば」と言うだけなのでしょうか?
それだけではありません。私たちにとってその瞬間、永遠が始まります。私たちの霊魂が肉体を離れた時に、私たちの永遠が決定します。永遠の喜びか、あるいは永遠の死か永遠の苦しみか。
ちょうど木が斜めに立っていた時に、それを切れば、反対側には倒れません。もしも私たちが成聖の状態で死を迎えるならば、そのまま天国に行きます。あるいは浄めが足りなければ煉獄に、浄めが済むまで煉獄に留まり、その後に天国に行きます。
しかし大罪が1つでもあると、たった1つでも、ほんの1個でもあると、残念ながら私たちは、天国に行く全てを失ってしまいます。地獄に行かなければなりません。永遠の火に焼かれなければなりません。たった1つです、たった1つです。
なぜかというと、たった1つでも、私たちにとって成聖の恩寵を失わせるに十分だからです。私たちはその罪を赦される機会と、チャンスと、多くの御恵みが与えられています。しかし、「あぁ、いいわ」「あぁ、どうせ後がある」「あぁ、また次の機会に」等と、「あぁこれくらい」「これくらい」という事で、いつ何時、私たちがその、その思いもかけない時に、その時を迎えるかもしれません。
「死」というのは、いつ、あるいはどこで、あるいはどのような方法で、あるいはどんな状態において起こるか、私たちには知る事ができませんが、1つだけ知っているものは、「必ず私たちは死ななければならない」という事です。これを信じていようが、信じていまいが、同意しようがしまいが、好きだろうが好きでないだろうが、必ず私たちに、皆さんと私に、必ず起こらなければならない、もしもそのようなそれを避ける事ができない、現実なのです。どのようにしてもそれを避ける事ができません。永遠の始まりは、いつか、どこでか、どのような方法でか、必ず来ます。
私たちはですから、それを準備していなければなりません。
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⑶第3に、では私たちはどのように、死に面したら、死を取り扱ったら良いのでしょうか?
聖ベルナルドは、「もしも私たちが死の事をよく黙想するならば、良い生を良い人生を送る事ができる。しかし死の事を思わないならば、良い人生を送る事ができない、良い死を迎える事ができない。」
イエズス様も仰います、「人の子は盗賊のように、泥棒のようにやって来る。だから準備しておれ。」(マテオ24章43節)
同時に、信仰の内に亡くなった全ての死者の為にお祈り致しましょう。彼らが一刻も早く天国に行きますように、煉獄での浄めを済ます事ができますように。
「煉獄でのほんの少しの時間は、地上での何年何十年もの苦行よりも恐ろしい、厳しい」と言われています。多くの霊魂が早く天国に行く事ができますように。
そしてファチマのマリア様の御助けによって、地獄に落ちる霊魂が、今もう落ちてしまった霊魂は私たちはもうどうする事もできませんが、今死につつある霊魂、あるいは今生きている霊魂たちが地獄に落ちないように、彼らが天国に導かれますように、イエズス様に特別の御憐れみを、イエズス様の聖心に乞い求めましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。