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第二バチカン公会議のヒューマニズムの主観主義:信仰の対象と啓示された真理についての半分だけの真理(half truth)

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ヒューマニズム(人間中心主義)について考察を続けましょう。

ヒューマニズムは、自由の御旗を打ち立てて自由を要求しました。最初に求めたものは、思想の自由です。自分の意見に責任を持ちたい、と主張しました。

そこで、最初に、神学者たちの権威を無視して、それから自由になろうとしました。

神学者たちは、信徒たちに教会の教導権の教えを伝える聖職者らです。彼らは、司教ら高位聖職者から成る教導教会(Ecclesia docens)の監督の下で、聴従教会(Ecclesia discens)に信仰箇条を説明する役割を担っています。

神学者たちは、いわば、司教と信徒たちの中間に立つ、信徒たちの教師です。彼らは、自分の才能と優秀な頭脳とを使って、祈りと研究とに一生を費やし、聖書と聖伝を研究します。聖書を読み、教父たちの書いた書籍を読み、特にギリシアの知恵の教養を持ち、教えを信仰と理性との光で解説します。

ところが、自由の御旗のもとに、ルネッサンスの人文主義者(ヒューマニスト)たちは、自分でギリシア語原文を読み、自分の意見を自由に考えだし、先生の指導はいらない、と主張し始めました。教師の指導の代わりに、独学用の本だけで良い、と。ルネッサンスには、ギリシア語やアラビア語から多くの本が翻訳されました。反聖職者主義がこれに一役買いました。

ところで、スコラ神学の専門家は、既にこれらの原文を知っており、或いは原典で読んでおり、神学者の主張と別のことを主張したり、独特な特異な見解を述べるためには、思想の自由だけでは不足でした。

そこで、スコラ神学の思索の厳密さを攻撃するためには、別の武器が必要となりました。その新しい材料が主観主義で、オッカムのウイリアムの唯名論によって始まりました。

イヌはイヌを産み、ネコはネコを産む。イヌはオオカミを産まないし、ネコはライオンを産まない。種は交わらない。たとえ目に見えずとも、イヌをイヌとさせるものが現実に客観的に実在する。これに対して、オッカムは「イヌ」とは単なる人間の頭の中にある名前にすぎない、と主張しました。

主観主義は、自分の頭の中しか知ることができない、自分の頭の外のことは知り得ない、とする主張です。

「危ないぞ!自動車が来るぞ!右によけろ!」と言われても、夏の夜に山をウロウロするとヤブ蚊に刺されて大変な目に遭っても、コーヒーの中に、白いから砂糖だろうと塩を入れてまずくなったコーヒーを飲んでも、現実の世界を知り得ないと主張します。

主観主義は、デカルトの方法的懐疑論、カントの観念論を経て、主観は客観であるとする狂気のようなヘーゲルの観念論にたどり着きます。狂人の特徴は、現実世界と自分の頭の中の世界との区別が出来なくなることにありますが、ヘーゲルはそれと同じこと(意識こそ現実)を主張します。主観主義は、ついに人間理性を狂わせてしまいます。

主観主義の危険については、例えば、聖ピオ十世が回勅「パッシェンディ」で、またピオ十二世が回勅「フマニ・ジェネリス」でその誤りを指摘しています。

「近代主義者たちは宗教哲学の基礎を一般的に不可知論と呼ばれている教説に置いています。この教えによれば「人間の理性はことごとく現象の領域、即ち現れ見えるもの、およびそれらのものが現れ見える様態に限定されているのであり、理性にはこの限界を越える権利も力もない」とされています。したがって、「人間の理性は目に見えるものを通して天主にまで自らを上げること、および天主の存在を認識することができない」ことになります。この結果、「天主は決して学問の直接の対象たり得ず、そして、歴史学に関しては、天主は歴史的主題と見なされてはならない」ということが導き出されます。これらの前提を前にすれば、誰もが直ちに自然神学、[カトリック信仰の]信憑性の根拠、外的啓示といった事柄がどのようになってしまうかを見て取るでしょう。近代主義者たちは、これらを完全に取り除けてしまい、彼らがばかばかしく、また久しくすたれた体系と見なす主知主義の中に含めるのです。また、教会がこれらの忌まわしい誤謬を正式に排斥してきたという事実も、彼らにいささかの歯止めを利かせることにもなりません。」聖ピオ十世が回勅「パッシェンディ」

「一部の人は、"神学において、教義の意味を最小限に縮め、そして教義自体を教会において長きにわたって定着してきた用語、ならびにカトリックの教師たちによって保持されてきた哲学的概念から解き放つ"ことを欲しています。これは"カトリックの教理の説明にあたって、聖書や教父の著作で用いられている言葉遣いに戻る"ことをよしとするからです。彼らの望みは、"天主の啓示に非本質的と彼らが考える要素が、教義から取り除かれれば、教会の一致から離れている人々の教義的信念とよりよく対応するものとなるだろう"ということです。このようにして、彼らは"カトリックの教義とカトリック教会と一致していない者たちの信条とを徐々に、互いに近付け、同化する"ことを目しているのです。
さらに、彼らはカトリックの教理がこのような条件の下に置かれたならば、現代的必要を満たす方法が見つかると主張しています。つまり、このようにして、"教義が内在主義であれ、観念主義であれ、実存主義、あるいはその他どのような体系のものであれ、現代哲学の概念によって表すことができるようになる"と言うのです。
そして、さらに大胆な者たちは、このことが成し得るばかりではなく、成さねばならないと断定します。なぜなら彼らの主張によると、"信仰の諸々の神秘は決して真に十全な概念によって表現されることができず、ただ近似的かつ常に可変的な観念によってのみ表され得るのであり、その場合、真理はある程度まで表現されるものの、必然的に歪められてしまう"からで、したがって、"神学が新しい概念を古い概念に取って代えてしまうことを浅はかであるどころか必要なこと"と彼らは見なすのです。
以上述べてきたことによって、このような試みは、教義相対主義と呼ばれるものへと導くだけでなく、実際にそれをすでに含んでいるということは明らかです。共通に教えられている教義および、それらを表現する用語に対する軽視は、この思潮を大いに助長します。」回勅「フマニ・ジェネリス」

第二バチカン公会議の新しいヒューマニズムは、人間理性を狂わせないために、主観主義の度合いを低くします。かといって、第二バチカン公会議は主観主義を全く止めたわけではありません。何故なら、思想の自由を保つためにある程度の主観主義が必要だからです。

では、どのように排斥された主観主義を、教えの中に埋め込むのでしょうか?半分だけの真理を使います。

半分真理である「人間の言葉であるドグマの用語が完全に表現しきれないこと」を使います。

これによると、啓示とは、神秘的天主が御自身を隠さずに示すことで、信仰とはこの天主の神秘を受けることである、とします。これはさらに議論を進めて、この信仰の体験は、概念的な用語で表現される傾向があり、教会の位階秩序の承認を通して、この言い回しがドグマとなる、と主張します。さらには、このドグマの用語や言い回しは、信仰に関する共同体的な体験の表現であるけれども、しかし信仰の対象それ自体を完全に表現しきることは出来ない、信仰とは天主を信じることであって、天主に関する概念的な言い方を信じることではない、と主張します。

確かに、信仰の対象とは、天主の神秘・神秘的な天主です。しかし、これは、信仰の半分にすぎません。

何故なら、聖トマス・アクィナスは「信仰の対象は、二つのやり方で考えられる」と教えているからです。

「一つのやり方では、信じられる事柄それ自体に関して、信仰の対象は非複合的な何か(aliquid incomplexum)である。すなわち、それについて信仰される現実それ自体である。
別のやり方では、信じる人に関して、これに従っては、信仰の対象は命題のやり方を通して何らかの複合的なものである。」(第二部の二、第一問第二項)

Sic igitur obiectum fidei dupliciter considerari potest. Uno modo, ex parte ipsius rei creditae, et sic obiectum fidei est aliquid incomplexum, scilicet res ipsa de qua fides habetur. Alio modo, ex parte credentis, et secundum hoc obiectum fidei est aliquid complexum per modum enuntiabilis.

つまり、信じられるそのこと自体、私たちが信じているその神秘的な現実、つまり、天主の神秘、が「信仰の対象」と言われます。

さらに、信仰の対象とは、信仰している人にとって、或る命題であって、キリスト教の教えでありドグマです。

ですから、信仰の対象という啓示された真理には、二つの側面があります。天主の現実(私たちが同意しようが信じようが、私たちとは全く独立して存在している神秘的な真理の現実)と、使徒信経の箇条に要約された教え(私たちの把握している真理)です。

もちろん、信仰の教義・教えは、天主を完全に私たちに知らせることはできません。天主の無限の現実は、限られた人間の概念では完全に把握することが出来ないからです。しかし、人間の言葉で語られた信仰の教義は、私たちが天主のことを知り、天主を愛し、霊魂を救うようにさせるのに十分です。

啓示された教え、私たちが耳から聞いた信仰の教え(fides ex auditu)は、天主の神秘を全て完全に把握させるように対応するものではなかったとしても、私たち人間が知り、私たちが救いのために必要とする知識を得させるためには、私たちにとても相応しいやり方です。

第二バチカン公会議後の神学は、信仰の対象と啓示された真理を、第一のやり方(信じられた神秘そのもの)だけで理解し、天主は教えを啓示せずに御自身を啓示したのだ、と主張し、第二の信仰の対象(信仰の教え・言葉で表現された教義)を否定しようとします。

こうすることによって、啓示された真理と聖伝は変わらない(何故なら神秘である天主そのものが啓示され伝えられたので、これは不変だから)、しかし、この神秘を表現する概念的な言葉による用語や言い回しは、いつどこで誰がどう言うかにしたがって、歴史的な文脈や文化的な環境によって、主観的にいつも同じであるとは限らない、と主観主義を隠し入れます。

(続く)

野村よし著「マネジメントから見た司教団の誤り」という本を読んで:マネジメントの問題なのだろうか?
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これを書くに当たってPrometeo. La religion del hombre (2010) by Padre Alvaro Calderon を参考にしました。


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