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家庭における父親の責任の重大さについて: ピーター・フォルティン神父様お説教 聖霊降臨後第二十三の主日

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聖霊降臨後第二十三主日の説教(東京・大阪)
聖ピオ十世会司祭 ピーター・フォルティン神父

「主よ、私の娘がいま死にました。でも、あの子の上にあなたの手を伸べに来てくだされば、あの子は生き返ります」(マテオ9章18節)

このとき福音書では、子どものいのちが失われ、家には混乱と無秩序があり、すべてが失われたかのようです。子どもを失ったというみじめさと落胆があります。この父親[会堂司]のことを想像してください。まるで子どもの死に自分に落ち度があるかのように感じているのです。父親がこの子どもをもうけたのに、子どもは失われて、嘆きの声のうちに死んだように見えます。この男が男やもめであるとは書かれていませんから、彼の妻すなわち母親が生きていて、おそらくそこに一緒にいると思われます。賞賛すべきことに、会堂司は主のところに行って、主を礼拝し、主に来てくださるよう頼み、主はそれに応えてすぐに行かれます。主は、娘は死んでおらず眠っているだけだと言われます。そこにいる人々は、この世のことしか考えず、主に対して失礼な態度を取ります。彼らは、この会堂司の家にいるキリストに対して、主に対して反対するのです。主は来て、秩序を回復させ、この世的な人々と騒がしさを追い払い、少女の手を取って起き上がらせ、少女を父親に戻されます。私たちは、この情景を取り上げて、家族や家、父親に対する多くの実を引き出すことができます。主が、素晴らしい信仰を示した多くの人々にそうなさったように、この会堂司をほめられたのは疑いありません。この男はキリストにお願いしてお招きしましたが、見捨てられませんでした。

100年以上にわたって、この世の精神はキリスト教社会を全面的に腐敗させ破壊しようとしてきました。そうするために、彼ら[この世的な人々]はキリスト教の家庭を攻撃しました。そのときから、信仰とキリスト教精神は消えてきており、多くの霊魂が失われました。家庭は、特に1960年代以来、子どもの養育および教育においても、結婚生活においても、攻撃の対象になってきました。こういう訳で、離婚または離別がはびこっており、子どもたちは両親と切り離され、その結果として天主から切り離されているのです。離婚や避妊、ポルノ、祈りの喪失、不十分な秘蹟による生活が家庭生活を荒廃させ、それがあらゆる成長を阻害し、同性愛の結合の導入が、社会におけるあらゆる種類の将来の家庭生活に対して、死を告げる鐘となっているのです。

いったい何ができるでしょうか? この状況を正すために提案できるものは何でしょうか? 私たちは、この現代の傾向に抵抗しなければなりません。マルセル・ルフェーブル大司教は、次のように強く主張しました。聖人のような司祭をつくるためには、まず聖人のような家庭がなければならず、各家庭は、聖なる家庭を作り上げることを自らの厳しい義務とせねばならない。聖なる家族を作り上げることは、一致した、聖徳のある家庭をつくり、天主と人の前で良き実を生み出すことです。家庭は木になぞらえられます。子どもは実です。良き木は良き実を生み、悪い木は悪い実を生みます。木を良き木にするにはどうすればいいでしょうか? うまくいったカトリックの家庭は、良き天主が聖なる召命を引き出すことのおできになる家庭です。この考えをしばしば心に留めておくことが必要であり、皆さんに委ねられた霊魂が幼い年代から成人に至るまで、これが必要です。

人は、配偶者と同様に、自分自身を聖化しなければなりません。それは、共に生活することによって、秘蹟を受けることによってです。聖性はすべての人に求められます。自分に依存している者を持つ人々の場合は、さらにそうです。「わが天の父が完全であるように、あなたたちも完全であれ」(マテオ5章48節)。聖ペトロは、こう書いています。「恩寵にかけよ。従順な子となれ。『私が聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者であれ』と書き記されているからである」(ペトロ前書1章13-16節)。自らを聖となし、他の人々を聖性に導くためには、自分の立場に応じた義務をよく果たすことが必要です。

天主のご意志によって、父親は家庭における権威を持っており、それゆえに天主と人の前に自分の家族に対する全面的な責任を負っています。それは、アダムが人類の父であるように、生まれによるものです。それは天主の父性にあずかること、天国で永遠に天主と共にいる運命をもつ、天主の似姿としての霊魂を作ることです。聖書には、男であること、夫であること、父親であることとは何であるかについての多くの美しい例がありますが、特に素晴らしいのは聖ヨゼフと私たちの主イエズス・キリストの例です。私たちは、聖ヨゼフについてはもちろんそうだと思いますが、なぜ私たちの主が?と思うかもしれません。それは、主こそが、完全な子であり、天の御父の完全な生き写しであるからです。主こそが理想なのです。父性が、天主および天主のすべての人に対する父性の似姿であるがゆえに、この世が父性を憎むのだと言えるかもしれません。

権威があるところならどこであれ、義務と責任があります。父親の役割は、社会の回復のためには最も重要です。司祭職の父性は、それと関係しています。良き父親がいなければ、司祭も存在できません。ですから、家庭における父親の役割を強化するために、私は、父親が持たねばならないいくつかの性質を提案するとともに、その逸脱についても注意をひきたいと思います。

次のものが、父親が持たねばならないいくつかの性質です。
支援者―自分の保護のもとにあるすべての人の幸福を望み、家庭内で導き、守り、秩序を維持する人のことです。困難な状態にある者を助けるために、常に最も近づきやすくなければなりません。
報告責任―家庭の父親は、自分の権威は委託されたものであり、それゆえにいつか自分がその権威をどう取り扱ったのかを報告しなければならないということを覚えておかなければなりません。家庭の父親は管理人です。家庭、父親自身、妻、子どもたち、すべては天主の所有物です。父親には、全員を天主へと導くという重い責任があるのです。

天主への従順と服従―「すべての男のかしらはキリストである」(コリント前書11章3節)。誰もが自分の意志を天主に服従させなければなりません。自分の決定や行動が家族の生活全般に良い影響または悪い影響を与えるのですから、父親は特にそうしなければなりません。どのようにして、天主のご意志と天主の霊に従うのでしょうか? その答えは、カテキズムや秘蹟、司祭に頼ることにあります。この教会への委託は、天主のご意志によるものです。それはまた、妻や子どもたちが安心して、その決定が勝手なものではないということを知ることにつながります。

祈り―父親は、指導を願い、また家族の聖化を願って祈らなければなりません。父親に委ねられている霊魂のためにも祈らなければなりません。父親の管理に委ねられた霊魂に物質的なものだけが与えられ、そのため永遠に失われるとするならば、いったい何になるでしょうか。父親が祈りを呼びかける人、宗教的儀式を率先して行う人だというこの考えは、異教徒にさえも見いだされます。共に捧げる祈りは、特に父親が率先して行えば、家庭に秩序をもたらします。

調和―まず第一に、父親は天主およびその教会と調和し、第二に妻および子どもたちと調和していなければなりません。配偶者と調和して生きるということはたいへん重要なことです。調和がなければ、父親の努力はほとんど、あるいはまったく実を結びません。家庭で調和を得るために必要なのは、良き会話や一致、賞賛があること、そして平和をもたらす者であることです。

会話のために:家族に関する計画や世話について、配偶者に常に話すことは重要です。夫は妻からの提案を聞かねばならず、問題となる原則を常に心に留め、自らの目的を説明せねばなりません。

一致について:母親と父親は、特に子どもの前で配偶者が相手に不平を言うことがないように、またそれによって子どもが両親の一致に気づくように、同じ精神を共有しなければなりません。もちろん、最終的決定を下し、その実現への実践的手段を実行するのは、父親次第です。

称賛:夫は、妻の協力や自発的な良き働きに対して躊躇なくほめなければなりません。ですから、妻の価値を認めることによって、夫は自分に貴重で献身的な助けがあることを保証することになるのです。夫は、家庭の中で妻のものである領域においては、妻に大きな自由を任せるのです。

平和をもたらす者:父親は、私たちの主の似姿を反映しなければなりません。これが、父親が家庭内のもめ事を落ち着いた正しい方法で扱わなければならない理由です。これは特別な恩寵であって、それには特別な報いさえあります。「幸いなるかな、平和をもたらす者。彼らは天主の子ととなえられるであろう」。矯正するのは簡単な仕事ではありません! しかしながら、秩序をもたらし、親切に、断固として悪い習慣を取り除くことで、さらに大きなもめ事が防げます。矯正するのに臆病や短気であることは、事態をさらに大きく悪化させます。それは、冷淡や対立、怒鳴り合いのようなあらゆる種類のトラブルの機会となり得ます。

深刻な危険に至る無秩序:
次に挙げる無秩序は、家庭生活のあらゆる領域に影響を及ぼします。時間割の欠如、家の中の乱雑さ、電話やインターネットの時間の使い過ぎ、批判やあざけりの精神、話や行いや服装での慎みのなさ、危うい交友関係、怠惰です。
父親はその生まれによってリーダーなのですから、ただ良きリーダーの振りをするのではなく、本当に良きリーダーでなければならず、その資質を持ち、家庭の全員の善を欲しなければなりません。父親は、まず祈りや秘蹟を受けること、そして徳の実践や悪徳を避けることを率先して行わなければなりません。自分のためだけでなく、家族全員のためにそうするのです。父親という良き模範に代わり得るものはありません。子どもが将来、両親に備わるこれらの徳を実践するために、それらを見ておくことが必要です。

家族全員から従順を受けられる家族のかしらとしての資質を要約しておきましょう:
善良さ―天主御父の特徴は善であり、家族に最初に良き精神を与える支援者です。これが、家族のかしらの第一の資質です。善は家族の心を開きます。善と親切は弱さのしるしではなく、理解と各人の善のために世話をすることのしるしです。
賢明さ-家族の父親は賢明の徳を定期的に実践します。この徳はよき解決法を見いだすことにありますが、また母親と共にそれをするのです。

犠牲 父親は、妻と家族のために、自分の自己中心さ、自分の安心できる範囲、そして自分自身の利益を犠牲にしなければなりません。「夫よ、キリストが教会を愛したように妻を愛せよ」(エフェゾ5章25節)。私たちは、キリストがどれほど教会を愛されたのか、すなわち、教会のためにご自分を犠牲にするというところまで、その聖心を槍で刺し貫かれるのをお許しになるまで、教会を愛されたことを知っています。
父親は、自分を犠牲にしなければなりません。うわべだけではありません。求められる良き男であらねばなりません。父親は、妻に尊敬されるにふさわしくあり続けるよう、妻が彼を、彼の仕事と業績を、彼の態度を、彼の資質を誇りに思うよう、気を配るのです。
父親は、親切で固い意志をもたなければなりません。子どもが、父親が自分を愛しており、子どもの求めるものただ与えるのではなく、本当に自分の善を願っているということを感じ取らなければなりません。父親は注意を怠らず、母親と子どもがいつも相談できるようでなければなりません。

無情さ―父親が、自分の権威において無情で乱暴であったり、妻や子どもたちの言うことに耳を貸すことを知らなかったなら、そのような父親は、疑問に思ったり、はむかったりする精神を家庭に入り込ませてしまいます。このことは、家庭の中に多くの疑いや不信を植え付けてしまうでしょう。この精神は、家庭を破壊し、子どもたちを信仰の喪失に至らせるかもしれません。

弱さ―他方で、父親が命令することに弱気だったり、責任を逃れたりするならば、妻はそれを補おうと試みるでしょうが、それでは常に足りないことになります。母親はその生まれによって、父親の役割を果たすことができません。父親が責任を逃れるならば、たいてい息子たちは性格や霊魂の強さ、責任感に欠けるようになるでしょう。

家族をまとめる力の欠如―父親が、家族全体をまとめたり、正しく命じたりする方法を知らないならば、何も行われず、あるいは行われるべきことがうまく行われないため、父親は常に不幸になります。

つまずき―これは家族の霊的生活を駄目にします。父親は、自分の世話に委ねられた霊魂を破滅へと至らせるでしょう。

福音書の会堂司を見てみましょう。求められることを行いましょう。物事に秩序をもたらす人になりましょう。あらゆる困難や試練、闘いにおいて、この会堂司と同じ対応をしましょう。キリストに呼びかけましょう。ここにキリストがおられます。信仰を告白し、キリストを礼拝し、告解の秘蹟によってキリストとの友情関係を得ましょう。それから、キリストを家庭にもたらすのです。聖体拝領でキリストを受けることによって、これを行うのです。キリストが皆さんのうちに生き、皆さんの行動を導いてくださいます。これをおこなうことによって、病気の家族や霊的に死んでいる家族にキリストをもたらすようになるのです。キリストに、皆さんのうちにお住まいになっていただくことによって、皆さんの意志がキリストの意志になり、皆さんの行いがキリストの行いになるのです。主がなさる最初のことは何でしょうか、「下がれ」と言われるのです。これらの人々は主をあざ笑いました。主が、あらゆる悪しき影響を含んでいるこの世の精神を追い払われ、そのあと、子どもに触れられると、家庭は元に戻るのです。主は、秩序、平和、調和、幸福を家庭にもたらすために来られるのです。

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