アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
11月9日、10日と大阪でレネー神父様が聖伝のミサを捧げてくださいました。次のようなご報告を戴きましたのでご紹介いたします。レネー神父様には深く感謝します。素晴らしい司祭を日本に送ってくださる天主様に感謝します。素晴らしい先輩かつ同僚司祭を持つことが出来、天主様に感謝いたします。
本日から大阪で聖伝のミサがあります。ネリー神父様と私とで二回ずつミサがあります。ミサ聖祭で愛する兄弟姉妹の皆様とお目に掛かるのをたのしみにしております。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
今月のレネー神父様来日に行われた御ミサの報告です。
11月9日(主)至聖救世主の大聖堂献堂の御ミサには、21名が、
11月10日(月)証聖者アヴェリアのアンドレアの祝日には14名が御ミサに与る御恵みを頂きました。デオグラチアス!!
9日には、11月1日に祝った諸聖人の祝日を振り返ってのお説教を頂き、御ミサの後には11月3日に迎えた全ての死せる信徒の記念にちなんでのレクチャーを頂きました。また、9日は献堂の御ミサであったので、聖堂、神殿とは一体何を意味しているのか?などというお話を頂きました。シノドに関する質問にもお答え下さいました。
会場を出ると午後9時をまわっていました。お疲れにも関わらず集まった信徒のために、燃える宣教師魂でたくさんのことを教えて下さったレネー神父様に心から感謝申し上げます。いつものレストランで、遅い夕食を神父様を囲んで頂きましたが、そこでも宣教師魂はまだ冷めずまだまだ沢山のお話をして下さいました。
天主様がレネー神父様の使徒職を報いてくださり、多くの御恵みをお与えくださいますように!!
インマクラータが神父様を益々助け、お守りくださいますように!!
9日のお説教、ミサの後に行われた講話を以下に掲載いたします。
2014年11月9日(主)レネー神父様による大阪でのお説教
親愛なる兄弟の皆さん、
先週、私たちは諸聖人の祝日をお祝いしました。この祝日は美しい祝日で、非常に慰めになる真理を非常に具体的に強調しました。つまり、徳に対する驚くべき報酬があるということです。天主は欺く方ではありません。天主は、聖人たちの徳や愛、忠実に対して報酬をお与えになるでしょう。聖パウロが言うように、「偽りのない天主が代々の前に約束された永遠の命の希望」(ティト1章2節)です。天主は、誰にこれを約束なさったのでしょうか。聖ヤコボが、「命の冠」が「天主がご自分を愛する人々に約束された」(ヤコボ1章12節)と答えます。まことに、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心にまだ思い浮かばず、天主がご自分を愛する人々のために準備されたこと」(一コリント2章9節)なのです。
福音の中で主は、ここ地上ですでに、徳を実践することには大きな喜びがあると教えておられます。「心の貧しい人は幸せである、天の国は彼らのものである。…私のために、人々があなたたちをののしり、あるいは責め、あるいは数々の讒言を言うとき、あなたたちは幸せである、喜びに喜べ、あなたたちは天において大きな報いを受けるであろう」(マテオ5章3―12節)。彼らが非難されるとき、すでに祝福され喜びがあります。外から苦しみを受けていても、もうすでに内では天主の喜びで満たされています。それでは、もう迫害がなくなるとき、彼らの喜びはどれほど多くなるのでしょうか。天国の報酬への希望と期待が、迫害時に喜ぶことができたほどの喜びであるのなら、天主を見ると きの喜びはどれほど多くなるのでしょうか。
その喜びとはいったいどんなものでしょうか。聖ヨハネは書簡で言っています。「考えよ、天主の子と称されるほど、御父から計りがたい愛を受けたことを。私たちは天主の子である。この世が私たちを認めないのは御父を認めないからである。愛する者たちよ、私たちはいま天主の子である。後にどうなるかはまだ示されていないが、それが示されるとき、私たちは天主に似た者になることを知っている。私たちは天主をそのまま見るであろうから」(一ヨハネ3章1―2節)。聖ヨハネは、すぐに結論を引き出します。「主が清いお方であるように、主に対するこの希望を持つ者は清くなる」(一ヨハネ3章3節)。主ご自身がおっしゃいます。「死者からよみがえるときは、めとりもせず嫁ぎもせ ず、天の天使たちと同じようになる」(マルコ12章25節)。「天使は天上にいて、常に天にまします父の前に立っている」(マテオ18章10節)。聖パウロが、黙想について語りつつ、「私たちはみな覆いを顔に垂れず、鏡に映すように主の光栄を映し、霊なる主によってますます光栄の増すその同じ姿に変わる」(二コリント3章18節)と書いたのなら、それが黙想についての真理なら、天国での至福直観はどれほど素晴らしいものでしょうか。実際、「今私たちは鏡を見るようにぼんやりと見ている。だがそのときには顔と顔を合わせて見るであろう。今私は不完全に知っているが、そのときには私が知られているとおりに知るであろう」(一コリント13章12節)。
この至福直観というのは、最も高い人間の能力である知性が、至高の対象である天主ご自身に対して、栄光の光によってその能力を本来の能力より高められて行う最も完全な働きである、と聖トマス・アクイナスは説明しています。そのような完全な働きは私たちの永遠の至福となります。主において永遠に喜ぶのです。詩篇作者は言いました。「主において喜び楽しめ、心の正しい者はみな歓喜せよ」(詩篇31章11節)。「正しい者よ、主において喜べ」(詩篇96章12節)。また聖パウロは言います。「主において常に喜べ。繰り返し言う、喜べ」(フィリッピ4章4節)。永遠に、天主の光で満たされ、天主の愛の火で満たされるのです。
親愛なる兄弟の皆さん、これがキリスト教的生活の目標であり、この世的な幸せではありません。聖パウロは言います。「私たちがキリストに希望をかけたのがこの世のためだけであるなら、私たちは人の中で最も哀れな者である」(一コリント15章19節)。これが希望の徳の目的、つまり天国へ行くことです。私たちの目的はこの世の希望ではなく、天国の希望なのです。
私たちの希望はすべて、イエズス・キリストが中心です。天主として、主は私たちが永遠に見たいと希望し、所有したいと希望するそのものです。主はまた、私たちの希望の原動力です。主は御父のみ言葉であり、このみ言葉において、これらすべての素晴らしい約束がなされました。とりわけ、主は御血によってこれらの約束を認証なさいました。そうです、天主は私たちの救いを望まれます。そのために天主は御独り子をこの世に送られました。御独り子は、私たちを罪から救い、天国へ導くために十字架の上で亡くなられました。主は、私たちが望む以上に私たちの救いを望まれます。主はそのために十字架上で亡くなられました。それから主は、世の終わりに私たちが復活することの保証として よみがえられたのです。福音の中でまことにしばしば、主は天国での報酬について語られました。特に次の一節です。「天の国は彼らのものである…彼らは慰めを受けるであろう…彼らは飽かされるであろう…彼らもあわれみを受けるであろう…彼らは天主を見るであろう…彼らは天主の子らと呼ばれるであろう…あなたたちは天において大きな報いを受けるであろう」。しかし、多くのほかの節でも、主は天国を多くのものにたとえておられます(「天の国」という表現は聖マテオに典型的で、これを聖マルコは「天主の国」としています)。聖マテオの福音書においては9回、主は天の国を通常、何かこの世で行われる大きな祝宴、たとえば王の宴会や宝などにたとえておられます。
この天国の喜びは大変素晴らしいため、それを得るためにはこの世のすべてを放棄する用意をしていなければなりません。次の力強い警告を思い出しましょう。「その手があなたに罪を犯させるなら手を切り捨てよ、不具で命に入るのは両手あってゲヘナの不滅の業火に入るよりもよい。そこではうじが失せず、その火は消えぬ。その足があなたに罪を犯させるならそれを切り捨てよ、片足で命に入るのは、両足あってゲヘナに投げこまれるよりもよい。そこではうじが失せず、その火は消えぬ。またもしその目があなたに罪を犯させるならそれを抜き取れ、片目で天主の国に入るのは、両眼あってゲヘナに投げこまれるよりよい。そこではうじが失せず、その火は消えぬ。」(マルコ9章42―47節)。
人々は自分の手や足を切り、目を抜き取ることを恐れます。しかし、天の国の美しさ、素晴らしい喜びを思うなら、主が言われたことを行うのをためらいません。主は人間として至福直観を持っておられ、また天主として、この天主の至福、永遠の至福を至高の方法で所有なさっているため、天国におられて、このことをお話しになるのです。主はこの重要な真理に大変満ちておられるため、非常にはっきりと私たちに警告することをためらわれないのです。
実際、いつしか私たちがこのような言葉を聞くことよりも美しいものがあるでしょうか。「よしよし、忠実なよいしもべだ。おまえはわずかなものに忠実だったから、私は多くのものをまかせよう。おまえの主人の喜びに入れ」(マテオ25章21節)。また、「父に祝せられた者よ、来て世の初めからあなたたちに備えられていた国を受けよ。あなたたちは、私が飢えていたときに食べさせてくれ…たからだ」(マテオ25章34―35節)。そして、「義人は永遠の生命に入るであろう」(マテオ25章46節)。
しかし、私たちがこの言葉を聞きたいなら、主の左側ではなく、右側にいなければなりません(マテオ25章33節)。私たちは婚礼の礼服を身に着けていなければならず(マテオ22章11節)、そうでないなら、私たちは「外の闇に投げ出され、そこには嘆きと歯ぎしりがあろう」(マテオ22章13節)。私たちは天主の戒めに従わなければならず、命の終わりに至るまで従い続けなければなりません。
ですから、キリスト教的生活には、二つの本質的な瞬間があります。第一は改心です。キリストを信じ、洗礼または悔悛の秘蹟のどちらかで、私たちの主イエズス・キリストの恩寵が与えられて、自分の生活を罪から徳へと変えるのです。なぜなら、私たちの主イエズス・キリストは、「罪びとを罪から救い、悔い改めへ導くために」(マテオ1章21節―ルカ5章32節)来られたからです。聖パウロはこう書きました。「私は…改心にふさわしい行いをして、悔い改めて天主に返れと説きました」(使徒行録26章20節)。また聖ペトロが言います。「一人の亡びも望まれないから、すべての人の悔い改めを望んであなたたちを長く忍ばれる」(二ペトロ3章9節)。今日、私たちはこの悔い改めを求める声を聞く必要があります。これが教会の使命の本質です。現代の危機の多くは、こういう重要なテーマを無視するために起きています。「私にはそんなことは不可能だ。あまりに難しすぎる」という人がいるかもしれません。しかし私たちの主イエズス・キリストが恩寵をお与えになるので、もっと簡単になるだけでなく、喜ばしいものにもなるのです。
実際、キリスト教的生活の第二の「瞬間」は忍耐です。続けることです。固く信仰を守り(一コリント16章13節)、希望に踏みとどまり(コロサイ1章23節)、「それでは、愛する兄弟たちよ、あなたたちの苦労が主においてむなしくならぬことをわきまえ、確固として揺らぐことなく、常に主の業を励み努めよ」(一コリント15章58節)。実際、私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって行うことが可能となる徳には素晴らしい報酬があるでしょう。
今日、「固く信仰を守ること」は「融通がきかないこと」【注1】と軽蔑的に表現されます。天主の戒めを守る必要性は、もはやはっきりとは言われません。まるで、最も重要なことは、すべての人に「開かれた」ことであるかのようであり、全ての人に対して戒めに従うことが必要であるとは言われることはありません。しかしそれでは、彼らは天国の扉が「閉じられて」いるのを見るでしょう。愚かな乙女たちのことを思い出してください。彼女たちは用意ができていませんでした。「用意していた乙女たちは[花婿と]一緒に宴席に入り、そして戸は閉ざされた。やがて、ほかの乙女たちは帰ってきて『主よ、主よ、どうぞ開けてください』と言ったけれど、『まことに私は言う、私はおまえたちを知らぬ』と答えられた。」(マテオ25章10―12節) 。「狭き門から入るように努力せよ。私は言う、入ろうと努めても入れない人が多い。家の主人が立って門を閉めてしまってから、外に立って戸をたたき、『ご主人、門を開けてください』と叫んでも、主人は『私はおまえがどこの者かを知らぬ』と答えるだろう。そのとき、『私たちはあなたの前で飲み食いしましたし、あなたは私たちの町の大路で教えておられました』と言っても、主人は『私はおまえたちがどこの者かを知らぬ。不正を行う者どもはみな立ち去れ』と答えるだろう」(ルカ13章24―27節)。確かに、フランシスコ教皇の基準によれば、私たちの主イエズス・キリストは「聖伝主義者」です。なぜなら、主は大変「閉じて」おられ、「敵意をもった融通のなさ」があり、「自分が知る確信 の中に閉じて、熱心で、知的で」【注2】おられるからです。
同じ基準によれば、聖パウロも聖伝主義者です。実際、聖パウロもまた、「敵意をもった融通のなさ」を持っています。それは、彼がこう書いているからです。「不正の人は天主の国を継げないことを知らないのか。思い誤るな。淫行をする者も、偶像崇拝者も、姦通をする者も、男娼も、男色する者も、泥棒も、貪欲な者も、酒飲みも、讒言する者も、略奪する者も、天主の国を継がぬ」(一コリント6章9―10節)。「淫行の者、好色な者、情欲の者はみな―これは偶像崇拝者と同じである―、キリストと天主の国を継げない」(エフェゾ5章5節)。これは実に融通がきかず、敵意があります。でも、これはまさに天主のみ言葉なのです。聖パウロは信者たちに「自分が知ることに閉じる」よう に教えてこう書かなかったでしょうか。「しかし私自身であるにせよ、天からの天使であるにせよ、私たちがあなたたちに伝えたのとは異なる福音を告げる者にはのろいあれ。私は前に言ったことを今また繰り返す。あなたたちが受けたのとは異なる福音を告げる者にはのろいあれ」(ガラツィア1章8―9節)。
私たちは罪びとに対しては開かれていなければなりませんが、罪に対しては閉じていなければなりません。私たちは悔い改める罪びとを歓迎しますが、罪を憎みます。実際、罪を憎むことは天主の戒めです。「主よ、あなたは悪を憎む者を愛す」(詩篇96章10節)。私たちは、罪びとが、自分を変えて間違いを正す必要はなく現在の状態で大丈夫だと考えるままにして、彼を欺くことはできません。なぜなら、罪びとが悔い改めないなら、同じように滅びるからです(ルカ13章3節)。
さて、このことはまず私たちに当てはまります。私たちは、自分の罪を悔い改めなければなりません。たとえほんの小さな罪を犯したとしても、その罪を悔い改める必要があります。そして、ファチマで聖母がおっしゃったように、イエズスの聖心が聖マルガリタ・マリアにパレ・ル・モニアルでお求めになったように、ほかの人々の罪の償いをする必要があります。十字架がなければ、犠牲がなければ、悔い改めがなければ、天の国に入ることができません。「私たちが子であるのなら、世継ぎでもある。キリストとともに光栄を受けるために、その苦しみをともに受けるなら、私たちは天主の世継ぎであって、キリストとともに世継ぎである」(ローマ8章17節)。
聖人たちはみな、悔い改めをしていました。ときには驚くべき悔い改めを。悔い改めをせずに天国へ行きたいですか。そうなら私たちは自分を欺いているだけです。もっと悪いことに、私たちは他人をも欺いているのです。聖人たちの報酬を共にしたいのなら、私たちは彼らの苦労を共にするのを恐れてはなりません。諸聖人の祝日は、驚くほど勇気を与えてくれます。「私のあとに従おうと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って従え」(ルカ9章23節)。十字架は天国への道ですから、ミサの聖なるいけにえは天国へ行く最も偉大な手段です。ミサにおいて、私たちの主イエズス・キリストが、私たちの罪の償いのためにご自分の御体と御血を御父にお捧げになるのを目の前で見るとき、私たち は罪という悪を理解するのです。ミサにおいて、まず私たち自身の罪のために、そして世のすべての罪のために、十字架の下で聖母と共に嘆き悲しむのです。ミサにおいて、改心の恩寵、「罪に死んだ者、キリスト・イエズスにおいて天主のために生きる者」(ローマ6章11節)となる恩寵を得るのです。ミサにおいて、戒めを守る恩寵、私たちの主イエズス・キリストと一致して生きる恩寵を得るのです。この一致は、小羊である私たちの主イエズス・キリストご自身の御体と御血、「天使のパン」(詩篇77章25節)、天国の至福の前じるしによって養われるのです。ミサにおいて、私たちは信仰によって、天国で永遠に見つめるもの、あらゆる徳の報酬、つまり御父の栄光において聖霊と一致した私たちの 主イエズス・キリストご自身を見るのです。
聖ヨハネが黙示録(2章10節)で言うように、私たちが「命の冠」を得られるよう、「死に至るまで忠実である」恩寵を、童貞聖マリアが私たちのために獲得してくださいますように。
アーメン。
【注1】 Pope Francis’ exhortation at the end of the synod シノドスの終了に際してのフランシスコ教皇の勧告
【注2】 同上
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11月9日のレネー神父様による講話
親愛なる兄弟の皆さん
11月は煉獄の聖なる霊魂達の月です。死に関して、煉獄の教理に繋がる大いなる真理があります。それは審判という真理です。実は審判は二度あり、それは死の直後の私審判と、世界の終わりに私たちの主イエズス・キリストが「生ける人と死せる人とを審かんために来り給う」時の公審判とです。そして、私たちの主が「私はいう。人が話したむだごとは、すべて審判の日にさばかれるであろう」(マテオ12章36節)と私たちに警告なさるように、その審判では厳しい正義が実現されます。
聖アウグスティノは美しい言葉でこう言っています。裁判官御自身、すなわち私たちの主イエズス・キリストがまず救いのために来てくださらなかったなら、誰が断罪の審判を逃れられたことであろうか、と。事実、私たちの主イエズス・キリストは二度いらっしゃるのですが、一度目は約二千年前、慈悲のご来臨をされ、二度目は世界の終わりに正義のご来臨をされるのです。聖書では、慈悲と正義という二つの特性が天主において分かつことのできないものであることが繰り返し強調されています。たとえばトビアは自らの祈りをこのように始めます。「主よ、あなたは正しい、あなたのみ業は、すべて正しい。あなたの道は、慈しみと真理、あなたは、世をさばくもの。」(トビア の書3章2節)詩編作者はこのように歌います。「その契約とおきてを守る人にとって、主の小道は慈しみと真理(すなわち正義)である。」(詩編24篇10節)ですから、「主よ、私は愛とさばきをうたい、あなたを讃美しよう。」(詩編100篇1節)天主はいつも慈悲と真理とをもって行動されるばかりでなく、私たちが天主を真似て同じように行動することを望まれます。「人よ、よいこととは何かを、主が、何をあなたに求められるかを、主は告げられた。それは正しいことを行い、善意を愛し、あなたの神とともにへりくだって歩むこと、これではないか。」(ミカヤの書6章8節)また、「(万軍の主は、こうおおせられる)こういわれた、〈真実のさばきを行い、おのおの兄弟を愛しあわれみをもて。〉」(ザカリアの書7章9節)私たちの主ご自身も、「正義と慈悲と忠実と」が「律法の中でいちばん重大な」(マテオ23章23節)ものであるとおっしゃいます。
私たちの主イエズス・キリストがまず罪人たちを救いにいらっしゃらなければ、最後の審判では全ての人は地獄に行くべきものとして左に置かれていたことでしょう。もし、天主である御子が、聖母を罪の汚れから守るという慈しみ深い恩寵を十字架上での自らの犠牲によって買い取られ、その恩寵を聖母に与えられなければ、聖母ですら原罪の汚れから守られなかったことでしょう。私たちが裁判官である主に対して自分の一生の報告をする準備をするためには、天主からのこの慈悲を必要としているのです。私たちの主がまず救いにこられたという事実によって、悪しき者たちが不平をいうことができなくなります。私たちの主はこのようにおっしゃるでしょう。「あなたが自分自身 の救いを望むよりもっと私はあなたの救いを望んでいた。私はあなたのために十字架上で死んだのに、あなたは私と私の言葉とを軽蔑し、それに従わず、自分の罪を止めず、罪を悔いることをしない。私の手、足、心臓を見なさい。あなたのために為し得ることで私のしなかったことがあるだろうか?どうして私を拒んだのか?」と。親愛なる兄弟のみなさん、今こそ、私たちの主イエズス・キリストのこの愛徳の訴えを聞き入れましょう!今こそが慈悲の時であり、死後は正義の時なのです!今こそが私たちの生き方をより良いものに変える時であり、死後は私たちの一生の報告をする時なのです。今こそが天主に忠実にお仕えする時であり、もし私たちが今天主にお仕えするならば死後は天主の永遠の福楽を得る時となり、もし私たちが今天主に忠実にお仕えしないならば死後はこの至高の善から遠ざかってしまうという永遠の苦しみの時になるのです。今こそが慈悲の時であり、死後は正義の時なのです。
聖アウグスティノはこのようにも言っています。「あなたがいつ天主に立ち返ろうとも、天主はあなたを赦してくださるとお約束なさったが、天主はあなたが明日も生きているとお約束なさってはいない!」と。悔い改めを先延ばしにしてはいけません。いつか私たちの時間はなくなるのです!
今の慈悲の時には、美しい慈悲の法廷があります。それは告解の秘跡という法廷です!天主が慈悲を施される時にも天主の正義が実現されなければならないという意味で、これは真の法廷です。この告解という法廷では、私たちの罪によって傷つけられた「原告」は天主ご自身で、被告は私たちです。双方には弁護人がいます。「被告の弁護人」は、私たちが実は悪を行なっておらず、私たちの罪はそれほど悪いものではないなどと私たちを説得しようとするのですが、この被告の弁護人はもちろん悪魔です。悪魔は私たちが悔い改めたり、自分の罪を憎んだりするのを望まないため、あらゆる種類の言い訳を作り出します。この慈悲の法廷には「原告の弁護人」もおり、それは私たちで す。私たちが天主の私たちに対して有しておられる権利を認め、天主の権利を主張することによって、私たち自身の罪を憎み、私たち自身の罪について自らの誤りを認め、私たち自身の罪を罰する機会を、真に天主が私たちに与えてくださるのです。自分の罪を憎み、自分の罪について自らの誤りを認め、自分の罪のため自らを罰する(償い)というこの三つの行為こそ、告解を行なう者が成す行為なのです。聖アウグスティノは、天主はあなたの罪を忌み嫌われるのであるから、あなたも自分の罪を忌み嫌うのであれば、あなたは天主と同じ考えをもち始めているのであって、従って、悪しき行いを忌み嫌い、糾弾することは善き行いの始まりであるというのです!この告解の秘跡において、私たちが私 たち自身の権利よりも天主の権利を認めれば認める程、私たちの罪は癒され、罪の罰は取り除かれます。
この法廷には裁判官もおられ、それは私たちの主イエズス・キリストですが、司祭がその代わりとして、「父と御子と聖霊との御名によりて、あなたの罪を赦します。アーメン。」と唱えるのです。ここでは至聖なる聖三位一体の御名の力に注目してください。その力は、私たちの主が私たちの罪に対する厳しい正義のため、全ての罪をあがなうために支払われた、その十字架から来るものです。どの法廷にも裁判官がいるように、私たちの主イエズス・キリストが裁判官として、自らの司祭を通して私たちの主イエズス・キリストの御名そのものによって慈悲の裁きをなさるのです。「父と御子と聖霊との御名によりて、あなたの罪を赦します。アーメン。」と。
親愛なる兄弟の皆さん、この慈悲の法廷を使うこと、上手に使うことを望むようにいたしましょう。もし私たちが次の世界の正義の法廷で安全でありたいと望むなら、この世界の慈悲の法廷を利用しなければなりません。詩編作者が「たえず私の不義を洗い、私の罪を清めたまえ」(詩編50篇4節)といっているように、この慈悲の法廷を度々使うようにいたしましょう。
人は清潔な家に住むことを好み、自分の体もいつも洗って清潔にしていますが、しばしば自分の霊魂を罪の汚れのなかに置いたままにしてしまいます。私たちが自分の体をいつも洗っているのであれば、自分の霊魂もいつも洗うようにいたしましょう!私たちは、泥の中にはまるのを待たずに体を洗います。大罪にはまるのを待たずに告解の秘跡で霊魂を洗うようにすべきです。自分の体を頻繁に洗う人が、あまり洗わない人よりも清潔であるように、自分の罪を頻繁に告白する人は、あまり告白しない人よりも、普通、罪を犯すことがずっと少ないのです。今日、多くのカトリック信者が何年もの間告解をしないにもかかわらず、毎主日に聖体拝領をしないことを恐れているというのは 大変恥ずべきことです。今日多くのカトリック信者がこのようなことをしているので、避妊のような罪と妥協し、福音の真実に従った生活をしなくなったことも驚くにはあたりません。
審判を心安らかに待ち望めるように、審判の前に、天主の友となりましょう。この準備ができていない人は、普通、やがて訪れる死を大変恐れます。しかし私たちの主イエズス・キリストがご自分の教会にくださった聖化の手段、すなわち秘跡、とりわけ告解の秘跡と聖体拝領とを忠実に使えば、やがて訪れる死と審判とを静かに自信をもって迎えることになるのです。
私たちが天主の二つの特性である慈悲と正義のことを思い、天主の慈悲深い愛に従うことによって、永遠に天国に行くため、私たちの主イエズス・キリストの法廷に立つ準備ができるよう、聖母マリアが私たちを助けてくださいますように!
アーメン。
●聖伝のミサ(いわゆる「トリエント・ミサ」と呼ばれているローマ式典礼様式のミサ)にようこそ!
●ローマ・カトリックの聖伝のミサ vs エキュメニカルな新しいミサ(第二バチカン公会議のミサ)
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愛する兄弟姉妹の皆様、
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本日から大阪で聖伝のミサがあります。ネリー神父様と私とで二回ずつミサがあります。ミサ聖祭で愛する兄弟姉妹の皆様とお目に掛かるのをたのしみにしております。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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アヴェ・マリア・インマクラータ!
今月のレネー神父様来日に行われた御ミサの報告です。
11月9日(主)至聖救世主の大聖堂献堂の御ミサには、21名が、
11月10日(月)証聖者アヴェリアのアンドレアの祝日には14名が御ミサに与る御恵みを頂きました。デオグラチアス!!
9日には、11月1日に祝った諸聖人の祝日を振り返ってのお説教を頂き、御ミサの後には11月3日に迎えた全ての死せる信徒の記念にちなんでのレクチャーを頂きました。また、9日は献堂の御ミサであったので、聖堂、神殿とは一体何を意味しているのか?などというお話を頂きました。シノドに関する質問にもお答え下さいました。
会場を出ると午後9時をまわっていました。お疲れにも関わらず集まった信徒のために、燃える宣教師魂でたくさんのことを教えて下さったレネー神父様に心から感謝申し上げます。いつものレストランで、遅い夕食を神父様を囲んで頂きましたが、そこでも宣教師魂はまだ冷めずまだまだ沢山のお話をして下さいました。
天主様がレネー神父様の使徒職を報いてくださり、多くの御恵みをお与えくださいますように!!
インマクラータが神父様を益々助け、お守りくださいますように!!
9日のお説教、ミサの後に行われた講話を以下に掲載いたします。
2014年11月9日(主)レネー神父様による大阪でのお説教
親愛なる兄弟の皆さん、
先週、私たちは諸聖人の祝日をお祝いしました。この祝日は美しい祝日で、非常に慰めになる真理を非常に具体的に強調しました。つまり、徳に対する驚くべき報酬があるということです。天主は欺く方ではありません。天主は、聖人たちの徳や愛、忠実に対して報酬をお与えになるでしょう。聖パウロが言うように、「偽りのない天主が代々の前に約束された永遠の命の希望」(ティト1章2節)です。天主は、誰にこれを約束なさったのでしょうか。聖ヤコボが、「命の冠」が「天主がご自分を愛する人々に約束された」(ヤコボ1章12節)と答えます。まことに、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心にまだ思い浮かばず、天主がご自分を愛する人々のために準備されたこと」(一コリント2章9節)なのです。
福音の中で主は、ここ地上ですでに、徳を実践することには大きな喜びがあると教えておられます。「心の貧しい人は幸せである、天の国は彼らのものである。…私のために、人々があなたたちをののしり、あるいは責め、あるいは数々の讒言を言うとき、あなたたちは幸せである、喜びに喜べ、あなたたちは天において大きな報いを受けるであろう」(マテオ5章3―12節)。彼らが非難されるとき、すでに祝福され喜びがあります。外から苦しみを受けていても、もうすでに内では天主の喜びで満たされています。それでは、もう迫害がなくなるとき、彼らの喜びはどれほど多くなるのでしょうか。天国の報酬への希望と期待が、迫害時に喜ぶことができたほどの喜びであるのなら、天主を見ると きの喜びはどれほど多くなるのでしょうか。
その喜びとはいったいどんなものでしょうか。聖ヨハネは書簡で言っています。「考えよ、天主の子と称されるほど、御父から計りがたい愛を受けたことを。私たちは天主の子である。この世が私たちを認めないのは御父を認めないからである。愛する者たちよ、私たちはいま天主の子である。後にどうなるかはまだ示されていないが、それが示されるとき、私たちは天主に似た者になることを知っている。私たちは天主をそのまま見るであろうから」(一ヨハネ3章1―2節)。聖ヨハネは、すぐに結論を引き出します。「主が清いお方であるように、主に対するこの希望を持つ者は清くなる」(一ヨハネ3章3節)。主ご自身がおっしゃいます。「死者からよみがえるときは、めとりもせず嫁ぎもせ ず、天の天使たちと同じようになる」(マルコ12章25節)。「天使は天上にいて、常に天にまします父の前に立っている」(マテオ18章10節)。聖パウロが、黙想について語りつつ、「私たちはみな覆いを顔に垂れず、鏡に映すように主の光栄を映し、霊なる主によってますます光栄の増すその同じ姿に変わる」(二コリント3章18節)と書いたのなら、それが黙想についての真理なら、天国での至福直観はどれほど素晴らしいものでしょうか。実際、「今私たちは鏡を見るようにぼんやりと見ている。だがそのときには顔と顔を合わせて見るであろう。今私は不完全に知っているが、そのときには私が知られているとおりに知るであろう」(一コリント13章12節)。
この至福直観というのは、最も高い人間の能力である知性が、至高の対象である天主ご自身に対して、栄光の光によってその能力を本来の能力より高められて行う最も完全な働きである、と聖トマス・アクイナスは説明しています。そのような完全な働きは私たちの永遠の至福となります。主において永遠に喜ぶのです。詩篇作者は言いました。「主において喜び楽しめ、心の正しい者はみな歓喜せよ」(詩篇31章11節)。「正しい者よ、主において喜べ」(詩篇96章12節)。また聖パウロは言います。「主において常に喜べ。繰り返し言う、喜べ」(フィリッピ4章4節)。永遠に、天主の光で満たされ、天主の愛の火で満たされるのです。
親愛なる兄弟の皆さん、これがキリスト教的生活の目標であり、この世的な幸せではありません。聖パウロは言います。「私たちがキリストに希望をかけたのがこの世のためだけであるなら、私たちは人の中で最も哀れな者である」(一コリント15章19節)。これが希望の徳の目的、つまり天国へ行くことです。私たちの目的はこの世の希望ではなく、天国の希望なのです。
私たちの希望はすべて、イエズス・キリストが中心です。天主として、主は私たちが永遠に見たいと希望し、所有したいと希望するそのものです。主はまた、私たちの希望の原動力です。主は御父のみ言葉であり、このみ言葉において、これらすべての素晴らしい約束がなされました。とりわけ、主は御血によってこれらの約束を認証なさいました。そうです、天主は私たちの救いを望まれます。そのために天主は御独り子をこの世に送られました。御独り子は、私たちを罪から救い、天国へ導くために十字架の上で亡くなられました。主は、私たちが望む以上に私たちの救いを望まれます。主はそのために十字架上で亡くなられました。それから主は、世の終わりに私たちが復活することの保証として よみがえられたのです。福音の中でまことにしばしば、主は天国での報酬について語られました。特に次の一節です。「天の国は彼らのものである…彼らは慰めを受けるであろう…彼らは飽かされるであろう…彼らもあわれみを受けるであろう…彼らは天主を見るであろう…彼らは天主の子らと呼ばれるであろう…あなたたちは天において大きな報いを受けるであろう」。しかし、多くのほかの節でも、主は天国を多くのものにたとえておられます(「天の国」という表現は聖マテオに典型的で、これを聖マルコは「天主の国」としています)。聖マテオの福音書においては9回、主は天の国を通常、何かこの世で行われる大きな祝宴、たとえば王の宴会や宝などにたとえておられます。
この天国の喜びは大変素晴らしいため、それを得るためにはこの世のすべてを放棄する用意をしていなければなりません。次の力強い警告を思い出しましょう。「その手があなたに罪を犯させるなら手を切り捨てよ、不具で命に入るのは両手あってゲヘナの不滅の業火に入るよりもよい。そこではうじが失せず、その火は消えぬ。その足があなたに罪を犯させるならそれを切り捨てよ、片足で命に入るのは、両足あってゲヘナに投げこまれるよりもよい。そこではうじが失せず、その火は消えぬ。またもしその目があなたに罪を犯させるならそれを抜き取れ、片目で天主の国に入るのは、両眼あってゲヘナに投げこまれるよりよい。そこではうじが失せず、その火は消えぬ。」(マルコ9章42―47節)。
人々は自分の手や足を切り、目を抜き取ることを恐れます。しかし、天の国の美しさ、素晴らしい喜びを思うなら、主が言われたことを行うのをためらいません。主は人間として至福直観を持っておられ、また天主として、この天主の至福、永遠の至福を至高の方法で所有なさっているため、天国におられて、このことをお話しになるのです。主はこの重要な真理に大変満ちておられるため、非常にはっきりと私たちに警告することをためらわれないのです。
実際、いつしか私たちがこのような言葉を聞くことよりも美しいものがあるでしょうか。「よしよし、忠実なよいしもべだ。おまえはわずかなものに忠実だったから、私は多くのものをまかせよう。おまえの主人の喜びに入れ」(マテオ25章21節)。また、「父に祝せられた者よ、来て世の初めからあなたたちに備えられていた国を受けよ。あなたたちは、私が飢えていたときに食べさせてくれ…たからだ」(マテオ25章34―35節)。そして、「義人は永遠の生命に入るであろう」(マテオ25章46節)。
しかし、私たちがこの言葉を聞きたいなら、主の左側ではなく、右側にいなければなりません(マテオ25章33節)。私たちは婚礼の礼服を身に着けていなければならず(マテオ22章11節)、そうでないなら、私たちは「外の闇に投げ出され、そこには嘆きと歯ぎしりがあろう」(マテオ22章13節)。私たちは天主の戒めに従わなければならず、命の終わりに至るまで従い続けなければなりません。
ですから、キリスト教的生活には、二つの本質的な瞬間があります。第一は改心です。キリストを信じ、洗礼または悔悛の秘蹟のどちらかで、私たちの主イエズス・キリストの恩寵が与えられて、自分の生活を罪から徳へと変えるのです。なぜなら、私たちの主イエズス・キリストは、「罪びとを罪から救い、悔い改めへ導くために」(マテオ1章21節―ルカ5章32節)来られたからです。聖パウロはこう書きました。「私は…改心にふさわしい行いをして、悔い改めて天主に返れと説きました」(使徒行録26章20節)。また聖ペトロが言います。「一人の亡びも望まれないから、すべての人の悔い改めを望んであなたたちを長く忍ばれる」(二ペトロ3章9節)。今日、私たちはこの悔い改めを求める声を聞く必要があります。これが教会の使命の本質です。現代の危機の多くは、こういう重要なテーマを無視するために起きています。「私にはそんなことは不可能だ。あまりに難しすぎる」という人がいるかもしれません。しかし私たちの主イエズス・キリストが恩寵をお与えになるので、もっと簡単になるだけでなく、喜ばしいものにもなるのです。
実際、キリスト教的生活の第二の「瞬間」は忍耐です。続けることです。固く信仰を守り(一コリント16章13節)、希望に踏みとどまり(コロサイ1章23節)、「それでは、愛する兄弟たちよ、あなたたちの苦労が主においてむなしくならぬことをわきまえ、確固として揺らぐことなく、常に主の業を励み努めよ」(一コリント15章58節)。実際、私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって行うことが可能となる徳には素晴らしい報酬があるでしょう。
今日、「固く信仰を守ること」は「融通がきかないこと」【注1】と軽蔑的に表現されます。天主の戒めを守る必要性は、もはやはっきりとは言われません。まるで、最も重要なことは、すべての人に「開かれた」ことであるかのようであり、全ての人に対して戒めに従うことが必要であるとは言われることはありません。しかしそれでは、彼らは天国の扉が「閉じられて」いるのを見るでしょう。愚かな乙女たちのことを思い出してください。彼女たちは用意ができていませんでした。「用意していた乙女たちは[花婿と]一緒に宴席に入り、そして戸は閉ざされた。やがて、ほかの乙女たちは帰ってきて『主よ、主よ、どうぞ開けてください』と言ったけれど、『まことに私は言う、私はおまえたちを知らぬ』と答えられた。」(マテオ25章10―12節) 。「狭き門から入るように努力せよ。私は言う、入ろうと努めても入れない人が多い。家の主人が立って門を閉めてしまってから、外に立って戸をたたき、『ご主人、門を開けてください』と叫んでも、主人は『私はおまえがどこの者かを知らぬ』と答えるだろう。そのとき、『私たちはあなたの前で飲み食いしましたし、あなたは私たちの町の大路で教えておられました』と言っても、主人は『私はおまえたちがどこの者かを知らぬ。不正を行う者どもはみな立ち去れ』と答えるだろう」(ルカ13章24―27節)。確かに、フランシスコ教皇の基準によれば、私たちの主イエズス・キリストは「聖伝主義者」です。なぜなら、主は大変「閉じて」おられ、「敵意をもった融通のなさ」があり、「自分が知る確信 の中に閉じて、熱心で、知的で」【注2】おられるからです。
同じ基準によれば、聖パウロも聖伝主義者です。実際、聖パウロもまた、「敵意をもった融通のなさ」を持っています。それは、彼がこう書いているからです。「不正の人は天主の国を継げないことを知らないのか。思い誤るな。淫行をする者も、偶像崇拝者も、姦通をする者も、男娼も、男色する者も、泥棒も、貪欲な者も、酒飲みも、讒言する者も、略奪する者も、天主の国を継がぬ」(一コリント6章9―10節)。「淫行の者、好色な者、情欲の者はみな―これは偶像崇拝者と同じである―、キリストと天主の国を継げない」(エフェゾ5章5節)。これは実に融通がきかず、敵意があります。でも、これはまさに天主のみ言葉なのです。聖パウロは信者たちに「自分が知ることに閉じる」よう に教えてこう書かなかったでしょうか。「しかし私自身であるにせよ、天からの天使であるにせよ、私たちがあなたたちに伝えたのとは異なる福音を告げる者にはのろいあれ。私は前に言ったことを今また繰り返す。あなたたちが受けたのとは異なる福音を告げる者にはのろいあれ」(ガラツィア1章8―9節)。
私たちは罪びとに対しては開かれていなければなりませんが、罪に対しては閉じていなければなりません。私たちは悔い改める罪びとを歓迎しますが、罪を憎みます。実際、罪を憎むことは天主の戒めです。「主よ、あなたは悪を憎む者を愛す」(詩篇96章10節)。私たちは、罪びとが、自分を変えて間違いを正す必要はなく現在の状態で大丈夫だと考えるままにして、彼を欺くことはできません。なぜなら、罪びとが悔い改めないなら、同じように滅びるからです(ルカ13章3節)。
さて、このことはまず私たちに当てはまります。私たちは、自分の罪を悔い改めなければなりません。たとえほんの小さな罪を犯したとしても、その罪を悔い改める必要があります。そして、ファチマで聖母がおっしゃったように、イエズスの聖心が聖マルガリタ・マリアにパレ・ル・モニアルでお求めになったように、ほかの人々の罪の償いをする必要があります。十字架がなければ、犠牲がなければ、悔い改めがなければ、天の国に入ることができません。「私たちが子であるのなら、世継ぎでもある。キリストとともに光栄を受けるために、その苦しみをともに受けるなら、私たちは天主の世継ぎであって、キリストとともに世継ぎである」(ローマ8章17節)。
聖人たちはみな、悔い改めをしていました。ときには驚くべき悔い改めを。悔い改めをせずに天国へ行きたいですか。そうなら私たちは自分を欺いているだけです。もっと悪いことに、私たちは他人をも欺いているのです。聖人たちの報酬を共にしたいのなら、私たちは彼らの苦労を共にするのを恐れてはなりません。諸聖人の祝日は、驚くほど勇気を与えてくれます。「私のあとに従おうと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って従え」(ルカ9章23節)。十字架は天国への道ですから、ミサの聖なるいけにえは天国へ行く最も偉大な手段です。ミサにおいて、私たちの主イエズス・キリストが、私たちの罪の償いのためにご自分の御体と御血を御父にお捧げになるのを目の前で見るとき、私たち は罪という悪を理解するのです。ミサにおいて、まず私たち自身の罪のために、そして世のすべての罪のために、十字架の下で聖母と共に嘆き悲しむのです。ミサにおいて、改心の恩寵、「罪に死んだ者、キリスト・イエズスにおいて天主のために生きる者」(ローマ6章11節)となる恩寵を得るのです。ミサにおいて、戒めを守る恩寵、私たちの主イエズス・キリストと一致して生きる恩寵を得るのです。この一致は、小羊である私たちの主イエズス・キリストご自身の御体と御血、「天使のパン」(詩篇77章25節)、天国の至福の前じるしによって養われるのです。ミサにおいて、私たちは信仰によって、天国で永遠に見つめるもの、あらゆる徳の報酬、つまり御父の栄光において聖霊と一致した私たちの 主イエズス・キリストご自身を見るのです。
聖ヨハネが黙示録(2章10節)で言うように、私たちが「命の冠」を得られるよう、「死に至るまで忠実である」恩寵を、童貞聖マリアが私たちのために獲得してくださいますように。
アーメン。
【注1】 Pope Francis’ exhortation at the end of the synod シノドスの終了に際してのフランシスコ教皇の勧告
【注2】 同上
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11月9日のレネー神父様による講話
親愛なる兄弟の皆さん
11月は煉獄の聖なる霊魂達の月です。死に関して、煉獄の教理に繋がる大いなる真理があります。それは審判という真理です。実は審判は二度あり、それは死の直後の私審判と、世界の終わりに私たちの主イエズス・キリストが「生ける人と死せる人とを審かんために来り給う」時の公審判とです。そして、私たちの主が「私はいう。人が話したむだごとは、すべて審判の日にさばかれるであろう」(マテオ12章36節)と私たちに警告なさるように、その審判では厳しい正義が実現されます。
聖アウグスティノは美しい言葉でこう言っています。裁判官御自身、すなわち私たちの主イエズス・キリストがまず救いのために来てくださらなかったなら、誰が断罪の審判を逃れられたことであろうか、と。事実、私たちの主イエズス・キリストは二度いらっしゃるのですが、一度目は約二千年前、慈悲のご来臨をされ、二度目は世界の終わりに正義のご来臨をされるのです。聖書では、慈悲と正義という二つの特性が天主において分かつことのできないものであることが繰り返し強調されています。たとえばトビアは自らの祈りをこのように始めます。「主よ、あなたは正しい、あなたのみ業は、すべて正しい。あなたの道は、慈しみと真理、あなたは、世をさばくもの。」(トビア の書3章2節)詩編作者はこのように歌います。「その契約とおきてを守る人にとって、主の小道は慈しみと真理(すなわち正義)である。」(詩編24篇10節)ですから、「主よ、私は愛とさばきをうたい、あなたを讃美しよう。」(詩編100篇1節)天主はいつも慈悲と真理とをもって行動されるばかりでなく、私たちが天主を真似て同じように行動することを望まれます。「人よ、よいこととは何かを、主が、何をあなたに求められるかを、主は告げられた。それは正しいことを行い、善意を愛し、あなたの神とともにへりくだって歩むこと、これではないか。」(ミカヤの書6章8節)また、「(万軍の主は、こうおおせられる)こういわれた、〈真実のさばきを行い、おのおの兄弟を愛しあわれみをもて。〉」(ザカリアの書7章9節)私たちの主ご自身も、「正義と慈悲と忠実と」が「律法の中でいちばん重大な」(マテオ23章23節)ものであるとおっしゃいます。
私たちの主イエズス・キリストがまず罪人たちを救いにいらっしゃらなければ、最後の審判では全ての人は地獄に行くべきものとして左に置かれていたことでしょう。もし、天主である御子が、聖母を罪の汚れから守るという慈しみ深い恩寵を十字架上での自らの犠牲によって買い取られ、その恩寵を聖母に与えられなければ、聖母ですら原罪の汚れから守られなかったことでしょう。私たちが裁判官である主に対して自分の一生の報告をする準備をするためには、天主からのこの慈悲を必要としているのです。私たちの主がまず救いにこられたという事実によって、悪しき者たちが不平をいうことができなくなります。私たちの主はこのようにおっしゃるでしょう。「あなたが自分自身 の救いを望むよりもっと私はあなたの救いを望んでいた。私はあなたのために十字架上で死んだのに、あなたは私と私の言葉とを軽蔑し、それに従わず、自分の罪を止めず、罪を悔いることをしない。私の手、足、心臓を見なさい。あなたのために為し得ることで私のしなかったことがあるだろうか?どうして私を拒んだのか?」と。親愛なる兄弟のみなさん、今こそ、私たちの主イエズス・キリストのこの愛徳の訴えを聞き入れましょう!今こそが慈悲の時であり、死後は正義の時なのです!今こそが私たちの生き方をより良いものに変える時であり、死後は私たちの一生の報告をする時なのです。今こそが天主に忠実にお仕えする時であり、もし私たちが今天主にお仕えするならば死後は天主の永遠の福楽を得る時となり、もし私たちが今天主に忠実にお仕えしないならば死後はこの至高の善から遠ざかってしまうという永遠の苦しみの時になるのです。今こそが慈悲の時であり、死後は正義の時なのです。
聖アウグスティノはこのようにも言っています。「あなたがいつ天主に立ち返ろうとも、天主はあなたを赦してくださるとお約束なさったが、天主はあなたが明日も生きているとお約束なさってはいない!」と。悔い改めを先延ばしにしてはいけません。いつか私たちの時間はなくなるのです!
今の慈悲の時には、美しい慈悲の法廷があります。それは告解の秘跡という法廷です!天主が慈悲を施される時にも天主の正義が実現されなければならないという意味で、これは真の法廷です。この告解という法廷では、私たちの罪によって傷つけられた「原告」は天主ご自身で、被告は私たちです。双方には弁護人がいます。「被告の弁護人」は、私たちが実は悪を行なっておらず、私たちの罪はそれほど悪いものではないなどと私たちを説得しようとするのですが、この被告の弁護人はもちろん悪魔です。悪魔は私たちが悔い改めたり、自分の罪を憎んだりするのを望まないため、あらゆる種類の言い訳を作り出します。この慈悲の法廷には「原告の弁護人」もおり、それは私たちで す。私たちが天主の私たちに対して有しておられる権利を認め、天主の権利を主張することによって、私たち自身の罪を憎み、私たち自身の罪について自らの誤りを認め、私たち自身の罪を罰する機会を、真に天主が私たちに与えてくださるのです。自分の罪を憎み、自分の罪について自らの誤りを認め、自分の罪のため自らを罰する(償い)というこの三つの行為こそ、告解を行なう者が成す行為なのです。聖アウグスティノは、天主はあなたの罪を忌み嫌われるのであるから、あなたも自分の罪を忌み嫌うのであれば、あなたは天主と同じ考えをもち始めているのであって、従って、悪しき行いを忌み嫌い、糾弾することは善き行いの始まりであるというのです!この告解の秘跡において、私たちが私 たち自身の権利よりも天主の権利を認めれば認める程、私たちの罪は癒され、罪の罰は取り除かれます。
この法廷には裁判官もおられ、それは私たちの主イエズス・キリストですが、司祭がその代わりとして、「父と御子と聖霊との御名によりて、あなたの罪を赦します。アーメン。」と唱えるのです。ここでは至聖なる聖三位一体の御名の力に注目してください。その力は、私たちの主が私たちの罪に対する厳しい正義のため、全ての罪をあがなうために支払われた、その十字架から来るものです。どの法廷にも裁判官がいるように、私たちの主イエズス・キリストが裁判官として、自らの司祭を通して私たちの主イエズス・キリストの御名そのものによって慈悲の裁きをなさるのです。「父と御子と聖霊との御名によりて、あなたの罪を赦します。アーメン。」と。
親愛なる兄弟の皆さん、この慈悲の法廷を使うこと、上手に使うことを望むようにいたしましょう。もし私たちが次の世界の正義の法廷で安全でありたいと望むなら、この世界の慈悲の法廷を利用しなければなりません。詩編作者が「たえず私の不義を洗い、私の罪を清めたまえ」(詩編50篇4節)といっているように、この慈悲の法廷を度々使うようにいたしましょう。
人は清潔な家に住むことを好み、自分の体もいつも洗って清潔にしていますが、しばしば自分の霊魂を罪の汚れのなかに置いたままにしてしまいます。私たちが自分の体をいつも洗っているのであれば、自分の霊魂もいつも洗うようにいたしましょう!私たちは、泥の中にはまるのを待たずに体を洗います。大罪にはまるのを待たずに告解の秘跡で霊魂を洗うようにすべきです。自分の体を頻繁に洗う人が、あまり洗わない人よりも清潔であるように、自分の罪を頻繁に告白する人は、あまり告白しない人よりも、普通、罪を犯すことがずっと少ないのです。今日、多くのカトリック信者が何年もの間告解をしないにもかかわらず、毎主日に聖体拝領をしないことを恐れているというのは 大変恥ずべきことです。今日多くのカトリック信者がこのようなことをしているので、避妊のような罪と妥協し、福音の真実に従った生活をしなくなったことも驚くにはあたりません。
審判を心安らかに待ち望めるように、審判の前に、天主の友となりましょう。この準備ができていない人は、普通、やがて訪れる死を大変恐れます。しかし私たちの主イエズス・キリストがご自分の教会にくださった聖化の手段、すなわち秘跡、とりわけ告解の秘跡と聖体拝領とを忠実に使えば、やがて訪れる死と審判とを静かに自信をもって迎えることになるのです。
私たちが天主の二つの特性である慈悲と正義のことを思い、天主の慈悲深い愛に従うことによって、永遠に天国に行くため、私たちの主イエズス・キリストの法廷に立つ準備ができるよう、聖母マリアが私たちを助けてくださいますように!
アーメン。
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