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野村よし著「マネジメントから見た司教団の誤り」を読んで思ったこと:人間中心主義とは? 権威の拒否の運動

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

先日、野村よし著「マネジメントから見た司教団の誤り」を読んで、思ったことを書き始めました

前回までに書いた私の主張は、次の通りです。

●司教団のいう「福音宣教」と、私たちが理解しているような福音宣教とは、意味が違うと考えると、今世界中のカトリック教会で起こっていることについて、よりよく説明がつく。
●昔からカトリック教会は、天国を目指して、天主を目指して福音宣教を行ってきた。しかし、司教団のいう新しい「福音宣教」は地上を目指している。人間の高揚を目指している。
●今の日本の司教団の行動は、第二バチカン公会議の新しい教え、つまり、新しい人間中心主義という教えの結果だ。
●パウロ六世自身が、第二バチカン公会議は新しい人間中心主義を取った、と認めている。教会は新しい態度を取って「全く人間の為に人間に奉仕すると宣言する」と。
●何故なら、第二バチカン公会議によれば、人類は新しい時代に突入した、従って、人間に奉仕する教会も新しくならなければならない、とされたから。

ところで、第二バチカン公会議のためのカトリック教会での変化により、教勢が停滞しだしたことは、次のカトリック信徒の数の動向からも分かります。


野村よし著「マネジメントから見た司教団の誤り」にあった統計と、日本カトリック中央協議会のウェブ・サイトに掲載されている統計から、上のグラフを作りました。

【人間中心主義(ヒューマニズム)運動とは?】

では、人間中心主義とは、何でしょうか? 人間中心主義運動は、歴史的に、権威の拒否の運動として始まりました。

16世紀に、まず、カトリック教会の教義を教える権威から解放されようとして生まれました。カトリック神学者の注解なしにまた聖伝なしに、聖書のみによることによって信仰を権威から解放しようとしました。さらに人間理性をキリスト教から解放して、古代の異教哲学や文学に戻ろうとしました。(このようなヒューマニズムの運動は、日本語で「人文主義」とも訳されています。)

この結果、カトリック教会の権威が蔑ろにされ、その規律からのがれようとする運動が始まります。残念なことに、キリスト教の王たちが最初にそれをやり出しました。この悪いやりかたが模範となって、16世紀のプロテスタント宗教革命運動で一般化します。

17世紀にはデカルトが「方法的懐疑主義」で、以前の教えの権威を疑い、それを捨てます。キリスト教神学者であろうが、異教の哲学者であろうが、過去の教えの権威に敬意を払うことを拒否します。昔から伝えられた教えに敬意を払うということは古代から人類が行ってきた特徴だったのですが、それを捨てます。全てを疑います。

18世紀には、人間中心主義の結果として生まれた啓蒙主義思想に染まった革命家たちが、王の首をギロチンにかけ、キリスト教政治秩序の権威を否定するに至りました。

しかし、権威が無ければ、社会が成立しません。カトリック教会が維持して支えてきた権威の概念(「全ての権威は天主に由来する」)も現実(「キリスト教王の統治する国家」)も破壊されてしまったので、あたらしい「権威」が必要となりました。現代的な権威が考え出されます。それが民主主義です。

政治権威が教会の教導の権威から逃れることを正当化するために作り出されたのがマキャベリの理論でした。つまり、真理の教え(教会)がまずあって、それに従って、行動する(国家)という順番を、ひっくり返したのです。まず権力を行使するのが先で、それを正当化するために次に理論を構築する、と。教義的な原理もなく、道徳的な責任もない権力の行使、これを隠すマスクとして作られた詭弁が民主主義でした。ひとたび選挙で選ばれれば、政治家は失敗をしても責任をとる必要がありません。選んだ選挙民が悪いのだ、と言えば良いからです。これが現代のメンタリティーです。

第二バチカン公会議は、権力の執行を現代のメンタリティーに合わせようとしました。しかし、第二バチカン公会議により教会の位階秩序的な権威の行使が弱まると、いままで教会が教義的にも精神的にも支持してきた多くの伝統的な権威は、教会の権威と共に失墜していきました。

【第二バチカン公会議の新しい方針、新しい方向付け】

今まで、カトリック教会は天主から頂いた賜物を天主への奉仕のために使うことをその方針としてきました。全てを尽くして天主を愛するために。人間の尊厳は、天主からの超自然の成聖の恩寵の状態(これこそ計り知れない賜物!)にあると、してきました。

しかし第二バチカン公会議以後は、天主からの賜物を全て人間の奉仕のために投資します。人間の価値は、自然な人間的な価値(役に立つか否か・有用か否か)だけで判断されるようになりました。

聖伝のカトリック教会は、人間が自分を忘れて、全く天主に立ち戻り讃美と礼拝をすることを教えてきました。全ては天主に向かっていました。

ところが、第二バチカン公会議は全ては人間に向かい始めます。人間は何と美しいことか、という新しい「自覚」をもって、人間に満足した眼差しを向けて、そこに留まります。ルチフェルの罪は、正に、自分の素晴らしさにうぬぼれて天主に従うことを拒否したことにあります。第二バチカン公会議も、今後、人間を信じ、人間に希望し、人間を愛し、人間に奉仕することを宣言します。

天主のカトリックの宗教はキリスト教と呼ばれるに相応しく、天主教とも呼ばれていました。これからは「ヒューマニズム(人間中心主義)」とかの名前で呼ぶのがますます相応しくなっていますし、民主教とも呼べるものになりつつあります。

【新しい福音宣教】

カトリック教会は、人間を崇敬する自分が何であるかを定義して、外部に対しては「秘蹟」であると定義します。

自分の内部に対しては、主に二つのキーワードを使います。その構成を意味する目的では「神の民」を使い、その機能を意味する目的では「コムニオ:交わり」を使います。
「神の民」は、教会憲章に出てくる表現です。「コムニオ:交わり」は、公会議後に使われ出した表現です。

ですから、新しい福音宣教は、人間を宣教することにあります。人間がより人間らしくなるために、この地上に生きる人間のことを宣べるのです。この世に、真の人間となるにはどうしたらよいかを宣べ伝えるとされます。

ですから、司教団は、教会内に向かっては、カトリックの霊性を宣べるかもしれませんが、しかし、教会の外に向かっては、マスメディアなどを使って、倫理と人間社会学を宣べる使命があるとされるのです。

人間が究極の目的となり、公会議は「人間を促進させる」ことを追求しました。パウロ六世は、公会議の閉会の講話でそう断言しました。カトリックの促進でもなければ、義人の促進でもありません。人間としての人間、尊厳ある人間の促進と高揚です。

パウロ六世はこう言いました。世俗の人間中心主義(ヒューマニズム)が公会議にぶつかると、「強大な共感」がわき起こった、と。

(この項、了)


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