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2014年11月 大阪でのミサ聖祭の報告:天主様に感謝!

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 大阪でのミサ聖祭のご報告を戴きましたので、ご紹介いたします。休暇のために、日本にいらしてくださったアンダーソン神父様に感謝します。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
アンダーソン神父様のボーナスミサの報告をお送りいたします。

11月1日(土) 諸聖人の祝日には、16名の方々が、
11月2日(主) 聖霊降臨後第21主日には、23名の方々が、
11月3日(月) 死せる信者の記念には、14名の方々が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!!

3日には、一日に3つの御ミサを続けて捧げられました。年に2度、クリスマスとこの日は司祭は特別に一日に3つの御ミサをあげることがお出来になるのですね。3日間で5つの御ミサが日本で捧げられて大変幸福でした。

御休暇中にも関わらず、御ミサと、毎日のお説教、告解などのミッションを日本の為に働いて下さったアンダーソン神父様に心から感謝申し上げます。以下にそのお説教の日本語訳を掲載いたします。

至聖なるイエズスの聖心よわれらを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈りたまえ
聖ヨゼフ我らのために祈りたまえ

諸聖人の祝日2014年のお説教

天主を多様性を通じずに正しく理解することが不可能なのは、当たり前のことです。天主はご自身において完全に単純でいらっしゃいますが、私たち人間は創造主を十分に正しく理解することはできず、できるのは創造物において天主がご自身をいかに多様に表現なさったかを見ることだけです。きっとこれが、私たちが自然の中に見いだす多様な物事を説明してくれるのでしょう。天主が創造なさったすべてのものは、なんらかの方法で天主に関することを私たちに教えてくれるのです。
同様に、聖人たちはその多様性において天主のあるイメージを反映しています。全ての聖人は英雄的徳を持っています。(これが、彼らが私たちに模範として提示されている理由です。)しかし、個々の聖人は特別な徳において優れているように思われます。例えば、剛毅、清貧、謙遜、信仰などです。聖フランシスコは特別な方法で清貧の徳を生きました。また、聖フランシスコ・ザベリオは、ほかの人が見せなかったような宣教師としての熱意を示しました。

でも、ほかの多くの聖人たちは、ごく「普通」でしょう。人は彼らを決して聖人とは理解できないかもしれません。彼らは知られないままです。例えば、聖母と聖ヨゼフのことを考えてください。隣人たちは、お二人に特別なものを見ることはありませんでした。これは、ほかにも理由はあるでしょうが、まことの聖性は内的であるからです。聖性は、外的行為をともなうこともありますが、外的行為から成り立ってはいないのです。ある偉大な聖人はまったく知られずにいるかもしれません。私たちの周りには、それと分からない聖人たちがいるかもしれません。彼らは列聖されたりカレンダーに祝日を載せられることはありません。きょうの祝日は言わば、列聖されていない聖人たちをまとめて、一度に祝うので
す。
一度に諸聖人を祝うということは、少し何か特別なことです。勝利の教会の凱旋の歌のようです。天主の英雄たちすべてを、一度にお祝いするのです。この祝日には実際、偉大なる喜びと勝利が感じられます。
次に、この祝日の起源を考えましょう。殉教者たちの骨がローマのパンテオン(万神殿)に移されたときです。パンテオンは異教の神殿でした。ここでは、(偽りの)神々が礼拝されていました。教会が敵に勝利したとき、この異教の神殿はキリスト教の教会に変えられました。そのため、この祝日は、偽りの神々に対するキリストの勝利、すなわちローマに対するエルザレムの勝利、地上に対する天国の勝利を祝う祝日と考えられるでしょう。
ローマ人にとり、勝利という言葉の意味がどんなものだったか分かりますか。ローマの将軍が敵を破ったとき、戦利品をもってローマへ公式に入城することがときどき許されました。一種の軍事パレードです。この種のパレードは、ローマ人が徳目と考えていた特徴を祝いました。その多くはキリスト教徒にとっては悪徳でした。勇気と技能が祝われたのはもちろんですが、敵を殺すこと、敵の財産をとること、ぜいたくに生きること、破った敵を奴隷にすること、そして最後には自分を神と宣言することを祝いました。謙遜は、ローマ人の世界には居場所がありませんでした。さて、本日の福音で私たちの主がおっしゃった至福八端、つまり完全なキリスト教徒の霊魂の特徴を考えてみましょう。
心の貧しい人―彼らは、簡単に損害をこうむります。自分の上にある地位を求めないよう努めます。つかみ取ろうとしません。
柔和な人―彼らは、怒りに対して戦い、いつも平安でいようと努めます。
悲しむ人―彼らは、罪があり、天主から離れているために悲しみます。
正義に飢え渇く人―彼らは結局、天主の正義がなされるのを見ることを望みます。
あわれみのある人―この言葉「merciful」(あわれみのある)は「misericordia」(あわれみの心)から来ており、私たちはイエズスの聖心、そして罪びとや敵への愛のことを思います。
心の清い人―彼らは、聖母の模範にならって貞潔を望みます。
平和のために励む人―彼らは、平和を保つために自分の持つ何かを犠牲にします。
正義のために迫害される人―彼らは、天主を攻撃するくらいなら殉教者になることを好みます。
教会が生まれた異教の世界、その世界に対する勝利を教会に得させた原因は、これら至福八端です。聖性の原因であり、しるしでもあるのです。ですから、至福八端は霊魂に根を下ろし、しばしば他人の目から隠されています。何という皮肉でしょうか、柔和な人、あわれみのある人、心の清い人がこの世に勝利するはずであるとは!
おもに内的なものであるこの戦いは、私たち誰にとっても簡単というわけではありませんから、教会は、天主を喜ばせるために生涯を生き、この世に対して勝利した数えきれないほどの人々を私たちに示そうと、特別な日を用意しておいたのです。私たちには聖人たちが見えないかもしれませんが、彼らは実在し、たくさんいます。彼らは信仰、希望、愛を貫きました。今は天主の御前で私たちのために取り成してくださいます。天主は、彼らに天主に忠実であり続けるのに十分な恩寵をお与えになりました。天主は、同じ恩寵を与えるのを私たちに拒否なさいません。
他人に知られようとして、この偉大な行為を行うのが、私たちに求められていることではありません。私たちが望むものは、私たちの比較的隠された生涯において至福八端を求めて努力し、主のために自分たちの命を犠牲にするために呼ばれた初代殉教者たちをお助けになったように、天主が私たちを助けてくださることを確信することです。天主の恩寵に一致すれば、私たちも戦闘の教会から勝利の教会へ移るでしょうし、これら無名の聖人たちの中に数えられるでしょう。

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聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


2014年11月2日聖霊降臨後第21主日のお説教

きょうは、先週の主日に祝った祝日、王たるキリストの祝日の黙想をしたいと思います。教会は、助けになる場合はいつも新しい祝日をつくってきました。先週の主日、私たちはイエズス・キリストの王権を特別な方法でお祝いする喜びを得ました。教皇ピオ十一世がこの祝日を制定したのは1925年のことでした。何が教皇をしてそのようにさせたのか考えてみましょう。
王とは、かつての預言者の時代から、メシアに与えられた称号です。称号それ自体は新しいものではありません。二十世紀において、この祝日を生みだした特別な必要性とは何でしょうか。その答えは明らかです。この祝日が教会のカレンダーに取り入れられたのは、人間が人類の救い主の統治の受け入れを拒否したため、天主の権威に服従するのを拒否したため、個人だけでなく国家も天主が要求された天主の主権への服従を承諾するのを拒否したためです。手短に言えば、この祝日ができたのは、現代の世界が天主に対して反逆する傾向を示したためです。
親愛なる友人の皆さん、ご承知のように、皆さんは、近代主義に直面なさっていることでしょう。政治的、社会的領域で近代主義はその姿を現しているのですから。哲学においては、近代主義は合理主義の形を取ります。政治においては、自由主義の形を取ります。そして自由主義の第一の教義(信条)は、人間の命を支配する天主のあらゆる権威を否定することなのです。
イエズス・キリストは、天主の本性によって、人間を支配する権利を持っておられると教会は教えています。主は私たちをお創りになりました。私たちは主の創造物です。私たちは主の所有物です。しかし、主はまた、人間だけでなく、全ての創造物を支配する権利をもお持ちです。主は、個人、家族、都市、国家、全世界を支配する権利をお持ちです。
カトリックの教理が私たちに教えるのは、イエズス・キリストは人間として、私たちを贖うことによって、私たちを支配する権利を獲得なさったということです。私たちは、天主としてだけでなく、人間としての主にも敬意を表する義務があります。なぜなら、主がいと尊き御血によって私たちを贖われたのは、人間としてだったからです。被造物に対する主の権威は完璧なものです。
この事実は常に知られてきました。キリスト教徒の諸国家の憲法そのものが、かつてはこの教えを記していました。二十世紀においてさえも、例えばアイルランドの憲法前文にそれがありました。この前文は読む価値があります。

全ての権能の源であって、人及び国家の一切の行為が立ち戻らねばならない、我らの究極の目的である最も聖なる三位一体の御名において、われらエール(Éire)[アイルランド]人民は、試練の幾世紀の間、絶えずわれらの父祖たちを援け賜ったわれらの天主なる主イエズス・キリストヘのわれらの心からなる義務を認めつつ、われら国民の正当なる独立を再び得んがために、彼ら父祖たちが行った英雄的で忍耐あふれる闘いを忘れることなく感謝しつつ、個人の尊厳及び自由が保障され、真実の社会秩序が確立され、われらの国土の統一が回復され、他国民との協調が確立されるように、思慮、正義及び博愛を正しく遵奉しながら、共通善を促進せんがために、ここにこの憲法を採択及び制定して、われら自らに授与するものである。


さて、これこそが通常であるべき憲法なのですが、実際はそうではありません。これはおもに、アイルランドの首相であり大統領でもあったエイモン・デ・ヴァレラによって書かれました。彼は事実、ルフェーブル大司教のミサで、複数回侍者を務めたことがあります。しかし今、私たちの国家は世俗化されねばならないと言われています。世俗化という言葉は、ラテン語で時間を意味する言葉に由来します。時間と言う言葉によって、この地上での生活のことが意味されています。ですから、世俗化とは、来たるべき世から今ある世へ向かうことなのです。天主から人間へ向かうことなのです。
この天主からの自由こそが、現代世界における自由主義の最大の目標なのです。(創造主が甘いとおっしゃった)天主のくびきから自分たちを解き放つことで、個人として天主に反逆する人間はまた、社会を同じ創造主から遠ざけようと望むのです。ですから親愛なる友人の皆さん、キリスト教の教理にこれ以上反することがあり得ようはずがありません。神学の中のどこで、真の宗教を偽りの宗教と同じ土台の上に置くことの正当化が見つかるでしょうか。聖書の中のどこで、悪魔が礼拝される権利を持つということを天主がお教えになっているでしょうか。キリスト教の教義のどこで、国家がイエズス・キリストを拒否する権利を持つということがありますか。もちろん、そんなものはどこにもありません。
しかしながら、何世紀にもわたって形成されてきた、こういった自由主義的雰囲気に、たぶん私たちも影響を受けています。多くのカトリック信者が、ほかの宗教が公に自分たちの教理を主張する権利があると信じています。私たちの中には、宗教はプライベートな問題であり、家族の伝統であり、国家から干渉されない個人によって決定される問題だと考える人々もいます。もし私たちがそのように考えるのなら、教皇がこの祝日を制定したのは私たちに対抗するためであるということになります。
「天にまします」の中で、私たちは言います。「御国の来たらんことを。御旨の天に行わるるごとく、地にも行われんことを」。天主の国が地上に来るようにとはどういう意味でしょうか。キリストは私たちの心だけでなく、私たちの家族、都市、国家を統治しなければなりません。しかし、まずキリストが個人個人の心を統治しないなら、国家を統治することは不可能です。ですから、私たちの聖伝のカトリックの家庭内でキリストの統治を認めることなしに、キリストが私たちの国家の王となられるだろうと私たちは本当に思っているのでしょうか。
キリストの王たる統治がどこからか始まるならば、それは、まことにキリストを王としたい私たち忠実なカトリック信者から始まるのです。その同じキリストが私たちをお助けくださり、私たちが自分の心を知り、キリストが本当に私たちの心を統治しているかどうか確かめることができますように。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

【参考資料】アイルランド憲法の前文は次の通り。
CONSTITUTION OF IRELAND
In the Name of the Most Holy Trinity, from Whom is all authority and to Whom, as our final end, all actions both of men and States must be referred, We, the people of Éire,
Humbly acknowledging all our obligations to our Divine Lord, Jesus Christ, Who sustained our fathers through centuries of trial,
Gratefully remembering their heroic and unremitting struggle to regain the rightful independence of our Nation,
And seeking to promote the common good, with due observance of Prudence, Justice and Charity, so that the dignity and freedom of the individual may be assured, true social order attained, the unity of our country restored, and concord established with other nations,
Do hereby adopt, enact, and give to ourselves this Constitution.


11月2日 全ての死せる信者の記念のミサでのお説教

教会はあわれみによって、まだ勝利の教会へ入っていない全ての死者のために特別な方法で祈る日を、年一回用意しています。死者は自分を助けることができないからです。つまり、死者が功徳を積む時間は終わっているからです。死んだのちには改心はなく、他人の助けに頼るほかないのです。
どんな人が煉獄へ行くのか思い起こすことは、私たちにとって有益なことです。煉獄は「悪い」人々のためにあるのでしょうか。いいえ。煉獄にいる誰もが清らかで罪のない霊魂なのです。霊魂に罪のけがれがあるとすれば、煉獄にいるはずはなく、地獄にいるのです。しかし、赦された罪のために支払うべき負い目が残っているのです。そこに囚われた霊魂たちは、まだ天主を見ようと望むことさえしません。なぜなら、負い目をすべて支払うまでは、自分たちがそれにふさわしくないことが分かっており、天主の御前に出たいと思うことができないからです。自分たちの罪を償いたいと思っているのです。でも、それを待つ間は、いかにつらいことでしょうか。
そうです、その苦しみは大変なものです。地上のいかなる苦しみとも比較できません。もし私たちがそれを知ったならば。煉獄での最も軽い苦しみを避けるためには、地上でのいかなる償いも難しすぎることがあるでしょうか。しかし、私たちはこの償いを避けようとしがちです。それは、私たちが苦しみを非常に恐れており、苦しみを非難のしるしとみなしてさえいるからです。でも、これについて聖書は何と言っているでしょうか。新約聖書を読めば、天国に入る条件はまさに苦しみだとあります。聖書の数か所の節を考察してみましょう。
「…多くの苦しみを経て天主の国へ入らねばならぬ」(使徒行録14章21節)
「主は愛する者をこらしめ、受け入れる子をすべてむち打たれる、と言われている。あなたたちが試練を受けるのはこらしめのためであって、天主はあなたたちを子のように扱われる。父からこらしめられない子があろうか」(ヘブライ12章6-7節)[そうです、そのようなこらしめをおこなわない人間の父がたくさんいます。ですからそのような父と子は、こらしめがないことに対する代価を支払うことになるでしょう]


苦しみは私たちに悲しみをもたらすでしょうか? 「だからしばしの間いろいろの苦しみに遭うにしても、そのために喜び勇むがよい。火で試されるはかない黄金(きん)よりも尊い信仰の試練は、イエズス・キリストの現れの日、誉れと光栄と名誉のもととなるであろう」(一ペトロ1章6-7節)
ほかの非常に多くの人々がほとんど苦しまないのを見ると、私たちはどう感じるでしょうか。そう、もしかすると彼らはそんなに苦しんでいないかもしれず、苦しんでいるのかもしれませんが、私たちには本当のところはわかりません。しかし、苦しみがないことは多くの場合、非難されていることの十分なしるしであって、救われることが決まっていることのしるしではありません。そのような人々は、試みに対して戦うことを全くしないため、苦しむことがありません。彼らは天主と一致することを求めません。彼らは一生の間みずからうたた寝をしているのですが、永遠の眠りに就くときには、主の内に眠ることはないのです。
むしろ、苦しみを喜びとしてとらえましょう。なぜなら、苦しみを通して、私たちは天に宝を積んでいくのですから。技術を長い時間習うことなしに優秀な職人になれると思っているとしたら、私たちは何と愚かでしょうか。「誰かが金や銀や宝石や木や草やわらを用いて、その上に建築するなら、おのおのの仕事ははっきりわかるようになる。かの日がそれを現すだろう。主の日は火の中に現れ、おのおのの仕事の価値はその火によって試されるからである。土台の上に建てた建物がそれに耐えれば、建てた人はその報いを受ける」(一コリント3章12-14節)
終わりのとき、私たちの苦しみがいかに少なかったか、私たちがいかに多くの罪を犯したかを自覚しなければなりません。私たちの善い行いでさえも、純粋とはいえない動機によってしばしば汚れています。それは、苦しみを即座に受け入れることによってのみ、私たち自身がいつか天国の勝利の教会の仲間入りすることを望めるからです。この地上の人生で、より多く、より良く苦しめば苦しむほど、煉獄の苦痛を逃れることのできる可能性が増えるのです。
もちろん、私たちの苦しみはまた、苦しみの教会に属する人々に対して偉大な奉仕となっています。死者のために祈るのは簡単ですし、一日の私たちの祈りの多くが次の言葉で終わります。「fidelium animae per misericordiam Dei requiescant in pace(願わくは死せる信者の霊魂、天主の御あわれみによりて安らかに憩わんことを)」
しかし、煉獄のあわれな霊魂たちのために、私たちにもう少しできることはないのでしょうか。苦しみの試練や瞬間を寛大に受け入れることは、天国に入る時を待っている煉獄の霊魂に対してさらに価値あることかもしれません。そして、おそらく、そんな霊魂を助けようという思いこそが、きょう天主が私たちに送ろうと選ばれたいかなる十字架をも受け入れる勇気を私たちに与えてくれるのです。

勝利の教会と苦しみの教会に捧げられたこの11月の二日間を、心にとどめておきましょう、少なくとも心のどこかに。それは、この二日間を思い起こすことが、私たち戦闘の教会が彼らと一致し連帯していることを十分に理解するのを助けてくれるからです。孤独に感じたり、落胆したりしそうになるとき、私たちが数えきれないほど多くの生きている霊魂や死んだ霊魂と密接に結びついているという事実を思い出しましょう。聖人たちは私たちのために祈ってくれます。私たちには、もう自分を助けることのできない人々を助けるための役割があります。彼らの安らかに憩わんことを。

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聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖伝のミサ(いわゆる「トリエント・ミサ」と呼ばれているローマ式典礼様式のミサ)にようこそ!

ローマ・カトリックの聖伝のミサ vs エキュメニカルな新しいミサ(第二バチカン公会議のミサ)




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