2019年11月4日(月)司教証聖者聖カルロ・ボロメオのミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父説教
名古屋における聖ピオ十世会の初めての聖伝のミサに、ラテン語のミサに歓迎致します。
今日、このミサの会場を16時まで借りてあります。
このミサの後に感謝の祈りと、そして簡単な昼食の後、皆さんとお話し会も準備されていますので、もしも時間がある方はいらして下さい。
「良い、忠実なしもべよ。汝の主の喜びの中に入れ。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、ここで、名古屋の皆さんのお住まいの所で、聖伝の昔ながらのカトリックのラテン語のミサができる事を、とても感謝しております。本当に素晴らしい機会で、御恵みの日だと思っています。
今日、天主様の御摂理によって、この日は聖カルロ・ボロメオという、ミラノの偉大な大聖人の司教様の枢機卿の祝日ですので、今日この皆さんに、
⑴聖カルロ・ボロメオという、カトリック教会が生んだ偉大な聖人の生涯を簡単に垣間見て、一体どんな人であったのか?という事を知って、「あぁ、こんな人もいたんだ」と思っていただき、
⑵そして、この聖人がやろうと何を、何を一番大切にしていたのか?そしてこの聖人が私たちに、今現代、現代でももしも今生きていたらなさるだろう、というその事は何なのか?という事を黙想して、
⑶最後に、私たちは今日このミサで遷善の決心を、これから私たちはどのように生きていかなければならないのか、という決心を立てる事に致しましょう。
⑴第1のポイントでは、では今日教会が祝っている聖カルロ・ボロメオ、一体どういう人だったのでしょうか?
この方は、ミラノの非常に高貴な貴族の子供として、1538年に生まれました。16世紀のカトリック教会が生んだ素晴らしい数々の聖人たちの、その輝く一人です。
そして全時代を超える大聖人の一人であります。
幼い時から、「天主の為に一生を捧げたい。イエズス様の為に、マリア様の為に、霊魂の救いの為に、働きたい。」子供の頃から思っていました。もちろん貴族の子供でしたから、政治家になりたいとか、他のその他の野心も簡単にある事もできたのかもしれませんが、彼は違っていました。「霊魂の為に働きたい」と、子供の頃から思っていました。
そしてこのカルロ・ボロメオ少年は、既に23歳の時に、枢機卿に選ばれました。
なぜかというと、このボロメオ家は非常にカトリックの家庭で、その家族たちや親戚たちも多くの人が、司祭や修道者・修道女になっていて、天主に人生を奉献していて、実は叔父さんが、親戚の叔父さんが教皇様だったのです。教皇ピオ四世でした。
そしてこの子供の事を、このカルロの事をよく知っていました、「この子はとても聖なる霊魂である。」そこで、「ぜひ彼の力を借りたい」と、聖カルロ・ボロメオを枢機卿と選んで、そして出身地のミラノの大司教にしました。23歳。
彼の人生は二つに分けられます。
叔父さんのピオ四世の元で、国務長官としてトリエント公会議の真っ最中、その後半だったのですけれども、その「トリエント公会議をどのように適用させるか」それを、「教会をどのようにあるべき姿にするべきか」という事を、ピオ四世と一緒に働きました。
実は、残念ながら実は、ヨーロッパでは13世紀あるいは14世紀の前半、非常にカトリックが熱心でした。
多くの人々が愛徳と信仰の深い生活を送っており、王様でさえも、あるいはローマ皇帝でさえも、あるいは貴族でさえも、清貧・貞潔の聖なる生活を送っていました。「キリスト教世界」というものを作っていました。
そしてその為に天主様は、このヨーロッパを多くの御恵みで、御恵みの雨を降らせて、物質的にとても豊かになりました。光に満ちた、愛に満たされた、とても素晴らしい世界だったのです。
しかし物質に恵まれると、残念ながら、人々の生活は少し、物質の方に目を奪われてしまった点があります。そこで信心が、信仰の生活が、愛徳の生活が、少し冷めてしまった、これは人間の弱さの為に、という事があります。
その為に、ルネッサンスという時代が生まれました。ルネッサンスとは文芸復興と言われていますけれども、特に「ローマやギリシャの、異教の、昔の、古代の文化をもっと大切にしよう」という運動でした。キリスト教とは関係ないような、しかし物質的な芸術や、文芸や音楽や、そのようなものが入ってきました。
もちろんそれらを、カトリックの信仰の表明としてますます良く使うべきだったのです。しかし残念ながら、その物質的な豊かさの為に、世俗の人々のみならず、教会の中でも、その規律が、豊かさの為に緩んでしまった、という残念な側面がありました。
どのように緩んでしまったかというと、私たちのこの地上の、この物質の、一体何の為にあるのか?一体なぜこのような、この豊かな食べ物、あるいは建築、あるいは財産は、一体何の為にあるのか?という「目的」を忘れて、あるいは目的から切り離してしまった、というところに大きな問題がありました。
この全ての地上のものは、私たちの霊魂の為に、霊魂の救いの為にあります。そして霊魂をより良く救う事ができるように、この地上の豊かなものを使ってそれを、救霊を、永遠の幸せの為に行くようにするためです。
地上の全ての富は、地上の美しさ、美は、善は、天主を讃美する為のものであって、天主に感謝する為のものであって、これを使って、永遠の幸せと、永遠の至福と、永遠喜びの中に、永遠の命の中に入る為の道具だったのです。
しかし、その「道具に過ぎない」という事を忘れるようになってしまいました。これが、残念ながら、ルネッサンスの問題の究極の核心でした。その究極の目的を忘れてしまった、というところによって、この結果、色んな影響が後々の世界に及んでしまいます。
聖カルロ・ボロメオは、叔父さんのピオ四世に言いました、「教皇様、教皇聖下、教会は、究極の目的にはっきりと目を向けなければなりません。トリエント公会議がはっきり定めたように、どのような王侯諸国の反対があろうと、世俗の政治権力が何と言おうと、私たちは、『永遠の救霊の為』に力を尽くさなければなりません。教会の目的は、イエズス・キリストという天主が、人となった天主がカトリックの宗教を創った目的は、『霊魂の救い』です。信仰はこの事を教えています。『永遠の命の為に、信仰はある』と。」
そこで教皇様を支えて、カトリック教会の聖なる改革、反宗教改革、プロテスタントのやり方ではない、カトリックらしい、カトリックの信仰に基づいた、修道生活の更なる向上、理想の追求、清貧・貞潔・従順、そしてミサ聖祭のその聖である事、ミサは、イエズス・キリストが捧げられた、唯一、天主の心に召される永遠の十字架のいけにえである事、単なる食事会ではない事、そしてこの私たちの人生の究極の目的は、永遠の命である事、この地上を楽しむ事ではない事、等々、教会のピオ四世の片腕となって、それの良き助言者となって、教会の理想を追求するように、と助けました。
特に有名なのは、『トリエント公会議の公教要理』と言われている素晴らしい本があります。それの編集にカルロ・ボロメオは協力しました。
しかしピオ四世が亡くなると、ミラノの大司教として、第2話の部分は人生の後半には、ミラノで、ミラノの大司教区をあるべき姿にする為に、全力を尽くしました。
どのようにしたかというと、人々の、ミラノの国民を聖なるものとする為に、イエズス・キリストに従うものとする為に、まず自分を、自分の聖化、自分を聖なるものとするように、祈りと犠牲の生活を捧げました。
そして特に、ミラノの人々がより良く信仰を深める事ができるようにと、あるいは聖徳への情熱を高める事ができるようにと、天主に対する愛に燃える事ができるようにやった改革は、神学校を素晴らしくする事です。神学生に良い司祭養成を与えて、聖なる司祭を作る事でした。聖なる司教の養成をする事でした。
そして修道会をたくさん招待して、聖なる修道生活を送る事ができる霊魂たちを招きました。目に見える模範を招きました。
それだけではありませんでした。自分自身も非常に厳格な生活を送りました。私がこのような事を言うのも本当に恥ずかしいのですけれども。
特にこの天主は、人々の目を覚まさせようとして、ヨーロッパに十字架を送りました。当時その十字架の一つは、ペストでした。「黒死病」と言われていて、多くの人が疫病で、伝染病で亡くなっていました。聖カルロ・ボロメオは、彼らそのような貧しい病気の人を訪問して、自分自ら看病して助けて、そして終油の秘跡を授けたりしました。
その人たちを助ける為に、自分の持っていた家具を売り払ってさえしてしまいました。そしてそのベッドも無くなり、何も無くなったので、自分は板の上に寝て、死ぬまで、その苦業の生活をしていました。
「私たちの教会の目的は、霊魂の救いにある」と、「永遠の救いにある」と、「霊魂を勝ち取る為には、祈りしかない」と確信していた聖カルロ・ボロメオの口癖は、「霊魂は、膝によって勝ち取られる」と言って、いつも跪いてお祈りしていました。
献身的な司牧、我を忘れるような奉仕と祈りの生活、愛徳の生活、多くの人々は、カトリックのその理想を、この司教様に、聖カルロ・ボロメオの為に見出しました。ミラノの聖アンブロジオを生み出したミラノの街は、もう一度、聖カルロ・ボロメオの内にカトリック信仰の燃える火を見出しました。
若い人々も公教要理を学び、信仰を深め、そしてイエズス・キリストへの愛を高めていました。
⑵一体今日、今日21世紀において、聖カルロ・ボロメオの人生はどんな意味があるのでしょうか?
聖カルロ・ボロメオは私たちに、変わる事のない真理を教えています、「私たちは、この地上の全てのものを、『道具』として、『手段』として見なければならない」という事です。
「私たちがこの世に生きているのは、永遠の天主の命に参与し、そしてそれを得る為に、『天国』という究極の目的を得る為の手段に過ぎない」という事です。「この地上の命は、永遠の命の為の手段である」という事です。
これがあるからこそ、私たちはこの地上でどのような苦しみがあっても、困難があったとしても、全てが終わった、と思っても、希望があります。
イエズス・キリストの永遠の命の約束があるからこそ、憐れみ深い天主の愛を知れば知るほど、十字架にかけられた、人となって十字架にかけられた天主の、その無限の憐れみと愛を知れば知るほど、この地上があまりにも儚い、この地上は道具に過ぎない、手段に過ぎない、という事を知れば知るほど、私たちは多くの喜びと希望に満たされます。
もしも日本の社会で、多くの方が自殺をするとか、多くの人が障害者を、「もう不要だ」と、あるいは「価値がない」と言ったとすると、それは本当の、この世のこの地上での価値を知らないからです。「私たちは永遠の命の為に生きている」という本当の事を、残念ながら教えられていないからです。
聖カルロ・ボロメオはそれを教えました。そしてその為に、決して忘れられる事のない、その不滅の栄光を今天国で勝ち取って、私たちは今日それを祝っています。
⑶では、私たちはどのような事を、遷善の決心を立てたら良いでしょうか?
まず今日皆さんに、聖カルロ・ボロメオの教えを、模範からこの一つの事を知って、是非このミサの後家に帰って下さい。その一つの核心というのは、「私たちのこの地上の生活は、永遠の為に生きている。この地上のものは、全く手段に過ぎない。」
そしてこのどのような苦しみがあっても、「もうこれは駄目だ」という悲しみにたとえ浸されたとしても、「もう私の力では駄目だ、できない」と思ったとしても、その時には、カルロ・ボロメオが私たちに教えている「ミサ」の事を考えて下さい。
「天主、私たちを全て創ったこの天主は、ほんの瞬間の、ほんの短い間の手段として、この地上に私たちを生かして下さっている。しかしそれは単なる手段に過ぎない。そしてどれほど私たちを『天国へと導きたい』というその燃えるような愛情は、このミサを見れば分かる。」
「天主御自身が、王の王が、乞食のようになって生まれて、そして私たちの身代わりとして、十字架に付けられ、復活され、そしてその尊き御血を全て流されて、私たちに愛で招いている。私たちをその愛に招いておられる」という事をよく知って下さい。
イエズス様は、私たちを決して忘れる事がない、打ち捨てる事のない方であり、私たちは何百という数え切れないほどの希望の理由があります。
イエズス様の無限の愛は、犠牲は、この十字架のいけにえである「ミサ聖祭」に表れています。
そのカトリックの核心を是非深く心に刻んで、どうぞ今日その帰路に着かれて下さい。そして今日できれば、このイエズス様の燃える愛の結晶である「御聖体」をお受けになって、私たちが永遠の命を受ける事ができるように祈って下さい。
「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠に生きる。」
「私を信じる者は、たとえ死んでも、永遠に死なない。」
そしてマリア様にお祈り致しましょう。今度日本に教皇様が来られますけれども、教皇のためにお祈りいたしましょう。教皇様が聖カルロ・ボロメオのように、永遠の命ことを語って下さいますように。
聖カルロ・ボロメオのような司祭、あるいは司教様たちが日本に与えられますように、より多く与えられますように、永遠の命の事を語る、永遠の救いの事を、天国の事を、罪について、超自然の事について語る聖職者たちが与えられますように、是非お祈り致しましょう。
「良い、忠実なしもべよ。汝の主の喜びの中に入れ。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
Photo Credit
聖ピオ十世会司祭 小野田神父説教
名古屋における聖ピオ十世会の初めての聖伝のミサに、ラテン語のミサに歓迎致します。
今日、このミサの会場を16時まで借りてあります。
このミサの後に感謝の祈りと、そして簡単な昼食の後、皆さんとお話し会も準備されていますので、もしも時間がある方はいらして下さい。
「良い、忠実なしもべよ。汝の主の喜びの中に入れ。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、ここで、名古屋の皆さんのお住まいの所で、聖伝の昔ながらのカトリックのラテン語のミサができる事を、とても感謝しております。本当に素晴らしい機会で、御恵みの日だと思っています。
今日、天主様の御摂理によって、この日は聖カルロ・ボロメオという、ミラノの偉大な大聖人の司教様の枢機卿の祝日ですので、今日この皆さんに、
⑴聖カルロ・ボロメオという、カトリック教会が生んだ偉大な聖人の生涯を簡単に垣間見て、一体どんな人であったのか?という事を知って、「あぁ、こんな人もいたんだ」と思っていただき、
⑵そして、この聖人がやろうと何を、何を一番大切にしていたのか?そしてこの聖人が私たちに、今現代、現代でももしも今生きていたらなさるだろう、というその事は何なのか?という事を黙想して、
⑶最後に、私たちは今日このミサで遷善の決心を、これから私たちはどのように生きていかなければならないのか、という決心を立てる事に致しましょう。
⑴第1のポイントでは、では今日教会が祝っている聖カルロ・ボロメオ、一体どういう人だったのでしょうか?
この方は、ミラノの非常に高貴な貴族の子供として、1538年に生まれました。16世紀のカトリック教会が生んだ素晴らしい数々の聖人たちの、その輝く一人です。
そして全時代を超える大聖人の一人であります。
幼い時から、「天主の為に一生を捧げたい。イエズス様の為に、マリア様の為に、霊魂の救いの為に、働きたい。」子供の頃から思っていました。もちろん貴族の子供でしたから、政治家になりたいとか、他のその他の野心も簡単にある事もできたのかもしれませんが、彼は違っていました。「霊魂の為に働きたい」と、子供の頃から思っていました。
そしてこのカルロ・ボロメオ少年は、既に23歳の時に、枢機卿に選ばれました。
なぜかというと、このボロメオ家は非常にカトリックの家庭で、その家族たちや親戚たちも多くの人が、司祭や修道者・修道女になっていて、天主に人生を奉献していて、実は叔父さんが、親戚の叔父さんが教皇様だったのです。教皇ピオ四世でした。
そしてこの子供の事を、このカルロの事をよく知っていました、「この子はとても聖なる霊魂である。」そこで、「ぜひ彼の力を借りたい」と、聖カルロ・ボロメオを枢機卿と選んで、そして出身地のミラノの大司教にしました。23歳。
彼の人生は二つに分けられます。
叔父さんのピオ四世の元で、国務長官としてトリエント公会議の真っ最中、その後半だったのですけれども、その「トリエント公会議をどのように適用させるか」それを、「教会をどのようにあるべき姿にするべきか」という事を、ピオ四世と一緒に働きました。
実は、残念ながら実は、ヨーロッパでは13世紀あるいは14世紀の前半、非常にカトリックが熱心でした。
多くの人々が愛徳と信仰の深い生活を送っており、王様でさえも、あるいはローマ皇帝でさえも、あるいは貴族でさえも、清貧・貞潔の聖なる生活を送っていました。「キリスト教世界」というものを作っていました。
そしてその為に天主様は、このヨーロッパを多くの御恵みで、御恵みの雨を降らせて、物質的にとても豊かになりました。光に満ちた、愛に満たされた、とても素晴らしい世界だったのです。
しかし物質に恵まれると、残念ながら、人々の生活は少し、物質の方に目を奪われてしまった点があります。そこで信心が、信仰の生活が、愛徳の生活が、少し冷めてしまった、これは人間の弱さの為に、という事があります。
その為に、ルネッサンスという時代が生まれました。ルネッサンスとは文芸復興と言われていますけれども、特に「ローマやギリシャの、異教の、昔の、古代の文化をもっと大切にしよう」という運動でした。キリスト教とは関係ないような、しかし物質的な芸術や、文芸や音楽や、そのようなものが入ってきました。
もちろんそれらを、カトリックの信仰の表明としてますます良く使うべきだったのです。しかし残念ながら、その物質的な豊かさの為に、世俗の人々のみならず、教会の中でも、その規律が、豊かさの為に緩んでしまった、という残念な側面がありました。
どのように緩んでしまったかというと、私たちのこの地上の、この物質の、一体何の為にあるのか?一体なぜこのような、この豊かな食べ物、あるいは建築、あるいは財産は、一体何の為にあるのか?という「目的」を忘れて、あるいは目的から切り離してしまった、というところに大きな問題がありました。
この全ての地上のものは、私たちの霊魂の為に、霊魂の救いの為にあります。そして霊魂をより良く救う事ができるように、この地上の豊かなものを使ってそれを、救霊を、永遠の幸せの為に行くようにするためです。
地上の全ての富は、地上の美しさ、美は、善は、天主を讃美する為のものであって、天主に感謝する為のものであって、これを使って、永遠の幸せと、永遠の至福と、永遠喜びの中に、永遠の命の中に入る為の道具だったのです。
しかし、その「道具に過ぎない」という事を忘れるようになってしまいました。これが、残念ながら、ルネッサンスの問題の究極の核心でした。その究極の目的を忘れてしまった、というところによって、この結果、色んな影響が後々の世界に及んでしまいます。
聖カルロ・ボロメオは、叔父さんのピオ四世に言いました、「教皇様、教皇聖下、教会は、究極の目的にはっきりと目を向けなければなりません。トリエント公会議がはっきり定めたように、どのような王侯諸国の反対があろうと、世俗の政治権力が何と言おうと、私たちは、『永遠の救霊の為』に力を尽くさなければなりません。教会の目的は、イエズス・キリストという天主が、人となった天主がカトリックの宗教を創った目的は、『霊魂の救い』です。信仰はこの事を教えています。『永遠の命の為に、信仰はある』と。」
そこで教皇様を支えて、カトリック教会の聖なる改革、反宗教改革、プロテスタントのやり方ではない、カトリックらしい、カトリックの信仰に基づいた、修道生活の更なる向上、理想の追求、清貧・貞潔・従順、そしてミサ聖祭のその聖である事、ミサは、イエズス・キリストが捧げられた、唯一、天主の心に召される永遠の十字架のいけにえである事、単なる食事会ではない事、そしてこの私たちの人生の究極の目的は、永遠の命である事、この地上を楽しむ事ではない事、等々、教会のピオ四世の片腕となって、それの良き助言者となって、教会の理想を追求するように、と助けました。
特に有名なのは、『トリエント公会議の公教要理』と言われている素晴らしい本があります。それの編集にカルロ・ボロメオは協力しました。
しかしピオ四世が亡くなると、ミラノの大司教として、第2話の部分は人生の後半には、ミラノで、ミラノの大司教区をあるべき姿にする為に、全力を尽くしました。
どのようにしたかというと、人々の、ミラノの国民を聖なるものとする為に、イエズス・キリストに従うものとする為に、まず自分を、自分の聖化、自分を聖なるものとするように、祈りと犠牲の生活を捧げました。
そして特に、ミラノの人々がより良く信仰を深める事ができるようにと、あるいは聖徳への情熱を高める事ができるようにと、天主に対する愛に燃える事ができるようにやった改革は、神学校を素晴らしくする事です。神学生に良い司祭養成を与えて、聖なる司祭を作る事でした。聖なる司教の養成をする事でした。
そして修道会をたくさん招待して、聖なる修道生活を送る事ができる霊魂たちを招きました。目に見える模範を招きました。
それだけではありませんでした。自分自身も非常に厳格な生活を送りました。私がこのような事を言うのも本当に恥ずかしいのですけれども。
特にこの天主は、人々の目を覚まさせようとして、ヨーロッパに十字架を送りました。当時その十字架の一つは、ペストでした。「黒死病」と言われていて、多くの人が疫病で、伝染病で亡くなっていました。聖カルロ・ボロメオは、彼らそのような貧しい病気の人を訪問して、自分自ら看病して助けて、そして終油の秘跡を授けたりしました。
その人たちを助ける為に、自分の持っていた家具を売り払ってさえしてしまいました。そしてそのベッドも無くなり、何も無くなったので、自分は板の上に寝て、死ぬまで、その苦業の生活をしていました。
「私たちの教会の目的は、霊魂の救いにある」と、「永遠の救いにある」と、「霊魂を勝ち取る為には、祈りしかない」と確信していた聖カルロ・ボロメオの口癖は、「霊魂は、膝によって勝ち取られる」と言って、いつも跪いてお祈りしていました。
献身的な司牧、我を忘れるような奉仕と祈りの生活、愛徳の生活、多くの人々は、カトリックのその理想を、この司教様に、聖カルロ・ボロメオの為に見出しました。ミラノの聖アンブロジオを生み出したミラノの街は、もう一度、聖カルロ・ボロメオの内にカトリック信仰の燃える火を見出しました。
若い人々も公教要理を学び、信仰を深め、そしてイエズス・キリストへの愛を高めていました。
⑵一体今日、今日21世紀において、聖カルロ・ボロメオの人生はどんな意味があるのでしょうか?
聖カルロ・ボロメオは私たちに、変わる事のない真理を教えています、「私たちは、この地上の全てのものを、『道具』として、『手段』として見なければならない」という事です。
「私たちがこの世に生きているのは、永遠の天主の命に参与し、そしてそれを得る為に、『天国』という究極の目的を得る為の手段に過ぎない」という事です。「この地上の命は、永遠の命の為の手段である」という事です。
これがあるからこそ、私たちはこの地上でどのような苦しみがあっても、困難があったとしても、全てが終わった、と思っても、希望があります。
イエズス・キリストの永遠の命の約束があるからこそ、憐れみ深い天主の愛を知れば知るほど、十字架にかけられた、人となって十字架にかけられた天主の、その無限の憐れみと愛を知れば知るほど、この地上があまりにも儚い、この地上は道具に過ぎない、手段に過ぎない、という事を知れば知るほど、私たちは多くの喜びと希望に満たされます。
もしも日本の社会で、多くの方が自殺をするとか、多くの人が障害者を、「もう不要だ」と、あるいは「価値がない」と言ったとすると、それは本当の、この世のこの地上での価値を知らないからです。「私たちは永遠の命の為に生きている」という本当の事を、残念ながら教えられていないからです。
聖カルロ・ボロメオはそれを教えました。そしてその為に、決して忘れられる事のない、その不滅の栄光を今天国で勝ち取って、私たちは今日それを祝っています。
⑶では、私たちはどのような事を、遷善の決心を立てたら良いでしょうか?
まず今日皆さんに、聖カルロ・ボロメオの教えを、模範からこの一つの事を知って、是非このミサの後家に帰って下さい。その一つの核心というのは、「私たちのこの地上の生活は、永遠の為に生きている。この地上のものは、全く手段に過ぎない。」
そしてこのどのような苦しみがあっても、「もうこれは駄目だ」という悲しみにたとえ浸されたとしても、「もう私の力では駄目だ、できない」と思ったとしても、その時には、カルロ・ボロメオが私たちに教えている「ミサ」の事を考えて下さい。
「天主、私たちを全て創ったこの天主は、ほんの瞬間の、ほんの短い間の手段として、この地上に私たちを生かして下さっている。しかしそれは単なる手段に過ぎない。そしてどれほど私たちを『天国へと導きたい』というその燃えるような愛情は、このミサを見れば分かる。」
「天主御自身が、王の王が、乞食のようになって生まれて、そして私たちの身代わりとして、十字架に付けられ、復活され、そしてその尊き御血を全て流されて、私たちに愛で招いている。私たちをその愛に招いておられる」という事をよく知って下さい。
イエズス様は、私たちを決して忘れる事がない、打ち捨てる事のない方であり、私たちは何百という数え切れないほどの希望の理由があります。
イエズス様の無限の愛は、犠牲は、この十字架のいけにえである「ミサ聖祭」に表れています。
そのカトリックの核心を是非深く心に刻んで、どうぞ今日その帰路に着かれて下さい。そして今日できれば、このイエズス様の燃える愛の結晶である「御聖体」をお受けになって、私たちが永遠の命を受ける事ができるように祈って下さい。
「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠に生きる。」
「私を信じる者は、たとえ死んでも、永遠に死なない。」
そしてマリア様にお祈り致しましょう。今度日本に教皇様が来られますけれども、教皇のためにお祈りいたしましょう。教皇様が聖カルロ・ボロメオのように、永遠の命ことを語って下さいますように。
聖カルロ・ボロメオのような司祭、あるいは司教様たちが日本に与えられますように、より多く与えられますように、永遠の命の事を語る、永遠の救いの事を、天国の事を、罪について、超自然の事について語る聖職者たちが与えられますように、是非お祈り致しましょう。
「良い、忠実なしもべよ。汝の主の喜びの中に入れ。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
Photo Credit