2019年の主の御降誕の真夜中のミサの説教 大阪
聖ピオ十世会司祭 ピーター・フォルティン神父様
愛する信者の皆さん、
真夜中のミサにおける聖なる御降誕というこの美しい祝日について少し言葉を述べさせてください。すべてのミサはそれぞれ、私たちにある種の要求をします。私たちはミサの文によって教えを受け、特定の恩寵が与えられますが、そのあと、一つの要求が私たちになされます。すなわち、私たちが自分自身の生き方においてあることを変えることが求められるのです。私たちは幼子キリストを見て、私たちが生きるためのキリストの指針を願い求めることができるのです。
この夜中のミサについて、それを一言で、私たちに求められている一つの教えとして要約することができます。それは、「ノビリタス(高貴さ)」です。「ノビリタス(高貴)」というのは、高い社会的地位あるいは政治的地位を持つ世襲の階級に属する人々に使われる用語です。このノビリタスの教えは書簡の中でこう説明されています。「私たちの救い主である天主の恩寵は、すべての人に現れた。それは、この世において思慮と正義と敬虔をもって生きるために、不敬虔と世俗の欲望を捨てよと私たちに教える」(ティト2章11-12節)。私たちは、このノビリタスである高貴な種族に属しているのです。
私たちの主は人となられ、私たちの本性をお取りになることによって、そして私たちにご自身の恩寵をお与えになることによって、人を高貴なものとなさいました。私たちは本当に、主が私たちの本性にあずかられたと言うことができます。主は、新たな、より良い種族にとっての第二のアダムとなられました。第一のアダムは、その子孫に不敬虔、傲慢、世俗の物事への欲望をもたらしました。主は、ご自身の種族を他から分かつ新たな掟をお与えになることによって、ご自身の種族を新たにされ、再創造されるのです。この掟は、書簡に書かれているように、私たちが思慮深く、正義をもって、敬虔に生きなければならないために、高貴であるべきことです。これらの言葉が、天主との関係において、隣人と私たち自身との関係において、私たちがどのように生きなければならないかを表しています。自分自身に対しては思慮深く、自らを制し、自己を否定し、けんそんであるべきこと、私たちの隣人に対しては正義をもつべきこと、天主に対しては敬虔で信心深くあるべきことです。
それは、アダムの種族には自己中心、貪欲、世俗の欲望、傲慢のしるしがあるからです。私たちの主から来る新たな種族は、これらのしるしに反する聖徳を実践することが義務付けられているのであって、私たちは思慮深く行動し、禁欲や自己否定を実践し、私たち自身ではなく私たちの主に霊魂の領域で王として統治していただかなくてはなりません。私たちは、飼い葉桶の中の主を見て、禁欲の意味を学ぶべきです。私たちは、この世の王冠よりも洗礼による霊的尊厳を重んじた聖王ルイ九世の生涯を模範とすることができます。彼は、このノビリタス(高貴)という考えを真剣に捉え、私たちの主から来る、まことの高貴さを示しました。彼が王となったとき、その責任を恐れましたが、天主のほまれのため、教会を守るため、民の善のためのみに、その義務を受け入れました。若き王子として、彼は腐敗と放蕩に満ちた宮廷にいなければなりませんでしたが、金銭、女性、食べ物や飲み物、権力、快楽の形をとって差し出された多くの誘惑に屈することはありませんでした。
第二に、人は隣人との関係を改善しなければなりません。主が来られる前には、人々は敵対していました。主の来臨によって、主はすべての人の間に正義を打ち立てられ、すべての人を公平に扱われます。本当の意味の正義は、愛に動機づけられるものです。愛によって、私たちは正義の法を全うするのです。聖ルイは、フランスにおける司法制度を全面的に改革し、市民に対する不正な措置を全面的に廃止したことで知られています。聖ルイが王になって宮廷にいたとき、彼は、毎日100人の貧しい人に自ら食べ物を与えることで知られ、さらに貧しい人や病人が世話を受けることのできる諸施設を創設しました。
第三に、私たちは天主に忠実でなければなりません。まことの敬虔は、天主への絶対的奉仕にあります。すべてに超えて天主に奉仕し、天主を愛することです。愛と従順によって天主のご意志に従うことが、まことの敬虔なのです。
私たちは、飼い葉桶に近づいて、このノビリタス(高貴さ)を私たちに与えてくださったこと、そして思慮深さや正義、敬虔を毎日新たに実践する恩寵を私たちに与え続けてくださることに感謝の祈りを捧げるべきです。聖ルイの母、ブランシュ・ド・カスティーユは、「愛する子よ、私は一人の母としてでき得る限りのやさしさをもってあなたを愛しています。でも、あなたが大罪を犯すよりも、私の足元で倒れて死ぬのを見る方が、はるかにましです」と言ったものです。彼は、さまざまな教会を訪問して祈りの時間を過ごすのに加え、聖務日課の祈りを捧げ、一日に二回のミサを拝聴することで知られていました。自分の王国を統治するよりもむしろ、キリスト教世界の呼びかけに応えることが必要だと信じ、二度十字軍に出征しました。
私たちは、聖ルイの例にカトリック君主の理想を見ますが、最も重要なのは、彼が私たちの主から来るものと認識して、生涯にわたって示し続けたノビリタス(高貴さ)です。私たちの主が人となられ、ご自分の恩寵と模範とによって私たちを高めてくださることによって、私たちに授けてくださったノビリタス(高貴さ)の模範に従って私たちが生きることができるよう、飼い葉桶の中の主に願いましょう。
【英語原文】
Sermon for Christmas Midnight Mass Japan 2019
Fr Peter Fortin, FSSPX
My dear Faithful,
Just a few words for this beautiful feast of the Holy Nativity at the Midnight Mass. Each Mass makes a type of demand on us. We are instructed by the texts of the Mass, there is a particular grace given and then a demand is made of us or rather a change that we must make in our lives. We could look at the Christ Child and ask His directive for us to live our life.
For the Mass tonight we can sum it up with one word, the instruction and what we are called to, that is “nobilitas” which is a term used for those belonging to a hereditary class with high social or political status. This instruction of nobilitas is illustrated in the epistle “The grace of God Our Savior has appeared to all men, instructing us that, denying impiety and worldly lusts, we should live soberly, and justly, and piously in this world.” We are part of a nobilitas, a noble race.
Our Lord in becoming man has enobled man by Him taking our nature and by Him giving us His grace. We can truly say Our Lord has partaken of our nature. He has become a second Adam to a new and better race. The first Adam brought upon his children impiety, pride and desire for worldly things. Our Lord renews or recreates His race by giving a new commandment to set apart His race. This command is to be noble so we must live soberly, justly and piously as is written in the Epistle. These words describe how we must live in relation to God, our neighbors and ourselves. Soberly in regards to ourselves, exhibiting self-control, self-denial and humility. Justly towards our neighbor and piously or devoutly towards God.
For the race of Adam is marked by selfishness, and giving into covetousness, lust and pride. The new race, coming from Our Lord is bound to practice the virtues going against these marks, we must act soberly we must practice mortification, self-denial and Our Lord must rule as king in the realm of the soul, not just ourselves. We should look at Our Lord in the crib and learn of the meaning of mortification. We can pick an example in the life of King St. Louis IX who esteemed more his spiritual dignity of his baptism more so than of temporal crown. He took very seriously this notion of nobilitas and exhibited a true nobility as coming from Our Lord. When he was crowned king, he was terrified of the responsibility but accepted with these obligations, only for the divine honor, the defense of the church, and the good of his people. As a young prince, he had to present in court filled with corruption and debauchery but he did not give into the many temptations that would have presented itself in form of money, women, food and drink, power or pleasure.
Secondly, a man must refine his relations with His neighbor. Before Our Lord came, men were at enmity. With the coming of Our Lord, He establishes justice between all. To give each man their due. The true sense of justice is motivated by charity. By love we fulfill the law of justice. St. Louis is known for totally reforming the justice system in France and getting rid of unjust measures against citizens. When St. Louis was at his court when he was king, he was known to feed and serve himself one hundred poor every day and established houses where the poor and sick could be cared for.
Thirdly, we must be devoted towards God. True piety is found in the absolute service of God. Serving Him and loving Him above all things. Following His Will in love and obedience is true piety.
We should approach the crib and pray in thanksgiving for the having granted this nobilitas to us and to continue to provide us with the grace to practice anew sobriety, justice and piety. The mother of St. Louis, Blanche of Castile would say “I love you my dear son, with all the tenderness a mother is capable of; but I would infinitely rather see you fall down dead at my feet, than that you should ever commit a mortal sin.” He was known to offer the divine office, and to hear two masses a day as well as to visit various churches and spend time in prayer. He embarked on two crusades deeming it necessary to answer the call of Christendom rather than to rule at his kingdom.
We see in the example of St. Louis the ideal of a Catholic Monarch but most importantly the nobilitas that he exhibited during his life which he acknowledged as coming from Our Lord. Let us ask Our Lord in the crib to live up to the nobilitas that he has bestowed upon us by Our Lord becoming man and by his raising us by His grace and example.
聖ピオ十世会司祭 ピーター・フォルティン神父様
愛する信者の皆さん、
真夜中のミサにおける聖なる御降誕というこの美しい祝日について少し言葉を述べさせてください。すべてのミサはそれぞれ、私たちにある種の要求をします。私たちはミサの文によって教えを受け、特定の恩寵が与えられますが、そのあと、一つの要求が私たちになされます。すなわち、私たちが自分自身の生き方においてあることを変えることが求められるのです。私たちは幼子キリストを見て、私たちが生きるためのキリストの指針を願い求めることができるのです。
この夜中のミサについて、それを一言で、私たちに求められている一つの教えとして要約することができます。それは、「ノビリタス(高貴さ)」です。「ノビリタス(高貴)」というのは、高い社会的地位あるいは政治的地位を持つ世襲の階級に属する人々に使われる用語です。このノビリタスの教えは書簡の中でこう説明されています。「私たちの救い主である天主の恩寵は、すべての人に現れた。それは、この世において思慮と正義と敬虔をもって生きるために、不敬虔と世俗の欲望を捨てよと私たちに教える」(ティト2章11-12節)。私たちは、このノビリタスである高貴な種族に属しているのです。
私たちの主は人となられ、私たちの本性をお取りになることによって、そして私たちにご自身の恩寵をお与えになることによって、人を高貴なものとなさいました。私たちは本当に、主が私たちの本性にあずかられたと言うことができます。主は、新たな、より良い種族にとっての第二のアダムとなられました。第一のアダムは、その子孫に不敬虔、傲慢、世俗の物事への欲望をもたらしました。主は、ご自身の種族を他から分かつ新たな掟をお与えになることによって、ご自身の種族を新たにされ、再創造されるのです。この掟は、書簡に書かれているように、私たちが思慮深く、正義をもって、敬虔に生きなければならないために、高貴であるべきことです。これらの言葉が、天主との関係において、隣人と私たち自身との関係において、私たちがどのように生きなければならないかを表しています。自分自身に対しては思慮深く、自らを制し、自己を否定し、けんそんであるべきこと、私たちの隣人に対しては正義をもつべきこと、天主に対しては敬虔で信心深くあるべきことです。
それは、アダムの種族には自己中心、貪欲、世俗の欲望、傲慢のしるしがあるからです。私たちの主から来る新たな種族は、これらのしるしに反する聖徳を実践することが義務付けられているのであって、私たちは思慮深く行動し、禁欲や自己否定を実践し、私たち自身ではなく私たちの主に霊魂の領域で王として統治していただかなくてはなりません。私たちは、飼い葉桶の中の主を見て、禁欲の意味を学ぶべきです。私たちは、この世の王冠よりも洗礼による霊的尊厳を重んじた聖王ルイ九世の生涯を模範とすることができます。彼は、このノビリタス(高貴)という考えを真剣に捉え、私たちの主から来る、まことの高貴さを示しました。彼が王となったとき、その責任を恐れましたが、天主のほまれのため、教会を守るため、民の善のためのみに、その義務を受け入れました。若き王子として、彼は腐敗と放蕩に満ちた宮廷にいなければなりませんでしたが、金銭、女性、食べ物や飲み物、権力、快楽の形をとって差し出された多くの誘惑に屈することはありませんでした。
第二に、人は隣人との関係を改善しなければなりません。主が来られる前には、人々は敵対していました。主の来臨によって、主はすべての人の間に正義を打ち立てられ、すべての人を公平に扱われます。本当の意味の正義は、愛に動機づけられるものです。愛によって、私たちは正義の法を全うするのです。聖ルイは、フランスにおける司法制度を全面的に改革し、市民に対する不正な措置を全面的に廃止したことで知られています。聖ルイが王になって宮廷にいたとき、彼は、毎日100人の貧しい人に自ら食べ物を与えることで知られ、さらに貧しい人や病人が世話を受けることのできる諸施設を創設しました。
第三に、私たちは天主に忠実でなければなりません。まことの敬虔は、天主への絶対的奉仕にあります。すべてに超えて天主に奉仕し、天主を愛することです。愛と従順によって天主のご意志に従うことが、まことの敬虔なのです。
私たちは、飼い葉桶に近づいて、このノビリタス(高貴さ)を私たちに与えてくださったこと、そして思慮深さや正義、敬虔を毎日新たに実践する恩寵を私たちに与え続けてくださることに感謝の祈りを捧げるべきです。聖ルイの母、ブランシュ・ド・カスティーユは、「愛する子よ、私は一人の母としてでき得る限りのやさしさをもってあなたを愛しています。でも、あなたが大罪を犯すよりも、私の足元で倒れて死ぬのを見る方が、はるかにましです」と言ったものです。彼は、さまざまな教会を訪問して祈りの時間を過ごすのに加え、聖務日課の祈りを捧げ、一日に二回のミサを拝聴することで知られていました。自分の王国を統治するよりもむしろ、キリスト教世界の呼びかけに応えることが必要だと信じ、二度十字軍に出征しました。
私たちは、聖ルイの例にカトリック君主の理想を見ますが、最も重要なのは、彼が私たちの主から来るものと認識して、生涯にわたって示し続けたノビリタス(高貴さ)です。私たちの主が人となられ、ご自分の恩寵と模範とによって私たちを高めてくださることによって、私たちに授けてくださったノビリタス(高貴さ)の模範に従って私たちが生きることができるよう、飼い葉桶の中の主に願いましょう。
【英語原文】
Sermon for Christmas Midnight Mass Japan 2019
Fr Peter Fortin, FSSPX
My dear Faithful,
Just a few words for this beautiful feast of the Holy Nativity at the Midnight Mass. Each Mass makes a type of demand on us. We are instructed by the texts of the Mass, there is a particular grace given and then a demand is made of us or rather a change that we must make in our lives. We could look at the Christ Child and ask His directive for us to live our life.
For the Mass tonight we can sum it up with one word, the instruction and what we are called to, that is “nobilitas” which is a term used for those belonging to a hereditary class with high social or political status. This instruction of nobilitas is illustrated in the epistle “The grace of God Our Savior has appeared to all men, instructing us that, denying impiety and worldly lusts, we should live soberly, and justly, and piously in this world.” We are part of a nobilitas, a noble race.
Our Lord in becoming man has enobled man by Him taking our nature and by Him giving us His grace. We can truly say Our Lord has partaken of our nature. He has become a second Adam to a new and better race. The first Adam brought upon his children impiety, pride and desire for worldly things. Our Lord renews or recreates His race by giving a new commandment to set apart His race. This command is to be noble so we must live soberly, justly and piously as is written in the Epistle. These words describe how we must live in relation to God, our neighbors and ourselves. Soberly in regards to ourselves, exhibiting self-control, self-denial and humility. Justly towards our neighbor and piously or devoutly towards God.
For the race of Adam is marked by selfishness, and giving into covetousness, lust and pride. The new race, coming from Our Lord is bound to practice the virtues going against these marks, we must act soberly we must practice mortification, self-denial and Our Lord must rule as king in the realm of the soul, not just ourselves. We should look at Our Lord in the crib and learn of the meaning of mortification. We can pick an example in the life of King St. Louis IX who esteemed more his spiritual dignity of his baptism more so than of temporal crown. He took very seriously this notion of nobilitas and exhibited a true nobility as coming from Our Lord. When he was crowned king, he was terrified of the responsibility but accepted with these obligations, only for the divine honor, the defense of the church, and the good of his people. As a young prince, he had to present in court filled with corruption and debauchery but he did not give into the many temptations that would have presented itself in form of money, women, food and drink, power or pleasure.
Secondly, a man must refine his relations with His neighbor. Before Our Lord came, men were at enmity. With the coming of Our Lord, He establishes justice between all. To give each man their due. The true sense of justice is motivated by charity. By love we fulfill the law of justice. St. Louis is known for totally reforming the justice system in France and getting rid of unjust measures against citizens. When St. Louis was at his court when he was king, he was known to feed and serve himself one hundred poor every day and established houses where the poor and sick could be cared for.
Thirdly, we must be devoted towards God. True piety is found in the absolute service of God. Serving Him and loving Him above all things. Following His Will in love and obedience is true piety.
We should approach the crib and pray in thanksgiving for the having granted this nobilitas to us and to continue to provide us with the grace to practice anew sobriety, justice and piety. The mother of St. Louis, Blanche of Castile would say “I love you my dear son, with all the tenderness a mother is capable of; but I would infinitely rather see you fall down dead at my feet, than that you should ever commit a mortal sin.” He was known to offer the divine office, and to hear two masses a day as well as to visit various churches and spend time in prayer. He embarked on two crusades deeming it necessary to answer the call of Christendom rather than to rule at his kingdom.
We see in the example of St. Louis the ideal of a Catholic Monarch but most importantly the nobilitas that he exhibited during his life which he acknowledged as coming from Our Lord. Let us ask Our Lord in the crib to live up to the nobilitas that he has bestowed upon us by Our Lord becoming man and by his raising us by His grace and example.